ヨーロッパに焦点を当てた冷戦の通史なのですが、何と480ページを超えるボリュームです。
 冷戦と言えば、アメリカとソ連の対立であり、その対立はヨーロッパだけではなく、アジア、中南米、アフリカにも及びました。そうした中でヨーロッパだけでここまで語ることがあるのか? と疑問に感じる人もいると思います。
 しかし、本書を読めば、これだけの紙幅を費やす意味が理解できるでしょう。ヨーロッパの冷戦には、米ソの対立だけではなく、大国としての外交を展開したかった英仏の存在がありますし、ソ連に首根っこを抑えられながらも自国の経済的な生き残りを模索した東欧諸国の動きがありますし、何といっても両大戦を引きおこしたドイツをどうするのかという問題がありました。
 本書は、米ソの単純な陣取り合戦ではないヨーロッパの冷戦を時系列的に追っていきます。北欧やバルカン半島など周辺地域の動きもコラムに入れており、堂々たる通史になっています。

 目次は以下の通り。
第1章 ヨーロッパの分断―一九四五~四九年
第2章 冷戦の軍事化と経済的分断―一九四九~五三年
第3章 二つのドイツと二つの同盟―一九五三~五五年
第4章 東西両陣営の動揺―一九五六~五八年
第5章 第二次ベルリン危機と同盟の分裂―一九五八~六四年
第6章 対話と軍拡の時代―一九六四~六八年
第7章 ヨーロッパ・デタント―一九六九~七五年
第8章 混在する緊張と緊張緩和―一九七六~八四年
第9章 終焉の始まり―一九八五~八九年
終章 ドイツ再統一とヨーロッパ分断の終焉―一九八九~九〇年

 これだけのボリュームを丁寧にまとめていくといくら文字数があっても足りないので、以下、いくつかのポイントに沿って紹介したいと思います。

 まずはスターリンの戦略について。
 スターリンは東欧諸国においていきなり共産主義政権を樹立するつもりはなく、ファシムズに抵抗する人びとを組織する「国民戦線」戦略をとりました。そのため共産主義のスローガンやプロレタリア独裁を語ることは抑えられました。
 しかし、この戦略はソ連への不信が強いポーランドではうまくいきませんでしたし、東ドイツでは共産党と社会民主党(SPD)を合同させた社会主義統一党(SED)をつくって西側地域への浸透を図るものの、西側のSPDがこれを拒否して失敗しました。
 ソ連は勢力圏を分けるという方向に傾斜していくことになります。

 この勢力圏を分けるという考えを受け入れていたのはイギリスのチャーチルですが、1945年7月の総選挙でチャーチルは下野し、労働党のアトリー内閣が誕生します。外交は外相のべヴィンが担当することになりますが、べヴィンはイギリスの世界戦略にとってソ連を驚異として捉え、ソ連への警戒心を強めていきました。
 また、アメリカもローズヴェルトからトルーマンに大統領が交代する中で、厳しい対ソ政策をとっていくことになります。

 ヨーロッパの戦後処理の大きな問題はドイツ問題でしたが、ここでも各国の利害は対立します。
 できる限りの賠償をとりたいソ連、ドイツの無力化を望むフランス、占領負担軽減のためにドイツの経済的な自立を望んだイギリス、同じくドイツの経済復興を重視したアメリカと、各国の思惑には大きな違いがありました。
 アメリカがマーシャル・プランを打ち出すと、欧州の東西の分断はより鮮明になります。マーシャル・プラン自体はソ連を排除したものではありませんでしたが、アメリカと資本主義の浸透を恐れたソ連は、これに加わらず、同時に東欧諸国のマーシャル・プランへの参加も阻止しました(チェコスロヴァキアが参加を望んだがソ連の圧力で断念させられる)。
 そして、ドイツの東西分断も決定的になります。西側で行われた通貨改革に反発してスターリンはベルリン封鎖を行いますが、これはドイツにおけるソ連のイメージを損ねただけでした。統一ドイツを望んでいたスターリンでしたが、東側だけを勢力圏に置く形にせざるを得なくなったのです。

 イギリスのヘヴィンは英仏を軸とする西ヨーロッパ諸国による第三勢力を構想し、英仏協力を進めます。しかし、ソ連の脅威が強く認識されるようになるにつれ、アメリカ抜きの構想ではソ連に対抗できないという認識が強まり、アメリカを含めたNATOが結成されることになります。

 当初、ドイツの無力化を狙っていたフランスも、アメリカによる西ドイツの樹立の動きが明らかになると、軌道修正を迫られます。
 そこで、計画庁長官のジャン・モネの提案を受け、シューマン外相は石炭と鉄鋼の共同市場をつくり、それを超国家的な機関が管理するというプランを打ち出します。これが1951年の欧州石炭鉄鋼共同体の創設につながり、さらに欧州統合へとつながっていくのです。
 一方で、朝鮮戦争をきっかけにヨーロッパでも軍拡が進み、東西陣営の分断はさらに深まっていきました。

 東西に分裂したドイツにおいて、西ドイツを率いたのがアデナウアーでした。アデナウアーは中立ドイツという考えを断固として拒否し、東ドイツに対しても強硬な姿勢で臨みます。
 1953年の東ベルリン暴動が起こります。これは東欧の社会主義体制における初の大規模な異議申立てで、これ以降、ソ連は統一ドイツで社会主義体制が生まれることは期待できないと考え、「2つのドイツ」を基本方針とします。
 1955年のジュネーヴ四巨頭会談で東西対話の機運が生まれると、世論に後押しされる形でアデナウアーはソ連を訪問します。ドイツ再統一の道筋が見えない限り、ソ連との貿易協定に否定的だったアデナウアーでしたが、ソ連に戦争捕虜1万人の解放と引き換えに貿易協定を結ぶことを持ちかけられ、貿易協定を結ばざるを得なくなります。
 ソ連の策にはまったアデナウアーでしたが、新たに東ドイツと国交を結んだ国とは断交するというハルシュタイン・ドクトリンを打ち出し、ソ連の「2つのドイツ」政策にブレーキをかけようとします。
 実際に、このハルシュタイン・ドクトリンによって多くの国が東ドイツとの国交樹立を思いとどまり、東ドイツは外交的に孤立します。一方、西ドイツが東欧諸国と国交を樹立することも難しくなりました。

 1956年、東側のポーランドとハンガリーで体制を揺るがす事態が起こります。
 1956年のフルシチョフによるスターリン批判によって東側に衝撃が走ると、ポーランドとハンガリーでストライキやデモなどが起こり、指導部が交代します。ポーランドでは指導者になったゴムウカがソ連に忠誠を誓うと表明したために事態は落ち着きましたが、ハンガリーではナジがソ連軍の撤退を要求しました。一旦はこれを受け入れたフルシチョフでしたが、このままではハンガリーを失うと考えたフルシチョフは急転直下、軍事介入を行い流血の事態となりました。
 この軍事介入は、西ヨーロッパの共産党のソ連離れを加速させることになります。

 1958年、フルシチョフは平和条約によって西ベルリンの占領状態を終結させて、西ベルリンを非武装の自由都市にすべきだと訴えます。そして、西側がこれに応じなければソ連は東ドイツと一方的に平和条約を締結し、ベルリンに関するすべての権限を東ドイツに移譲すると脅しをかけたのです。これが第2次ベルリン危機の始まりです。
 これに対してイギリスのマクミランは59年に訪ソするなど融和的な政策を探りますが、フランスのドゴールやアデナウアーはフルシチョフのブラフだと見ていました。結局、この危機はベルリンの壁の建設で収束するのですが、このころからドゴールは独自の動きを見せるようになります。
 
 ドゴールはキューバ危機から、核時代には核兵器が使われることはないという教訓を引き出しました。それはアメリカは核兵器を使ってまでヨーロッパを守る意思がないという教訓でもあります。
 ドゴールによれば、ヨーロッパの常態は多極体制であり、冷戦体制がずっと続くことはないと考えていました。そのためドゴールは西ドイツに接近します。米英がソ連と頭越しに交渉することを警戒していたアデナウアーもこれに応じました。
 さらにドゴールはEEC6カ国(仏・西独・伊・ベネルクス)を米英支配に対抗するための基盤と位置づけて、6カ国の政治協力の枠組みの構築を狙います。しかし、ここでイギリスがEEC加盟の意思を見せたことで、イギリスの加盟を待ってから政治的な協力に踏み出すべきだとしたオランダやベルギーと対立し、ドゴールの構想は失敗します。ドゴールはイギリスの加盟申請を一方的に拒否し、さらに西ドイツとエリゼ条約を結んで接近するのです。
 
 一方、フルシチョフもコメコンを機能させてソ連と東欧の協力関係を強化しようとしますが、各国ごとに計画経済を行っている東欧諸国間の協力はなかなか進みませんでした。例えば、ポーランドは自国の石炭を東ドイツの工業のためにまわすよりも外貨獲得のために西側にまわそうとしましたし、経済発展が遅れていたルーマニアは農産物供給という役割が固定化されるとして、コメコン内の分業体制の確立に強く反対しました。
 結局、コメコン内の経済協力は大きく進展しないままに終わります。

 1963年、アデナウアーが辞任し、後任がエアハルトになると、親米的な路線を取るエアハルトとドゴールは合わなくなり、フランスと西ドイツの協力関係に亀裂が入ります。
 ドゴールは東側との対話路線をとるようになり、64年にソ連と通商条約を結び、同年にルーマニアが自主独立路線を取ると宣言すると、ルーマニアとの関係を深めます。ドゴールはいずれヨーロッパは多極体制になるとみており、ルーマニアの動きはその先触れだと考えたのです。
 ドゴールは66年にNATOの軍事機構から脱退し、パリにあったNATO本部の移転も要求します。
 しかし、68年にプラハの春が起きると、ワルシャワ条約機構軍による軍事介入が行われ、東欧諸国の変化を望んでいたドゴールは大きく失望することになります。

 ヨーロッパにおいて本格的にデタント(緊張緩和)が進むのは70年代になってからです。大きな転機となったのは1969年に西ドイツにおける政権交代でSPDのブラントが首相になったことです。
 ブラントは核拡散防止条約に調印し、くすぶっていた西ドイツの核武装論に終止符を打つと、ソ連のKGB議長アンドロポフとの間に非公式チャンネルをつくり、ソ連との交渉を進めます。そして、西ドイツがソ連にパイプラインを輸出し、ソ連が西ドイツに天然ガスを輸出するという協定を結びます。
 さらにブラントはハルシュタイン・ドクトリンを棚上げして東欧諸国との関係改善を進めました。ポーランドを訪れ、ワルシャワのゲットー記念碑の前で跪き、東ドイツとの間に互いを承認する条約を結びます。さらに、チェコスロヴァキアやハンガリー、ブルガリアとも外交関係を樹立し、「ドイツ問題」という東西対立の大きな要因を取り除きました。

 こうしてヨーロッパではデタントの流れが強まり、それは75年のヘルシンキ宣言に結実します。主権平等や内政不可侵、国境不可侵の原則といった、欧州の現状維持を望むソ連の要望が取り入れられると同時に、西側が重視した人権と基本的自由の尊重も盛り込まれました。のちに東側諸国はこのヘルシンキ宣言によって内側から揺さぶられることになります。
 
 70年代前半、このデタントを生かして東欧諸国は西側から技術や消費財などを輸入し経済を成長させました。しかし、この経済成長は西側からの融資によって成り立っており、これが石油危機によって大きな打撃を受けます。
 石油に関しては東欧諸国はソ連から特別価格で供給を受けていたために大きな問題は起きませんでしたが、西側への輸出は低迷しました。さらに80年代になりアジア諸国からの輸出が伸びてくると品質に劣る東欧の工業製品の輸出競争力はなくなります。

 70年代後半、ソ連が新型の中距離核ミサイルSS-20の配備を始め、さらに79年にアフガニスタン侵攻したことで、再び緊張が高まります。
 こうした中、1980年にポーランドで食肉価格の引き上げをきっかけに大規模なストライキが起こります。そして、「連帯」と呼ばれる自由管理労組の全国組織が誕生し、共産党の指導部が刷新されました。
 この運動は戒厳令によって抑え込まれるのですが、ソ連による軍事介入は行われませんでした。もはやソ連には軍事介入を行うだけの経済的な余力はなかったのです。
 
 1985年にゴルバチョフがソ連の書記長に就任します。ゴルバチョフは、もはやソ連に東欧諸国を支える力はないということを認識した上で、それまでの「二つの陣営」という考えを「ヨーロッパ共通の家」という考えに転換していきます。
 軍事・経済的に西側に対抗することが難しい以上、欧州全体の安全保障体制を作り上げることで、ソ連と東欧の安定を図ろうとしたのです。
 さらに86年のチェルノブイリ原発事故でソ連の官僚機構に決定的な不信感を抱いたゴルバチョフは核軍縮などにおいても軍の考えを抑え込む形で突き進んでいきます。

 このゴルバチョフの動きは、東欧諸国に戸惑いをもたらします。ゴルバチョフは、東欧諸国の自主性を尊重しつつ、同時に自らの改革にならってもらいたいという考えも持っていました。しかし、東欧諸国からするとソ連の本気度がどれほどのものか読めませんでしたし、東ドイツなどの改革志向のない国は改革に取り組もうとはしませんでした。
 86年に石油価格が暴落すると、ソ連は東欧諸国を重荷に感じるようになります。ゴルバチョフは東欧からの輸入を国際価格で行うとし、「友好国価格」を適応しない方針を打ち出しました。さらに東欧諸国の累積債務をソ連が肩代わりしないことも明言しました。
 これはソ連の東欧からの経済的な撤退であり、のちにその負担はEC(EU)に譲り渡されていくことになります。

 88年になるとポーランドで再びストライキが頻発し、89年1月に「連帯」が合法化されます。円卓会議の結果、共産党に有利な(下院の65%を自動的に獲得)選挙が行われることになりますが、89年6月の選挙では選挙の議席のほぼ全てを連帯が占めるという共産党にとって衝撃的な結果が出ます。そして、非共産党の首相が誕生することになるのです。
 ハンガリーでも改革が進みますが、この一環としてオーストリアとの国境を開放したことによって、多くの東ドイツ国民が西側に逃れていきます。

 ここから事態はベルリンの壁の崩壊→ドイツ統一へと大きく動きますが、この流れはアンドレアス・レダー『ドイツ統一』(岩波新書)でとり上げたので割愛します。
 ただ、本書を読んでもドイツ統一のスケジュールがすべてのプレイヤーの思惑を遥かに超えたスピードで進んだこと、イギリス、フランス、ソ連は統一ドイツを警戒したものの、アメリカの積極的な後押しが効いたことがわかります。
 こうしてヨーロッパの冷戦において最大の懸案であったドイツ問題が解決したことでヨーロッパの冷戦は終りを迎えるのです。

 このまとめでは触れられませんでしたが、他にも安全保障や軍縮をめぐる動きや東西対立と欧州統合の関係、そして周辺地域の動きなどが本書には盛り込まれています。
 さすがに厚すぎると感じる人もいるとは思いますが、「戦後ヨーロッパ政治外交史」だと考えれば、1冊にまとまっているということでコンパクトであると言えるのかもしれません。何にせよ野心的な1冊と言えるでしょう。