鎌倉幕府滅亡後の建武2(1335)年、北条高時の遺児・時行が幕府再興をために起こした反乱を中先代の乱といいます。「北条氏」を「先代」、足利氏を「当御代」と呼ぶと、時行がその中間にあたる「中先代」にあたるとのことでこの名称がついています。
 高校の日本史の教科書に載っているとはいえ、それほど知名度があるとも思えないのですが、今年になって『週刊少年ジャンプ』で北条時行を主人公とする松井優征『逃げ上手の若君』の連載が始まったことから、これから知名度も上がってくるのかもしれません。

 そんな中でタイムリーに出版されたのが本書になります(「あとがき」によると執筆の話は2019年から始まっていたとのこと)。史料の少ない中先代の乱について、鎌倉幕府と北条氏という大きな文脈から説き起こし、中先代の乱を中心とする幕府滅亡後の北条氏の動きを可能な限り追った内容になっています。

 目次は以下の通り。
序章 鎌倉幕府と北条氏
第1章 落日の鎌倉幕府
第2章 北条与党の反乱
第3章 陰謀と挙兵―中先代の乱1
第4章 激戦と鎮圧―中先代の乱2
第5章 知られざる「鎌倉合戦」
第6章 南朝での活動
終章 中先代の乱の意義と影響

 序章では鎌倉幕府の成立から北条氏が権力を握る過程が描かれていますが、ポイントとなるのが承久の乱です。「建武式目」に「北条義時が天下を平定した」(12p)との一節があるように、義時は武家政権の歴史において特筆すべき功績をあげた人物でした。
 北条氏は執権の地位に就任し幕府を仕切っていくわけですが、この北条氏の家督が得宗と呼ばれるようになり、この得宗こそが権力者だとされました。後醍醐天皇の子の護良親王の令旨で倒すべき敵として名指されたのは、当時の将軍の守邦親王でも執権の赤橋守時でもなく、得宗の北条高時だったのです。

 第1章では鎌倉幕府滅亡の経緯がまとめられています。13世紀半ばに皇統はいわゆる持明院統と大覚寺統に分裂します。そして、幕府の介入もあって、それぞれが交互に皇位につくという両統迭立の原則が立てられました。
 後醍醐天皇となる尊治親王は大覚寺統の生まれで、本来ならば必ずしも皇位を継ぐ立場ではなかったのですが、兄の後二条の皇子が幼少であったため、皇太子となります。
 文保元(1317)年に大覚寺統の後宇多上皇のはたらきかけもあって持明院統の花園天皇が退位し後醍醐が即位すると、皇太子は後二条の皇子邦良親王がなり、その次は後伏見の皇子量仁親王が予定されます。後醍醐は邦良が即位するまでの中継ぎであり、現在の体制がつづく限り後醍醐の皇子が皇位を継承する望みはありませんでした。後醍醐が倒幕の意思を持った背景にはこうした事情も考えられます。

 正中元(1324)年に後醍醐の倒幕計画である正中の変が露呈します。幕府から後醍醐へのおとがめはなかったものの、持明院統側からも邦良親王側からも後醍醐の退位を求める声が強まります。
 ところが、ここで邦良親王が27歳の若さで亡くなるのです。後醍醐は自らの子の尊良親王を皇太子にしようとしますが、幕府が皇太子に決めたのは量仁親王でした。ここでも、現状を打破しない限り後醍醐の子が天皇になることはないということが明らかになりました。

 一方幕府でも、高時が病で執権の地位を退いた後の後継者争いなどで混乱が続いていました。
 そこで後醍醐は再び倒幕を計画します。これが元弘の変(1331年)です。後醍醐は笠木城に籠もりますが、幕府は大軍を派遣して後醍醐を捕らえ、隠岐に流します。量仁親王が即位し光厳天皇となり、皇太子には邦良親王の子の康仁親王が立てられました。
 しかし、楠木正成の活躍や護良親王の出した令旨などにより乱は収まらず、1333年になると後醍醐が隠岐を脱出し、後醍醐方が勢いを増します。そして、追討軍の大将の一人である足利尊氏が寝返ったことで六波羅探題の攻め滅ぼされ、さらに新田義貞による鎌倉攻めで鎌倉幕府は滅亡するのです。

 この鎌倉攻めのとき、北条高時の弟である泰家は北条家再興を期して落ち延びることを決め、さらに兄の子の万寿と亀寿を密かに脱出させることとしました。泰家は自らの部下に自分と一緒に自害したように見せかけてくれと頼み、部下らはそれに従ったといいます。
 万寿と亀寿に関しては、万寿は元弘元(1331)年に7歳で元服した邦時で当時は9歳、亀寿は後の時行で当時は5歳だと推定されています。しかし、邦時は伯父五代院宗繁に託されたものの、宗繁の密告によって新田義貞に捕まり幕府滅亡の1週間後に処刑されています。一方、亀寿は諏訪盛高に託されました。

 建武の新政が始まると、すぐに元弘の乱で北条氏側に味方した者以外の所領を安堵する諸国平均安堵法が発布されます。また、鎌倉には相模守に任官した足利直義が後醍醐の皇子である成良親王を奉じて下向し、鎌倉将軍府が設置されました。
 この頃、護良親王が尊氏襲撃計画を立てたものの失敗しており、護良親王は代理で捕縛されて鎌倉に身柄を移されました。

 建武政権期(1333〜1336年)には各地で反乱が多発していますが、その中心となるのが北条氏と得宗被官を含めた北条氏の被官・被官の一族が起こした「北条与党」ともいうべき人々が起こした反乱です。
 なお、得宗被官ということは将軍の陪臣にあたりますが、得宗被官のほとんどが御家人が得宗の家臣になったものであり、他の御家人に比べて身分が低いというわけではありませんでした。
 著者は鎌倉幕府滅亡から足利尊氏の建武政権離反までに確認できた26件の反乱のうち、北条氏が起こしたものが10件、北条氏の被官が起こしたものが2件、北条氏でも北条氏の被官でもないが、北条氏に加担していた、あるいは中先代の乱に関連したもが3件、合計15件を「北条与党の反乱」としてまとめています(213-225pの表参照)。

 これらの反乱の原因は、幕府や北条氏の再興を目的としていたのでしょうが、同時に建武の新政への不満も大きかったと考えられます。
 例えば、鎌倉将軍府で成良親王の御所を警備した関東廂番の構成人員を見ると、6番編成のトップすべては足利氏一門であり、メンバーも足利氏とその被官が中心でした。倒幕のために戦った東国御家人層は冷遇された形になっており、これらの不満が旧勢力、つまり北条氏への回帰につながった面もあると見られます。

 これらの反乱の中には、北条氏と関連性の薄い地域で起こったものもあります。例えば紀伊の顕宝の反乱は、第15代執権金沢貞顕の甥で東大寺の有力な院家(本寺に属する小寺)の西室院の院主である顕宝が起こしたものとされていますが、北条氏と縁の薄い紀伊の飯盛山城で挙兵しています。
 顕宝とともに挙兵したのは湯浅党という紀伊の武士団の一門の六十谷(むそた)定尚らで、地方武士たちを糾合する権威として北条氏というブランドが機能したと考えられます。

 建武2(1335)年4月には、北条高安らによる足利尊氏・新田義貞襲撃計画が発覚し、さらに2ヶ月後には公卿の西園寺公宗が謀叛企てていたことが発覚します。
 西園寺氏は代々、幕府と朝廷のパイプ役である関東申次をつとめてきた家柄であり、公宗は幕府滅亡時の関東申次であり、正二位権大納言という地位にありました。
 『太平記』によれば、公宗は鎌倉を落ち延びた北条泰家を密かに匿っており、この泰家を京都の大将、時行を関東の大将、名越時兼を北国の大将として蜂起する計画を立て、まずは後醍醐天皇の暗殺を企てたが、弟の西園寺公重の密告によって露見したとされています。
 この公宗の計画が、泰家や時行の起こす中先代の乱と連携したものであったかについても議論がありますが、著者は連携があったと考えています。

 さて、いよいよ中先代の乱になるわけですが、本書の推定では乱が起きた1335年の時点で北条時行は7歳だと思われ、周囲にこれを奉じる勢力があったと見るのが自然です。
 中先代の乱が始まった信濃は情勢が安定せず、守護の小笠原貞宗が各地の反乱を抑え込んでいるような状況でした。そうした中、時行が諏訪大社の大祝(おおはふり・神官のトップ)でもあった諏訪頼重に奉じられて挙兵します。諏訪氏は得宗被官でもあり、神党と呼ばれる武士団の盟主でもありました。
 挙兵の時期に関しては6月説と7月説がありますが、小笠原貞宗の軍と衝突したのは7月14日になります。時行方が信濃守護所の船山郷青沼に攻め寄せ、戦いは激戦となりました。しかし、時行のいた本軍は別行動をとっており、信濃国司を攻め滅ぼした後、7月18日には上野に侵攻します。

 この後、上野蕪川、武蔵久米川、武蔵女影原、武蔵小手指原、武蔵国府と戦いが続き、7月22日には足利直義が武蔵井出沢で時行軍と戦っています。7月23日には直義が鎌倉を脱出、24日には武蔵鶴見で合戦があり、同日、時行が鎌倉に入っています
 武蔵小手指原などは新田義貞の鎌倉攻めでも合戦があった場所であり、義貞と同じく鎌倉街道上ノ道を進軍したものと考えられます。
 鎌倉将軍府側として戦った武士としては、渋川義季、岩松四郎・経家、小山秀朝、佐竹貞義・義直、今川範満などが確認できますが、多くが討死、または自害しており、戦いの厳しさを物語っています。
 なお、直義は鎌倉を出るときに、護良親王を殺害しています。この理由にも諸説がありますが、著者は時行が護良親王を将軍に担ぐくことを警戒したからだという説を採用しています。

 一方、直義の敗走を聞いた足利尊氏は、鎌倉下向と征夷将軍(征夷大将軍)と諸国の惣追捕使の地位を望みますが、後醍醐はこれを容れませんでした。尊氏が征夷大将軍と惣追捕使の地位を望んだことは尊氏がこのときすでに武家政権をたてることを考えていたからだという説もありますが、著者はこの時点で尊氏が建武政権から離脱する考えをもっていたとはみていません。
 尊氏は許可を得ないまま、8月2日に京を出立し、後醍醐はこの行動を追認するために征東将軍に補任します。京を出るときは500騎だった尊氏軍は、直義軍と合流して5万余騎になったとも言われています。

 時行方は、先手を取るために名越式部大夫を大将とする軍の派遣を決めますが、出立をしようとした8月3日に大風が起こります。これは台風と見られますが、大仏殿が倒壊するほどのものでした。時行軍の500余人が圧死したとも言われており、時行軍は出鼻をくじかれます。
 結局、8月7日の遠江の橋本を皮切りに、小夜中山、駿河国府などで合戦があったものの、いずれも尊氏軍が勝利し、8月17日には箱根、18日には相模川、19日には辻堂・片瀬原と時行方は後退を続け、19日には尊氏軍が鎌倉入りし、諏訪頼重は自害しました。
 こうして時行の鎌倉占領は20日あまりしかつづかず、諏訪頼重をはじめ主だった人物は、誰が誰ともわからないように顔の皮をはいで自害したといいます。しかし、時行はひそかに落ち延びていました。
 なお、北国の名越時兼も同時期に反乱を起こしていますが、11月に加賀と越前の境にある大聖寺で討死したといいます。

 この後も信濃では戦いが続きますが、歴史の動きとしては尊氏と後醍醐天皇の決裂→尊氏の上洛→北畠顕家との戦いでの敗戦→九州へ→九州から再度の上洛→光明天皇の即位と流れていきます。
 そんな中で注目すべきが延元元(1336)年の2〜3月に起こった「鎌倉合戦」と呼ばれるものです。足利一門の吉良貞家と「先代高時一族大夫四郎」らが戦ったとされていますが、著者はこの「大夫四郎」を北条泰家と推定しています。
 やや不明なことが多い戦いですが、どうやら「大夫四郎」は信濃で挙兵し、中先代の乱と同じようなルートをたどって鎌倉に攻め入ったらしいのです。そしてこの後、泰家は登場しなくなることから、著者はここで泰家は討死にしたと見ています。

 しかし、時行はしぶとく戦い続けます。後醍醐が吉野に逃れて南朝を開くと、時行は自分を赦免して尊氏・直義討伐に加えてほしいと願い出たのです。
 後醍醐はこの願いを容れ、延元2(1337)年に北畠顕家が義良親王を奉じて2度目の上洛をとにつくと時行はその軍に加わります。時行は伊豆で挙兵し、顕家や新田義貞の次男である徳寿丸(義興)と合流し、延元2年12月には足利義詮を追い落として鎌倉入を果たします。
 翌年になると顕家軍は上洛を目指し、時行は墨俣川で高師直の弟の重茂と戦い、これを破っています。顕家軍はそのまま上洛せずに伊勢に入り、顕家は伊勢や奈良を転戦した後、和泉堺浦で討ち死にします。
 義良親王や北畠親房は南朝勢力立て直しのために船で伊勢を出港します。このとき、時行は宗良親王とともに遠江に行き、井伊城に籠城したと言われています。

 興国元(1340)年6月、時行は諏訪頼重の孫の諏訪頼継とともに信濃の大徳王寺城で挙兵します。しかし、4ヶ月の籠城戦の末、小笠原貞宗の軍に敗れました。
 ここからしばらく時行の行方はつかめなくなりますが、正平7(1352)年、観応の擾乱による尊氏と直義の対立の中、南朝が鎌倉奪還のために軍事行動を起こすと、そこに時行が加わったのです。
 新田義宗と義興らが尊氏軍と戦う中、時行は義興とともに鎌倉入を果たします。尊氏が義宗の軍を打ち破って鎌倉に引き返したことで、南朝の鎌倉占領はわずかな期間でしたが、時行にとっては3度目の鎌倉入りでした。
 しかし、翌年、時行は罪人として捕えられ鎌倉郊外の刑場龍口で処刑されています。享年は25歳だと考えられます。

 このように本書は中先代の乱だけではなく、そこに至るまでの大きな流れ、そして北条時行の最期までを描いています。中先代の乱をとりまく大きな流れを押さえてくれているので、この時代に詳しくない人でも前半部分はついていきやすいのではないかと思います。
 一方、もう事件前後の細かい文脈、例えば「なぜ東国武士たちは建武の新政へ不満をいだいたのか?」、「なぜ北条氏は信濃で何度も挙兵できたのか?」といった部分の説明に関しては物足りない部分もあります(前者については関東廂番の構成人員という説明はありますが)。
 史料的な制約が大きいのだとは思いますが、細かく調べ上げられた具体的な出来事に対して、その文脈の説明はやや弱く感じました(例えば、中先代の乱で時行が鎌倉位に入った後に「正慶」の年号を使ったことに対する説明なども結論がわかりにくい)。

 あと、本書を読んでも北条時行がどのような人物であったのかがわからないことに不満を感じる人もいるかもしれませんが、これは史料がないので仕方がないのでしょう。もっとも、だからこそフィクションにおいてかなり自由に描ける人物ということになるかもしれません。