ミャンマーから隣国のバングラデシュに大量のムスリムが難民として流出しているロヒンギャ問題。この問題がノーベル平和賞を受賞したアウンサンスーチーが率いるNLDの民政化で起きたことも世界に衝撃を与えました。「ジェノサイド」との訴えもあるロヒンギャへの弾圧とノーベル平和賞というのは、いかにも釣り合いがとれないものだからです。
 本書は、「そもそもロヒンギャとはどんな人びとなのか?」、「ミャンマーにおいて、なぜムスリムが敵視されるようになったのか?」、「長く続いた軍政はこの問題をどのように扱っていたのか?」、「なぜ民政に移管されてから軍事的な衝突が起きたのか?」、「アウンサンスーチーは、なぜ弾圧を止められなかったのか?」といったさまざまな疑問に答えてくれる本です。
 「あとがき」の日付に「2020年11月」と書いてあるので、本書は2021年2月1日に起きたミャンマーのクーデタについては一切触れていません。ただし、独立後のミャンマーの動きを描いた本書の記述はクーデタの背景を理解する上でも非常に有益なもので、ミャンマー情勢の理解にも役立ちます。
 

 目次は以下の通り。

序章 難民危機の発生
第1章 国民の他者―ラカインのムスリムはなぜ無国籍になったのか
第2章 国家による排除―軍事政権下の弾圧と難民流出
第3章 民主化の罠―自由がもたらした宗教対立
第4章 襲撃と掃討作戦―いったい何が起きたのか
第5章 ジェノサイド疑惑の国際政治―ミャンマー包囲網の形成とその限界
終章 危機の行方、日本の役割

 ロヒンギャとは、ミャンマー西部のバングラデシュと国境を接するラカイン州に住むチッタゴン訛り(チッタゴンは国境を越えたバングラデシュ側の地名)のベンガル語を母語とする人びとを指します。ただし、この言葉は1950年代から使われるようになった言葉であり、またミャンマー政府は彼らをベンガリーと呼んでいます。
 これは彼らがベンガル生まれ(つまり外国生まれ)で不法に入国してきたということを強調するためのもので、ミャンマー政府は彼らに国籍を与えていません。ミャンマーには他にもムスリムが住んでいますが、ロヒンギャは国籍がないという点で他のムスリムと区別されています。

 さらに複雑なのは、ラカイン州はミャンマーにおける少数民族であるラカイン人が人口の3/4を占める地域であり、ロヒンギャさらにその中でのマイノリティでもあるということです
 また、ラカイン州はミャンマーの中でも貧しい地域なのですが、その中で輪をかけて貧しいのがロヒンギャです。

 そのロヒンギャは2017年8月以降、難民として隣国のバングラデシュに流出しています。4ヶ月で68万人ほどが難民となり、以前からの難民やUNHCRが把握していない難民を含めると100万人ほどが難民になっていると見られています。

 ラカイン州の一帯は15世紀に成立したムラウー朝が18世紀の後半まで支配していました。ムラウー朝はムスリムも受け入れ、この時期にラカインにムスリムが入ってきたと考えられます。
 1784年、ムラウー朝はビルマ人の王朝であるコンバウン朝によって滅ぼされますが、コンバウン朝のラカイン支配はイギリスの侵攻によって終わりを告げます(第一次英緬戦争)。1826年、イギリスはコンバウン朝からラカインの割譲を受けました。
 1852年に第二次英緬戦争が起きると、イギリスはエーヤワディ川の下流域を領有するようになり、英領ビルマが成立します。イギリスはやがてビルマ全域を支配するようになりました。
 
 イギリスはミャンマーをインドの一部として統治しましたが、この統治によってミャンマーの社会は大きく変化します。
 まず、エーヤワディ・デルタにラングーン(現ヤンゴン、以下ヤンゴン表記)をつくって支配の拠点とし開発を行ったことで、デルタ地帯に人口が集まるようになります。習慣や言語が違う人々が暮らすようになり、「複合社会」と呼ばれる社会が生まれました。
 さらにインド系や中国系の人々が入ってきて金融や流通の分野で存在感を示すようになります。1920年代のヤンゴンの人口の約半数がインドからの移民だったといいます。ラカインにもインド系の移民が入ってきますが、ヤンゴンの移民の中心がヒンドゥー教徒だったのに対して、ラカインに入ってきたのはムスリムが中心でした。彼らは都市ではなく農村に定着し、仏教徒と住み分けるような形で村を作りました。

 こうした植民地支配の中でミャンマー・ナショナリズムが勃興してくるのですが、複雑な民族構成をもつミャンマーでは結集の核はやや曖昧で、「アミョー・バーダー・ターダナー」(「民族・言語・仏教」)という言葉が用いられました。「民族」、「言語」に関しては、多数は民族のビルマ人、ビルマ語が想定されましたが、モン人やラカイン人などは「仏教」で包摂されました。
 具体的にどこまでミャンマー・ナショナリズムに包摂されるのかは難しい問題でしたが、含まれない存在は常にはっきりしており、それがインド系移民であり、特にムスリムでした。
 1930年と38年に大規模な反インド暴動が起きていますが、この背景にはインド移民が富と仏教徒の女性を奪っているとのミャンマーの人びとの認識がありました。

 太平洋戦争が始まると日本軍がミャンマーに侵攻します。日本の支援を受けたアウンサンのタキン党はビルマ独立軍(BIA)を結成して、この戦いに加わりますが、仏教徒を中心としたBIAの拡大がラカインでの仏教徒とムスリムの衝突につながります。さらに英軍が反撃に転じると、ラカインのムスリムはこれに協力しました。日本とイギリスの衝突の中で、仏教徒とムスリムの対立が深まったのです。

 日本の敗色が濃厚になると、アウンサンは抗日戦争を起こし、イギリスからの独立を目指しますが1947年7月19日に凶弾に倒れます。その後、48年の1月に独立をはたしますが、国土は戦争で荒廃し、治安維持さえもままならない状態でした。
 ラカインでも独立を求めるラカイン人の運動や、東パキスタンとの統合をめざすムスリムの武装闘争などが起き、混乱が続きますが、54年までに政府軍がこの地域を押さえます。このころにラカインに住むムスリム全体を表すものとして「ロヒンギャ」という言葉が生まれました。

 1962年の軍事クーデタによってミャンマーは軍事政権となります。ネーウィン将軍を中心とする軍事政権は社会主義に基づく独自の政治経済体制の建設を目指しました。
 社会主義を掲げながらもネーウィンはソ連や中国とも距離を取り、政党は禁止され、省庁の幹部には軍人が就きました。また、独立を志向する地方が離反しないように中央集権制が強化されました。
 
 1988年、ネーウィンは抗議活動の広がりを受けて引退を決断しますが、ソーマウン将軍率いるクーデタが起こり、軍事政権は続行します。この軍事政権は民主化を約束しながら、憲法も議会もないままに20年以上続きます。
 最高意思決定機関である国家法秩序回復評議会に立法権と執政権が集中し、この議長と国軍最高司令官を92年から兼務しつづけたタンシュエ将軍が権力を握りました。

 このネーウィンとタンシュエの時期、ロヒンギャに対しては排除と管理の強化が進みました。
 ネーウィンは「タインインダー」という言葉を使ってミャンマーの国家としてのまとまりを維持しようとしました。タインインダーは「もともとこの国に住んでいた人」といった意味で、土着民族を指します。
 ミャンマーがイギリスに支配される以前は土着民族がいたが、植民地支配によって富は奪われ、文化は奪われた。だから独立後は土着民族の団結が重要であるというロジックです。
 ここで排除されたのが中国系やインド系の移民であり、ロヒンギャでした。
 国籍法は改正され、「国民」以外に「準国民」、「帰化国民」といったカテゴリーが作られて権利が制限されました。ロヒンギャは本来土着民族のはずでしたが、当初あった「ラカイン・チッタゴン」という民族は土着民族から外され、帰化国民として国籍を申請せざるを得なくなります。

 1971年、東パキスタンがバングラデシュとして独立した際に、ラカイン州にも多くの難民が流入したと考えられています(一説には50万)。この後、どれほどの難民が帰還したのかはわかりませんが、ミャンマー政府やミャンマー人は多くのムスリムが不法に定着していると考えました。
 78年にはナガーミン作戦と呼ばれる不法入国者の取り締まりが行われ、軍事衝突も起きた結果、100万人を超える人々が逮捕され、約20万人がバングラデシュに逃れたとされています。
 91〜92年にかけてもミンアウン作戦と呼ばれる、ロヒンギャの反政府武装組織に対する軍事作戦が行われ、約25万人がバングラデシュに逃れました。その後の交渉で19万人が帰還したとされていますが、ロヒンギャの名を国際社会に知らしめた事件ともなりました。
 また、ラカイン人は、ビルマ人中心の中央政府に反発しつつ、同時にロヒンギャに対しても厳しい警戒感を持ちつづけることになります。

 ミャンマーでは2011年から民主化が進みます。2011年3月にテインセインが大統領に就任し、タンシュエが権力を失います。この変化の背景に関してはわかっていないことも多いですが、08年の憲法改正で軍が一定の影響力を維持する仕組みが整ったこと、テインセインの個性、アメリカの対ミャンマー政策の変化などが理由として考えられています。
 言論の自由化も進み、インターネットとスマートフォンも普及しました。国民の多くがFacebookを利用するようになり(2020年で人口の約40%が利用)、ロヒンギャの間ではワッツアップの利用が進みました。

 しかし、こうした中で2012年にコミュナル紛争が起こります。コミュナル紛争とは民族や宗教を異にする共同体同士の衝突ですが、12年5月にラカイン州で起きたラカイン人女性に対するロヒンギャ男性を集団暴行事件をきっかけに、仏教徒とロヒンギャの衝突が起きたのです。
 6月にはラカイン州に夜会外出禁止令も出されますが、8月に再燃し、192人が犠牲になり、8600の家屋が破壊されたと言います。さらに2013年になると、この対立はラカイン州以外にも拡大しました。各地でムスリムと仏教徒が衝突し、ムスリムの商店やモスクが破壊される事態が相次いだのです、
 ここまで衝突が拡大した背景には、民主化によって集会や動員が可能になった、ネットの普及(最初のラカイン州の集団暴行事件では殺された女性の遺体の写真がネットで出回った)、治安機関に対するロヒンギャ、ラカイン人双方の不信、といったものがあります。

 さらにこの対立をエスカレートさせたのが、仏教ナショナリズムの台頭です。
 ムスリム商店に対する不買運動が起こるとともに、政治僧とも呼ばれる一部の仏教僧の反イスラーム的な活動が目立つようになりました。ミャンマーでは一時的な出家も合わせると30万人近い僧侶がおり、強い影響力を持っています。仏教僧たちは「民族宗教保護教会」(通称マバタ)と呼ばれる組織をつくり、改宗や仏教徒の女性と非仏教徒の男性の婚姻を規制する法、一夫一婦制励行法などがつくられました。
 一方、2016年に発足したスーチー政権は、コフィー・アナンを委員長とするラカイン州諮問委員会を設置するなど、ラカイン州の問題に取り組む意思も見せていました。

 そうした中で起こったのが、2017年8月から始まった武力衝突です。
 ロヒンギャ側の武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)が警察と国軍の施設を襲撃したことから始まっていますが、このARSAのリーダーはアタウッラー・アブ・ジュニヌというパキスタンのカラチ生まれの男で、父親がロヒンギャになります。彼は2012年のコミュナル紛争を機にラカイン州のロヒンギャ問題に関心を持ち、イスラーム系武装組織の訓練を受けたといいます。
 このARSAの実態については謎も多いですが、ARSAは2016年10月に国境警察の施設などを襲撃しています。ARSAはこれを「ジハード」だと称しました。

 そして2017年の8月25日にさらに大規模な襲撃が起き、それに対して国軍が軍事作戦を展開することになります。
 この一連の流れについては謎も多いのですが、本書ではUNHCRが設置した独立国際事実解明ミッション(IIFFM)とミャンマー政府が設置した独立調査委員会(ICOE)の報告書をもとに事件を再現しています。後者は信頼できないという見方もあるでしょうが、日本人外交官で国連事務次長も務めた大島賢三が参加しており、IIFFMができなかったミャンマー国内での調査も行っています。
 
 事件は、ARSAによる襲撃、国軍・警察によるスーチーが中止を命じるまでの9月4日までの掃討作戦、9月5日以降の軍事作戦の三段階に分かれます。
 まず、第1段階ではARSAは現地の村人なども動員して大規模な襲撃を行いました。この動員の背景には宗教指導者によるはたらきかけがあったようです。
 第二段階では、掃討作戦の中でロヒンギャの家屋などが国軍によって破壊されました。村人に対する無差別発砲などもあり、IIFFMの報告書によれば性的暴力もあったとのことです。そして多くのロヒンギャがバングラデシュへと逃れました。
 アウンサンスーチーは9月5日以降に掃討作戦は実施されていないとしましたが、5日以降もラカイン人によるロヒンギャの村への襲撃はつづいたようで、多くの難民が発生しました。
 一連の衝突の中で、IIFFMは少なく見積もっても1万人、ICOEの報告でも2000人ほどの死者が出たと見られています。

 2019年12月、アウンサンスーチーはこの問題で国際司法裁判所の法廷に立ちました。ガンビアが告発したジェノサイド条約への違反に対して反論するためですが、この法廷に実質的な国家元首が立つのはきわめて異例のことです。
 スーチーはジェノサイドについては否定しましたが、国軍の残虐行為については暗に認めました。しかし、ジェノサイドを否定したスーチーを海外メディアは辛辣に批判しました。

 スーチーは2015年の選挙で圧勝したものの、国軍との協力は難しく、国軍との対話や対立を避けるスタンスをとるようになりました。ミャンマー政府は一種の分断政府であり、国軍との関係を悪くすればスーチー政権自体が危ういのです(そしてその危惧は今年2月のクーデタで現実のものとなった)。
 国際社会はロヒンギャ問題でミャンマー政府への圧力を強めましたが、これに対してミャンマーではスーチー支持のナショナリズムと仏教ナショナリズムが高まりました。ロヒンギャ問題で欧米に同調しないスーチー政権は2020年11月の選挙で大勝しています。
 
 ロヒンギャ問題の根は深く、たとえ帰国が実現しても、今度は彼らの国籍問題が立ちはだかりますし、ラカイン人との和解も課題となります。
 終章で、著者はミャンマー政府を批判するだけでなく、日本がこの問題に関与していくことが重要だと指摘していますが、それもクーデタによって難しくなってしまいました。

 このように本書はロヒンギャ問題の難しさだけではなく、ミャンマーという国家の抱える難しさも教えてくれる内容となっています。クーデタによってロヒンギャ問題へのアプローチは暗礁に乗り上げてしまった感もありますが、それでも本書に読む価値があるのは、ミャンマー社会の複雑さと、その中で最も排除されているロヒンギャについて知ることで、他の国にも通じる統合と排除のメカニズムを学ぶことができるからです。