1934年生まれで、長年、日本の農村社会学を牽引してきた著者による本。日本の今までの農村社会学の研究を引きながら、北は北海道から南は沖縄まで、さまざまな地域の農村のあり方について、主に経営のあり方や家族のあり方などに注目しながら論じています。
 これまでの研究を紹介する概説的な性格が強く、何か目新しい考えが提示されているわけではないのですが、沖縄や鹿児島の農村のあり方は、私たちが一般的に持つ「農村」のイメージとは大きく違うもので、興味深いと思います。また、同じ地主と小作の関係といっても、地域によってそのあり方は大きく違うことなどもわかるでしょう。
 単一的なイメージで語られがちな「日本の農村」の多様性を教えてくれる本です。

 目次は以下の通り。
1 日本農村を見る視座
第1章 「同族団」とは何か
第2章 「自然村」とは何か
第3章 歴史を遡って―農村はどのようにつくられたか
2 日本農村の東西南北
第4章 日本農村の二類型―東北型と西南型
第5章 まず西へ
第6章 南と北
第7章 「大家族」(家)制と末子相続
3 「家」と「村」の歴史―再び東北へ
第8章 「家」と「村」の成立―近代以前
第9章 「家」と「村」の近代―明治・大正・昭和
第10章 「家」と「村」の戦後、そして今

 本書でまず紹介されているのが、有賀喜左衛門による岩手県の「石神」という山村の集落に関するモノグラフです。
 調査は1935年に行われていますが、この「石神」では「大家(おおや)」と呼ばれるS家中心に、「同族団」とも呼ばれる独特の集団が形作られていました。
 S家には家族13人のほか、召使いの一家など13人、合わせて26人が暮らしており、田が1町3反(約130アール)、畑が約2町歩(約200アール)、他に漆器業と木地挽を経営していました。

 S家は南部藩の士格の家だったようで、寛永年間(17世紀前半)にこの地に移り住んできたとのことです。
 S家では、次男三男以下は婿にでも行かないかぎり長男に従い、嫁をもらっても父母の家に同居するのが普通でした。相当年配になって分家することもありましたが、そのときは本家から少額の財産を与えられ、以降は本家と対等な付き合いはできなかったといいます。
 こうした分家以外にも、召使いが独立するケースもありますが。家を自力で建てた「分家名子」と、大家から屋敷を借用している「屋敷名子」がありました。他にもいわゆる小作人である「作子」と呼ばれる人びともいたといいます。

 田打、田植、稲刈などのときは名子や作子は大家に「スケ」を出します。農作業を手伝うわけです。大家以外は、それぞれ「ユイコ」と呼ばれる助け合いを行っています。田植などでは、まず大家にスケを出し、その後に各家で「ユイコ」を調整したりしたそうです。
 石神の総戸数は37戸ですが、そのうち34戸は血縁の別家、分家名子や屋敷名子、作子であったといいます。石神はS家を中心とした1つの経営体のようなものでもあったのです。
 この関係は、戦時中の漆器業の衰えと戦後の農地改革で解体されていくのですが、大家が農業機械を購入したことで、それを使わせて貰う代わりにスケを出すといった関係は残ったそうです。

 このように石神はかなり濃厚な関係によって成り立っていた「村」であり、共同体なわけですが、日本全国の農村がこのような共同体というわけではありません。
 鈴木栄太郎は「自然村」という概念を提唱し、行政上のまとまり以外に「一つの自然的なる社会的統一」(37p)があることを指摘しました。
 とは言っても、江戸時代の「村」でされ、領主の「村切り」によって生み出されたのですが、それでも用水や入会地の利用、祭礼や葬儀などを通じたつながりがありました。
 そのつながりは「氏子集団」や「檀徒集団」のような宗教的なものであった場合もありますし、血縁的なものもありましたし、また「講」というさまざまな目的のための集団であったりしました。

 では、村はいつ生まれたのか? 第3章では、入間田宣夫の中尊寺領骨寺村に関する研究に依拠しながら考察しています。
 この村での水田の開始は10世紀頃と推定されていますが、初期は「田越し灌漑」という、最初の水田に引き入れた水を、隣接の水田に2枚目、3枚目という形で流していく方法がとられていたようです。
 つまり、水田の耕作者が別であっても、水の利用を考えると共同作業が必要不可欠であり、そうした農作業における必要性と、神社を中心とした宗教的なつながりなどが「村」を生み出したと言えるかもしれません。

 また、本章の後半では、竹内利美による三信遠(三河、信濃、遠江)の境にある地域についての研究がとり上げられています。
 この地域は山々の間に小さな谷が点在するような地域で、「郷主」と呼ばれる小さな領主がそれぞれの小さな谷を支配していました。独立した「郷主」は「一騎立」とも言われましたが、徐々により大きな領主に従属するようになります。
 そして、この地域に武田氏の支配が及ぶようになると、こうした郷主は軍役を拝辞して農民に戻っていったといいます。こうして独立した経済圏は従属地となり、生産物が武田氏に貢納されるようになったことで、経済的な打撃を受けました。
 さらに検地によって、以前の郷主領は「村」という形になっていくのです。

 ここまで紹介した村と、第4章の最初でとり上げられている、福武直が紹介する秋田県大館周辺の村では、本家ー分家といった同族関係が強いのですが、同じく福武が紹介する岡山県吉備町の旧川入村ではやや様子が違っています。
 1947年の調査時点において、農家の経営はほぼ水田経営であり、また、裏作の藺草が重要でした。同じ面積あたりの収穫量は東北の村よりも多く、牛馬や機械の導入も進んでいました。

 家族の人数は平均5.2人であり、東北に比べると少ないです。これは妻帯した次男・三男が同居していることが少ないためで、東北では妻帯後しばらくして分家が行われるのに対して、ここでは妻帯直後に分家が行われるからです。生産力が高いために狭小な農地でもなんとかやっていくことができる点と、貨幣経済の浸透によって下層農民の没落が度々起こるために土地の流動性が高く、分家の創出が容易だからだと考えられます。
 狭小な農地での経営は楽ではありませんが、農外の就労も容易であるために、独立がなされていくのです。

 川入村でも、「株内」と呼ばれる同族関係はありますが、同時に、同族関係とは離れた「組」や「講」の関係が結ばれており、共有の山を管理する「山総代」も、3,4年で改選されて頻繁に交代していくなど、東北に比べると流動的な関係となっています。
 単純に西と東で類型化できるわけではありませんが、西と東で一定の違いが見られます。

 第6章の「南と北」では、沖縄と北海道の農村がとり上げられています。
 沖縄では北原淳・安和守茂の研究が紹介されていますが、ここでは現在の沖縄村落の起源は薩摩藩の侵攻以降の時代に出来上がったものだといいます。
 沖縄では、土地の私有が進まず、地租、賦役などは人頭割で課されていました。沖縄にも「ヤー(家)」と呼ばれるものがあり、儀礼や祖先祭祀の面では同族集団が存在しましたが、家産が欠如していたこともあり、経済的不成的性格を欠いていました。多くの家は土地所有規模が1町未満で5反未満というものも多かったのです。
 そこで、「門中」という同族の単位はあったものの、本家が経済的に優越するということは少なく、分家も比較的自由に行われました。
 森林と焼畑耕地が混在していることもあって、村落の地域的なまとまりは弱く、人の移動や集落の興廃も激しかったといいます。そうした中で「模合(もあい)」と呼ばれる森林管理などのための結合が生まれました。

 次は目を北に転じて北海道です。もちろん北海道の農村に関しては、アイヌの土地を奪って入植したという前提があるのですが、田畑保の研究を見ると他とは違った独自性が見られます。
 まず、北海道では直営大農場が目指されましたが失敗し、小作農家の大量導入による開墾が進められることになりました。
 まず、とり上げられているのが南空知の砺波部落です。ここは富山県の砺波地方出身者が移住してきた地域ですが、開墾を成功してうまく自作農になった家もあれば、失敗して退出する者、新たに小作として入ってくる者もいました。
 大正期になると、地力の問題もあって畑作から稲作への転換が進みますが、自作農は比較手安定していたものの、小作の経営は安定せず、その入れ替わりは激しいものでした。こうした中で、共同事業などは組合をつくって行われました。

 一方、旧阿波藩主蜂須賀茂韶を初代場主とする蜂須賀農場のような小作制大農場もありました。約6千町歩の貸し下げを受けて始まった農場で、初期は直営大農場が目指されましたが、小作制に転換しています。
 ここでは小作に組合をつくらせて、そこに組長を置いて管理していました。農家は道路沿いに点在し、この道路組や、あるいは同郷同士の結びつきが生まれました。
 ここでも小作の入れ替わりは激しかったのですが、これは北海道に置いては土地が本土ほど希少な資源ではなかったからです。また、こうした中で地主を目指す者もいました。
 蜂須賀農場は大規模な小作争議が起きたことでも有名ですが、小作たちが闘争的だった背景にも北海道ならではの小作の流動性があったと考えられます。

 第7章では大家族制と末子相続がとり上げられています。
 大家族制の例としては、柿崎京一による岐阜県白川村の研究がとり上げられています。白川村では、戸主のキョウダイ、オジ、オバ、イトコなどの傍系親が大家族の構成員となっており、「ツマドイ」婚によって再生産されていました。さらに「ヤシナイゴ」と言われる養子、または奉公人・使用人もいました。
 この大家族は明治30年代にピークを迎えたといいますが、大正中期以降に急速に縮小しています。白川村では、米の他に繭、薪、硝石などが重要な生産品でしたが、硝石の生産には大量の野草が必要となり、また一定上の規模の家屋が必要でした(家屋の床下でつくられる)。さらに養蚕にも労働力が必要であったこと、山林の利用の面から分家が抑制されたことなどが大家族制を生み出したのです。
 また、養蚕では特に女性の労働力が重視されたことから「ツマドイ」の婚姻形態を生んだと考えられます。

 一方、末子相続では内藤莞爾の薩摩地方を中心とした研究がとり上げられています。「末子相続」というと末子が必ず相続するように思えますが、実際は必ずしも長男ではない「不定相続」という性格が強いそうです。
 薩摩では「門割制」というものがあります。これは16〜60歳の丁男に耕地が割り当てられ、公租徴収のために「門」が設定されるもので、門の長は「名頭」、メンバーは「名子」になります。農民は単位労働力として把握され、土地の私有は許されません。そして、この地域の水田率は非常に低くなっています。
 また、薩摩の年貢はかなり重く、七公三民だったとも言われます。こうした中で、家産がないために長男は独立して新たな林野などを開墾し、家を出ていきます。そして、最終的に残った人間が家を継ぐという「末子相続」の慣行ができあがったと考えられるのです。

 第8章からは著者による山形県庄内地方の農村の研究が紹介されています。
 庄内といえば稲作がさかんであり、また日本一の地主とも言われた本間家があった場所でもあります。
 庄内の酒田は西廻り航路における重要な港であり、17世紀後半以降になると庄内の農民たちは町に働きに出て賃金を得るようにもなりました。それとともに、大規模経営は姿を消し、家族労働力で経営しながら、必要な時に奉公人を給米で雇用するようなスタイルが生まれてきます。
 同時に17世紀後半になると、本間家をはじめとして地主による土地集積が進んでいきます。
 特に享保期になると奉公人の年給が高騰し、地主手作りから自立経営を行っている農家に預け作をするようになっていきます。本家ー分家のような関係ではなく、あくまでも経済的な関係が中心の地主と小作の関係が形成されていくのです。

 この地方の村は、領主が検地と村切によって作り出したという側面の強いものでした。領主は村請制によって年貢の徴収を確実にしたかったため、「村」という単位をつくったのです。
 そして、この村請制は人々に協議や契約による結合をもたらしました。人為的に設定された村が共同体になっていったのです。

 明治になると、地租改正とともに、近隣地域との間で錯雑地の編出入が行われています。このときと郡区町村編制法によって村の再編が行われました。
 明治初期のこの地域の村を見ると、意外に養子や聟が多いのですが、これはたとえ実子の男子がいたとしても、あまりに父親との年齢が離れているとその家では田打のような肉体労働をする人間がいなくなったしまうということから起きた現象だと思われます。当主が50歳前後になると、若い労働力が必要とされたのです。
 ただし、明治30〜40年代にかけて定着する馬耕の導入と乾田化によって肉体的な力は以前ほどは必要ではなくなり、民法の施行もあって長男の相続が増えていったといいます。

 この乾田家は地主の主導によって進みました。地主手作の家がリーダーとなったケースもありましたが、本間家のような大地主のもとでは水田の再編も伴いながら乾田馬耕が導入されていきました。馬耕ができるように狭小な水田はより広いまとまった水田に再編されていったのです。
 一方、小作たちは水田で働きながら、生活に余裕がなくなると子どもを商家に方向に出したりしてしのぎました。こうした中で小作争議も起こり、大正末期に向けて農民組合運動がさかんになります。

 最後には農地改革を経た戦後の動きも紹介しています。青年学級での学び、青年団での活動がさかんになり、農業や畜産の共同経営も試みられるのですが、「経営」と「経済」がくっついている「家」の存在がネックになって共同経営は挫折していきます。そして、共同田植、共同防除、機械の共同購入を通じた集団栽培という形に落ち着いていくのです。

 このように本書は日本の農村のさまざまな姿を教えてくれます。本としてまとまり、あるいは、本書ならではの観点というのは少し弱いようにも思えますし、農村の現在の問題などについても書いてほしかったとは思いましが、本書で紹介されている研究はいずれも面白いものです。
 歴史の授業で、「農民」や「農村」をとり上げるとき、われわれは無意識のうちの単一的なイメージをもって教えていたりするわけですが、本書は「日本の農村」がそうした単一的なイメージに収まらないものであることを教えてくれます。