なんとなく我々は、鎌倉時代以降に成立した自治的な組織である惣村が、人々の共同体として江戸時代に受け継がれ、それが明治期に行政単位として再編されていったというイメージを持っています。江戸時代には共同体としての「自然村」のようなものがあったと想定されがちです。
 しかし、本書ではそうした自然村は一種の幻想であり、村というのはあくまでも支配のための「容器」であったと主張します。そして、そのことを証明するためにあくまでの支配者の目線に立ちながら、太閤検地以降の村の変遷を追っていくのです。
 このように書くとなかなか硬そうな内容ですし、実際に硬い本なのですが、全体を通して非常に刺激的な議論が行われています。
 私たちは権力者が制度を制定すれば、その通りに物事が運ぶと考えがちですが、そうはならなかった部分を丁寧に見ていくことで、今までとは違った歴史が立ち上がってきます。

 目次は以下の通り。
序章 村概念の転換
第1章 村の近代化構想―織豊政権期
第2章 村の変貌と多様化―幕藩体制期
第3章 村の復権構想とその挫折―明治初期
第4章 土地・人・民富の囲い込みと新たな村の誕生―明治中期
終章 「容器」としての村

 一般的に「村」というと、一定の領域があり、その中で共同生活が営まれているとイメージされます。
 しかし、歴史的にみると支配者が把握しようとしたのは「人」であり、「領域」ではありませんでいた。律令制における戸籍制度や税制などを思い浮かべると、そうだったことがわかると思います。
 では、村を「領域」として把握しようと考え始めたのはいつのなのか? 著者によれば、それは秀吉の太閤検地からになります。

 この時代は大航海時代でもあり、スペインとポルトガルは世界を「分割」しようと考えました。地球の有限性が認識されるとともに、世界を「分割」して「囲い込む」動きが起こったのです。
 著者は太閤検地をこうした流れの中に位置づけます。秀吉はいわゆる「天下統一」を成し遂げ、戦争や紛争を全面的に違法化していくのですが、それを実現するための政策が石高制にもとづく土地政策になります。
 
 信長は一部の家臣に領国の自由裁量を委ねる全権を与えましたが(これを「一色進退」という)、秀吉は領知権(貢租収納権)と所有権を分離し、前者を領主に、後者を百姓に与えました。
 これによって、その土地を先祖代々受け継いできた領主はあくまでも一時的な領知権を持つ当座の領主となりました。秀吉は全国の領主を交換可能な「石高官僚」にすることを狙っていたのです。そのために、所有権を百姓に与えるという思い切った方針がとられました。
 しかし、それを行うには領地が交換可能ではなければなりません。そこで、その交換可能性を担保するのが石高制です。度量衡を統一して、全国の耕地を測り、全国の土地を「石高」という数字に換算することで、例えば、近江10万石の大名を遠江10万国に転封することが可能になるのです。

 ただ、現実には難しい部分もあり、「石高」という言葉一つとっても、生産高として使われている所もあれば、年貢高として使われている所もあります。実際に集めた年貢高から逆算して生産高としての石高を求めたような所もあったとのことです。
 またこの時、同時に村を再編成し、その領域を確定する「村切り」も行われましたが、どちらかというと年貢高の確保が優先されたために、この「村切り」は不徹底に終わったようで、この後も境界紛争は頻発しています。
 当時は村請制が広がりつつあり、実は村請制がしっかりと機能している限り、村の中の実際の耕地のありようや、村境の問題は放置していても年貢は徴収できます。現場では実測ではなく、村との交渉の中で石高が決まっていったケースも多かったのでしょう。ただし、これによって百姓は課税に同意したともとれます。

 この時期には刀狩りも行われています。これは農民から完全に武器を奪い取るものではありませんでしたが、これによって身分の違いがよりはっきりするようになりました。さらに人掃令も出されたことで、武士と奉公人が峻別され、城下に住む家臣(士)と村々の地侍(兵)が分離されました。
 領主には領知権のみを認め、一定期間で転封させる。そのときには家臣(士)のみがついていき、百姓はその土地にとどまって次の領主の支配を受ける。これが秀吉の狙いであり、著者はこれに「近代化」という言葉を当てています。

 しかし、この「近代化」は未完に終わります。
 まず、江戸幕府が成立してしばらくすると転封があまり行われなくなり、秀吉の目指した全国の領主を交換可能な「石高官僚」にする計画は頓挫します。幕府の社会全体の安定のために「末期養子の禁」を緩和するなど、領知権も次第に相続されるものとして認識されるようになります。
 各地の検地では独自の間尺が使われるようになり、度量衡の統一も崩れます。さらに新田だけで独自の間尺が使われるようなケースもあり、統一的に土地を把握するという太閤検地の目論見は崩れていきます。
 関所や湊での口銭の徴収も見られるようになりますが、これらは信長や秀吉が廃止しようとしたものであり、権力の分散化を示すものと言ってもいいかもしれません。

 江戸時代においては、城下には武士と町人がそれぞれ決められた区域に住み、百姓は村方に住むことになっていました。
 ところが、江戸では人口増加によって町は拡大していきます。また、武士の中には町人に屋敷を貸すものや、町人地・百姓地を買って賃貸する者が現れます。幕府はさんざん禁令を出していますが、決まった石高を相続する武士の暮らしは時代を減るごとに厳しくなっており、生きるために不動産収入に頼らざるを得ませんでした。江戸時代末期になると薩摩藩主・島津斉興が町並抱屋敷を自らの名義で購入し、自らの名義で年貢・町入用を収めています(76p)。年貢などの税さえ納めればその内実は問われなくなっていくのです。

 さらに都市化の進行によって百姓地が蚕食されていきます。江戸時代にもスプロール現象のようなものが起きていたのです。
 江戸時代の初期に「田畑永代売買御仕置」が出され、田畑の売買は罰則付きで禁止されていたはずでしたが、実際の取り締まりは緩く、藩によっても売買を認めているところがありました。
 こうした売買とともに、江戸の周辺では町人地が拡大していきます。人別は町方で、土地・高方は村方で扱うという変則的なケースも出始め、さらに村方に従来どおり貢租を負担する条件で新町の建設が認められたりもしていきます。
 「人別は町方、土地・高方は村方」というややこしい形ができたのは、貢租収納の手数料などを受け取っていた村役員らの抵抗があったためと考えられます。

 さらに「村」も所有権の移転や新田開発等で変化を迫られます。
 もともと、太閤検地のときでさえ、村を「領域としての村」として定義したはずなのに、「入作」の記述が見られます。複数の村にまたがって耕地を持っている場合、その人物は複数の村のメンバーになるのではなく、あくまでも他の村に本籍があるイレギュラーな存在でした。ここでは「人間集団としての村」の性格が現れています。
 また、太閤検地当時の日本ではどこの村にも属さない山野河海が広大にありましたが、時代が下るにつれてこうした地域にも新田開発の波が押し寄せます。
 特に江戸時代初期には大名の関与などを得て沖積平野の新田開発が行われます(領主が転封が行われないという前提で投資していたということでもある)。江戸時代初期には新しい村を創設する「村立開発」、元禄期以降は既存の村に石高を付け加える「持添新田」という形が多かったですが、これらの動きも村の再編を促します。
 特に「持添新田」においては、新田は村と地続きで開発できるものとは限らず、各地で飛び地が発生しました。また、新田開発奨励のために貢租が低く抑えられたこと、石高も低めに抑えられたこともあって、統一的な石高制は形骸化していきます。さらに大規模な検地が行われなくなったことから、各地で隠田、切添(耕地の脇を開墾したもの)、切開(許可を得ず原野を開墾したもの)が発生し、明治期には約4割の耕地が検地帳から漏れていたといいます(99p)。
 こうして石高以上の米が生産されるようになり米価は低迷していきます。そして、石高制の根幹を揺るがすようになっていくのです。

 転封が実施できなくなると、飛び地の形でしか論功行賞にもとづく加増を行えなくなります。結果として、譜代大名や旗本の分散知行が進行し、本拠地よりも飛び地の方が大きいという足守藩のような藩も現れます(107p)。数字の帳尻を合わせるために村までもが細切れになり、1つの村に複数の庄屋・名主が置かれたりもするようになります。
 村の分割と言っても、あくまでも領主が違うだけで村の一体化は保たれたケースもあるようですが、一方で、村の祭りを1日違いで行うなど、村の中に村ができたようなケースもあるようです。さらに、河川の流路変更などによって飛び地が生じるケースもありました。
 こうした飛び地や分散知行は非効率であり治安の面でも問題でした。そこで天保の改革では上知令が出され、三方領知替えが試みられるのですが、これは現地の領民の抵抗もあって失敗します。秀吉の掲げた理念はもはや通じなくなっていたのです。

 明治維新で成立した新政府は、当初は幕府領だけで運営されており、財源の拡大が急務でした。そこでまずは旗本領の上地を試み、さらに各藩の飛び地を近接の府県に還納させようとします。しかし、飛び地整理に対する抵抗は大きく、行き詰まります。
 1871年5月に交付された統一戸籍法では身分別の人民の把握が放棄され、居住地編成主義に取って代わられます。先程述べたように、これは崩れつつあった町方・村方の区別に対応したものでしたが、これが土地と人間の関係に大きな転換をもたらすことになりました。
 71年の8月には廃藩置県が断行されます。これによって飛び地の整理は用意になり、機械的に府県が統合されていきます。今までは「村(あるいは細分化された村)」を集めて石高をつくり「藩」とするような形で支配体制が組み上げられましたが、今度は国をいくつかの府県に分割し、さらにそれをいくつかの郡に分割する形で支配体制が上からつくられていくことになったのです。

 こうなると問題になるのは末端の村です。新政府は、当初、飛び地や分散知行などを解消することで旧来の「村」を復活させて行政を担わせようとします。
 ところが、同じ「村」といってもその性格はばらばらで、一町村あたりの平均戸数は長崎県が321、香川県が259に対して、若松県は31、酒田県は38と、地域によってその規模も全く異なっていたのです。村役人の選出法などを含めて考えると、「地域によってまったく性格の異なる「村」を、同じ名前で読んでいた可能性がある」(153p)のです。
 そこで新政府は「区」をつくって、そこに戸長を置き、行政事務に当たらせます。

 1872年3月、明治政府は田畑永代売買の禁を解きます。これは現実を追認したものと言えますが、新政府にはこれとともに地券を発行し、それをもとに課税を行おうという意図もありました。また、同時に武家地や町人地からの税の徴収も行われるようになります。
 当初、地券の発行は検地帳の記載内容に基づいて行われるはずでしたが(つまり実際のものとは相違があることは仕方がないと考えていた)、検地帳がない、検地帳への記載がないなど、地券の発行は困難を極めます。
 1873年7月に地租改正がなされますが、ここでも土地の調査などは行われず、秋田県の場合でもまずは地租目標額を決め、地租米の4倍を収穫米として、そこから村との交渉などによって地価を算出していきました(175p)。結局、個別の地価をどうするかは村に任された部分もあったようです。
 また、この過程で石高制が廃止され、土地は面積というわかりやすい指標で把握されることになりました。度量衡の再統一も進んでいます(ただし75年までは基準を統一せずに作業が進められていた)。

 1881年に改租の作業が終了しますが、326万444町であった旧反別は、改租後には484万8567町となりました(185p表3参照)。つまり、耕地は1.5倍近く増加したのです。これは江戸時代に開発されていた土地がそのまま検地帳などへ載っていなかったということです。
 地租改正への抵抗の1つはこの隠していた耕地が露見することへの抵抗だったのでしょう。実際の税負担に関しては、徴税目標額が変更されたわけではなかったので、土地あたりの税率としては減税になったはずです。
 また、誰のものでもない土地(山林など)が官没され、政商などに払い下げられていきました。

 さらにこの地租改正作業の中で町村合併が進んでいきます。これは飛び地の存在や境界の問題などの解決が困難だったために、それらの問題を打開するために合併が行われたと考えられます。飛び地の編入は村高の変更も伴うために厄介なものだったのです。
 また、大蔵省は土地台帳を完成させるために調査を行いますが、この調査の結果、45万町あまりの土地が新たに出てきます。326万444町だった土地は1890年末には543万1418町にまで拡大しました(199p)。土地台帳の整備も進み、飛び地なども少しずつですが解消されていきます。
 土地の登記に関する問題の管轄は戸長から裁判所へと移されるようになります。それまでは土地売買に戸長が関与していましたが、それが原因で戸長が訴えられるケースもあり、村請制が解体される中で土地売買に村が容喙する必要性はなくなったのです。

 1888年に市制町村制が制定されますが、そこで「村」は行政を担うための単位として位置づけられ、疆土(明確な区域)、人民、「十分ノ資力」が存立条件とされました。この要件を満たすために既存の村は合弁を迫られます。基準としては300〜500戸、町村税総額800円以上という基準が設けられますが、この基準を満たしていた村は全体の1割以下であり、多くの町村で合併が行われることとなりました。
 あらゆる土地を余白なき帰属させるためには境界をはっきりさせることが必要ですが、入会地の帰属などはそう簡単に結論が出るものではなく、その問題を合併によって解決した面もありました。新しい村は行政単位を整備するための切り分けの結果としてできたものでもありました。
 明治の町村大合併により7万1314あった町村は1万5820市町村へと1/5にまで減ります。これとともに「住民」という言葉が出現し、村請制の解体とともに存在感を失いつつあった村は、行政単位として再生するのです。そして、村は国家の下請け的な役割を果たしながら「自治体」とも呼ばれるようになっていきます。

 終章にあるように本書は「村」を「容器」として捉えます。そしてその「容器」が「村」の内実をつくり上げた面もあるだろうというアプローチです。もちろん、「村」の共同体的な性格を否定するものではありませんが、例えば福武直が『日本農村の社会的性格』で述べたように、「属人的な中国の村と境界がはっきりした日本の村」という対比は果たして成り立つのか? と疑問を呈しています(236−237p)。

 このように本書は、「村のあり方」という比較的地味なテーマを扱いながら、私たちの歴史、あるいは日本社会のイメージを書き換えようとする大胆な本です。テーマや方向性は松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』(これも面白い本)と重なるところがあり、少し違う捉え方をしている部分もありますが、『町村合併から生まれた日本近代』を面白く読んだ人なら、本書も楽しめるのではないかと思います。
 日本史に興味がある人にはもちろん、「自治」について考えたい人にもお薦めできる本です。