誰もが知っている人物でありながら、意外と評伝などがないのがこの板垣退助。もちろん、本人が監修した『板垣退助君伝』や自由民権運動の指導者としての板垣を描いた『自由党史』はあるのですが、かなり盛っていると思われるところがあり、どこまで信用していいものかはわかりません。
 そんな板垣の生涯について、可能な限り「伝説」的な部分を剥ぎ取ってたどってみせたのがこの本です。以外に謎が多い人物で、前半(自由民権運動に身を投じるまで)に関しては、ややわかりにくい部分もあるのですが、後半の部分は非常に面白く、決して知略や判断力や組織力に優れていたわけではない板垣が、、自由民権運動で大きな役割を果たした理由がわかるようになっています。
 初期議会の状況に関しても、近年の研究をもとに従来のイメージが修正されており、日本の議会史を考える上でも面白い材料を提供してくれる本です。

 目次は以下の通り。
第1章 戊辰戦争の「軍事英雄」―土佐藩の「有為の才」
第2章 新政府の参議から民権運動へ
第3章 自由民権運動の指導者―一八八〇年代
第4章 帝国議会下の政党政治家―院外からの指揮
第5章 政治への尽きぬ熱意―自由党への思い
終章 英雄の実像―伝説化される自由民権運動

 板垣退助は1837年(天保8年)、土佐藩の御馬廻・上士の家に嫡男として生まれています。生まれたときの姓は乾で、幼少の頃から喧嘩好きだったとのことです。
 1854年(安政元年)に18歳で江戸勤番を命じられ江戸へ向かいますが、帰国後には同輩に「不作法之挙動」があったとして惣領職を剥奪されています。許された後も再び「不作法」を起こすなど、粗暴な面があった板垣ですが、特に思想的に一致していたわけではない吉田東洋に評価されるなど、見どころのある人物だったようです、
 吉田東洋の暗殺後、板垣は尊皇攘夷の考えを深めます。これは山内容堂の考えとは必ずしも一致しないものでしたが、容堂も板垣を評価しています。

 武市半平太らの土佐勤王党が失脚したあとは藩の要職を歴任し、洋式の騎兵について学んだりしています。そして藩の軍政を掌握し、上士を銃隊に編成するという思い切った改革を行います(当時、鉄砲を扱うのは下士だった)。
 土佐藩は後藤象二郎の献策によって大政奉還へと動きますが、板垣はこれに異論を唱えています。これによって倒幕派の板垣の地位は危うくなりますが、鳥羽・伏見の戦いが起きると、再び板垣が前線に立つことになります。

 板垣は土佐で編成された迅衝隊の司令として東山道軍に従い、さらに別働隊として甲州街道を進軍します。ここで板垣は、自分のルーツが武田信玄の家臣の板垣信方だったことから姓を「乾」から「板垣」に改姓します。板垣の部隊は近藤勇率いる甲陽鎮撫隊を撃破し、江戸に入り、さらに北関東、東北へと転戦します。
 日光では立てこもる大鳥圭介の部隊に対して、日光東照宮の消失を惜しんで退去を求めたという逸話が伝わっていますが、放火すべきだと集中した土佐兵を板垣が諌めたかどうかは定かではありません。
 また、会津では会津の人民が領主を守ろうとせずに逃げたのを見て封建制度の廃止に開眼したということになっていますが、後述のように本当にそうだったのかは謎です。ただし、会津での戦いは軍人としての板垣の名声を大いに高めました。

 明治維新後、板垣は新政府の参与になり、後藤とともに土佐藩の実権を握りました。板垣らは土佐藩で身分制度改革を行い、士族を五等に分け、士族と平民の間の身分の卒族を三等に分けました。しかし、明治政府がこうした家格を認めないという通知を出したために、この制度は維持不可能になります。
 板垣は家格が厳格な高知ではこれは難しいと嘆きましたが、ここで板垣は一気に身分制の解体を主張し始めます。士族が独占してきた文武の職を平民に開放し、身分制を大きく変革したのです。板垣は家格が維持できないと見るや、大胆な手で状況を突破しようとしました。

 1871年(明治4年)、板垣は、藩兵の献上を大久保・西郷・木戸らとともに建言し廃藩置県を断行すると、参議となります。岩倉使節団が欧米へと出発すると、板垣は西郷らと留守政府を預かることになりますが、ここで問題となったのが征韓論です。 
 ご存知のように、板垣は西郷を使節として派遣することに賛成で、岩倉や大久保と対立しますが、西郷は自らが殺されたら戦争は板垣に任せるとしており、西郷が板垣の軍人としての才能を高く評価していることがうかがえます。しかし、結局は西郷の使節派遣はならず、西郷や板垣は下野します。

 下野した板垣は、後藤や江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成し、「民撰議院設立建白書」を提出します。この建白書は古沢滋が中心になって起草されましたが、どうして板垣がこの建白書を出すことになったのかという流れは本書ではよくわかりません。
 その後、板垣は高知で立志社を設立します。これは士族の没落を防ぐための互助的な組織でした。1875年には、大阪で全国的な民権結社愛国社が設立されます。しかし、この愛国社は大阪会議で板垣が政府に復帰したことでほぼ何もせずに消滅します。
 参議に復帰した板垣は、参議の省卿兼任をやめて、内閣と各省を分離することを主張します。この問題で同じ主張をしたのは左大臣の島津久光でした。久光はいわゆる守旧派であり、民権派の板垣とは相容れないはずで、政府の主導権を握るための共闘とみていいでしょう。結局、ここでも板垣は政争に敗れて、久光とともに辞職します。
 1877年に西郷が挙兵し西南戦争が起きると、立志社ではこれに呼応して挙兵するかが問題となります。板垣はまずは建言をもって政府を突くべきあると主張します。立志社の林有造は挙兵に前向きで、西郷軍が劣勢になったあとも挙兵を主張しますが、板垣は最終的には挙兵を決断しませんでした。戦後、林有造だけでなく立志社社長の片岡健吉らも逮捕されますが、板垣は逮捕されませんでした。

 武力による政権奪取の道がなくなった板垣らは民権の道を目指しますが、板垣のもとには土佐出身の植木枝盛らだけではなく、河野広中、杉田定一、栗原亮一らが集まってきます。板垣個人の政治家としての能力に関しては疑問符もつきますが、周囲に優秀な人を集めることができたのは板垣の人望でしょう。また、人の意見を取り入れることもでき、板垣の主張する政策の多くは栗原によるものとされています。
 1878年に愛国社が再興され、1880年には国会期成同盟が結成されますが、板垣はこの動きに表立っては関わりませんでした。その後、板垣は運動を活発化させ、81年には東北を遊説に出発します。その最中、明治14年の政変が起こり、10年後の国会開設を約束する国会開設の勅諭が出されます。これに呼応して正式に自由党が発足し、東北遊説中だった板垣が総理とされます。

 1882年(明治15年)の4月に板垣は岐阜で相原尚褧(なおぶみ)に刺されて重傷を負います。このとき「板垣死すとも自由は死せず」の名言が飛び出したとも言われていますが、具体的にどのように言ったのか、相原に対して言ったのか、周囲の人物に言ったのかなどいろいろなバリエーションがあり、本書では一覧にまとめられています(96−97p)。
 この遭難事件の後、板垣の人気は一種の社会現象となり、板垣の写真が売れ、伝記や演説集が発行されます。また、このとき明治天皇から勅使が派遣されましたが、断ったらよいと言う自由党員もいた中で、板垣は涙をながしたといいます。板垣の「尊王」は揺るぐことがなく、イギリスにおける国王と人民の一体化を理想と考えていました。「教科書的理解では、「フランス流の急進的な自由主義をとなえる自由党」とされがちであるが(『山川出版社 詳説日本史B』2014年)、板垣が主張した政治体制はイギリスの立憲君主制に近かった」(103p)のです。

 事件後、明治政府は板垣を外遊させて民権運動を鎮静化させようとします。この計画は伊藤博文や井上馨が後藤象二郎と連携して進めました。自由党の党員からは反対も出ますが、板垣は伊藤博文の憲法調査などを意識し外遊を決意します、洋行の費用は、三井銀行からのものと板垣の支持者の山林地主の土倉庄三郎から出たものがありましたが、前者の金は後藤が管理したようで、板垣は知りませんでした。
 板垣は外遊中、ジョルジュ・クレマンソー、ヴィクトル・ユーゴー、ハーバード・スペンサーらと交流しましたが、金銭不足などにも苦しめられ、「引きこもり」に近い状況にあったようです。少し情けないようにも見えますが、当時日本を圧倒していた欧米を見ても「変わらなかった」のが板垣の長所なのかもしれません。
 
 帰国後の板垣には逆風が吹いていました、外遊費の出所をめぐって板垣の清廉潔白なイメージは失墜し、外遊中には自由党員による激化事件が起きていました。
 板垣らは「一大錬武舘」をつくりそのエネルギーを吸収しようとしましたが、自由党急進派を抑えることは難しく、また資金募集計画もうまくいかず、1884年10月、自由党は解党します。

 1887年、板垣、後藤、大隈、勝安芳(海舟)に伯爵が授与されます。政府の狙いは民権派の機先を制して在野指導者に叙爵を行うことで「官民協調」ムードをつくることで、後藤と大隈はこれを受けました。
 一方、板垣は辞退する意向を示しますが、明治天皇からの叡慮を伝えられ落涙します。伊藤は爵位を辞退するのは天皇の勅命に背いた朝敵であると批判しており、この問題を使って板垣を追い詰める作戦でした。板垣は再び辞退の移行を示しますが、明治天皇から却下され、最終的には伯爵位を拝受します。

 三大事件建白運動などで自由民権運動は再び盛り上がりますが、政府はこれを保安条例などによって弾圧し、さらに大隈を伊藤内閣の外務大臣、後藤を黒田内閣の逓信大臣として入閣させて運動の切り崩しをはかりました。
 板垣はこの時期は高知にあって動かず。大日本帝国憲法や黒田内閣の政治を基本的には評価していました。1889年の3月には板垣の入閣も検討されましたが、板垣はこれを断っています。
 憲法発布に際しては大赦も行われ、自由党系の運動家も釈放されますが、板垣は自らを襲撃した相原が大赦から漏れたことを遺憾に思い、自ら明治天皇に訴えて相原を出獄させています。

 1890年7月の第1回総選挙において、自由党系は127名の当選者を出します。選挙後、自由党系のメンバーは合流し、9月に立憲自由党が結成されます。党首はおかず、板垣、河野広中、大井憲太郎、松田正久らの集団指導体制でした。このような状況で立憲自由党はなかなか統一的な行動が取れず派閥が生まれますが、板垣を中心とした派閥が土佐派です。
 ちなみに板垣は爵位を持っていたので衆議院には立候補できず、貴族院に関しては辞退しています。板垣の一君万民思想からは貴族院議員というものは収まりが悪いものだったと考えられます。
 また、板垣は議会に備えて立憲自由党にも政策が必要だと考えて、「通商国家構想」を示しています。これを書いたのは栗原亮一ですが、海運貿易によって日本を富ませようという主張は板垣の持論になっていきます。

 第一議会では、山県有朋内閣の示した予算に対して民党が「民力休養」「経費節減」を訴えるわけですが、原田敬一の研究によれば地租引き下げなど山県内閣には「民力休養」「経費節減」の主張を飲む意向があったといいます。
 しかし、立憲自由党内の不一致もあって政府との妥協は上手くいかず、最終的には土佐派が政府との徹底対決を避けたことで、地租引き下げが実現しないままに予算は成立します。板垣や片岡健吉、林有造らの土佐派には第一義会を失敗させてはならないという思いがあり、それがこの妥協につながったと考えられます。

 こうして「裏切った」板垣ですが、第一議会後に開かれた自由党大阪大会で板垣は自由党の総理となります。板垣を批判していた星亨もこの人事を受け入れますが、それは党勢拡大のためには板垣を担がざるを得ないと判断していたからでした。
 第二議会でも自由党・立憲改進党と松方内閣が対立し、衆議院は解散されます。ここで有名な内務大臣・品川弥二郎による選挙干渉が起きるわけですが(この経緯についても諸説ある(165p))、特に高知県では薩摩出身の知事・調所広丈のもとで激しい選挙干渉が行われます。結局、死者10名、負傷者68名を出す騒ぎになりましたが、官憲に抵抗した高知の民衆に、「板垣は非常にご満悦であり、土佐は能くやった能くやったと感嘆していた」(166p)そうです。この選挙で自由党は議席を減らしますが、板垣はこれに落胆することはありませんでした。

 1892年、第2次伊藤内閣が成立します。ここから自由党は政府との接近を目指す星亨とそれに批判的な議員で対立し結局は星が脱党することになりますが、板垣は星を擁護しています。
 1894年の日清戦争を機に、政府と自由党の距離はさらに接近し、自由党は地租軽減要求を取り下げます。そして、95年の11月には自由党と政府の提携が発表され、翌年には板垣が内相として入閣するのです。
 世論の反発も呼んだ板垣の入閣でしたが、大隈の入閣をめぐって対立し、入閣後わずか4ヶ月で第2次伊藤内閣は崩壊します。つづく第2次松方内閣では進歩等の大隈が入閣し、自由党は下野しました。

 一時期、求心力が落ちた板垣でしたが、第2次松方内閣、第3次伊藤内閣が行き詰まると、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成します。この合同は政策、地方支部など扱いをめぐって問題を抱えており、そのことは板垣も意識していましたが、藩閥政治の専制政治を倒すという目的で合同に踏み切ります。
 そして、第3次伊藤内閣が倒れるといわゆる隈板内閣が成立します。ここで板垣が首相に意欲を見せなかったことから、首相・大隈、内相・板垣という形になりました。隈板内閣のもとでの第6回総選挙で憲政会は圧勝しますが、政党員からの猟官運動に悩まされ、また、共和演説事件で辞任した尾崎行雄の後任問題、さらには星亨の策動によって隈板内閣は瓦解します。
 憲政会は星亨が仕切るようになり、星は代わって成立した第2次山県内閣との提携を進めます。憲政会は星によって主導されることとなり、板垣は総務委員待遇の辞表を提出します。政治化としての板垣は基本的にはここで終わったと著者は見ています。

 1900年に憲政会が解党して立憲政友会が発足します。1901年に星亨が暗殺されると、板垣を立憲政友会の副総裁に迎えようとする動きも起きますが、伊藤との考えの違いから実現することはありませんでした。1903年には林有造らが立憲政友会から抜けて自由党を結成しますが、翌年の選挙で振るわずに解散しています。
 その後、板垣は激化事件で命を落とした民権運動家の顕彰運動や自由党史の編纂に力を入れます。1913年の第一次護憲運動の際に演説をしたりもしていますが、公的な役職につくことはありませんでした。そして、1919年に83歳で亡くなっています。子どもには爵位を辞退させ、以前から主張していた一君万民思想のための一代華族論を貫きました。
 
 このように本書は板垣の長い生涯を辿っています。前半に関しては史料の制約もあって少しわかりにくい部分もあるのですが、後半は自由民権運動や初期議会への理解も深まる内容で面白いですね。
 そして、本書を読むと自由民権運動のアイコンが板垣だった理由も見えてくると思います。政治家としての能力はともかく、板垣は立派な神輿になれる人物でした。機を見るに敏な大隈や後藤では安心して担げないが、板垣なら担げるということで多くの人が板垣のもとに集まったのではないかと思います。伊藤の柔軟性や先見性は政治家として重要な資質ですが、本書を読むと伊藤は少し「セコく」見えます。そんなところが板垣の魅力なのかもしれません。