『仕事と家族』(中公新書)などの著作で知られる社会学者による社会学の入門書。とは言え、プリマー新書ということもあり、「社会学」の入り口と言うよりはタイトル通りに「社会を知るため」の入り口として機能するような内容になっています。
 ただし、最初に強調されるのは社会が「わからない」ということ。その「わからなさ」から出発して、社会のしくみ、そして社会を変えるにはどうしたら良いかということを考えていきます。
 プリマー新書なので、できるだけ専門的にならないように書かれていますが、社会の捉え方や社会学の捉え方に関しては、ある程度社会科学の専門的な知識を持っている人が読んでも面白く、読み応えのある内容になっていると思います。

 目次は以下の通り。
はじめに
第一章 「わからない世界」にどう向き合うか
第二章 専門知はこうしてつくられる
第三章 変化する社会をどう理解するか
第四章 なぜ社会は複雑になったのか
第五章 変化のつかまえ方
第六章 不安定な世界との付き合い方

 本書は社会が「わからない」という点から出発します。人々は社会に対して何らかの知識を持って行動しますし、特に政治家や官僚などはその社会にはたらきかけて社会を変えようとするわけですが、本書では「知らないこと」「知らなかったこと」に注目します。
 少子化問題にしろ、家族の変化にしろ、誰かが特定の意図を持って引き起こしたわけではありません。少子化は、日本を衰退させるためにどこかに国が仕組んだことではなく、さまざまな要因がさまざまに絡み合いあながら起きています(そもそも少子化は先進国共通の現象)。

 次に本書が共通するのは社会の「緩さ」です。ここでいう「緩さ」とは社会の要素の繋がり方の「緩さ」です。
 社会は分業や協業によって成り立っていますが、その繋がり方は「これしかない」というようなものではありません。

 社会が「わからない」理由として、「専門システムの発達」、「分業の拡大」、「社会が動き続けていて、私たちはそこに投げ込まれている」の3つがあるといいます。
 まずは「専門システムの発達」ですが、例えば現在の金融においてデリバティブなどの非常に複雑な取引がなされており、リーマンショックのときのようにそれが人々の生活に大きな影響を与えることもあります。当然、専門家が必要となるわけですが、その専門家が正しいかどうかはまた別の専門家に尋ねるしかないという状況です。
 現代の社会において、誰もが「専門家」でもあります。経理をしている人は経理には詳しいでしょうし、医者や看護師は医療に詳しいはずです。ただし、例えば医者が感染症に詳しいとしても、新型コロナウイルスが社会に与える影響までは予測できないように、専門分野を超えて複雑な要素の絡まりを見通すことは難しくなっています。
 これにさらに3つ目の「動き続ける社会」という要素が加わります。自動車が不調ならば一度自動車を止めて降りて調べればいいですが、社会の動きを止めたり社会から降りたりすることはできません。ですから、社会を一度の外科手術で変えるようなことはできないわけです。
 「社会を知る」という点に関しても、外から社会全体を見渡すようなことはできず、社会の中から小さな懐中電灯で一部を照らすようなことしかできないと言います(43pの図を参照)。「人間とは、自分たちで作り上げた、なんだかよくわからない環境のなかで生活する存在なのです」(45p)。

 こうした社会の特徴を踏まえて、第2章では社会学の特徴が述べられています。
 専門化が進めば進むほど、専門知識は社会と切り離されていきます(ピンポイントな問題にしか答えられなくなる)。経済学はさまざまな問題に答えを用意していますが、それはさまざまな現象を自らの土俵に引っ張り上げた上で(基本的には「自らの効用を最大化すべく合理的に行動する個人」を前提としている)、それに答えているからです。

 一方で、社会学は自分の土俵をつくらない学問だと言います。対象を土俵に引っ張り上げるのではなく、対象のもとに自ら足を運ぶことに特徴があるのです(参与観察などをイメージするとわかりやすい)。
 例えば、未婚化・晩婚化について経済学者のゲイリー・ベッカーは男性は仕事・女性は家事という分業のメリットが女性の社会進出によって崩れたことが未婚化や晩婚化の原因だと考えました。一方、社会学者のヴァレリー・K・オッペンハイマーはキャリアの不安定さに注目しました。ベッカーの理論であれば、高所得の女性のほうが未婚・晩婚が進むはずですが、アメリカでは稼ぐ女性の方が結婚が早くなるデータもあり、それよりも先進国において若年層がなかなか安定した職に就けなくなったことが未婚化・晩婚化に影響を与えていると考えたのです。

 さらに本章は社会学のもう1つの流れであるグランド・セオリーの追求についても触れ、その背景にあるものとして、ハイデガーの「被投性」(私たちが世界に投げ込まれていこと)の考えや哲学における認識論の流れをあげています。

 第3章では社会の変化について検討されています。社会にはさまざまな制度があり、また大きな社会構造があると考えられます。しかし、この構造というのはガッチリとしたものではなく、最初にも指摘されいたように「緩さ」を含んでいます。
 また、人間の行為は主観的な意味以外にさまざまな副作用があります。例えば、電車で会社に通っている人は「通勤」しているわけですが、その行為は鉄道会社の経営を支え、ラッシュを引き起こすという結果をもたらしています。しかし、こうした行為と副作用の結果のつながりは「緩い」もので事前に見通すことはなかなかできません。
 
 例えば、スウェーデンで女性の労働参加率が高い理由の1つとして、第2次世界大戦の戦後復興の時期に、大きな被害を受けたヨーロッパ各国が戦災を免れたスウェーデンからの輸入に頼ったことがあります。スウェーデンは労働力不足となり女性の職場進出が進みました。
 また、経済のグローバル化に伴う先進国の経済のサービス化も女性の労働参加率を高めたと考えられます(製造業よりもサービス業のほうが女性が働きやすい)。さらに、少子高齢化も子育て期間の短縮や介護サービスの増加を通じてい女性の職場進出を促進すると考えられます。
 しかし、ここで「女性の社会進出を促すために経済のグローバル化が進められた、少子高齢化が進められた」とは言えないのがポイントです。社会の変化の多くは意図せざる結果なのです。
 
 「わからない」「わからない」と連発されると、「わかりやすい」説明を求めたくなるのも人間の欲望ですが、それに応えるのが「陰謀論」です。
 陰謀論は「緩さ」を認めない世界観で、社会は誰か(あるいはある組織)の意図によって動いていると考えます。例えば、地球温暖化でさえ陰謀論であり、アメリカの上院議員のジェイムズ・インホフはハリウッド女優のバーブラ・ストライサンドこそがキャンペーンを動かしている張本人だと指摘したそうです(104-106p)。
 その点を考えれば、社会理論に関しては完璧な予測を持つものよりも、「一定の緩みをその中に含みこんでいる知見の方が、全体としては適切な説明を与えることがあるのです」(109p)。

 第4章では、まず、現代社会がさらにわかりにくくなっている要因として「規模」と「厚み」をあげています。
 「規模」の拡大のわかりやすい例はグローバル化です。いまや社会は1つの国では完結しておらず、遠い国の出来事が思わぬ影響をもたらすこともあります。
 さらに、今の社会はさまざまな制度が積み重なって「厚み」を増しています。いわゆる「経路依存」の考えに見られるように、現在の制度は歴史の積み重ねの上にあり、そう簡単に入れ替えられないようになっています。

 さらに、本章では近代化と、それとともに生まれた社会学についても考察しています。
 社会学において近代化とは「国家単位で産業化や都市化が進むことを近代化と呼ぶことが多い」(117p)そうです。産業化とは大きな資本で大規模な生産をする組織がたくさん出現することで、それによって分業化が進展します。
 こうした産業化や都市化が急激に進んだ19世紀の末に活躍したのがデュルケムとウェーバーです。

 デュルケムは近代社会の特徴を「分業」のあり方に求めました。デュルケムは近代社会ではお互いがやっていることは理解できないが、分業という協力体制のもとで連帯できると考えました。
 しかし、「分業」はときに「作りすぎ」や「品不足」を引き起こします。全体を見渡す人がいないからです。社会主義はこれを計画経済によって乗り越えようとしましたが、思い通りにはいきませんでした。
 こうした社会の「意図通りにはいかない」性質を重視するのが保守主義者と言えるかもしれません。著者はギデンズに影響を受けているのですが、ここではギデンズも保守主義者に分類しています(128p)。

 デュルケムは社会の「たこつぼ化」を問題視し、各人が隣接諸分野と接触を保つことが必要だと考えましたが、この「たこつぼ化」を批判したのはウェーバーも同じです。ウェーバーは、自らの殻に閉じこもる「専門家」を批判しました。
 さらに本章では日本型雇用の特徴とそれが生み出した「内部労働市場」が、その意図とは別のところで女性を職場から排除してきたことを述べています。

 第5章では、社会の「記述」という考えがとり上げられています。
 高根正昭『創造の方法学』に、アメリカでは「記述」は評価されず、「分析」がないとダメだという話が出てきます。たんに物事を記述するわけではなく、そこに「原因」と「結果」を見出して「説明」しなければならないというのです。現在では特に因果推論に関する理論が発展しており、この「原因」と「結果」を探し出す手法は洗練されています。
 
 しかし、著者は「説明」とはもう少し広く取れる概念ではないかと言います。例えば、現座日本では、家族、特に父系を重視する家族のあり方が限界を迎えつつありますが、これの背景には少子化や経済の発展や社会保障政府度の充実など、さまざまな要因があります。こうしたことに関して条件をそろえて結果を比べるようなことはできませんが、それでも一定の「説明」がなされたと考えられるのです。
 社科学ではこうした「意図せざる結果」を含みこんだ記述を重視していきました。

 「理論」に関しても、もちろん数理的なモデルによって現実から距離を取り演繹的な推論を行うことも重要ですが、同時に「緩みに満ちあふれた対象をよりよく理解し、記述・説明するためには、多少の緩みを含みこんだ概念や理論も許容すべきだ」(174p)と著者は考えます。
 本書では、グラノヴェッターの「弱い紐帯」の理論などが例としてあげられています。
 さらに一回しかおこならないような出来事に関しても、傾向性を見出すことで一定の「説明」が可能かもしれません。

 最後の第6章では、現代社会の「不安定さ」と「意味の喪失」についてとり上げ、そこからギデンズの理論へと進んでいます。
 ギデンズによれば、現代人はこうした「不安定さ」を物理的、あるいは心的に遮断して生きています。なるべく目に触れないように、鈍感になって生きているのです。
 著者は、「惰性と反省のバランスをとって生きる」「ミスは複合的要因で生じるからミスした人を安易に責めない」(197p)というアドバイスを持ち出しますが、これは不安定な社会を生きるための知恵です。
 今までも述べてきたように、この社会において意図通りに物事が運ぶの稀で、常に「緩み」が存在します。ある程度自分の生活を安定させながら、ときに能動的に物事を試し、他人の引き起こした結果も決して「意図通り」ではないと考えていくことが必要だというのです。
 社会を意図通りに変えることは困難ですが、同時に社会はつねに「他でもあり得る」のです。

 このように入門書であると同時に、社会学、あるいは社会科学全般に関する踏み込んだ見方を披露している本です。社会科学に興味のある人であれば面白く読めると思います。特に前半部分は面白いと思います。
 個人的な望みを言わせてもらうと、さんざん「意図せざる結果」を強調してウェーバーの名前も出しているのに、『プロテスタンティズムと資本主義の精神』の話が出てこないのは、おそらくそこに「実証」の問題があると思うので、「実証」について少し触れてほしかったなと思いました。
 ただし、「社会を知るための最初の一歩」というのであれば、お薦めできる本と言えるでしょう。