副題は「怒りと憎悪の政治」。近年の政治におけるさまざまな問題点を分析した本になります。タイトルからもわかるように「リベラル」という政治のスタイルの行き詰まりを描いているのですが、同時に「リベラル」という概念の変質や拡散も追っており、けっしてわかりやすい本ではないです。
 本書には、本当にいろいろな要素が詰め込まれており、現代の政治の問題点がずらりと並べられた本という感じです。著者が出してきたさまざまな論点が終章の見取り図でうまく整理されているかどうかというのは意見の分かれるところでしょうが、本書を読むことで現代政治(特にヨーロッパ政治)の論点と問題の根深さは知ることができるでしょう。

 目次は以下の通り。
序章 「政治」はもはや変わりつつある
第1章 リベラル・デモクラシーの退却
第2章 権威主義政治はなぜ生まれたのか
第3章 歴史はなぜ人びとを分断するのか
第4章 「ウーバー化」するテロリズム
第5章 アイデンティティ政治の起点とその隘路
終章 何がいけないのか?

 近年の政治おいて権威主義的なリーダーが目立っていること、既成政党がうまく有権者の声を受け止めきれていないこと、労働組合などの組織が力を弱めていること、今までにはないタイプのテロが登場していることなどは多くの人が認識していることだと思います。
 こうしたことはさまざまな社会的な変化を背景に起こっていますが、本書ではそれを「リベラル」というキーワードで読み解こうとしています。
 基本的には20世紀半ばに成立した「リベラル・デモクラシー」という仕組みが行き詰まりを見せているという視点が中心ですが、さらにこれだけにはとどまらないような多岐な論点が盛り込まれています。

 リベラル・デモクラシーとは「代議制民主主義を基本に、個人の権利や権力分立を保障したうえで、民意を国政に反映させる仕組み」(55p)になります。
 第2次世界大戦まで「人民民主義」の名の下に、共産主義やファシズムこそが真の民主主義である当主張がなされていました。これに対して、戦後の西側の国々では、法の支配、多元主義などを通じて個人の自由や権利を守ることで共産主義やファシズムを防ごうという動きが起こりました。こうして成立したのがリベラル・デモクラシーです。

 しかし、「リベラル」とは自由のことであり、経済的なリベラルとは以前であれば自由放任主義のことでした。この経済リベラリズムは、戦後になると社会主義やファシズムの脅威を前に抑制されることになります。
 ミュラーは戦後のリベラル・デモクラシーについて、「20世紀前半までの野放図な経済的リベラリズムと、場合によってはファシズムや社会主義に結びつく民主主義を否定することを一義的な使命としていた」(62p)と考えていますが、このようにある種の行き過ぎを抑える仕組みとして登場したのがリベラル・デモクラシーなのです。
 こうしたリベラル・デモクラシーを支えたのが、ケインズ型の福祉国家であり、国際貿易を安定させるブレトンウッズ体制であり、強い累進課税による貧富の差の縮減でした。

 しかし、この経済的な仕組みは徐々に行き詰まることになります。1970〜80年代にかけて、先進国で製造業が衰退するようになり、それとともに中間層の所得の伸びが止まってきます。仕事は高度な知識などを要する高付加価値な仕事と、比較的誰にでき不安定な低付加価値な仕事に二極化し、それとともに所得の格差も広がっていきました。
 先進国の製造業の衰退をもたらしたのはグローバル化であり、さらに拍車をかけたのがリーマンショック以後の各国の緊縮政策でした。
 こうした流れは、当然ながら人々の不満や将来への不安を増大させますが、この不満や不安をうまくすくい上げたのが、例えばトランプでした。アパドュライは自分たちがマイノリティに転じる恐怖を持つマジョリティは、近接する他の社会的アイデンティティを抹殺しようとする「捕食性アイデンティティ」(86p)をもつとしていますが、アメリカではまさにこういった動きが起こっていると考えられます。
 トランプに投票した人やフランスの大統領選でルペンに投票した、将来に対して悲観的であり、グローバル化や自由貿易に否定的です(90p表5参照)。場合によってはこの悲観が民主主義の基盤を掘り崩す可能性もあります。

 第2章では「権威主義vsリベラル」という新たな政治の対立軸が検討されています。
 以前の対立軸は「保守vs左派」でした。1930年代頃から、社会主義政党の力が強まり、今まで保守主義と対立していたリベラル(この場合は経済的なリベラル)は保守と合流して、左派的な勢力と対立するようになります。
 しかし、1970年代からいわゆる「脱物質主義的価値観」が広がったこともある、それまでの経済政策を軸として「保守vs左派」の対立構造は変質していきます。社会階層と特定の政党の結びつきが弱まるとともに、環境やジェンダー、マイノリティの権利の問題などが新たな政治争点として登場してくることになります。今までの「保守vs左派」に加えて、自己決定を重視する「リバタリアン」と権威を重視する「権威主義」という対立軸も登場してくることになるのです。

 その後もさまざまな政治的な潮流が生まれますが、著者は重視するのが「リベラル・コンセンサス」の完成と言われるものです。
 これは「社民政党が「リベラル化」し、保守政党が社会政策において「リベラル化」することこ定義」(124p)されます。
 例えば、アメリカではクリントン政権において財政均衡が重視され、NAFTAが批准されるなど自由貿易が推進されました。民主党は経済リベラリズムに転換したのです。一方、保守党のブッシュJr政権も当初は「人間の顔をした保守主義」を掲げ、より穏健で現代的な保守を目指しました。
 イギリスもブレア政権、ドイツのシュレーダー政権も左派政党が経済リベラリズムに転換した例と言えます。イギリスの労働党はこれによってその支持を労働者階級からホワイトカラーや専門職に拡大させました。
 一方、保守の側のイギリス・キャメロン政権は国民保険サービス(NHS)の維持に前向きでしたし、同性愛者の権利擁護にも積極的でした。また、ドイツ・メルケル政権も脱原発や徴兵制の廃止を決めるなど、政治的にリベラル化しました。

 このように主要政党が「リベラル」によった結果、もはや大きな対立軸はなくなるかにも見えましたが、今度はここから取り残された勢力の動きが活発になります、特に保守政党が手放し政治面での反リベラルのポジションに、移民問題などをテコにして極右政党が伸長していくことになります。
 この背景にはピケティなどが指摘する、高学歴者が左派政党に投票し、高所得者が保守政党に投票するようになった状況があります。一方で特に政治的にはリベラルではない労働者たちは、左派政党から疎外され、反リベラルの機運を高めます。そして、権威主義に吸い寄せられていくことになるのです。

 第3章は歴史認識問題を扱っていますが、この章は本書の中でも位置づけが難しい章です。
 日本でもそうですが、近年は歴史認識の問題が政治問題となっています。日韓の間の従軍慰安婦や徴用工をめぐる問題をはじめ、エストニアでソ連兵士のブロンズ像が大きな問題となりましたし、BLM運動と関連してリー将軍の銅像が問題となるなど、世界中で歴史認識をめぐる問題が噴出しています。

 この1つのきっかけとなったのが冷戦の終結です。反共イデオロギーが薄れ、東側の国が民主化すると、それとともに過去の記憶が解き放たれることになりました。奴隷貿易、植民地支配などの負の歴史も積極的にとり上げられるようになり、それらを記憶しようという運動もさかんになります。
 また、公的な「歴史」だけではなく、私的な「記憶」も重視すべきだという動きも起きますが、この「記憶」の掘り返しが新たな対立を生むこともあります。カズオ・イシグロが『忘れられた巨人』で書くように、忘却が和解の鍵になっていることあるわけで、この記憶の扱いというのはなかなか難しいものとなっています。

 第4章ではテロを扱っています。西ヨーロッパで見るとテロの全盛期は1970年代〜80年代にかけてであり、21世紀に入ってテロの件数や犠牲者は減っています。しかし、やはりテロは大きな問題であり続けています
 20世紀のテロが極左テロや民族独立を目指すテロであり、その目標や標的は比較的はっきりとしていましたが、21世紀、特に2010年代以降のテロにはわかりにくさがあります。そして、このテロに対して著者は「ウーバー化」という形容をしています。

 こうしたテロの原型となったのが2012年3月にフランス南西部トゥールーズでモハメド・メラという人物が兵士とユダヤ人学校を襲った事件です。メラはアルジェリア出身の両親から生まれた移民2世で、うまく社会に馴染めずイスラム過激派に接触し、テロを起こして射殺されました。
 このような移民2世によるテロの多くは単独犯であり、イスラム過激派に接触したことがあったとしても、本人はそれほど敬虔なムスリムではない場合が多いです。オリヴィエ・ロワはイスラム教が過激なのではなく、「過激思想がイスラム化している」(204p)と述べましたが、社会に不満を持つ人間がイスラムを1つの口実としてテロを起こしている印象があります。
 その証拠にシャリーア(イスラム法)についての知識と自爆テロ志望は反比例するそうです(204p)。

 というわけで、信仰を突き詰めてテロに至るのではなく、貧困や社会的孤立などによって社会への憤りを持った人物が、共同体にも包摂されず、宗教や政治的過激主義に没入するという形でテロリストとなります。
 特に移民2世は、移民1世のような故郷を持つわけではなく、生まれ育った環境で生きていくしかないものの、そこからは排除されているという状況にあります。2016年7月にドイツのミュンヘンのショッピングモールで銃乱射事件を起こしたイランから亡命してきた親を持つ18歳の少年は、テロ事件時に近隣銃味からトルコ系移民に対する蔑称を叫ばれると「ボクはここで生まれたドイツ人だ」(202p)と叫んだと言われますが、ここに移民2世の疎外を見ることができます。

 宗教に関しては2000年代に入ってから「ポスト世俗化」ということが言われるようになりました。2004年にハーバーマスが翌年に教皇ベネディクト16世となるラッツィンガー教皇庁教理省長官と対談した際に、資本主義に対抗するものとして宗教の役割が求められるとして使った言葉がこの「ポスト世俗化」です。
 しかし、この現代における宗教意識の高まりは、かつてのように宗教が個人を律するというよりは、個人が宗教を選択して利用するといった感覚が強いです。
 ウエルベックの『服従』は2022年のフランス大統領選挙でムスリム同胞団の候補が当選するという近未来を描いた小説ですが、主人公は自らの出世と欲望(一夫多妻)のためにイスラムに改宗します。宗教は個人の欲望のために利用されており、これと同じことがジハーディストと呼ばれるテロリストに起こっているのではないかというのが著者の見立てです。

 第5章では1968年以降の社会運動と政治の動きが捉え直されています。68年革命から始まった新しい社会運動は、反戦、女性解放、環境保護などさまざまな分野に及び、今までの「階級」ではなく「個人」を中心とする形で発展していきました。
 一方で、この68年革命の動きに反対する勢力も力を持つようになり、いわゆるニューライトを形成するようになります。フランスのFN(国民戦線)やドイツのAfD(ドイツのための選択肢)のメンバーには、68年革命に批判的だった人物が多く、日本の日本会議の源流もこの時代の左派運動への反発に求められます。

 この社会問題の個人の問題として扱うやり方は、社会を捉え直す新しい視点をもたらしましたが、同時に政治の領域からの退却ももたらしました。社会問題の個人化は負担やリスクを個人に押し付けるような動きを生み出し、それが政治への不信をもたらすようになるのです。
 こうした動きに適合したのが新自由主義です。新自由主義は市場とともに個人を重視する考えであり、国家への不信感から「小さな政府」を目指します。一方、こうした潮流の中で原子化した個人は「強い国家」を求めるようにもなるのです。
 
 終章では、今までの議論が「5つのリベラリズム」という形で整理されています。
 1つ目はロックなどに源流があり国家の権力を制限する立憲主義的な考えである「政治リベラリズム」。2つ目は市場の自由を重視する「経済リベラリズム」。3つ目は個人の自由を擁護する「個人主義リベラリズム」。4つ目は社会保障などの充実させ「大きな政府」を目指す「社会リベラリズム」。5つ目はマイノリティの権利を養護し観葉の精神を説く「寛容リベラリズム」です。
 
 そして、この組み合わせとその不適応がさまざまな問題を引き起こしているといいます。
 リベラル・デモクラシーは「政治リベラリズム」と「社会リベラリズム」の結合ですが、「経済リベラリズム」が強くなり、「社会リベラリズム」が退いたことにより、「政治リベラリズム」までもが攻撃を受けています。
 「寛容リベラリズム」は「個人主義リベラリズム」と結合し、特定の集団の権利や利益ばかりを主張し、かえって不寛容を生んでいます。また、「個人主義リベラリズム」と「経済リベラリズム」の結合は結社なき社会の原子化をもたらしています。
 この各リベラリズムのバランスを取り戻すためには、自己のアイデンティティに対する反省性を確保し、人々の間の共通点についての合意を得ることが必要だというのが著者の主張になります。

 このように非常に多くのことを論じている本で、このまとめでもけっこうな部分を切り落としています。ヨーロッパ、アメリカ、日本の3つの地域すべての政治変動を一気に描き出そうとする野心作と言えるでしょう。
 ただ、そのぶんわかりにくさはあります。例えば、第3章の歴史認識問題は、終章の整理を読むまでは本書の流れから浮いているようにも感じますし、終章の5つのリベラリズムの話も、できるだけ早い段階で提示してくれたほうがわかりやすかったと思います。
 
 そして、これは必ずしも著者の責任ではないのですが、社会正義を主張する人を「リベラル」だとするアメリカ独特の「リベラル」の使い方が、「リベラリズム」というものの定義を難しくし、本書の議論もわかりにくくしていると感じます。
 20世紀の「保守vs左派」の図式において、社会主義政党の台頭とともに「リベラル」は保守に吸収されたとされていますが、本書で言う「社会リベラリズム」や「寛容リベラリズム」、「個人主義リベラリズム」は「左派」の側から出ているような印象も受けます。この出自も性格も違うものを「リベラリズム」という1つの枠で論じることができるのかというのは、読み終わった後も疑問として残りました(もちろん、いずれの要素も「リベラリズム」とされることがあるので仕方のない面はあるのですけど…)。