世界恐慌に際してアメリカの大統領となり、ニューディール政策を推し進め、第2次世界対戦を戦い、史上唯一4選を果たしたフランクリン・ローズヴェルトの評伝。
 比較的オーソドックスな感じで、ローズヴェルトの周囲の女性との不倫関係を指摘している所以外は、従来の評価にチャレンジしているような内容ではないのですが、手軽に読める評伝のたぐいがあまりなかっただけに価値ある本なのではないかと思います。
 ローズヴェルトの性格や政治スタイル、そして後世に大きな影響を与えたニューディール政策の内実や、民主党の支持基盤としてのニューディール連合の形成、さらに妻のエレノアの大きな役割など、重要なポイントがわかる内容になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 名門に生まれて
第2章 政治の世界へ
第3章 大恐慌に立ち向かう
第4章 ニューディールの新たな展開
第5章 第二次世界大戦の舞台へ
第6章 最高司令官として
終章 ローズヴェルトの遺産

 フランクリン・ローズヴェルトは1882年にニューヨーク州のハイド・パークに生まれています。ローズヴェルト家は名門で、フランクリンが生まれたハイド・パーク系とセオドア・ローズヴェルトが出たオイスターベイ系がありましたが、オイスターベイ系の方が裕福で、著名人も多く輩出していました。
 父のジェームズと母のサラは26歳差があり、フランクリンが非常に難産で、医師からもうこれ以上子どもを産まないように言われたため、一人息子となりました。父のジェーズムはフランクリンが9歳のときに心臓発作を起こして床に伏すことが多くなり、サラはすべてのエネルギーを一人息子に注ぎました。

 ローズヴェルトは14歳まで家庭教師のもとで勉強し、そこからグロートン校という全寮制の私立の男子校に進みます。
 ただし、ローズヴェルトは編入生だったこともあり、周囲にあまり溶け込めなかったようです。成績も平凡で、抜きん出たところはありませんでした。

 グロートン校を卒業すると、ローズヴェルトはハーヴァード大学に入学します。勉学にはそれほど熱を入れず、一番熱心に取り組んだのは大学の日刊新聞『クリムゾン』の編集者としての活動でした。最終学年には編集長も務めています。
 そして、ハーヴァード在学時に後に妻となるエレノアと出会っています。エレノアはセオドア・ローズヴェルトの姪にあたる人物でフランクリンの2歳年下でした。エレノアは社交界の女性としては背が高すぎ、ダンスも上手くありませんでしたが、知的で自分の考えをしっかりと持っており、ローズヴェルトはそこに惹かれました。母の反対もありましたが、2人の熱意に根負けし、1905年にセオドアが立会人を務め結婚式が開かれました。
 
 ハーヴァードを卒業後、ローズヴェルトは弁護士になります。弁護士になりたかったというわけではなく、ローズヴェルト家の財産の管理に弁護士資格があった方が良いというような消極的な理由からでした。
 弁護士の仕事にやりがいを感じていなかったローズヴェルトは、1910年のニューヨーク州議会選挙で民主党から上院議員の候補として誘われ、立候補します。
 とりたてて政策を持たなかったローズヴェルトでしたが、農民票を取るためにりんごの樽を標準樽に統一するという公約を打ち出し、共和党が強かったNY州の農村地帯で勝利しました。
 NY州上院議員の時にローズヴェルトはのちに腹心となるルイス・マックヘンリー・ハウと出会っています。新聞記者だったハウはローズヴェルトの素質を見抜き、NY州の政治やメディア対応などを教え込みました。
 
 1912年、ローズヴェルトは31歳の若さで海軍次官に抜擢されます。これは民主党の有力な支援者でローズヴェルトを高く買っていたジョセファス・ダニエルスが、ウィルソン大統領の誕生とともに海軍長官に任命されたことから行われた人事でした。
 この海軍次官時代に第一次世界大戦が起こります。ローズヴェルトは自分が必要だと判断したことは規則にとらわれずに実行し、またメディア対応にも熱心だったことから、世間的な評価は高まりました。一方、妻のエレノアに不倫がばれて、夫婦仲は冷えていきます
 ローズヴェルトは第一次世界大戦を挟んで7年間海軍次官を務め、1920年の大統領選では民主党候補のジェームズ・コックスの副大統領候補となり、ウィルソンの革新主義の継続を訴えましたが、共和党のハーディングに大差で敗れています。

 さらに1921年の夏にローズヴェルトはポリオに罹りました。ポリオは子どもが多くかかる病気で小児麻痺の原因ともなります。ローズヴェルトも1年におよぶ闘病生活の末、何とか回復したものの、足に筋肉はほとんど失われ、移動するときは松葉杖をつくか、車椅子に乗るか、誰かに抱きかかえてもらうしかありませんでした。
 この病気はローズヴェルトにとって大変なものでしたが、民主党が劣勢だった20年代に政界を離れてたことはのちにプラスにもはたらきました。

 1928年の大統領選にNY州知事のアルフレッド・E・スミスが民主党から立候補すると、後任としてローズヴェルトの名があがります。病気の治療などを理由に断りを入れたローズヴェルトでしたが、本人の同意がないまま知事候補に指名されてしまいます。指名が決まるとローズヴェルトは全力で選挙戦にのぞみ、僅差で勝利しました。
 そして、NY州知事として大恐慌をむかえます。ローズヴェルトは失業者の救済や社会福祉プログラムを整備するなど、積極的な対策をとりました。

 1932年の大統領選においてローズヴェルトは民主党からの立候補を決意します。ローズヴェルトに反発する人びともいましたが、ラジオ演説での「経済的なピラミッドの底辺にいる忘れられた人」(70p)という言葉は人びとの心を掴みました。
 党大会で指名を受けると、それまではあえてすぐには受諾しないという慣習がありましたが、ローズヴェルトは飛行機で乗り付けてすぐに受諾演説を行い、ここで「ニューディール」という言葉を使っています。
 大統領選挙の本選では、57%の得票率で共和党のフーヴァーを破りました。就任演説では「恐れなければならないのは、恐怖心そのものだけだというのが、私の固い信念です」(79p)との有名なフレーズを含んだ演説を行い、強いリーダーシップを示しています。

 ローズヴェルトはハル国務長官などの民主党保守派、ウォーレス農務長官やイッキーズ内務長官といった共和党革新派を入閣させ、財務長官には友人のモーゲンソー、労働長官にはNY州時代からの側近であったパーキンズを史上初の女性閣僚として入閣させています。
 また、学者や政治家によるブレーントラストと呼ばれるアドヴァイザー組織をつくり、そこでの議論を尽くさせてローズヴェルトが判断するというスタイルをとりました。執務室に朝から晩までいることはなく、自分のペースを貫いたといいます。
 また、ローズヴェルトはメディア利用に長けた政治家で、炉辺談話というラジオ番組を使って国民に直接語りかけ、記者会見も週2回定期的に行いました。

 大統領に就任したローズヴェルトは矢継ぎ早に政策を打ち出します。銀行の一時閉鎖を行って、人びとへの金融不安を鎮めると、銀行法と証券法を成立させて銀行業務と証券業務の兼業を禁止し、連邦預金保険会社を設立して一定額の預金を保護しました。
 一方、ローズヴェルトは均衡財政の支持者でもあり、省庁の統廃合や連邦職員や議員、大統領の給与の削減、恩給の削減も行っています。禁酒法の廃止も行いますが、これには酒税収入を期待した面もありました。

 ローズヴェルトは大恐慌の原因を過剰生産に見ており、それに対応するために農産物の過剰生産を止めるための農業調整法(AAA)、製品の価格と賃金の下落を防ぐための全国産業復興法(NIRA)が制定されます。
 また、失業対策としてテネシー川流域開発会社(TVA)法に基づいた公共事業を行い、森林管理や治水事業などを行う市民保全部隊(CCC)をつくりました。さらに連邦緊急救済法を制定し、連邦緊急救済局の主導のもとで失業者に職を与える仕組みがつくられました。1935年には雇用促進局(WPA)も設立されますが、こうした政策の背景には、仕事をすることが重要であり、直接的な現金給付は「麻薬のように、人間の精神を巧みに破壊する」(108p)との考えがありました。
 
 ローズヴェルトは南部民主党の反発を恐れて反リンチ法や公民権法の制定には消極的でしたが、WPAの黒人アーティストへの支援は黒人文化の発展に大きな影響を与えました。また、当初は女性は排除されていましたが、エレノアの尽力などもあり、女性にも仕事が割り当てられるようになりました。
 社会保障法による社会保障の整備も進みましたが、失業保険、老齢年金保険は実現しましたが、医療保険は実現しませんでした。ただし、農業労働者や家内労働者が除外されたために、これらの労働に従事することが多かった黒人の大半は制度の外に置かれることになります。
 ニューディールは次第に「左旋回」し、社会的な弱者の救済に力を入れるようになりましたが、これにはエレノアの影響があったと言われています。エレノアは夫に代わって全米を回り、さまざまな階級の人びとと親しく交わりました。

 1936年の大統領選の前に腹心のハウが亡くなるという不幸に見舞われましたが、本選では「彼ら」(=資本家)と「我々」という二分法を用いた戦略で圧勝します。
 ただし、2期目は最高裁の改革(事実上70歳定年制を導入する)で挫折し、さらに均衡財政を目指して財政支出を削減したこともあって37年半ば以降、景気は再び悪化します。ローズヴェルトは独占資本を批判しますが、経済運営では厳しい局面が続くことになります。

 外交面ではローズヴェルトはラテンアメリカ諸国との間で善隣外交を進め、フィリピンの独立を承認し、1933年にソ連を承認しました。
 一方、国内では第一次世界大戦においてアメリカの実業家が莫大な利益を上げたことがナイ委員会によって明らかにされたこともあって、35年に中立法が制定されます。これはヨーロッパで広がるファシズムの動きに対抗したかったローズヴェルトにとって大きな足かせになりました。

 1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発します。ローズヴェルトは中立法の改正に動き、「現金・自国船」方式であれば英仏への武器の供給を可能にさせました。
 英仏軍がダンケルクに追い詰められ、イタリアがフランスに宣戦すると、ローズヴェルトは陸軍長官にスティムソン、海軍長官にノックスを任命します。彼らは共和党の大物で、ニューディールを支持したこともありませんでしたが、ローズヴェルトは孤立主義を抑え込むことを優先したのです。

 1940年の大統領選に向けて、当初ローズヴェルトは3選に消極的でしたが、自らの考えを受け継ぐことができる候補者がいないとなると、出馬し勝利を収めます。
 ローズヴェルトは当選すると、「我々は偉大な民主主義の兵器廠にならなければなりません」(175p)と訴えて、武器貸与法を成立させ、イギリスへの支援を本格化させます。さらに武器貸与の対象を中国に、独ソ戦が始まるとソ連に拡大しファシズムへの対抗姿勢を示しました。
 41年8月には密かに大西洋を渡ったチャーチルと会談し、大西洋憲章を発表します。戦後秩序に関する内容が中心でしたが、アメリカの戦争への関与については触れられていませんでした。

 1940年に日独伊三国同盟が結ばれ、日本が枢軸側につくことが明確になります。ローズヴェルトは駐米大使の野村吉三郎と旧知の間柄であり、日本との交渉は可能だと考えていましたが、41年の南部仏印進駐が行われると、ローズヴェルトは在米日本資産の凍結で応じます。さらに、ローズヴェルトの意図ではなかったものの、これによって日本への石油輸出も禁止されることになります。
 41年10月に東条英機が首相になると、交渉の余地はほとんどないと判断し、ハル・ノートを日本側に示しますが、12月6日には昭和天皇に向けて親書を出して戦争の回避を訴えています。

 しかし、12月7日に真珠湾が攻撃され、アメリカは戦争へ突入していきます。
 ローズヴェルトはチャーチルとのアルカディア会談で「ヒトラー・ファースト」の方針を決め、英米ソ中の4カ国により連合国共同宣言が出されることになります。朝から晩まで酒を飲み、深夜に執務を行うチャーチルの仕事のスタイルはローズヴェルトは全く違ったものでしたが、大きな方針から決めていく2人のスタイルは共通していました。

 42年になると、太平洋ではミッドウェーで日本に打撃を与え、北アフリカでドイツに対する反抗が始まります。
 43年1月にはモロッコのカサブランカでチャーチルとの会談が開かれます。2人は独伊日が無条件降伏するまで戦争を継続させることで暫定的に一致しました。このようにチャーチルとは「合った」ローズヴェルトですが、ド・ゴールのことは植民地の回復を目指している男だとして嫌っていました。

 アメリカでは軍需生産が拡大し、景気は回復します。黒人や女性が新しい労働力として期待され、南部の黒人が北部の工業都市に移動し、農村ではメキシコから季節労働者を受け入れるプログラムがスタートします。
 こうした中でエレノアも積極的に動きます。日系人の収容に反対していたエレノアは、周囲の反対を押し切って日系人の強制収容所を訪れて日系人たちと交流し、ガダルカナルなどの戦地の慰問へも出かけました。
 
 43年11月にローズヴェルトはカイロでチャーチル、蒋介石と、テヘランでチャーチル、スターリンと会談します。特にテヘランでは戦後のヨーロッパの問題が話し合われました。
 44年の3月にローズヴェルトは体調を崩し、心臓の問題が明らかになりますが、戦争が継続中であったことから大統領選への出馬を決意します。
 44年9月のチャーチルとのケベック会談では、ドイツの非武装化と工業地帯を国際管理下に置くというモーゲンソーの提案が話し合われます。チャーチルはこれに反対しますが、ローズヴェルトは基本的に賛成していました。ただし、これがメディアに漏れると強い批判を受け、ドイツに関する協議は先送りされます。

 44年11月の大統領選に勝利し、ローズヴェルトは4戦を果たします。ただし、就任式直後に孫たちに遺品の形見分けをするなどローズヴェルトは自ら死期が近いことを悟っていました。
 2月にヤルタ会談では、チャーチル、スターリンと戦後のドイツやポーランドの処理、国際憲章の草案、ソ連の対日参戦が話し合いました。原爆はまだ未完成で、ローズヴェルトは日本を降伏させるためにソ連の参戦が欠かせないと見ていました。
 そして、45年4月12日、ローズヴェルトは脳内出血で63年の生涯を閉じています。

 終章に書いてあるように、共和党のレーガンや初の黒人大統領となったオバマがローズヴェルトをなぞるようなスタイルを取ったことから、アメリカ大統領のある種の理想と位置づけられることになりました。
 さらに本書を読むと、エレノアもまた、のちのファーストレディの理想を体現していると思います。足が不自由になった夫の代わりに広く社会をまわったエレノアがいたからこそ、長期政権になっても致命的なバランスを失うことがなかったのでしょう。
 何か鋭い批判的な視点を持った本ではないかもしれませんが、ローズヴェルトの業績とその「強み」がわかる内容になっています。