ドイツのC・H・ベック社の「ヴィッセン(知識)」叢書の1冊で(アンネッテ・ヴァインケ『ニュルンベルク裁判』(中公新書)と同じシリーズ)、タイトルの通り、ドイツ第三帝国の歴史をコンパクトにまとめたものとなります。
 特徴としては、ナチ党が政権を掌握した1933年以降、特に第二次世界大戦が始まった1939年以降の記述が手厚いこと、ドイツの支配地域、特に東欧におけるそのスタンスや実態が描かれていること、戦時中のドイツの国内の様子がわかること、そして訳者の歴史学者でもある小野寺拓也による丁寧な解説がなされていることになります。
 特に最後の点に関しては、まず「訳者まえがき」で本書のポイントが示されており、さらにはもっと知りたい人のための「読書案内」までついています。「訳者まえがき」にもあるように、玉石混交のナチズムに関する情報が反乱する中で、1つのスタンダードを提供する試みと言えるでしょう。

 目次は以下の通り。

第1部
第1章 第二帝政と第三帝国
第2章 第一次世界大戦後
第3章 ヴァイマル共和国の右派
第2部
第4章 ナチによる「権力掌握」
第5章 迫害
第6章 経済と社会
第7章 拡張
第8章 戦争への道
第3部
第9章 戦争の第一段階―一九三九~四一年
第10章 暴力の爆発
第11章 バルバロッサ
第12章 絶滅政策
第13章 戦争と占領
第14章 戦時下の民族共同体
第15章 ドイツ国内での抵抗
第16章 終焉
第17章 おわりに

 なぜ、ナチズムがドイツを支配するに至ったのか?
 この疑問に対して、それこそルター辺りまでさかのぼってドイツの特殊な歴史が論じられることもありましたが、本書ではその起源を19世紀後半以降に絞って考察しています。
 まず、ドイツでは急速に近代化のプロセスが進みました。今までの生活状況が急変する中で、「国民」という単位への結びつきが影響力を持つことになります。
 ドイツは列強に遅れる形で植民地の拡大にも乗り出しましたが、1904年のドイツ領南西アフリカの先住民の蜂起(へレロ・ナマ戦争)では、諸部族の殲滅を目的として絶滅戦争を展開しました。人種主義的な優越感や、強国として地位への酩酊がその背景にあったと考えられます。

 第一次世界大戦でドイツは敗北しますが、ドイツの敗色が濃厚になるにつれて広がったのが反ユダヤ主義です。
 それまでドイツは反ユダヤ主義が強い地域とは言えませんでしたが、ユダヤ人が前線勤務から逃げているという噂を確かめるために1916年10月に行われた「ユダヤ人調査」が行われ、特にそういった事実は確認されなかったものの、反ユダヤ主義が広がる1つの端緒となります。
 また、ロシア革命が起こると、ドイツ軍はボリシェビキに圧力を加えるためにクリミア半島にまで進出し単独支配を行いますが、これが第2次世界大戦のドイツの行動に影響していくことになります。

 第一次世界大戦後のドイツでは、急進右派や急進左派による暴力的な政権奪取の試みが続き、ヴェルサイユ条約による巨額の賠償金はインフレーションを引き起こすとともに急進右派の行動を正当化しました。ただし、ヒトラーも加わった1923年のミュンヘン一揆はあっさりと鎮圧されています。

 シュトレーゼマン首相の改革の成果もあり、1924〜29年にかけてヴァイマル共和国は安定します。
 しかし、29年の世界恐慌によって経済が再び混乱に陥ると、現在の体制ではこれからの時代には対処できないという認識が強まり、ナチ党の躍進が始まります。人びとは自らの絶望の表現として過激な主張をする政党に投票するようになり、ナチ党と共産党が議席を伸ばしていきます。
 追い詰められた保守派は、左派の躍進を許すよりはヒトラーを選ぶほうが、「彼らにとっては小さな悪」(66p)だと考え、ナチ党が政権を握ることになります。

 33年1月に新政権が成立した段階ではナチ党員が3人含まれているだけでしたが、国会議事堂放火事件の直後に行われた総選挙で44%弱を獲得して第一党になりました。国会議事堂事件を利用して共産党を弾圧したナチ党は、さらにナチ政府が政権を握っていない州政府を解任し、全権委任法を成立させて、ヴァイマル憲法の秩序を完全に破壊することに成功します。
 さらに、ナチ党は「民族共同体」というスローガンを使って、さまざまな組織を再編していきました。
 一方で、突撃隊のレームを粛清するなど、ヒトラーは権力基盤を固め、34年には国民投票で総統に就任します。

 ナチ体制のユダヤ人政策は明確な指針に基づいたものではありませんでしたが、ユダヤ人をその地位から追いやり、財産を奪って出国させることを目的に、急進さを競うダイナミズムが生まれました。
 ドイツのユダヤ人は「ヨーロッパでもっとも成功した少数派」(83p)で、ドイツのキリスト教徒よりも学歴も高く、大学や銀行などで成功している者も数多くいましたが、財産没収の際には、ユダヤ人が不当に得た利得の「補償」というスローガンが使われました。
 ナチ体制は強制収容所を作って、「共同体の敵」として共産主義者やナチズムに反対する者を収容しましたが、さらにアルコール中毒患者、売春婦、同性愛者、精神病患者、ジプシー(シンティ・ロマ)などを問題視し、強制収容所に収容していくことになります。

 一方、ナチが政権を掌握した後に経済は回復しました。これはそれ以前に始められた経済対策が動き出したからですが、それとともに借款に支えられた軍備の増強がありました。
 ヒトラーが「女は民族の保持をめぐる戦いで犠牲を払うのだ」(97p)と述べたように、ナチ体制のもとでは母性が重視される一方、女性の校長は男性に交代させられ、女子大生は新規入学者の10%に制限されました(98p)。

 ヒトラーは英仏の反発を避けようとさまざまな手を尽くしながら再軍備を推進していきます。そして、この軍備を支えるためにはドイツの領土の拡大が不可欠になってきます。
 1938年4月にオーストリアを合邦すると、9月のミュンヘン会談でチェコのズデーテン地方の割譲を勝ち取りました。
 38年11月、パリでドイツ人外交官がポーランド系ユダヤ人青年によって暗殺されると、大規模なポグロム(いわゆる「水晶の夜」)が起こります。ここで外国人はナチの蛮行に驚愕することになるのですが、体制側も「ユダヤ人と徹底的に決着をつけることを何よりも第一に考える」(ゲーリングの言葉、118p)ようになります。

 1939年3月にドイツ軍はプラハに進軍し、チェコを保護領とします。さらに9月にポーランド侵攻に踏み出すことで第二次世界大戦が勃発するのです。

 西部戦線ではしばらく戦闘は起こりませんでしたが、ドイツは40年になってからデンマークとノルウェーに侵攻し、5月に大規模な攻勢に出ます。ドイツ軍は10日ほどでドーバー海峡に到達し、フランスを屈服させました。
 ドイツ国内では配給体制が強化され、賃金が支払われても買い物がない状況となって貯蓄が増えましたが、この貯蓄が戦争の財源となりました。
 
 1940年の夏、残る敵はイギリスだけとなりましたが、英国空中戦はイギリスの勝利に終わりました。そこで、ドイツはアメリカが参戦する前(41年秋頃の参戦が予想されていた)にイギリスを屈服させる手段として、地中海・北アフリカ・スエズ運河を抑える作戦か、対ソ戦で勝利し、イギリスの希望を奪うというやり方が考えられました。そして、ヒトラーは対ソ戦での勝利のほうがより短期的に可能な作戦だと考えて、対ソ戦に踏み切るのです。

 本書ではこの対ソ戦の前にポーランド支配についての第10章が挟まれていますが、これを読むと、ドイツがポーランドを「植民地」として改造しようとしていたことがわかります。
 ヒトラーは「ポーランドの絶滅」(141p)を目標としており、ポーランド侵攻とともにゲシュタポ、刑事警察、保安隊からなる行動部隊がつくられ、各地でポーランドの知識人や政治指導者を殺害していきました。ドイツに占領されたポーランド領は東西に分割され、西部は本国に編入され、東部は「総督府」としてドイツの支配下に置かれました。この地は純粋な農業国家としてドイツ本国の労働力供給地と考えられたのです。

 そして、ポーランド系ユダヤ人への迫害も始まります。西ポーランドにいるすべてのユダヤ人の移送が不可能だと知った占領当局はユダヤ人をゲットーに収容します。ゲットーでは飢えと伝染病が広がりますが、この問題は当局は自らが招いたものですが、彼らはますますユダヤ人問題を最終的に解決しなければならないと考えるようになりました。
 1940年4月までに約50万人のポーランド人がドイツ本国へ連れてこられて農業などに従事しましたが、彼らはバラックに収容され、ドイツ人女性と関係をもったポーランド人男性は公開処刑されました。ドイツ国内に連れてこられたポーランド人の数は40年末までに100万人まで増加します。
 さらにこの時期には、ドイツ国内で精神病患者などを殺害する「T4作戦」が始まっています。この計画は教会の抗議などで中止されましたが、これがユダヤ人の組織的な殺害につながっていきます。

 ヒトラーは対ソ戦について、「これは絶滅戦争である」(157p)と宣言していました。ナチは共産主義をユダヤ人の仕業と見ており、ユダヤ人とボリシェヴィズムの絶滅、そして、広大な東ヨーロッパにドイツの植民地支配を打ち立てることが戦争の目的でした。
 ドイツ軍の食糧は占領地域から調達することになっており、この地域の都市住民の餓死は織り込み済みでした。さらにソ連兵の捕虜にも満足な食糧は与えられず、餓死していくことになります。終戦までにドイツ軍の捕虜になった570万人の赤軍兵士のうち、280万人が命を失ったといいます(164p)。
 1941年にバルバロッサ作戦が始まると、ドイツ軍は快進撃を見せますが、同時に損害も深刻で、戦争は長期化していきます。

 ユダヤ人政策に関しては、マダガスカルに移送することなど構想されますが、制海権を持たない中でこうした計画は不可能でした。
 一方、対ソ戦が進行する中で、この地域のユダヤ人たちは行動部隊や武装親衛隊によって射殺されていくことになります。さらにドイツの支配下いたユダヤ人たちも対ソ戦勝利の暁には、この地域に連行されるはずでした。
 しかし、ドイツの急速な勝利が期待できなくなると、ユダヤ人たちをT4作戦と同じような形で殺害することが計画されるようになります。41年10月末から11月末の間にユダヤ人を強制収容所で殺害することが決定され、西欧や中欧のユダヤ人たちがアウシュヴィッツ=ビルケナウなどに送り込まれていくことになります。

 42年12月にはヒムラーがすべてのシンティ・ロマをアウシュヴィッツ=ビルケナウに移送するよう命令も出しています。
 戦争中、暴力的に命を奪われたユダヤ人は約570万人。それに加え約20万人のシンティ・ロマ、少なくとも100万人の非ユダヤ系ポーランド民間人、約280万人のソ連兵捕虜、300〜400万人のソ連民間人、約50万人のドイツ占領地域およびドイツ本国における非ユダヤ系民間人、合わせておよそ1200万〜1400万人の民間人が戦闘行動以外で犠牲になったと考えられています(190p)。

 42〜43年にかけて行われたスターリングラードの戦いは第2次世界大戦の転換点となりました。ドイツ軍第6軍が包囲殲滅されると、43年7月には連合軍がシチリア島に上陸し、ムッソリーニが失脚。10月にはイタリアが降伏しています。
 44年3月にはドイツ軍はポーランドの東部国境の線まで後退し、西部戦線では6月にノルマンディー上陸作戦が行われました。

 こうしてドイツは占領地域を失っていくわけですが、その支配の仕方は地域によって大きく異なっていました。ベルギー、北部フランス、セルビアでは国防軍が主導権を握っていましたが、その他の地域はナチ党が主導権を握っていました。
 ポーランドでは先述のように知識人が殺害されましたが、ヒムラーはポーランドに関して、「東部の非ドイツ系住民にとって、国民学校4年生以上の高度の学校は必要ない。これらの国民学校の目標はただ、せいぜい500までの数を数えられるようになること、名前がかけることである」(199p)との言葉を残しています。
 ソ連連量地域では、少数のドイツ人が支配者となり、接収された領主の邸宅でぜいたくなパーティーをするなど、王侯貴族のような生活を送っていました。
 しかし、当然ながらこうした支配のあり方は反発を生み、パルチザンなどの活動が活発化することになります。

 一方、ドイツでは第一次世界大戦の反省から国民に十分な食糧を供給することが重視されました。1942年の初頭に打ち出された配給の削減は撤回され、ドイツに食糧を供給するためにソ連占領地域や捕虜が飢えることになりました。
 42年以降はドイツに対する空襲が激しくなり、工場の移転や疎開などが行われることになります。
 戦局が悪化していくると、東部での戦争の目的は生存権の獲得から「文明化されたヨーロッパの防衛戦争」(227p)となり、戦争に対して否定的な者への取り締まりや暴力がエスカレートしました。

 1944年12月、ドイツ軍がアルデンヌで攻勢に出ますが失敗。東部では45年1月にソ連軍が東プロイセンに侵攻し、ドイツの敗北は時間の問題となりました。東欧や南欧にいたドイツ人は本国に逃げようとしましたが、その多くが途中で犠牲になっています。
 結局、45年の4月30日にヒトラーが自殺し、その1週間後に国防軍は降伏しました。

 このように第三帝国の誕生から終焉までをまとめた本書ですが、「訳者まえがき」でも指摘しているように、ドイツの東欧支配の実態を書いていることが類書に比べた特徴の1つとなります。
 ポーランドのユダヤ人の運命については多くの本が語っていますし、独ソ戦における残虐さなども周知のことではありますが、ユダヤ人以外のポーランド人の扱いや、ドイツへの労働者の移入などに関しては本書で初めて知ることも多かったです。
 第2次大戦に至るまでの過程に関しては、石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)のほうが日本の読者にとっては読みやすいのではないかと思いますが、本書は戦争開始後の動きがカバーしてあり、ナチ・ドイツの実態についての理解を深めてくれます。