デモクラシーについて書かれた本ですが、例えば、宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のようなデモクラシーに関する「入門書」とは少し違います。「入門書」と言うには、本書は著者の独自の考えがあまりにも強く出ている本であり、政治学を学ぶ上での入り口として機能するような本ではありません。
 また、「整理法」と銘打っていますが、デモクラシーをタイプ分けする本(代表的なものとしてレイプハルト『民主主義対民主主義』がある)でもありません。
 一番簡単に本書を説明しようとすると「デモクラシーを問い直す本」ということになるのでしょうが、本書では「〇〇のためにデモクラシーが必要である」という議論を行わずに、デモクラシーそのものが機能するための必要最小限度の要件を探るような内容になっており、そのあたりも類書とは違います。
 非常に説明しにくい本ではあるのですが、以下、自分なりに本書の議論の特徴をスケッチしてみたいと思います。

 目次は以下の通り。

序 章
 一 本書の目的
 二 本書の構成
第一章 収納――政府・政治・政治体制
 一 政府と政府的共同体
 二 政策と政治
 三 政治体制と政治体制型
第二章 整理Ⅰ――デモクラシーの組み立て
 一 ふたつのデモクラシー
 二 古典デモクラシー
 三 現代デモクラシー
 四 デモクラシーと自由の関係
第三章 整理Ⅱ――民主体制の整列
 一 序列の解消
 二 民主体制の使い分け
 三 デフォルトとしての混合型民主体制
終 章
 一 デモクラティズムの諸相――整理法の整理のために
 二 ふたたび本書の目的について――結語にかえて

 まず、本書では「民主主義」ではなく「デモクラシー」という用語が選択されています。「主義」という言葉を使ったものには、「自由主義」「保守主義」のように何らかの思想や信条が込められているものがありますが、著者が本書で説明したい「デモクラシー」はあくまでも「手続き的なもの」であって、思想面ではありません。政治の仕組みとしての「デモクラシー」を説明することが本書の目的です。
 本書では、「デモクラシー」の訳語にも「民主主義」ではなく「民衆支配」という言葉が選択されています。

 第1章では、まず「統治」の問題から入っていくのですが、その前に「政治はそれ自体とし完結し自立した活動ではなく、政府の存在を前提としている」(23p)とサラッと書いているように、本書が取り上げる「政治」はあくまでも国、あるいは少なくとも自治体レベルのものであり、「個人的なことは政治的なこと」というような政治観は視野に入っていません。
 「政府」とは、「一定の地理的領域内の人的・物的秩序の維持を目的に(あるいは目的にすると称して)活動する人的集団」(25p)であり、その政府によって展開される活動が「統治」です。

 著者は、社会契約説に関しては「およそリアリティを欠いている」(30p)と評価していますが、社会契約説の自分たちの利益のために政府があるという考えには同意します。
 居座り盗賊集団であっても、彼らが一定の治安を維持したり、一定の社会資本をつくったりすれば(それは住民を強制労働させてのものかもしれませんが)、そうした集団の存在は住民の利益になることもありえますし、定期的な略奪は「税」と呼ばれるようになるかもしれません。このように、著者は「正統性」のようなものがなくても、政府は成立して機能しうると考えています。

 多くの本では、こうして成立した政府が何をするかということに関して、「法」という概念を持ち出して説明すると思いますが、本書では憲法〜閣議決定までをひっくるめて「政策」と呼び、この政策を政府に対する指令として理解しています。
 数多くの政策案の中から、政策を決定するのが「政策決定者」であり、本書における「政府」とは私たちが一般的に想像する政府から政策決定者を差し引いたものになります(本書の考えだと例えば、議員や大統領は政府に含まれない)。そして、この政策決定者をどう作り上げるかがポイントになります。

 この政策決定者による決定を政府を構成する人々(公務員、役人)は受け止めて、政府の活動が行われます。この政策決定者と政府(を構成する人々)の関係は<支配=服従>の関係でありますが、この政策決定を「物理的暴力をふんだんに蓄えた政府が引き受ける」のは「かなり不思議な現象」であり、著者は「政府が政策決定者に対して認める正統性」の重要性を指摘しています(49p)。
 場合によっては政府(を構成する人々)から政策に対する異議が出ることもあります。著者は内閣法制局の審査を、「政府に対する指令の事前チェックと異議申立てを、指令の受け手である政府自身に認める仕組み」(50p)とみています。
 また、複数の政策の整合性が問題になることがありますが、著者はここでその整合性を担保する仕組みとして「形式的な意味」でも「立憲主義」の考えを持ち出しています。53p以下で、いわゆる権力を制限する「実質的な立憲主義」もとり上げていますが、本書ではそうした立憲主義の理解はそれほど重視されていません。

 政策の宛先も、いわゆる国民(政府的共同体員)ではなく、あくまでも政府です。憲法は政府を縛り、法律は市民を縛るといったことが言われますが、著者によれば法律も政府を縛っています(例えば、刑法などを見ても「人を殺してはいけない」と書いているわけではなく、「人を殺したら○年以上の懲役」と書かれていることを思い出すとよい)。
 一方で、著者は自由を保障するためには政府からの自由を認めるだけでは足りないと言います。自由を保障するには私人間での自由の侵害に対して、政府が適切な対処を取る必要があるからです。著者はライアム・ナーフィーとトーマス・ネーゲルの議論をとり上げて、「財産権や所有権は政府なしにはあり得ない」(67p)と論じています。

 こうした政治観のもと、本書では政治の型の1つとしてデモクラシーを分析しています。
 デモクラシーという政治体制の型にはレファレンダムを使用する「直接デモクラシー」と、選挙を使用する「関節デモクラシー」の2つが考えられます。しかし、このように書くと「直接」の方が優れている印象を与えるために、本書では前者を「古典デモクラシー」、後者を「現代デモクラシー」と名付けています。
 前者においてはレファレンダムが「まとも」であること、後者においては選挙が「まとも」であることが重要になります。

 古典デモクラシーのモデルとなるのは古代アテナイの民主政です。このアテナイの民主政を現代にアップデートさせるとして、著者はまともなレファレンダムが成り立つためには次の6つの基準が充たされることが必要だとしています。
 1,政治的市民の包摂的な認定(選好形成・表明主体の認定)
 2,政治的市民権の包括的かつ通時的な保障(選好形成)
 3,投票運動の公平な取り扱いの保障(選好形成)
 4,政治的市民に対するアジェンダ設定権の保障(選好表明)
 5,投票の自由と平等な投票機会の保障(選好表明)
 6,票の平等な取り扱いの保障(選好集計)

 この中で、意外と難しいのが4のアジェンダ設定権でしょう。投票を行うにしても、何を投票し、どのような選択肢を提示するかは非常に重要ですが、それをレファレンダムで決めるようでは無限後退に陥ってしまいます。くじの利用や、一定の要求があったときは必ずレファレンダムを行うといったやり方が考えられますが、ここは難しい問題になります。

 一方、現代デモクラシーに必要なまともな選挙が成り立つための基準を著者は以下のように整理しています。
 1,政治的市民の包摂的な認定(選好形成・表明主体と選好対象主体の認定)
 2,政治的市民権の包括的かつ通時的な保障(選好形成)
 3,投票運動の公平な取り扱いの保障(選好形成)
 4,選挙の十分な頻度の保障(選好表明)
 5,投票の自由と平等な投票機会の保障(選好表明)
 6,票の平等な取り扱いの保障(選好集計)

 4を除くと同じに見えますが、1ではカッコ中に「選好対象主体」という言葉が追加されています。これは基本的には立候補者のことなのですが、著者は必ずしも立候補は必要ではないとも考えています。フランス革命後の選挙において立候補が禁じられていたように、自分が適任だと思う候補者を自由に選ぶというやり方も考えられるのです。
 4に関しては、やはり一定の間隔で選挙が行われることが重要です。選挙で表明された政治的選好には耐用年数がありますし、一定の間隔で選挙が行われるからこそ、政治家たちは次の選挙に備えて振る舞い、有権者はそれを判断の材料にできるのです。

 一般的に、現代デモクラシーは古典デモクラシーの縮小版と捉えられがちですが、著者はレファレンダムが選挙に置き換わっただけだと考えます。
 著者はデモクラシーを「選挙中心主義」(125p)的に理解しており、まともな選挙があるのであれば、選挙で大統領1人を選ぶような政治スタイル(議会はなし)でも、デモクラシーが成立すると考えています(124p)。

 レファレンダムにしろ選挙にしろ、その「まともさ」を保障するのが「政治的自由」になります。一般的な政治の入門書ではここで人権が持ち出されることが多いと思いますが、本書では政治的自由に絞って論じられています。
 ここではバーリンの自由を積極的自由と消極的自由に分け、消極的自由=個人の自由=非政治的な自由であるとする議論が批判されています。ここの議論はややわかりにくいのですが、「「私を統治するのは誰か」という問いへの答えは、筆者に言わせれば政府に決まって」おり、「政府は私にどれほど干渉するか」という問題に関しても、その答えは「政府は私に不当に干渉することが許されないと同時に、私に対する他人の不当な干渉を止めるために干渉する義務を負う」というもので(132p)、個人の消極的な政治的自由を保障するためには政府が必要であるとの議論がなされています。

 ここから、著者は「リベラル・デモクラシー」という用語を批判します。現代の民主主義は自由主義と民主主義が結合したリベラル・デモクラシーである」という考えは広く流通していますが(例えば、待鳥聡史『代議制民主主義』(中公新書))、著者は、この言葉には政治的な自由を保障しないデモクラシーが存在し得るという誤解を招くといいます。もしも、個人の重視や多元主義という意味を含めたいのであれば、そうした言葉を使うべきだというのです。

 第三章では、現代デモクラシーが古典デモクラシーに劣るという印象を覆すために、「政策形成ステイタス」と「政策執行ステイタス」の均衡という議論がなされているのですが、これもややわかりにくいです。
 政治的市民が政策の形成局面において政策との関係いおいて置かれる地位が「政策形成ステイタス」、政策の執行局面によるそれが「政策執行ステイタス」です。本書の理解では政策の受けては政府であり一般の市民ではないので、政策執行ステイタスは中途半端です。一方、実際に立候補して当選し、政策決定者となる市民もわずかなので政策形成ステイタスも中途半端だと言えます。
 とは言え、市民には政治的自由があり、デモなども行うことができます。また、一定頻度の選挙は政策決定者に次の選挙を意識させます。自らは政策決定をしないものの、政策に大きな影響を与えうるのです。
 この政策の形成と執行における中途半端なステイタスが、ときに「決めすぎる」古典デモクラシーの問題点を薄めているというのが著者の見方です。「現代民主政治は「(あえて)決めない政治」(157p)なのです。

 本書では古典デモクラシーと現代デモクラシーを分けながら議論を進めてきましたが、混合的な運用、つまり現代デモクラシーの一部にレファレンダムを取り入れることも可能であると著者は考えています。
 そしてそれには「「政策決定理由」の単純化」(165p)というメリットもあるといいます。政策にはそれを導入するための売り込み文句とも言うべき「政策理由」があります。そして、政策が決定された理由が政策決定理由です。
 レファレンダムの場合、投票運動期間中、政策立案者は政策理由を説明し、反対者はその不十分さなどを指摘します。一方、政策決定理由はレファレンダムで多数を獲得したからという単純な理由で説明できます。
 この政策決定理由の単純化がある種の安定をもたらすと著者は考えています。政策理由に関しては時間の経過とともにそれが必ずしも説得力を持たなくなることもあり、場合によっては政策決定が蒸し返されますが、「レファレンダムで多数を得た」という事実は蒸し返しを困難にします。
 これに対して現代デモクラシーでは、政策決定者(政治家)の判断の是非を蒸し返すことが容易です。また、野党は次の選挙に勝つために政策決定者の判断(政策理由)の問題点を指摘します。ただし、この政策理由が常に蒸し返されて政策決定理由が複雑化することは必ずしも否定的に捉えられるべきではないとも著者は言います(189p)。
 そして、現代のデモクラシーは、基本的に憲法などの重要な政策ではレファレンダムを用い、一般的な政策の決定では代議制を用いるという混合型となっています。

 終章では民主体制を望ましいとものと考えるデモクラティストについて考察していますが、次のような見解は一般的なデモクラシー理解とはずいぶんと違ったものでしょう。

 民主政治は、「自分たちのことを自分たちで決まる」という仕組みではない(本当にそれを実現しようとするならば、政府が自己支配をする、つまり「政府が政策を決める」という仕組みに帰着するはずである)。ゆえに民主政治における政治的市民は、「自己決定」や「自律性」につきまとう道徳的な責任とは無縁なのである。無責任で気ままである点において、非民主体制のもとでの独裁的な政策決定者と民主体制のもとでの民衆とのあいだに、本質的な違いがない。よって民衆による政治支配が慎重で配慮に富んだものとなる保証は、独裁者いよる政府支配と同じ程度に低い。(206−207p)

 ここにいたって本書のデモクラシー理解の特徴は際立ってくると思います。多くの論者は「自己決定」や「自己陶冶」の延長として「デモクラシー」を捉え、そのために市民に責任を自覚させようとするのに対して、本書ではそうしたもっともらしい理由付けが捨て去られ、剥き出しの政治の作動のようなものが記述されているのです。

 さらに近年の民主体制の状況を確認した部分では、フリーダム・ハウスの調査から、信教の自由や学問の自由、あるいは「法の支配」などを差し引いた上で独自の指標を作成しています(215−216p)。つまり、政治に直接関わりのない人権が制限されても、法の支配が十分でなくとも、デモクラシーは成り立つと考えているのです。
 223‐225pでポピュリズムが政治的自由を毀損する危険性に釘を指しているものの、人によってはポピュリズムとの親和性を感じるかもしれません。

 「デモクラシー」という言葉はある意味で理想化されており、そこにはさまざまな理念が込められていることが多いですが、そうした理想化されたデモクラシーから飾りを剥ぎ取って、まともなレファレンダム、まともな選挙こそがデモクラシーであるという、シンプルなデモクラシー観を提示しているのが本書の一番の特徴と言えるでしょう。
 正直、法の支配や政治に直接関わりのない人権を取り去ってもデモクラシーが機能するかどうかは判断がつきかねるのですが、読む人の思考を促す本であることは確かだと思います。
 軽妙な文体で面白く読めるのですが、「整理法」とうたいつつ、同時に多くのひとを(良い意味で)当惑させる本だと言えるでしょう。