帯には「人類史上最悪の内戦」との言葉が載っていますが、太平天国の乱による死者は江蘇省だけで2000万人を超えるとも言われ、まさに世界大戦に匹敵するような犠牲者が出ています。また、乱が14年近く続いたのも1つの特徴で、同じく清末の反乱として知られている義和団の乱に比べると、その持続性は段違いです(義和団の乱は1年ちょっと)。
 本書はそんな太平天国の乱の始まりから終わりまでをたどるとともに、そこに中国の歴史に繰り返し現れ、現代にも通じている1つのパターンを見出そうとしています。副題は「皇帝なき中国の挫折」となっていますが、単純に太平天国の興亡のドラマを見せるだけではなく、中国の近代や、中国の政治や社会そのものを考えさせるような内容です。

 目次は以下の通り。
一 神は上帝ただ一つ
二 約束の地に向かって
三 「地上の天国」の実像
四 曽国藩と湘軍の登場
五 天京事変への道
六 「救世主の王国」の滅亡
結 論

 太平天国の中心人物となった洪秀全は、広州の郊外の花県で1814年に生まれています。洪秀全は客家と呼ばれる後発の移民の生まれで、秀才だった洪秀全は幼い頃から科挙合格の期待をかけられたものの、勉強を進める上での人脈などはなく、上手くはいきませんでした。
 1837年、科挙に不合格になった後に洪秀全は熱病に倒れ、そこで金髪に黒服姿の老人からこの世を救えと命じられる夢を見たといいます。1843年、プロテスタントの伝道のパンフレットを読んだ洪秀全は、ここに書かれた偶像崇拝禁止の教えに感銘を受けるとともに、夢で見た老人こそキリスト教の神のヤハウェであるに違いないと思い、「上帝」と呼ばれていたヤハウェを信仰するキリスト教こそが、太古の中国で信じられていた宗教だと確信し、布教を始めます。
 この舶来の新しいキリスト教を中国の伝統と結びつけたことが太平天国の1つの特徴と言えるでしょう。

 しかし、アヘン戦争の記憶も新しい中で西洋の思想を布教することは困難で、洪秀全は広西省に赴きます。この中で、洪秀全は教義をまとめていきますが、堯・舜・禹も上帝を信仰していた、天国の約束された領土は中国だと考えるなど、一般的なキリスト教理解とは違ったものでした。 
 初期からの信者であった馮雲山は広西省で2000人近い信者を獲得し、この団体は上帝会と呼ばれるようになります。信者は主に山間部に入植した貧しい客家で、彼らに現世利益を約束したことで上帝会は勢力を拡大させました。
 「皇上帝はこの世のすべての人にとって共通の父である」(18p)との教義に示されるように、上帝会は大家族思想をとっており、宗族を形成できなかった貧しい人々に宗族に代わる相互扶助組織を提供するような面があったのです。

 その後、洪秀全らは偶像破壊運動を起こし、各地の廟を破壊するなどして地元社会との摩擦を引き起こしました。
 そんな中、楊秀清と蕭朝貴という2人の会員にヤハウェとイエス・キリストが降臨し、お告げを発し始まるという出来事が起こります。広西ではシャーマニズムの伝統があり、その流れを継ぐものでしたが、洪秀全が楊秀清と簫朝貴のお告げを本物だと認めたことで、上帝会はシャーマニズムの要素も取り入れながら拡大していくことになります。楊秀清は、洪秀全をヤハウェの次子、イエスの弟として権威を強調し、来たるべき新王朝の君主であると主張し始めました。こうして上帝会は易姓革命の要素も取り込みます。

 こうした中、1850年に広西省の貴県で客家とチワン族や早期に移民していた漢族との争いが起こると、行き場を失った客家の人々は上帝会を頼り、石達開に率いられて戦うようになります。50年の12月には蜂起を決意し、弁髪を切って清朝への抵抗の姿勢を明らかにしました。

 1851年の前半には太平天国という国号も決まり、新王朝創設の意思を示します。清朝の軍事力の中心は満州人や蒙古人からなる八旗と漢人中心の緑営でしたが、この時期には弱体化が進んでおり、太平軍を鎮圧することはできませんでした。
 51年12月、洪秀全は詔により、楊秀清を軍師かつ東王に、蕭朝貴を西王に、馮雲山を南王に、韋昌輝を北王に、石達開を翼王に任命します。こうして上帝=ヤハウェのもと、地上の支配者が皇帝を名乗ることを許されないとの教えにもとづき、洪秀全以下6人の王が存在する体制が生まれます。洪秀全と他の王は兄弟であり、両者の間には絶対的な身分の差はありませんでした。
 一方、信者に対しては戦闘で功績のあったものには官職を与えると宣言しました。このあたりは日本の一揆などとは違うところで、「昇官発財(官となって財産を築く)」という官界への上昇志向を刻み込んだものとなっています。

 清軍の反撃を受けた太平軍は永安州を脱出し、途中で馮雲山を失うなどの大きな損害を受けますが、広西から湖南に進出します。太平軍がダメージを受けながらも戦闘が継続できた背景には、この地域に貧しい人々が多かった背景もあり、また、銀納を原則とする土地税が銀の海外流出に伴う銀貨の高騰によって重くなっていたということもあります。税負担に耐えかねた人びとが太平軍に合流していったのです。
 1852年9月、太平軍は湖南の省都長沙を包囲しますが、蕭朝貴を失うなど攻撃は失敗します。そこで、太平軍は11月末には船を手に入れて岳州を陥落させ、さらに長江を東進して南京を目指すことを決めます。
 太平軍は略奪や徴発を厳しく禁止したこともあり、一般の人々の支持を受けます。また、「滅満興漢」の主張も掲げるようになり、清を「夷」と捉える華夷観念に訴える形で、人びとの支持を集めようとしました。太平天国は「中国」や」「中国の人」という言葉をよく使っており、中国のナショナリズムに訴えるような面もあったのです。

 1853年1月に太平軍は武昌(現在の武漢の一部)を占領します。武昌は太平軍が占領した初めての省都クラスの都市で、太平軍は大きな富を得ました。同時に辺境出身の彼らと都市住民の間には埋めがたい意識の差があったといいます。
 53年2月には太平軍は十数万の兵力で水陸に分かれて南京を目指します。太平軍は農村で略奪をしないだけではなく、都市の富を農村に分け与え、租税の3年間免除などを掲げて、人びとを引きつけました。
 3月にはついに南京を占領し、同時に旗人に対する虐殺が行われました。また、カトリックの教会にあったイエス・キリスト像も偶像として破壊するなど、過激な面も見せました。

 洪秀全の入城後、南京は天京と改称され、洪秀全の宮殿や、楊秀清、韋昌輝、石達開らの宮殿が作られました。南京の住民は男女に分けて「館」に収容されました。家族は引き離され男性、女性がそれぞれ25人1組の組織にまとめられました。纏足が禁止され、女性の集住区の「女営」は男性が立ち入ることが禁止され、父娘や夫婦であっても館の外から顔を見るか声を交わすことしかできませんでした。さらに建築や武器製造などの職人集団が設けられました。
 1853年末に南京を訪れたカトリック神父は「南京は都市というよりも一つの兵営だった」(83p)と述べています。食糧は南京に貯蔵されていたものや住民から没収した銀などで買い付けたものが配給され、一種の公有制の経済が目指されていました。
 また55年には男女に結婚と夫婦同居を認める決定がなされますが、功績をあげた老兄弟(古くから太平天国に参加している者)に若い女性を娶らせ、集団結婚式が行われたといいます(95p)。
 
 しかし、太平天国は南京を攻略したものの、周辺地域を面として占領したわけではないために、徐々に食糧不足に苦しむことになります。配給は減らされ、都市住民が周辺の稲刈りなどに動員されましたが、それに乗じて逃げた者も多かったといいます。
 そうした中で人びとは諸王の庇護を求めるようになります。諸王は長江上流へ出陣し食糧を確保し、それを頼って多くのひとが諸王のもとに集まりました。諸王はそれぞれが宗族的な集団を形成したのです。

 1853年5月、太平天国は北京攻略のために約2万の精鋭部隊を送ります。天津についたら援軍を送るとの話もあったようですが、洪秀全らは南京攻略後、南京からは動きませんでした。
 北伐軍に対して援軍も送られましたが、その援軍は途中で糾合した反体制集団を統率できず、本隊は食糧不足などに苦しみ、結局、この北京遠征は失敗します。

 太平天国は北だけでなく西にも兵を送りました。1853年6月には1000隻あまりの船に分乗した数千人の部隊が長江上流へと向かっていあす。この西征軍の目的は食糧の調達であり、ここでも面としての支配地域の拡大は目指されていませんでした。
 ただし、安徽の省都である安慶を占領した石達開はそこを拠点にして一帯の支配を目指します。地方官を配置し、土地税を取るようになったのです。税負担は清朝のものよりも軽く、太平天国の支配は清朝よりもましなものでした。
 一方、安徽や湖北で科挙が行われたものの、孔子廟を破壊したり儒教の経典を焼き捨てたりする太平天国に対する読書人の反発は強く、彼らの心を掴むことはできませんでした。

 そんな中で登場したのが曾国藩です。曽国藩は1811年に湖南で生まれた人物で、比較的貧しい家の出ながらも科挙に合格し、内閣学士に抜擢されるなど、順調に出世をした人物でした。曽国藩は咸豊帝に諫言をして激怒されますが、どうにか許され、1853年に母の死によって故郷に帰っていたところ、団練大臣に任命されます。
 当初は治安維持の役割などを担っていましたが、農民たちを集めて訓練し、太平軍と戦うことを決意します。曽国藩は火力と水軍を重視して軍(湘軍)を編成すると、54年の2月に1万数千人からなる軍を率いて出撃します。
 曽国藩は「官僚となり財産を築いてハハハと笑おう」(141p)といったスローガンで士気を鼓舞し(ここは太平軍と同じ)、はじめは苦戦しながらも、徐々に太平軍相手に勝利を重ねていきます。清の地方官の非協力的な態度などに悩まされながらも、ついに西征軍を撤退させるのです。

 しかし、この西征軍の撤退の主因は太平天国側の内部分裂でした。天京事変が勃発したのです。
 この顛末は第5章に書かれていますが、第5章の前半では太平天国と外国との関係についても書かれています。キリスト教を母体とする太平天国は欧米にとって歓迎する要素を持つ存在でしたが、その外交スタイルは以前の中華思想丸出しのもので、外国からの使節を失望させました。多妻制や三位一体説の否定も西洋人は受け入れがたいものであり、欧米列強との交渉では清朝側に遅れをとることになります。

 この太平天国のキリスト教からみて異教的な要素にシャーマニズムがありますが、このシャーマニズムが天京事変の引き金になります。
 東王・楊秀清は天父下凡と呼ばれるシャーマニズムを行う人物でもあり(ヤハウェが楊秀清のもとに降臨する)、南京攻略後もお告げがたびたび下されました。ここで問題となるのは、普段の序列では洪秀全が兄、楊秀清が弟であるものの、天父下凡のときはヤハウェが憑依した楊秀清が父となり、子の洪秀全を指導するという点です。
 この地位を利用して、楊秀清はNo.2の地位を確立し、ときに他の王を天父下凡を利用して笞刑に処すなど周囲に対しても高圧的に出ます。ただし、著者はこれを楊秀清の驕りというよりは軍事上の権力を掌握しながら、結果を出せなかった楊秀清の焦りと、その不安からさらなる専制を求めたものと解釈しています(これは袁世凱や毛沢東にも見られた中国の権力者のよくあるパターンとのこと(179p))。

 1856年8月、楊秀清は天父下凡を行い、洪秀全に対し、洪秀全にしか認められていなかった「万歳」の称号を楊秀清にも認めるように迫ります。このとき、洪秀全はそれを受け入れましたが、楊秀清に自らと同等の地位を与えるというお告げを受け入れるわけにはいかず、南京の外にいた韋昌輝と秦日綱に密かに楊秀清を殺すように命令を出し、楊秀清を殺害させ、東王府の兵や関係者は皆殺しにされました。
 帰還した石達開はこの楊秀清だけではなく関係者を皆殺しにした行いを責めますが、同時に見の危険も感じて南京を脱出します。この後、石達開は韋昌輝を殺すことを洪秀全に要求し、洪秀全はこれを受け入れ、韋昌輝を殺し、秦日綱も殺されます。
 石達開は楊秀清に代わって政務を担当することになりますが、洪秀全の兄などから圧力にいたたまれなくなり、軍を率いて、江西から浙江、福建へと移動し、最終的に広西の地に戻りますが、最終的には捉えられて殺されました。こうして洪秀全を支えた5人の王はすべていなくなったのです。

 普通ならこの内部崩壊によって終わるところですが、ここで太平天国はしぶとく盛り返します。南京周辺も危うくなった洪秀全は兄の王号を剥奪し、陳玉成、李秀成、李世賢らに主将として兵を率いさせますが、彼らの活躍によって再び包囲網が破られます。
 さらにこの頃には洪秀全のいとこで香港に逃れていた洪仁玕が合流します。洪仁玕は干王と軍師の地位に任命され、外国との通商や産業の育成など近代化政策に着手します。さらに太平天国の教義をオーソドックスなキリスト教に近づけることでヨーロッパ諸国との条約締結を目指しました。
 一方、李秀成の軍は杭州、そして蘇州に勢力を広げ、蘇州の一帯を支配し始めます。ただし、洪仁玕が企図した上海のヨーロッパ勢力との交渉はうまくいきませんでした。
 
 この頃になると洪秀全は夢のお告げに従ってさまざまなことを行うようになり、太平天国の国号を「上帝天国」、さらに「天父天兄天王太平天国」に改めますが、こうした洪秀全に対し、李秀成らの諸王は自立する姿勢を強めました。
 1861年9月に安慶が陥落し、長江中流域の支配権を失った太平軍ですが、浙江へ進出し、なおしばらく勢力を維持します。特に李秀成は江蘇東部と浙江西部を支配し、ヨーロッパ商人から鉄砲を購入し、傭兵を雇いました。ただし、軍紀の低下は深刻で、創設当時の軍律の厳しさは失われていました。

 1861年8月に咸豊帝が死去すると西太后と咸豊帝の弟だった恭親王の奕訢がクーデターを起こして実権を掌握します。彼らは欧米列強の力を借りて太平天国を鎮圧する方針を決め、62年になると英仏軍や常勝軍と言われる中国人の傭兵部隊が太平軍と戦うようになります。
 太平軍はこうした列強の支援を受けた軍と曽国藩の湘軍に挟撃されるような形になり、62年5月には湘軍が南京へと迫ります。李秀成率いる軍による反撃も失敗し、李秀成は南京に戻り洪秀全に南京を脱出するように求めますが、洪秀全はこれを拒否し、64年の6月に南京が飢えに苦しむ中で病気で亡くなります。そして7月には南京が陥落し、太平天国は終りを迎えました。

 このように本書は波乱に富んだ太平天国の興亡を教えてくれのですが、それだけではなく、その興亡を中国の社会や歴史に重ね合わせているところが特徴です。
 「結論」でも述べていますが、洪秀全と5人の王による分権的な統治を目指した太平天国は、結局はそれを維持できずに血に塗れた天京事変を引き起こしました。そして、後の中国の権力者はこうした内部分裂を防ぐためにさらなる権力の集中を目指すのです。また、キリスト教という「西洋」との出会いが太平天国の乱という巨大な内戦と結びついたという点も、中国にある種の「内向き」な姿勢をもたらしたと言えるかもしれません。
 中国における近代、中国のおける西洋、そして中国の社会構造など、さまざまなことを考えさせてくれる歴史書だと思います。