中公新書の『物語 〇〇の歴史』シリーズではさまざまな国の歴史が扱われていますが、おそらく本書がもっとも短い期間を扱ったものではないかと思います。1949年10月に建国され、1990年に西ドイツとの統一によって姿を消した東ドイツ(ドイツ民主共和国)のわずか40年ほどの歴史を描いたのが本書です。
 わずか40年ほどの歴史ですが、ソ連による占領→ドイツの分断→社会主義国家の建設→ソ連と西側の間での外交的な駆け引き→ゴルバチョフの登場→民主化と解体という激動の歴史であり、その密度は濃いです。
 東ドイツというと、シュタージによる監視国家というイメージが強いかもしれませんが、本書を読むと、国民が活発に請願などを行なっていたことがわかりますし、逆に国民の不満を恐れて政府が右往左往するような局面も見られます。
 「オリンピックと東ドイツ」「シュタージ」「東ドイツ時代のメルケル」といったコラムも挟まれており、東ドイツの歴史を多面的に振り返ることができます。

 目次は以下の通り。
序章 東ドイツを知る意味
第1章 新しいドイツの模索―胎動 1945‐1949
第2章 冷戦と過去の重荷を背負って―建国 1949‐1961
第3章 ウルブリヒトと「奇跡の経済」―安定 1961‐1972
第4章 ホーネッカーの「後見社会国家」―繁栄から危機へ 1971‐1980
第5章 労働者と農民の国の終焉―崩壊 1981‐1990
終章 統一後の矛盾と対峙

 東ドイツの歴史は1945年5月にドイツが降伏し、ソ連が占領地域に軍政をしいたことから始まります。ソ連はドイツ占領を円滑に進めるために、ドイツ人の協力者を求めましたが、この役割を担ったのが大戦中にソ連に亡命していた共産主義者であり、ウルブリヒトらが中心人物となりました。
 米・英・ソによるポツダム会談によって、ドイツの非ナチ化、非軍事化、民主化、脱中央集権化という占領目標が決まります。この脱中央集権ということもあり、各占領地域で独自の行政管理が行われることになりました。
 また、ソ連は併合したポーランドの東側の領土の補償のような形で旧ドイツ領のオーデル・ナイセ線以東をポーランドに引き渡しました。国境の正式な確定は講和条約締結後に決まることになっていましたが、講和条約が結ばれないまま既成事実化していきます。

 ソ連占領地域で、6月に政治結社の設立が認められると、ドイツ共産党(KPD)、ドイツ社会民主党(SPD)、キリスト教民主同盟(CDU)、ドイツ自由民主党(LDPD)といった政党が結成されます。
 当時は社会主義を容認する空気が強く、社会民主党は共産党以上に工場の公有化に熱心で、キリスト教民主同盟も鉱業と基幹産業の国有化を訴えていました。
 46年になるとソ連の後押しもあって共産党と社会民主党が合同し、4月に社会主義統一党が結成されます。しかし、46年10月の州議会選挙ではソ連占領地域において社会主義統一党は50%の得票にわずかにとどかず、キリスト教民主同盟と自由民主党がそれぞれ25%程度を分け合う結果となりました。

 敗戦後のドイツは大きな混乱に見舞われます。戦争によって生産設備は大きな被害を受け、46〜47年にかけては厳冬となり、夏も凶作だったことから食糧不足に陥ります。さらにかつての東部ドイツ領から追放された人も加わりソ連占領地域に多く流入しました。
 そんな中でもドイツ人はアンチ・ファシズム委員会を設け行政を自発的に担おうとする動きを見せました。しかし、共産党と競合する可能性があったこともあり解散させられていきます。
 公務員の非ナチ化は西側よりも徹底的に行われました。親衛隊隊員やゲシュタポの人員は約13万人が戦犯として収容所に送られ、そのうち1/3は収容所の劣悪な環境などが原因で亡くなったといいます(19−20p)。
 土地改革も行われ大規模農場が解体されて小農や小作農や非追放難民に土地が分配されましたが、生産効率のいい大農場が解体されたことで農業生産力は低下しました。

 ソ連はドイツからの賠償を求めており、それはドイツのソ連占領地域から取り立てられることになりました。この賠償は、ソ連軍駐留経費の負担、工場の機械の解体(デモンタージュ)と持ち出し、ソ連が接収し株主となった企業への生産物や利益の納入といった形で行われました。この賠償の取り立てが終了したのは1953年ですが、戦争によって失われたソ連の生産設備が120億7000ライヒスマルクと推定される中、賠償の合計は約540億ライヒスマルクになると言われています(25p)。
 特にデモンタージュは東ドイツ経済に深刻な影響を与え、生活用品などの不足をもたらしました。一方で、鉄道の車両や線路も解体されたこと、規格が違ったことなどにより、解体された機械がソ連で有効に活用されたわけではありませんでした。

 1948年6月、西側の占領地域では新しいドイツマルクを導入する通貨制度改革が行われます。この新しい通貨が西ベルリンを通じで東側に流れ込めば経済が不安定化すると考えたソ連は、ベルリン封鎖を行います。東西の経済的なつながりが断たれたことで、ドイツの分断は決定的になりました。
 そして、東側では「ソ連化」が進行し、社会主義統一党もソ連型の党に改組されていきます。48年にはデモンタージュも終了し、計画経済が導入されました。

 1949年5月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が建国されると、10月にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国されました。このときにつくられた東ドイツ憲法は、基本的にヴァイマル憲法を受け継ぐものでしたが、第6条2項には民主的制度や組織に対するボイコットの扇動を、刑法で定める犯罪行為とするなど、反対運動を抑え込むことも可能なものでした(43p)。
 選挙は、あらかじめ候補者が載った統一リストに対する信任投票の形で行われ、社会主義統一党とその衛星政党が過半数を確保できるようになっていました。
 50年の社会主義統一党の党大会では民主集中制と呼ばれる原則が決まり、書記長にはウルブリヒトが就任します。「分派活動」は禁止され、党の人事はカードル(幹部)人事局は仕切ることになります。連邦制も廃止され、社会主義統一党が指導する中央集権体制が確立したのです。

 1948年にはソ連とチトー率いるユーゴスラビアの対立が表面化し、東ドイツでも粛清が行われます。そして、このときには東欧では多くのユダヤ系の人々がシオニズムを理由に粛清されます。さらにアメリカがイスラエルに接近したことの対抗としてソ連がアラブ諸国に接近したことから、東ドイツも反シオニズムの立場を取り、ユダヤ人に対する補償などは進みませんでした。

 東ドイツ政府は、人々の間に芽生えたドイツ統一願望に対処するために急速な社会主義の建設を目指します。農業の集団化や手工業やサービス業の集団化が進められますが、必ずしも生産力の向上にはつながりませんでした。
 この経済状況の悪化は西側への逃亡者への増加をもたらし、ソ連からの指示もあって社会主義建設のペースは緩められます(新コース)。
 しかし、過重なノルマは撤回されなかったため、1953年6月17日、東ドイツにおいて大規模なゼネストが発生します。特に指導者のいなかったこの動きはソ連軍の出動で沈静化しますが、この六月十七日事件は、社会主義統一党に最低限の生活水準を維持しなければ支配体制の安定化は難しいという教訓を植え付けました。政府はシュタージを強化するとともに、消費財や食料品の生産に重点が置くようになります。

 その後、56年にソ連でスターリン批判が行われると、新コースは転換され、再び重工業重視の路線がとられます。57年には自家用車トラバントの出荷も始まり、経済も順調に成長しました。
 また、政府が教会の活動を抑えるために堅信式に代わる青年式を制定するなどしたため、50年代後半には人々の教会離れも進みます。

 外交に関しては、西ドイツが東ドイツと正式な国交を結んでいる国とは外交関係を樹立しないというハルシュタイン原則をとったため、東ドイツの外交関係は限定されました。
 また、当時、多くのひとがベルリンを通じて東から西へ脱出しており、この穴を塞ぐことは東ドイツにとって大きな課題でした。
 1961年8月13日、フルシチョフの許可も得た上で東ドイツはベルリンの壁の建設に着手します。一夜にして東西ベルリンを横断する道路網は寸断され有刺鉄線が引かれました。市民は当初は一時的なものだと考えましたが、次第に本格的な壁が建設されていきます。
 東ドイツの市民は脱出の可能性を失います。そうした状況を踏まえ62年には徴兵法が制定され、徴兵が始まります。西ドイツとの通商も断たれたことで、工業規格もソ連に合わされ、輸出入の拠点も今まで利用していた西側のハンブルクに代わってロストックが整備されました。

 60年代はじめ、ソ連では各企業に経営の裁量を委ねるリーベルマン方式の導入が見送られましたが、これを採用したのが東ドイツでした。この改革の成否を握るのが価格を柔軟に変更できるのかという点でした。東ドイツでは企業間取引の価格の改定には成功するものの、それをストレートに小売価格に転嫁することは市民の反発も考慮されたためにためらわれ、その差額は政府からの補助金が埋めることになりました。
 社会主義統一党は国民のニーズを探るために64年には世論調査研究所を設けるなどし、さかんに世論調査を行います。また各種団体に対して動員をかけるだけでなく、請願や政府批判の声を集めさせます。

 60年代は比較的順調に経済が成長した時代で、冷蔵庫や洗濯機、テレビなどの耐久消費財の普及も進みます(ただし冷蔵庫と洗濯機の1970年の普及率は50%台(123p))。しかし、すぐに手に入るわけではなくトラバントの予約から納入までの待機期間は8年にも及びました。
 一方、高所得者を対象にしたイクスイジットラーデン(高級商店の意味)や外貨のみで購入が可能なインターショップもつくられ、西側の商品を手に入れることができるようになりましたが、これは一方で人々に不公正を意識させることにもなります。
 
 東ドイツの経済はソ連から安定して安価に資源を獲得できるかどうかにかかっていましたが、64年にフルシチョフが解任されると、ブレジネフは東ドイツの自主性を抑え込むとともに東ドイツへの交易の優遇措置も講じなくなります。
 ブレジネフと上手くいっていなかったウルブリヒトは、西ドイツとの協力によって経済発展を成し遂げようとします。一方、70年にはモスクワ条約が結ばれソ連と西ドイツが接近。ウルブリヒトはさらなる西ドイツとの協力でこれに対処しようとしますが、ホーネッカーは東ドイツの主権を危うくするようなウルブリヒトの行動に反発し、71年1月にはブレジネフにウルブリヒトの解任を要請。結果、5月にウルブリヒトは解任されるのです。
 こうした中でも72年には両独基本条約が結ばれ、両国な特別な関係が承認されました。

 新たに指導者となったホーネッカーは、「「人びとの物質面そして文化面における生活水準の向上」が”あらゆる政策の主要課題”」(152p)だと宣言しました。ウルブリヒト体制のもとで拡大した格差を是正し、さらに西ドイツを基準とした生活水準の実現を求めたのです。
 71年に決まった新たな5カ年計画では、西側から新しい技術を導入し、輸出によって対外債務を減少させることが目指されていましたが、それと人びとの生活水準の向上を両立させることは難しく、結局は西側に対する貿易赤字が拡大していくことになります。

 70年代には経営の自主性が後退し、再び計画経済体制へと移行します。私企業経営者の平均収入が一般労働者の3.5倍になっていたこともあり、私企業の国営化も進められます。これらの企業を計画経済に組み込むことで生産は上がるはずでしたが、結果的にそれらの企業は独自の製品の供給を止め、日用品の不足はより深刻になりました。
 それでも76年頃までは生活状況は改善し、「東ドイツの黄金時代」(160p)と呼ばれる状況が出現しました。最低賃金などは引き上げられる一方で、支配体制の安定のために基礎消費財の値上げは抑えられ、相変わらずの物不足ではあったものの、消費生活は充実したのです。

 西側との関係改善も進み、73年には西ドイツとともに国連に加盟し、その後、フランス、イギリス、アメリカと国交を結びます(日本とも73年に国交樹立)。しかし、その一方で、ホーネッカーは西ドイツの影響力が増大することを恐れつつも、ソ連からの経済的援助が減る中で西ドイツとの経済的な関係を深めざるを得ない状況に追い込まれます。
 オイルショックで石油価格が上昇すると、東ドイツ経済も苦境に陥ります。基礎消費財の値上げを避けたかった政府は質の悪い商品(コーヒーなど)を流通させますが、これは市民の大きな反発を呼びました。
 東ドイツは社会主義統一党の独裁体制でしたが、「平等な社会を実現するために独裁的に政治を運営していると説明している以上、社会から絶えず実現不可能な要求にさらされ続ける」(186p)ことになったのです。

 西側との関係が改善する一方でソ連との関係は冷え込んでいかいます。81年にはブレジネフが突如として東ドイツ向けの原油の輸出を減らすことを通告してきます。70年代後半以降、東ドイツはソ連産の原油を加工し西側に輸出することで外貨を獲得してきましたが、それが難しくなったのです。結局、東ドイツはこの危機を西側からの借款で乗り切っていきます。ウルブリヒトの西ドイツへの接近を批判したホーネッカーですが、結局は同じような状況に追い込まれます。
 ホーネッカーはまた、電子産業の投資によって経済的な活路を開こうとしましたは、COCOMの規制により西側から技術を導入するととは難しく、成功しませんでした。一方で、投資が控えられたインフラは荒廃し、消費財不足も深刻化します。西側の親戚から送られた商品が重要になり、80年代後半には商店での一般的な供給量を上回るまでになるほどでした(212p)。

 1985年のゴルバチョフの登場は東ドイツの政治環境を一変させます。ゴルバチョフと20歳年長のホーネッカーの関係はうまくいかず、ホーネッカーはソ連の改革から距離をとることとしますが、東ドイツ市民はゴルバチョフの改革を望みました。
 87年にホーネッカーは西ドイツを訪問し関係を強化しますが、関係を強化すれば人の移動は増え、西ドイツのメディアは東ドイツの反対派の動きを報じました。ソ連から離れるには西ドイツに接近するしかありませんでしたが、それは体制を不安定化させました。
 80年代になると、平和運動、兵役拒否運動、環境運動などの社会運動が活発化し、体制に対する反対派として成長していきます。

 このあたりからの動きに関しては、アンドレアス・レダー『ドイツ統一』(岩波新書)のまとめも参考にしてほしいのですが、さまざまな抗議運動や反対運動に対してホーネッカーの危機意識は薄く、適切な対処ができませんでした。
 89年の夏にホーネッカーは手術のために3ヶ月近く職務を離れますが、この時期にはハンガリーでの「パンヨーロッパ・ピクニック」をきっかけに東ドイツ市民の大量脱出が始まるなど、支配体制が一気に崩れ始めます。
 そして、89年10月にライプチヒで大規模デモが起こると、内務省は武力鎮圧の用意をしていたものの、内部からの反対もあって鎮圧には踏み切れませんでした。ここから”平和革命”が始まったとも言われます。デモを鎮圧してもソ連の支持は得られそうになく、西側からは借款を打ち切られるだけだったからです。そして10月17日にホーネッカーは解任されます。
 ここから事態はベルリンの壁の崩壊からドイツの統一へと急速に動いていくのです。

 本書を読んで強く感じるのは東ドイツの独特の立ち位置です。ソ連の影響を強く受けた社会主義国家であると同時に、分断国家として西ドイツとの関わりも持ち続けたことが、一定の豊かさをもたらした一方で、統治の難しさも生みました。西ドイツとの交流がある程度ある中では、生活水準は常に西側と比較され、そこから生まれる不満に政府は対処せざるを得なかったからです。このあたりは北朝鮮と韓国の関係と比較してみても面白いかもしれません。
 個人的にはコラムで人びとの生活実感などに触れてくれると、東ドイツの社会がよりわかりやくなったようにも思えますが、40年ほどの短い歴史を通じてさまざまなことを教えてくれる本になっています。