アコムのラララむじんくん、アイフルのチワワのくぅ~ちゃん、武富士ダンサーズ。一定以上の年齢の人であればテレビCMがサラ金(消費者金融)のCMによって埋め尽くされていた光景を覚えていることと思います。
しかし、このサラ金の隆盛は2006年に制定され10年から完全施行された貸金業法改正によって終わりを迎えます。
サラ金を扱った新書というと、日弁連の会長も務め都知事選にも出馬した宇都宮健児がその問題を告発した『消費者金融』(岩波新書、2002年)という優れた本がありました。しかし、本書はそうした告発のための本ではなく、あくまでもサラ金を歴史の対象として扱い、「なぜ拡大できたのか?」「どのような人が利用したのか?」「なぜ厳しく規制されるに至ったのか?」ということを読み解いています。
このサラ金の歴史からは、サラ金業者のイノベーションだけでなく、日本的雇用の変遷や戦後日本におけるジェンダーのあり方といったものも見えてきます。文句なしに面白い本ですね。
目次は以下の通り。
序章 家計とジェンダーから見た金融史第1章 「素人高利貸」の時代―戦前期第2章 質屋・月賦から団地金融へ―一九五〇~六〇年代第3章 サラリーマン金融と「前向き」の資金需要―高度経済成長期第4章 低成長期と「後ろ向き」の資金需要―一九七〇~八〇年代第5章 サラ金で借りる人・働く人―サラ金パニックから冬の時代へ第6章 長期不況下での成長と挫折―バブル期~二〇一〇年代終章 「日本」が生んだサラ金
本書の「まえがき」では、今までお金を借りられなかった貧しい人々にお金を貸して所得を増やす機会を与える「金融包摂」という考えが紹介されています。その成功性がムハマド・ユヌスがつくったグラミン銀行で、ユヌスはノーベル平和賞を受賞しています。
しかし、グラミン銀行の金利は年20%で、現在の大手サラ金よりも高いです。それなのに、一方は平和を促進したものとして評価される一方で、一方は社会の「悪」として批判されました。それはなぜなのでしょうか?
そして、そもそもサラ金は、なぜ貧しい人に融資をすることができたのでしょうか?
もともと、戦前には「素人高利貸し」という存在がありました。
1909年から神戸の貧民窟に住み伝道活動を行っていた賀川豊彦は、貧民窟には喜んで金を貸す、「男伊達」「侠客」と呼ばれる人物がいたと書いています。彼らは当然ながら裕福ではないのですが、ときには人から金を借りてその金を貸していました。その背景には、利子で儲けたいという思いとともに、相手に対して優位に立ちたいという「男らしさの顕示」のようなものがあったといいます。
この貧民窟の素人高利貸しは、2〜3層の構造になっていて、頂点にいる高利貸しのもとに、「使い」「走り」と呼ばれる複数の人びとがいました。実際に貸す金を用意するのは高利貸しで「使い」や「走り」は貸す相手を紹介し、管理することで手数料を受け取る存在です。
なぜこのような代理人が必要だったかというと、貧民窟の労働者の給与は低く、担保になるようなものもなかったので、貸した相手と毎日のように顔を突き合わせて管理できるかが貸した金を回収できるかどうかに直結したからです。
第一次世界大戦前後から、「サラリーマン」という言葉が使われ始めます。しかし、当時のサラリーマンは安月給で地位も不安定と見られており、金融機関に相手にされるような存在ではありませんでした。
そこでサラリーマンの間でも素人高利貸しは行われていました。1920年代になると副業として素人高利貸しを勧める本も登場しています。ここでもポイントは顔見知りに貸すことで、相手の給与や経済状況を知っていることが貸す際のポイントになりました。
この他、日本昼夜銀行のサラリーマン金融などがありましたが、総貸付額はそれほど伸びずに終わっています。
他にも庶民の資金需要を賄ったものとしては質屋があります。特に戦後はインフレが進んだこともあり、質草が貸金以上に上昇することも珍しくなく、踏み倒されたほうが儲かるといったこともしばしばでした。
戦前は民法によって既婚女性は夫の許可なく借金ができないことになっていましたが、戦後に民法が改正されると、主婦の質屋通いも増えてきます。また、戦後になると月賦販売も増え、特に団地では多くの電化製品がローンを組んで競って購入されました。
一方、政府は資金を産業発展のための融資に使うべきだと考えており、銀行などのフォーマルな金融機関が個人向け融資を行うことに否定的でした。
こうした中で1960年代に登場したのが団地金融です。
金を貸す難しさの1つに情報の非対称性があります。借りる側は自分の経済状況を把握していますが貸す側はそれを推測するしかないのです。しかし、当時は団地に入居するのは厳しい審査があり、団地に住むことは一定の収入がある証でした。
しかも、団地の住人は競って家電製品を購入しており、資金需要も十分にありました。
当時、多くのサラリーマン家庭で妻が家計を管理するようになっていましたが、団地金融の狙いはその妻に少額のお金を貸すことでした。多くが夫には内緒の借金であり、だからこそ、ばれないように熱心に返済しようとしたのです。
ただし、いくら家計を握っているのが妻とはいえ、その入口を握っているのは夫です。また、返済のあてというのも、妻は内職の賃金などたかがしれていましたが、夫にはボーナスや昇給といった大きな返済のあてがあります。
そこで、団地金融に代わってサラリーマン金融、いわゆるサラ金が登場します。戦前と違いサラリーマンの地位も安定し、しかも高度成長の中で給与は右肩上がりに伸びていくことが期待できました。
現在のアコムの前身であるマルイトは、木下政雄がつくった呉服店にルーツを持つ金融会社でしたが、1960年代前半に中小企業向けの手形割引や商人向けの信用貸しからサラ金に業態を変更しています。サラ金の方が金融引締めなどの影響も受けずに順調に回収できたのです。
では、サラリーマンたちは何のために金を借りたのでしょうか? プロミスの創業者・神内良一は(89p以下に神内の経歴が紹介されていますが、北海道開拓を志す→農事試験場で統計を学ぶ→組合活動にのめり込んでパージされる→キリスト教系の孤児院→紙芝居屋→金貸しという波乱万丈の遍歴)、「アルバイトサロン」と呼ばれる今のキャバクラのような場所で勢いに任せてお金を使ってしまい勘定ができなくなるサラリーマンたちをみて、彼らに現金を届けるサービスを思いついたと言います。
つまり、サラ金が応えようとした需要は娯楽費や交際費でした。レイクの創業者・浜田武雄は「明日の米を買う金は絶対に貸すな」(104p)との言葉を残していますが、サラ金は娯楽費や交際費を「前向き」な資金需要として捉え、そこにターゲットを絞ったのです。
飲み会のための借金などというとダメ人間のようですが、当時は出世競争が激しく、その選考方法は「情意考課」と呼ばれる周囲の人間からの「人間評価」的なものでした。そのために、飲み会やゴルフ・麻雀といった社内の付き合いが重要だったのです。
ですから、借金をしてでも飲み会に参加して部下におごるような人間には出生の見込みがありました。一方で、こうした金は家計を管理する妻からの理解を得られにくい金でもありました。だからこそサラ金は金を貸し、サラリーマンは金を借りたのです。
こうした急速に拡大したサラ金業者でしたが、拡大のネックになったのは資金の調達です。当時のサラ金は銀行からはパチンコ屋並みかそれ以下に見られており、小金を持っている個人から年利30%という高金利で調達している状況でした。
後発の武富士が業界トップの地位に就けたのは、武富士が早くから銀行との関係を構築することに成功したからです。
武富士の創業者の武井保雄は、敗戦後まもなくは不良グループに加わって銃撃を受けるなど半グレともいっていいような人物でしたが、ヤミ米取引などで成功し、金融業に進出します。
武井は資金調達のために徹夜徹夜で接待し、真っ青になった顔をよく見せるために熱湯で顔を洗って自分を売り込んだと言われていますが(132p)、その甲斐もあって東京相和銀行の長田庄一と昵懇の仲になり、東京相和銀行をメインバンクとして事業を急拡大させていきました。
しかし、サラ金の難しさは競争が激しくなってくると、より「危ない」客にもお金を貸さざるを得なくなってくる点です。
安定した企業に勤め、出世の見込みがあるサラリーマンの数は限られており、さらなる拡大のためには顧客を広げていく必要があるのです。八谷光紀が始めたヤタガイ・クレジットは、いざとなったら親が返すと踏んで学生ローンを始めています。
また、70年代になると、銀行も資金を持て余すようになってきており、各銀行はサラ金への融資へと動き出しました。
オイルショック後は、所得も伸び悩むようになり、生活費の穴埋めという「後ろ向き」の資金需要が増えます。主婦による借り入れも増え、プロミスが「奥様ローン」を発売するなど、サラ金のターゲットはサラリーマン以外にも拡大していきました。
ティッシュ配りが広まったのも女性の取り込みのためで、それまではマッチが配られていましたが、女性に手にとってもらうにはティッシュが適当であると考えられたのです。
顧客を拡大すれば、当然貸し倒れ率も上がってくるわけですが、サラ金各社は信用情報を共有して、不良債務者を締め出しました。この信用情報の共有は外資が乗り込んできたときに大きな武器ともなりました。
さらに、団体信用生命保険が導入され、利用客が死亡または廃疾になった場合に残債を生命保険でカバーする仕組みが出来上がりました。ただし、これは債務者の自殺を誘発するという大きな問題点もありました。
サラ金にとってみれば債務者が死んでくれれば債権が回収できるわけで、顧客の自殺を歓迎するような雰囲気が生まれ、「顧客を自殺に追い込むことが、経営的には「合理的」な選択肢」(160p)だったのです。
この問題は77〜78年に噴出し、第一次サラ金パニックとよなれる状況を引き起こします。サラ金の問題はメディアや国会でもとり上げられるようになり、最高裁も自ら発行する雑誌の中で利息制限法の上限を超えた利息を認めないとの見解を示しました(168−169p)。
大蔵省は、サラ金に対しる立法措置に消極的でしたが、世論に押される形で、銀行局長の徳田博美が銀行の関係団体に対してサラ金への融資自粛を求める「徳田通達」を出します。これは大きなインパクトがありましたが、サラ金各社は外国銀行から融資を受けるなどして、この衝撃を乗り切っていきます。80年代になるとサラ金はさらに拡大するのです。
しかし、拡大の先にあるのは問題の噴出です。80年代前半に自殺者数は増加しますが、この背景にはサラ金問題を伴う経済苦がありました。
ちなみに借金苦に陥った場合、女性は家出、男性は自殺を選ぶ傾向が強かったといいますが、本章で紹介されている「ありがたかったです。債権者の人からも銀行や同業者の人からも「男の中の男やったなあ」とほめられました。(中略)あの人は予科練の出身でしたもんね。最後は死んでも私らのためになろうとしたんです。潔くて勇気のある人でした」(195−196p)という自殺した夫への妻の言葉は、非常にグロテスクなジェンダーロールの現れだと思います。
このジェンダーの違いは貸す方にもあって、営業をするのは女性社員、回収をするのは男性社員という分業になっていました。
債権回収は「感情労働」と言ってもいいもので、精神的に負荷のかかる仕事でしたが、サラ金各社ではロールプレイで研修をしたり、上司が部下のメンタルをケアしたりしました。また、回収を一種のゲームに見立てたり、「借りるほうが悪い」という自己責任論を押し立てることで、精神的な負荷を軽くしようとしました。
この自己責任論は世間にも広がっており、被害者が「被害者の会」をつくろうとしたときも、「借りた金を返さないのが悪い」と批判されました。それでも若手弁護士の熱心な動きなどもあって各地で被害者の会が組織され、1983年についに貸金業規制法が成立し、上限金利は109.5%から40.004%に引き下げられました。その一方でグレーゾーン金利が「みなし弁済」条項によって合法化されています。
これによってサラ金は「冬の時代」を迎え、ヤタガイ・クレジットは破綻、プロミスも破綻寸前まで追い込まれます。各社は銀行から役員を迎えるなどして関係を強化し、何とかこの危機を乗り切っていきます。
90年代になると再びサラ金は伸びていきます。サラ金各社は、金利の引き下げ、イメージアップ戦略、そして自動契約機の導入などで顧客を拡大させていったのです。
自動契約機に関しては「むじんくん」を導入したアコムが先行しますが、アコムが業界全体の拡大を企図して特許を取得しなかったために、各社が競って導入していきます。
バブル崩壊後もしばらくは景気回復の期待もあり、人びとの消費水準はそれほど落ちませんでした。そこにサラ金の需要があったのです。
しかし、不景気が長期化するに連れて所得の回復の期待は裏切られ、サラ金の貸し倒れ率も上昇していきます。さらに90年代後半になると商工ローンやヤミ金の激しい取り立てが社会問題になり、サラ金に対する風当たりも強くなります。
特にサラ金批判の矢面に立たされたのが武富士でした。反社会的勢力との交渉を一手に引き受けていた渉外部長が会長の武井と対立して武富士と反社の関係を暴露したり、武井がフリージャーナリスト宅の電話を盗聴していたことが明らかになると、特異な研修や、昇給や賞与のたびに武井と妻に感謝の手紙を書かされることなども報じられ、その異常性が注目を集めます。
ただし、著者はこの異常性について。サラ金会社の統治の難しさと結びつけて論じています。大きな金を扱うサラ金では社員の不正を根絶することは難しく、特にこの時期は組織の急拡大に組織の整備が追いついていない状況でした。
店舗にやってきた顧客に自らが金を貸す、顧客の情報を持ち出すといった不祥事はたびたび起こっており、こうしたことが武井を疑心暗鬼にさせたと考えられるのです。
こうして、サラ金の規制を求める声が強まり、これが2006年の貸金業法改正につながっていいきます。サラ金各社はこれに対して、サラ金の規制はヤミ金の跋扈につながると主張し巻き返しを図りましたが、世論に動向に敏感だった「小泉チルドレン」などがこの問題に関心を示し、さらに金融庁の「貸金業制度等に関する懇談会」の担当になった森雅子(のちの参議院議員・法務大臣)が子ども時代に親が貸金業者から取り立てを受けた経験を持っていたこともあって、規制の議論が進みます。
最終的に、例外を認めない厳しい規制が行われ、上限金利は29.2%から20%に引き下げられ、借入額の上限を年収の1/3とする「総量規制」が導入されました。
この後、過払い金返還訴訟の影響もあり、サラ金各社は急速に衰退し、破綻するか、銀行の傘下に入っていったのです。
一方、近年ではネットなどを利用した個人金融が復活する動きもあります。危惧されたヤミ金の跋扈はありませんでしたが、お金を借りる需要がなくなったわけではないのです。
長いまとめになりましたが、他にもとり上げたい部分がたくさんある読みどころ満載の本です。特に、サラ金が抱えていた問題を経済学の視点で分析しつつ、同時に借り手の変化をジェンダーの視点からも捉えていく手法が見事で、サラ金の歴史をたどりながら、それ以上のものを知ることができます。
経済史と社会史を股にかけるような傑作と言えるのではないでしょうか。