戦前に外務大臣として「幣原外交」を展開し、戦後は首相として「憲法9条の発案者」ともなったと言われる幣原喜重郎の評伝(実は本書では「幣原外交」も「憲法9条の発案者」としての幣原も否定されているのですが)。
 「幣原外交」と「憲法9条の発案者」を並べると、そこから想像するのは高邁の理想を掲げて難局を切り拓こうとする人物ですが、本書では、幣原をそうした人物ではなく、「組織人」として描き出します。堅実ながら、今までのイメージを覆す刺激的な評伝と言えるでしょう。

 目次は以下の通り。
序章 生い立ち―幣原家の次男
第1章 秀才から能吏に―組織人としての自覚
第2章 外務次官までの道程―一九〇八~一九年
第3章 対英米協調路線の模索―「新外交」時代へ
第4章 幣原外交の始動―一九二〇年代の日中関係
第5章 満洲事変と第二次幣原外交
第6章 帝国日本の崩壊―失意の元外相
第7章 老政治家の再起―米占領下と制度改革
終章 挫折を超えて―幣原の遺訓

 幣原は、1872年に大阪で代々庄屋を務めてきた旧家の次男として生まれています。幣原家は勉強に熱心で、兄の坦(たいら)は朝鮮史を修め、帝国大学教授や台北帝国大学総長などを歴任し、一番下の妹の節は大阪府初の女医となっています。
 幣原は小さな頃は腕白であったとのことですが、大阪中学校から第三高等中学校、帝国大学へと進みます。
 幣原は法律学科から外交官を目指しますが、重い脚気になり外交官試験を受験できず、やむなく農商務省に入ります。しかし、24歳で外交官試験に合格し、1896年に外務省に入りました。

 幣原の最初の仕事は朝鮮の仁川の領事館補でした。ここで領事の石井菊次郎と出会います。石井は幣原を高く評価し、のちに石井が外相になった時に幣原を次官に据えるほどでした。
 ここで2年4ヶ月を過ごすと、1899年にはロンドンに向かいます。ここで幣原は英語を徹底的に勉強しました。家庭教師から今まで習ってきた英語を忘れるようにアドバイスされ、暗唱を発音の矯正を繰り返したといいます。
 ロンドンで1年4ヶ月を過ごした後、アントワープ、釜山と任地を変え、釜山時代に岩崎弥太郎の四女の雅子と結婚しました。実はイギリス人女性との結婚を望んでいた幣原でしたが、周囲の反対もあって雅子と結婚しています。この結婚によって加藤高明が義兄となりました。

 1904年に幣原は本省の電信課長となります。電信課長は受信した電信の内容に応じて、それを当該部署に回付することでしたが、これは外務省が抱えているすべての案件の内容を理解していなければできない仕事でした。幣原は8年にも渡ってこの職責をこなしていきます。
 この時期に外務省の顧問だったアメリカ人のヘンリー・デニソンと散歩をすることが日課となり、幣原はデニソンから外交文書の書き方など、さまざまなことを教えられました。
 また、当時の外相であった小村寿太郎も電信の一言一句にこだわる人間で、ここからも幣原は外交における言葉の重要性を学びました。

 1908年に第2次桂内閣が成立して小村寿太郎が外相に返り咲くと、小村は関税自主権の回復のための条約改正公称に備えるために条約改正準備委員会を設け、幣原に取調課長の兼任を命じます。さらに1911年には新たに設けられた取調局の初代局長となりました。
 このように小村に評価された幣原でしたが、一方で外務省の花形というべき政務局の勤務は一度もありませんでした。この政務局は、のちに亜細亜局と欧米局に分かれますが、外務省の中枢とも言うべき意思決定ラインに関わることはなかったのです。

 1914年、幣原はオランダ公使兼デンマーク公使となります。折しも第一次世界大戦が勃発したときで、幣原は中立国のオランダから敵国であるドイツの情報収集を行います。
 また、日本政府は「対華二十一ヵ条要求」を出しますが、幣原は当時の外相で義兄でもあった加藤高明にこれを批判する私信を送っています。

 加藤が外相を去ると後任は石井菊次郎になります。幣原を信頼していた石井は次官として幣原を呼び寄せ、1915年10月に幣原は外務次官に就任します。
 この時期は、ロシア革命で誕生したソ連が密約をことごとく暴露する「革命外交」を展開し、アメリカのウィルソンが「平和のための一四ヵ条」を打ち出すという、外交の転換点でしたが、幣原は小村寿太郎の息子で政策局第一課長でもあった小村欣一の助けなども借りて、これに対応していきます。
 小村が「一四ヵ条」の信奉者であったのに対して、幣原は国際連盟に関しても「円卓会議」と呼んで距離を置きましたし、パリ講和会議でも山東半島問題をめぐる中国の宣伝に対して後手に回る面がありましたが(これが1920年の亜細亜局の設置にもつながっていく)、徐々に「新外交」への対応を見せ始めます。

 また、この時期の日本には外交調査会という首相、外相、内相、陸海相、枢密顧問官、政党の党首が参加する天皇直属の機関がありました。外交を政争の具としないためにつくられたものですが、外務省としては厄介な存在で、特に枢密顧問官の伊東巳代治は難物でしたが、幣原は外交調査会に回す情報をコントロールし、これに対応します。

 こうした中で、加藤高明の義弟として幣原を警戒していた原敬の信頼も得るようになり、1919年に駐米大使に任命されました。
 1921年からはワシントン会議には、加藤友三郎らとともに首席全権として参加します。
 この会議では、中国側が山東権益の返還を強硬に求めてきますが、幣原は病躯をおして粘り強く交渉を重ね、アメリカにも日本の立場を認めさせました。
 また、このワシントン会議では四カ国条約の締結とともに日英同盟が廃棄されました。日本側ではこれを惜しむ声も強くありましたが、幣原は英国との同盟よりも米国との協調関係の確立を重要だと考えて、日英同盟の廃棄を受け入れます。
 このように粘り強い交渉によって会議を妥結に導いた幣原でしたが、加藤友三郎から「君はお人好しで、自惚れているからいかん」(92p)と言われたこともあったそうです。幣原には性善説的な人間観があり、それが加藤には弱点に見えたのでしょう。

 1924年、護憲三派内閣で加藤高明が首相になると、幣原が外相となります。
 当時、外務省はそれまでの秘密的な姿勢を改めて、国民に外交についての理解をもとめる公表外交を展開しようとしていましたが、幣原はその流れに乗り、正直、かつ正攻法の外交を目指しました。
 この時期、日本が直面していたのが中国情勢の流動化でした。軍閥による分裂状態に陥っていた中国において、日本の満蒙権益をどのように維持していくかが課題となっていたのです。
 幣原は「無数の心臓」(105p)をもつ中国を一撃で叩き潰すようなことはできず、不干渉主義をとりながら、日本の権益を確保する道を探るべきだと考えていました。

 幣原が重視したのが中国との経済関係の発展です。当時、日本の輸出品の中心だった綿製品は中国市場に販路を拡大させていましたし、中国で生産を行う在華紡も事業を拡大させていました。
 ここに中国の関税自主権の回復の動きが重なります。1925年からこの問題を話し合う北京関税特別会議が開かれることとなったのです。
 幣原は、中国の関税自主権回復に理解を示しており、中国を国際経済秩序に組み込むことで、中国が統一された近代国家として成長するだろうという見立てもありました。
 ただし、日本国内の紡績業からは関税の増徴税率を2.5%以内に抑えてほしいという要望も出ており、交渉の場では細かい駆け引きが行われることとなりました。しかも、日本国内でも交渉のスタンスをめぐって通商局と亜細亜局で対立があり、イギリスとの強調を重視する全権と亜細亜局の間でも対立がありました。
 
 この対立にたいして幣原はリーダーシップを発揮できず、対中政策をめぐってイギリスとのズレが顕在化していくことになります(イギリスは北京政府を見捨て広東政権(国民党)に期待するようになっていた)。
 さらに1926年の北伐に伴って起きた、南京事件と漢口事件への対処は「幣原外交」への不満も生み出し、これもあって金融恐慌を機に若槻礼次郎内閣が倒れ、幣原も外相を退くことになります。

 幣原の退任後は、田中義一が首相と外相を兼任し、外務政務次官に森恪が就任します。田中外交は、東方会議で満蒙権益の追求拡大を決め、張作霖爆殺事件も起きたために、幣原外交と対極にあるものと捉えられがちですが、本書では、幣原も満蒙権益の維持にこだわっていたこと、田中も対英米協調の立場を堅持したことなどから、この2つを実は近似したものであったと評価しています。

 1929年に田中内閣が退陣して浜口雄幸が首相になると、幣原は外相に再登板します。浜口とは大阪中学校時代からの仲でした。
 浜口内閣の重要政策の1つが「対中国外交の刷新」で、幣原はそのために自らの右腕でもある佐分利貞男を註中国公使に起用します。外務次官には更迭かと思われた吉田茂が留任しました。
 1930年から始まったロンドン海軍軍縮会議では、幣原は駐日米国大使のウィリアム・R・キャッスルと綿密な打ち合わせを行い、全権団をサポートしながら会議を妥結へと導きます。まずは大きな外交的成果でした。

 しかし、対中国外交はなかなか上手くいきませんでした。国民政府は列国との間に締結された不平等条約の一方的な破棄を宣言する「革命外交」を展開しており、「正攻法」の外交を重んじる幣原はその対応に苦慮します。
 さらに1929年11月には日本に帰国していた佐分利公使が謎の死を遂げる事件が起こり、幣原の対中外交は大きくつまずきます。石射猪太郎が「結局佐分利という者があの人[幣原]の機構の総べて」(141p)という言葉を残しているように、佐分利の死は幣原にとって大きな打撃となりました。

 後任の公使は重光葵となりますが、重光は谷正之亜細亜局長と連絡を取りながら、幣原を外す形で対中交渉を行おうとします。国際間の秩序とルールを重んじようとする幣原に対して、重光と谷は現実に応じたよりプラグマティックな交渉を行おうとしたのです。
 重光は、革命外交の勢いは止まらず、いずれ旅順・大連の租借地や満鉄の回収にまで及ぶと考え、そのために比較的重要でない蘇州・杭州などの居留地を中国に返還しつつ、衝突が起きた際に国際社会からの支持が得られるように「堅実に行き詰まる」(156p)という策を述べています。

 1930年11月浜口が襲われ、幣原は臨時首相代理となります。浜口内閣に代わって成立した第2次若槻内閣でも幣原は外相に留任しましたが、そこで起こったのが31年9月に始まった満州事変です。
 陸軍三長官は不拡大で一致しており、また国際社会も局地的紛争だと見ていました。ヘンリー・L・スチムソン米国国務長官の幣原への信頼も厚く、国際社会は中国に対して冷淡でした。
 ところが、10月に錦州爆撃が行われるとムードが変わってきます。日本に対する不戦条約違反の声もあがりますが、一方で外務省は撤兵条件をつり上げるなど、ちぐはぐな対応となります。
 
 こうした対応を主導したのは亜細亜局長の谷でした。谷は重光とともに「堅実に行き詰まる」方針を共有しており、必ずしも日中間の交渉の妥結を優先しておらず、幣原もこれに引きずられました。
 外務省の内部からもこれを批判する声はあがりますが、幣原も中国の革命外交によって日本はいわれなき不利益を被っているとの認識を持っていたため、思い切った政策転換はできませんでした。
 31年11月29日はスチムソンが錦州攻撃中止の確約を幣原から得たとの談話が新聞に載り、機密を漏洩したとして幣原は批判を浴びました。
 幣原は、国際連盟から大国中心の調査団を受け入れることで、中国に権益を持つ他国が日本の行動に理解を示すことに期待をかけましたが、12月には若槻内閣が退陣し、幣原も外相の座を退きました。

 ここからしばらく幣原は隠遁生活を送ることになります。外務省では内田康哉外相のもとで連盟脱退などの強硬な姿勢がとられましたが、満州の権益維持を重視していた幣原であってもこの流れを止められなかったと著者はみています。
 
 普通の状況であれば外相退任後が「余生」ということになるのでしょうが、幣原には首相への就任というまさかの舞台が待っていました。 
 東久邇宮内閣がGHQの方針についていけなくなると、幣原に白羽の矢が立ったのです。当初の本命は吉田茂でしたが、吉田が受ける意向を見せず、代わりに推薦したのが幣原でした。

 幣原は就任直後にマッカーサーからの5大改革指令を受け入れ、さらに天皇制護持のために「人間宣言」を英文で起草し、これによって日本の民主化を示そうとしました。
 一方で、幣原は憲法改正の必要性を感じていませんでした。大日本帝国憲法でも解釈によって運用可能だと考えていたのです。
 しかし、これは憲法改正を目指すマッカーサーの考えとは違いましたし、憲法改正に積極的だった昭和天皇との考えとも違いました。これを受け幣原は憲法改正へと動き出します。
 46年1月24日に幣原とマッカーサーが会談しますが、ここで天皇制の護持と平和主義や戦争放棄の考えで一致しました。
 
 ここから、憲法改正作業は2月1日の『毎日新聞』による松本案のスクープ、2月3日のマッカーサーからの草案作成指示、2月13日のマッカーサー草案の日本側への手交と急展開で進みます。これはマッカーサーが極東委員会に口出しされる前に憲法改正を急いだからでした。
 幣原もこのマッカーサー草案を見て驚きます。その証拠に次の閣議が開かれたのは6日後でした。幣原はこの草案の修正や不受理の可能性があるのではないかと、GHQとコンタクトを図りますが、逆にGHQに最後通牒を突きつけられ、幣原内閣はマッカーサー草案の受け入れを決断するのです。

 ここで本書では、憲法9条の「幣原発案説」と「マッカーサー発案説」を検討しています。
 マッカーサーの回想録では幣原が発案したことになっていますが、著者は、1・『芦田日記』に2月19日の閣議で幣原がこの草案に反対の意向を示していたこと、2・幣原がマッカーサーに「どのような軍隊なら保持できるのですか」と問い合わせていたこと、3・戦力不保持の規定と関わりをもつ象徴天皇制について幣原が考えていなかったこと、などをあげて「幣原発案説」を否定しています(3の説明は本書だけだとややわかりにくい)。
 しかし、この憲法を受け入れるのが最善の道だと判断し、9条の発案者として振る舞うことを決意したというのが著者の見立てになります。

 その後、幣原は自らが率いる進歩党が46年4月の総選挙で第2党になったことから総辞職し、第一次吉田内閣が発足します。幣原はこの内閣に無任所大臣として入閣し、進歩党の後継の民主党に参加しますが、民主党が社会党と連立を組むと幣原は離党し、49年には衆議院議長になりました。そして、51年の3月に急逝しています。

 本書は、史料を積み重ねた堅実な評伝でありながら、「幣原外交」と「憲法9条の発案者」という2つのことについて、それは「なかった」という議論を展開しています。後者については昔から論じられていることではありますが、前者についてはどうしても第一次世界大戦中の外交や田中外交などと対比で語られることが多い中で、説得力をもってその連続性を示していると思います。
 満州事変におけるスチムソンへの機密の暴露問題については、小林道彦が『政党内閣の崩壊と満州事変―1918~1932』などで満州事変の決定的分岐点と評価しているだけに、もう少し詳しい評価をしてほしいところでしたが、刺激的な評伝であることは間違いないです。