帯には「失敗はなぜ繰り返されるのか」の文句。確かに、大学入試への民間英語試験の導入失敗、共通テストへの記述問題の導入失敗、教員試験の倍率低下、日本の大学の研究力の衰退、ろくに機能しているとは思われない教員免許更新制度など、近年の文部科学省の政策は失敗続きの印象が強いです。
 もちろん、これらの政策の言い出しっぺの多くは政治家であり、すべてが文科省の責任というわけではありませんが、さまざまな面で不甲斐なさを感じる人も多いでしょう。

 本書は「なぜそうなってしまうのか?」という疑問に答える本です。
 2年前に出た著者の編著『文部科学省の解剖』では、主に官僚サーベイ(アンケート調査)を中心に文科省の官僚の行動や思考のパターンを探っていたので、今回もそのデータをもとにして一般向けに論じたものかと予想していましたが、サーベイで得た知見を利用しつつ、かなり総合的、網羅的に文部科学省のあり方にアプローチしています。
 『文部科学省の解剖』は行政に興味がある人向けの本でしたが、本書はそうした枠を超えて、広く教育に携わる人に広くお薦めできる内容であり、また同時に日本の行政に切り込んだ本としても高く評価できるものです。

 目次は以下の通り。
序章 「三流官庁」論を超えて
第1章 組織の解剖―統合は何をもたらしたか
第2章 職員たちの実像
第3章 文科省予算はなぜ減り続けるのか
第4章 世界トップレベルの学力を維持するために
第5章 失われる大学の人材育成機能
終章 日本の教育・学術・科学技術のゆくえ

 本書とまったく同じタイトルの新書に寺脇研『文部科学省』(中公新書ラクレ)があります。「ゆとり教育」の推進者としても有名になった元文部科学省の官僚の著者が「三流官庁」と呼ばれながらも、アットホームな雰囲気がある古巣を語った本でしたが、実は寺脇本に書かれていることは、文部省時代のことが中心で、科学技術庁と統合されたあとの様子についてはそれほど詳しく書かれていません。
 一方、本書では、文部省と科学技術庁の統合の影響の大きさを語っています。

 文科省の英語名称は、Ministry of Education,Culture,Sports,Science and Technologyであり、直訳すれば「教育文化スポーツ科学技術省」になります。
 このように広い分野を担当する文科省ですが、定員は2126名と省の中で最小となっています(次点は環境相の3113名(27p図表1−1参照)。文科省が誕生する際には、文部省には13.7万人もの職員がいたのですが、この大部分は国立大学の職員であり、国立大学の独立行政法人化とともに文科省からは切り離されました。また、文科省には地方支部局がないことも定員の少なさにつながっています。

 文部科学省は、文部省と科学技術庁の統合によって生まれた省ですが、フロアの構成、組織の状況などから見て、いまだに文部系と科技系の間には距離があると見られます。
 また、教育と科学というのは分野として近いようでいて、両官庁の得意とする仕事は違っていました。文部省は義務教育を中心に固定的な仕事に従事する「制度管理型」省庁であったのに対して、科技庁は省庁をまたいだミッションを調整する仕事が多く、局単位のとりまとめ機能が発展しました。
 
 文部省時代の大きな理念が、義務教育における「機会均等」です。
 文部省は学習指導要領と教科書検定によって義務教育の教育内容を強くコントロールするとともに、学校設置基準を定め、学級編制の標準を定めました。2000年代の初頭に山形県が小中で33人学級の実現を目指した時に、文科省は当初これに難色を示しましたが、これも「機会均等」の考えに基づくものです。学校選択制への抵抗も同じ流れだと言えます。

 一方で、高等教育では「選択と集中」が進んでいます。かつては国立大学に学生数や教員数に応じて資金が分配されていましたが、現在ではそうした資金は減らされて競争的な資金が増えています。旧帝大を中心とした一部の大学に資金が集中し、大学ごとの差はどんどん大きくなっていますが、これは高等教育に対して科技系の考え方が浸透してきているともとれます。

 第2章では文科省の職員に焦点が当てられています。
 文科省では、いわゆるキャリア官僚として、2020年度には事務系・施設系が24人(うち女性12人)、技術系13人(うち女性3人)が採用されています。多い順に国交省123人、農水省111人、厚労省55人なので、文科省の採用人数は多いとは言えません。
 一時は東大出身者ばかりといったイメージのあるキャリア官僚ですが、文科省では東大法学部、経済学部のシェアは小さく、地方大学や私立大学の出身者も多いです。女性も多いために、多様性という麺に関しては「優等生」とも言えます。

 ただし、鈴木寛の語る、通産官僚時代の自分は灘高東大で大蔵省の交渉相手も学生時代の友人知人だから大蔵官僚コンプレックスはなかったという話(78−80p)からもわかるように、霞が関の官僚には学歴に裏打ちされた人的ネットワークがあることを考えると、この文科省の多様性は人脈の弱さにつながるのかもしれません。
 採用後に関しては、文部系は教育三局を異動する「省内ジェネラリスト」であるのに対して、科技系は内閣府との行き来がある「官僚制ジェネラリスト」の傾向があるといいます。

 ノンキャリアの採用に関しては、文部省時代には本省が直接採用せず、国立大学の職員からエース級を本省に呼び寄せるという転任制度が存在しました。文科省は能力の低い職員を採用するリスクを減らすことができ、国立大学側は本省とのパイプ役を期待できました。
 しかし、この制度は国立大学の独立行政法人化とともに減っていき、現在は多くのノンキャリアを本省が直接採用するようになっています。
 ノンキャリアの仕事については、かつては文部系と科技系で違いがあり、文部系では伝統的に予算はノンキャリアに任されており、キャリアの中でもカリキュラムを扱うのが「殿上人」、予算を扱うのが「地下人」などと呼ばれていたこともあったそうですが(99p)、科技系では毎年の予算獲得に注力するためにキャリアが予算に関わってきました。

 統合後の人事を見ると、事務次官は初代、2代目と文部系から出ましたが、その後は文部系と科技系から交互に出ています。事務次官と官房長はたすき掛け人事になっていて、事務次官が文部系なら官房長は科技系といった形です。
 民間からの人材の受け入れ率は低く「鎖国型」とも言えるものですが、地方自治体からは多くの出向者を受け入れています。また、文部系では地方自体への出向も目立ちます。
 全体的に、もとの人数が少ない科技系がポストの面では健闘しており、科技系が統合の果実を得たと言えるかもしれません。

 第3章では文科省の予算が分析されています。
 文科省の2019年度の予算は約5.5兆円で、予算全体の5.4%。統合直前の文部省の予算は5.9兆円、科技庁と統合したあとの2001年度の予算は6.6兆円だったので、大きく減っていることになります。
 この理由としては、文科省の予算で最も大きな規模の義務教育費国庫負担金の負担割合が1/2から1/3になったことが大きく、これによって義務教育費国庫負担金は金額として半分程度にまで落ち込みました。

 一方、棚ぼた的に増えた予算もあり、それが高校無償化です。
 小中に関しては熱心に「機会均等」をはかってきた文科省ですが、高校に関しては特に財政的なサポートをしておらず「ノーサポート・ノーコントロール」といった状況でした。
 ところが、民主党政権が高校無償化を打ち出したことから約4000億円の予算が降ってくることになります。政権交代によって無償化には所得制限が設けられることになりますが、政策における「慣性の法則」もはたらき、2020年度からは私立高校の実質無償化もスタートしました。
 そうした中、文科省は「高校生のための学びの基礎診断」というものを始めました。これは民間試験を文科省が認定して高校生の基礎学力の定着度合いを測るものですが、そこにはベネッセ、リクルートマーケティングパートナーズなどのおなじみの企業や団体が並びます。財務省から財源を獲得することは無理だと考えた文科省は、民間企業を参入させ、費用は家計に負担させることにしたのです。

 国立大学運営交付金も文科省の予算で大きな割合を占めていますが、これは減り続けています。もともと国立大学が独法化したときには、運営交付金は削減しないとの口約束があったとのことですが、結果として減った交付金を各大学が奪い合う形となって、大学の現場は疲弊しています。
 2020年度からの高等教育無償化の実施に伴って授業料を値上げする大学も出てきていますが(低所得者への「機会均等」は無償化で担保できるので)、国立大学全体の収入に対する授業料の割合は約2割であり、また寄附金も英米の有力大学に比べると遠く及びません。
 そのため、運営交付金の削減は国立大学にとって死活問題なのですが、政府内では立場が弱く、国立大学に対しては強いという文科省は、現場に努力を押し付けがちです。

 第4章では初等中等教育を中心に「学力」の問題がとり上げられています。
 日本において「学力」が問題になったきっかけとして、文科省が90年代後半に導入した「ゆとり教育」があります。
 2002年度から完全実施されることになっていた「完全学校週五日制」を見越して、授業内容を削減する内容でしたが、「円周率が3になる」といった文句が飛び交い、02年から文科省は「確かな学力」という言葉を使って弁明につとめるようになります。
 授業内容の削減は学校教員の週休二日制の実施のためにも必要なものでしたが、文科省は労働政策としての性格を打ち出さずに、「生きる力」といった抽象的な概念で政策を説明したために、突っ込みを受けることになりました。

 「学力低下」の批判を受けて、2007年から「全国学力・学習状況調査」が始まりましたが、ここで得られたデータがどのように政策に生かされているのは見えにくく、むしろ、自治体間、学校間の競争を煽る結果となっています。
 こうしたこともあって学校現場は疲弊していますが、近年まで文科省は教員の勤務実態の把握をしてきませんでした。2014年にOECDの調査の結果が公表され、日本の教員の労働時間が参加国の間で最長で、事務や課外活動に多くの時間が咲かれている実態が明らかになって、ようやく文科省も教員の負担削減に動き出しました。
 ただし、小中の教員の雇用主は基本的に市町村の教育委員会でありながら、採用や給与の負担は都道府県が行い、文科省が給与の補助を行うという複雑な構造になっていることもあり、勤務実態の把握が進みにくい構造です。
 残業代分を前もって4%上乗せする代わりに残業代を出さないという給特法や部活の見直しを含めて、労働時間の削減には大きな改革が必要になります。

 文科省は地方の出先機関を持ちませんが、その代わりを果たしてきたのが教育委員会です。戦後しばらくは公選制だった教育委員会は、1956年以降、首長の任命制となっており、その教育委員会が教育長を任命する形になっていました。2000年の地方分権改革までは、都道府県の教育長には文部大臣の、市町村教育長には都道府県教育委員会の承認が必要となっており、こうした制度によって文部省は地方の教育の運営をコントロールしていました。
 その後、教育長を首長が直接任命できるようになるなど、教育委員会に対する首長の権限は強まっていますが、文科省は教育委員会を一種の出先機関として死守しています。
 しかし、スポーツや文化などは首長部局に移管されつつあり、学校教育以外の教育委以内の役割はやせ細りつつあるのが現状です。

 第5章では大学にまつわる問題がとり上げられています。
 まずは、大学入試改革です。「高大接続」というフレーズのもと、総合的な入試改革が目論まれ、センター試験に代わる共通テストの導入、四技能を中心とした英語試験の民間委託、共通テストへの記述問題の導入などが打ち出されましたが、英語試験の民間委託と記述問題の導入は実施直前で撤回されるという大失敗に終わりました。
 今回の入試改革は「官業の民間委託や「払い下げ」のようなものであり」(221p)、教育企業とその支持を受ける政治家によって進められました。第2次安倍政権以降、文教族がリードする自民党の教育再生実行本部と、官邸の教育再生実行会議が議論をリードし、文科省と中教審がその肉付けをするという形が続いていましたが、文科省が民間企業相手にコスト感覚やロジスティクス感覚を欠如させたまま制度設計を行ったために、完全に行き詰まりました。

 大学改革に関しても、企業などの声に押されるままに改革に走り出したものの、うまく行っていないのが現状です。
 企業はグローバル人材の育成を大学に求めていますが、もはや海外企業のように高賃金は払えない状態です。一方、文科省は世界の大学ランキングに入るように国立大学に発破をかけますが、集めている寄附金の額も、学長や教授の報酬も英米の一流大学に遥かに及ばない状況で、金銭的な裏付けがないままに「スーパーグローバル大学」などの名称だけは踊っています。
 内閣府が管轄する沖縄科学技術大学院大学は、国立大学を遥かに上回る財政支援を受け、高い業績を上げており、やはり研究力の向上には財政支援が欠かせません。

 さらに日本で問題なのは、修士号の取得者の数が諸外国に比べて大きく劣っており、博士号についても減少傾向となっている点です。
 日本では研究者を目指す者への財政的な支援は薄いですし、博士号を取ったとしてもその就職先がないという状態になっています。この要因の1つは、文科省が出口を考えないままに「ポスドク一万人計画」を進めたためで、ここでも「出口(アウトプット)」や科学への「インパクト(アウトカム)」はあまり考えられていませんでした。

 こうした中で、科学技術政策に対する経産省などの影響力も強まっています。経産省は科技庁以上に「選択と集中」を志向しており、大学は教育や学術の場ではなく、科学技術、イノベーション、産業政策に貢献されることが期待されるようになっています。
 しかし、国立大学への文科省のグリップ力は相変わらず強いので、官邸や経産省、あるいは企業は文科省に働きかけることで大学を「間接統治」しようとするのです。

 「外に弱く、内に強い」文科省は、周囲からの圧力を受けて教育委員会・学校、大学に努力を促しますが、そこに財政的な支援があるわけでもないので、現場にしわ寄せが及びます。
 ある意味で、教育や学術研究の分野では、現場を除いて誰も責任を取らなくてすむような体制になっています。
 著者は最後に、文科省が「金目の議論」「財政支援を訴えるロビイング活動」、そして「政治」から逃げないことが必要だと主張しています。文科省は自らの掲げる政策の実現のために政治的な支持を調達する必要があるのです。

 このように、本書は文科省のあり方を総合的に分析することで、近年の日本の教育政策の失敗や迷走の原因をえぐり出しています。「ゆとり教育」といった理念が批判されがちですが、失敗の本質は理念を制度に落とし込むときの甘さと現場頼みの姿勢にあると言えるでしょう。
 本書が指摘するように、現在の日本の教育制度においては「誰が責任を取るのかわからない」部分が大きいのですが、だからこそ、このままいくと首長が「俺が責任を取る」といって政治的な介入を行うようになることが考えられます。
 本書は文科省に対して厳しい批判を行っていますが、同時に文科省のあり方の重要性を再確認させてくれる本でもあると言えるでしょう、