原書は、ドイツの出版社C・H・ベックの「ヴィッセン(知識)叢書」の1冊。訳者は『アデナウアー』などの著作があるドイツ政治を専門とする政治学者ですが、この叢書シリーズの翻訳である『ニュルンベルク裁判』(中公新書)の訳者でもあります。

 本書は訳者解説などを除けば179ページとかなりコンパクトですが、ドイツの統一を、東ドイツの体制の崩壊、ドイツ統一という2つの局面にわけて非常に手際よく描き出しています。ベルリンの壁が崩壊したとき、自分は中学生で、なんとなく壁が崩壊からドイツ統一までは必然的な流れとして見ていたような記憶がありますが、本書を読むと、そこにさまざまな予測不能なドラマがあったことがわかります。

 著者は、CDUの熱心な党員であり、メルケルのもとで中道化したCDUの保守回帰を訴えた「保守派」なのですが、そのあたりも含めて訳者解説ではこの本の立ち位置が解説されており、バランスのとれた視点を持てるようになっています。


 目次は以下の通り。

第1章 革命前夜
第2章 平和革命
第3章 国民をめぐる転換
第4章 再統一と世界政治  なぜ迅速な再統一が可能だったのか
第5章 編入による統一
結語――歴史のなかのドイツ統一

 本書では、東ドイツにおけるSED(ドイツ社会主義統一党)による支配の崩壊と東ドイツの西ドイツへの編入という2つの局面を合わせて「ドイツ革命」と見ています。

 このドイツ革命のきっかけとなったのがソ連におけるゴルバチョフ書記長の登場です。ゴルバチョフは社会主義共同体の利益のためには個々の社会主義国の主権は制限されるという、いわゆるブレジネフ・ドクトリンを放棄することを明言しましたが、これはソ連の勢力下にあった中・東欧諸国に大きな影響を与え、ポーランドやハンガリーでは既存の支配体制が崩れ始めました。

 

 そんな中で、ホーネッカー率いる東ドイツ政府は変革を拒み続けていました。71年にホーネッカーが書記長に就任して以来、SEDは国民の生活状況を改善させる社会政策を重視することで、国内を安定させようとしていましたが、80年代から原油価格の高止まりやソ連の同盟国への石油供給の抑制によって外貨不足に陥ります。

 東ドイツは外貨を獲得するために製造原価を無視した西側への輸出を行いましたが、それによって設備投資は滞り、東ドイツの生産設備は完全に時代遅れになりました。

 こうした中、東ドイツ政府は社会政策と国家保安省(シュタージ)の力を用いて、国民の不満、特に西ドイツと比較したときの不満を抑えようとしていました。


 しかし、体制に対する反対派も存在しました。彼らは89年5月の地方議会選挙の開票状況を監視し、それは粉飾されたものだと知ると小規模なデモなどを起こしました。そして9月には「新(ノイエス)フォーラム」と呼ばれる反対派知識人のプラットフォームが設立されます。

  反対派のグループは西側メディアの支援も受けながら、市民の間に賛同者を広げていき、政治参加や自由を求めました。ただし、これはあくまでも素人の運動と見られており、体制を直接脅かすようなものとは認識されていませんでした。

 こうした中で89年の夏にホーネッカーは手術のために3ヶ月近く職務を離れます。SEDの幹部は改革に応じることもしませんでしたし、これが脅威になるとも考えていませんでした。シュタージも反対派の運動を監視するために運動に参加し、かえって運動を勢いづけたようなところもありました。


 しかし、東ドイツの崩壊をもたらす動きは国外でも起きていました。ハンガリーを通じた出国です。ハンガリーが89年5月からオーストリアとの国境のバリケードを撤去し、さらに8月に国境沿いの街で「パンヨーロッパ・ピクニック」が開催されたことによって、東ドイツ国民がハンガリーを通じて出国する動きが起きました。ハンガリー政府は越境を取り締まり、収容所をつくりましたが、その収容所には続々と東ドイツ国民が集まってきました。

 ハンガリー政府は東ドイツ政府に対応を求めたものの、東ドイツの反応は鈍く、ハンガリーは9月11日に国境を解放します。ここから9月末までに3万人が西ドイツに移住しました。出国ラッシュはチェコやポーランドにも及び、東ドイツ政府はチェコやポーランドとの国境を閉鎖する動きに出ますが、それは大きな反発を生みました。


 国外への出国を止めると、今度は国内での反体制運動が活発化します。東ドイツ政府は国家人民軍を動員し武力弾圧も辞さずの構えを取りましたが、結局、責任者たちは武力行使に尻込みをしました。一方、デモの中からは「われわれこそが人民だ」との声が湧き上がり、SEDは事態を収集する術を失っていきます。

 10月17日にはホーネッカーが失脚しますが、最後に彼が自分を解任しても「何も静まることはない」(44p)と述べたように、トップが変わってもSEDが体制を立て直すことはありませんでした。

 新しく書記長に就任したエーゴン・クレンツはSED支配を「対話」によって救済しようとしましたが。これは反対派の土俵に乗ることでもあり、SEDは主導権を失います。この過程に関して本書は次のように述べています。

 東ドイツにコミュニケーションや利害の調整を可能にする期間が存在しなかったことは特別な意味をもった。この住民と政治制度のあいだに存在していた真空は、40年にわたって体制の安定を保証してきたものだったが、それがいまや体制の崩壊に拍車をかけることになった。というのも、そうした公共性を担う組織が欠けていたために、反体制グループが、必要な「対話」のパートナーとして、直ちに有意義な存在になることができたからである。言い換えれば、反対派は、調停機関を経由して力を削がれることなく、自らの影響力を直接かつ即座に発揮することができたのである。(48p)


 11月4日には東ベルリンで大規模デモが行われ、7日は閣僚評議会(内閣)が総辞職、市民運動が完全な勝利をものにするかに見えました。

 しかし、ここで予想外の動きが起こります。東ドイツからの出国問題に対するSEDの対処がベルリンの壁の崩壊をもたらしたのです。チェコへの出国問題への対処として打ち出さた方針が、東ドイツ政府が国境管理を放棄する政策を打ち出したという形で伝わったのです。文書によるプレリリースもない中で行われた会見によって「東ドイツが自国の国境を開く」という情報が伝わり、ブランデンブルク門に殺到した人々によって壁は崩壊しました。事態をコントロールすることが完全にできなくなったSEDによる支配体制は崩壊し、クレンツも7週間で書記長の座を去ることになります。


 こうして反対派の勝利に終わるかと見えた東ドイツ情勢ですが、問題は東ドイツ市民には新体制に「参加」する以外に西ドイツに「離脱」する道もあったということです。反対派は「第三の道」、つまり民主化された社会主義を模索しましたが、東ドイツには西ドイツと再統一して資本主義化するという道もあり、SEDを打倒した人々は、今度は東ドイツという国を守ろうとする者と西ドイツと一体化しようとする者に分裂しました。

 反対派はSEDの中央円卓会議に参加し改革を模索しますが、西ドイツとの格差が明らかになるにつれ、ますます多くの人々が東ドイツを去りました。


 一方、西ドイツに目を向けると、統一に向けた準備が整っているとは言い難い状況でした。長期的な目標として「統一」を支持していても、それがすぐに実現するとはほとんどの人が思っていなかったのです。

 ボンの西ドイツ政府もベルリンの壁が崩壊するまでは統一のことは考えておらず、壁の崩壊は「完全に不意打ち」(77p)でした。受け身だった西ドイツのコール首相は、11月28日に統一に向けた見通しを語りましたが、その期間は5〜10年と見積もられていました。


 しかし、国外からの反応は厳しいものでした。ソ連はコールの態度に激怒し、イギリスやフランスは強い留保を示しました。サッチャーもミッテランも過去を例に引き、強い警戒感を示したのです。そんな中で、アメリカだけが第二次大戦の戦勝4カ国の中で唯一ドイツ統一を支持しました。


 東ドイツでは11月13日にモドロウ政権が成立し、「第三の道」を模索する姿勢を見せますが、シュタージが文書の破棄を始めると、各地で市民らがシュタージの建物を選挙し、90年の1月15日には市民によってシュタージの本部が占拠されました。

 生産の低下はつづき、年が明けても東ドイツからの脱出は止まりませんでした。住民の流出が東ドイツの先行きを暗いものとし、さらなら住民の流出を生みました。

 モドロウ政権は反対派に入閣を求めて体制の立て直しを図りますが、もはや憲法改正なども市民にとっては魅力を持つものではなくなり、統一を求める声に埋もれていきます。


 こうした中で2月6日、コールは東ドイツに通貨同盟の提案をします。これは実質的に東ドイツに金融・通貨政策の主権の放棄を求めるものでした。

 3月には東ドイツの人民議会選挙が行われましたが、ここでも中心となったのは西ドイツの政党でした。西ドイツのCDUの支援を受けた「ドイツのための同盟」、FDPを模範にした「自由民主主義者同盟」が生まれ、東ドイツの社会民主党(SDP)も西ドイツのSDPの立場を目指すようになりました。一方、「新フォーラム」は草の根民主主義的なオルタナティブを目指して「同盟90」を結成します。

 この選挙は、400議席中192議席を「ドイツのための同盟」が獲得します。SPDが88議席、SEDの後継だったPDSは66議席でした。「ドイツのための同盟」と「自由民主主義者同盟」で過半数、SPDを加えると改憲可能な2/3を占め、東ドイツの意思は統一だとはっきりしました。


 先程述べたように、米を除く各国は性急なドイツ統一に反対であり、特にソ連が統一を簡単に認めるとは思われていませんでした。

 ところが、ソ連の状態も厳しさを増していく情勢の中、ゴルバチョフは方針転換をし、2月10日は西ドイツの代表団に対して、「統一にはイエス、NATO帰属にはノー」という立場を伝えます。ここに問題の中心は統一ドイツのNATO加盟に移りました。

 90年2月13日、オタワで東西ドイツ+米ソ英米の「2+4プロセス」の開始が発表されます。これによって統一に懐疑的だったソ連を取り込むことに成功します。

 2月末にコールはキャンプデーヴィッドを訪れ、ブッシュ大統領やベーカー国務長官と会談をしますが、ここで西ドイツとアメリカの統一に向けた分業が決まりました。西ドイツが統一の遂行とソ連に対する経済的な支援の段取りを整え、アメリカが国際的ないし安全保障政策的なレベルでの責任を引き受けることが決まったのです。


 このアメリカのバックアップは、ドイツとポーランドの国境問題(オーデル=ナイセ線問題)でも発揮され、ブッシュが西ドイツとポーランドを仲介しました。

 さらにアメリカがNATO加盟問題でも突破口を開きます。5月31日のワシントンでの米ソ首脳会談でブッシュがすべての国には自らの同盟帰属を選ぶ権利があると尋ねると、ゴルバチョフはこれに同意したのです。

 このゴルバチョフの突然の方針転換を確実なものとするために、西ドイツ政府はソ連への経済支援へと動きます。ソ連の財政窮乏に対して50億マルクの短期金融支援を用意し、7月2〜12日のソ連共産党大会が終わるのを待ちました。

 そしてゴルバチョフは党大会を乗り切ると、コールらをコーカサスの彼の故郷に招待します。ここで統一ドイツのNATO帰属、ソ連の部隊の撤退、統一ドイツの兵力を37万人にすることなどが決まります。その代わりに西ドイツはソ連に対する120億マルクの支援と30億マルクの5年期限の無利子のクレジットを用意しました。


 一方でヨーロッパ統合も加速します。以前から通貨同盟に積極的なフランスと慎重な西ドイツの緊張関係がありましたが、それがドイツの統一問題とリンクしたのです。また、ドイツが統一されることで、ドイツがヨーロッパ政策への関心を失うのではないかという懸念もありました。

 結局、コール首相の譲歩によって通貨同盟が実現し、一方で政治同盟に関してはやや曖昧なままで決着が付きました。ドイツ統一はヨーロッパ統合のプロセスも加速させることとなったのです。


 1990年9月12日にモスクワで「ドイツに関する最終規定条約」が調印され、10月3日に統一が完成することになりますが、その前からさまざまな形で統合は進んでいました。

 通貨統合に関しては、東ドイツマルクの評価が問題となりましたが、最終的に一定額までの現金と預貯金、そして賃金に関しては一対一の比率となります。これは東ドイツ経済の実力を考えると過大評価でしたし、東ドイツ経済にとどめを刺したとも言える措置でしたが、同時に政治的には不可避とも言えるものでした。

 また、東ドイツの国有企業を民営化するために信託公社が設けられ、この民営化の収益が統一のコストを負担するはずでした。しかし、東ドイツの企業の製品に西側の企業と競争できる力はなく、コメコン諸国との貿易も縮小したために東ドイツ経済は崩壊していきました。信託公社は6000億マルクの収益が期待されていましたが、結局は2300億ドルの赤字で終わります。


 95年までは建築ブームが続き建設業が活況を呈しますが、この頃になると東ドイツ経済のキャッチアップは行き詰まります。03年には東ドイツ地域の失業率が20%を超え、その後も西ドイツ地域のおよそ2倍の失業率が続きます。

 ただし、他の東ヨーロッパの社会主義国と比べると東ドイツの生産性は伸びており、環境問題でも大きな改善が見られました。

 東ドイツの産業構造の転換も進み、89年から96年にかけて、農業従事者は97万6千人から21万人に減少し、製造業の被雇用者も439万人から214万人に減少、公務員も220万人から140万人に減少しました。2/3近くの被雇用者が職場の移動を経験し「オスタルギー」と呼ばれる東ドイツへの郷愁を表す言葉も生まれました。

 

 ただし、著者はこの統一以外に選択肢はなかったし、また、基本的にこの統一は成功だったとみています。何よりも今回は19世紀のドイツ統一とは違って平和裏に統一を成し遂げることができたのです。


 以上が本書の内容ですが、さらに訳者の解説で、本書のスタンスや寄せられた批判にも触れています。日本の読者には気づきにくい著者の立ち位置にも注意を向けており、有益な解説だと言えるでしょう。


 本書の面白さの1つは、あまりに早い情勢の動きに東ドイツ政府はもちろん、反対派も西ドイツ政府もついていけていない様子を活写していることです。人々が大きな石を動かしていったというイメージのあったドイツ統一ですが、本書を読むと、途中からは石が止まらなくなって政治家たちが必死についていき、ときに吹き飛ばされていることがわかります。また、外交を描いた部分も面白く、再選に失敗したために印象の薄いブッシュ政権も、外交に関しては優れた判断力を発揮していたことがわかります。

 歴史のダイナミズムをコンパクトに味わえる本ですね。