平沼騏一郎について良いイメージを持っている人は少ないでしょう。司法省や検察に平沼閥をつくり上げて暗躍し、ついには首相に上り詰めるも、独ソ不可侵条約という国際情勢の変化についていけずに「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」という言葉を残して退陣。最終的には戦犯となるといったイメージを持っている人も多いと思います。
 本書はそうした平沼のイメージを少しずつ修正してくれます。「少しずつ」というところがポイントで、おそらく本書を読んで平沼のことを好きになる人は少ないでしょうが、ゴリゴリのファッショ体質といったイメージは修正され、なぜ平沼が台頭してきたのかという理由も見えてくるはずです。

 目次は以下の通り。
第1章 苦学、東大首席卒業―国漢学と先端の法学の修養
第2章 司法省へ―転機となった司法官増俸要求事件
第3章 官僚としての手腕―欧州体験と司法制度改革
第4章 日糖事件・大逆事件の指揮―平沼閥の形成へ
第5章 検事総長時代―シーメンス事件と「中立」イメージ
第6章 政治権力を求めて―国本社の改組、政治勢力への接近
第7章 枢密院・国本社での躍動―陰謀家イメージの拡大
第8章 政権獲得をめざす―一九三〇年代初頭の平沼内閣運動
第9章 平沼内閣発足―枢密院議長から政権トップへ
第10章 太平洋戦争下の和平派、東京裁判での有罪

 平沼は1867年に津山藩の藩士の次男として生まれています。兄の淑郎はのちに早稲田大学学長になった人物で、学問に熱心な家系でした。
 騏一郎が6歳のときに一家は上京し、その後、騏一郎は東京大学に合格します。しかし、父が病気になったことで苦学の道を歩むことになりました。
 東京大学入学とともに、騏一郎は司法省に入る義務が生じる給費を受けますが、本人は弱小官庁の司法省よりは内務省に入りたいという思いがあったようです。
 それでも、騏一郎は大学時代に穂積陳重の講義を熱心に受け、1887年に帝国大学法科大学英法科を主席で卒業しました。

 1890年代、平沼は判事として仕事を行い、東京専門学校(のちの早稲田大学)などで刑法や民法の講義を行いました。また、私生活では結婚もしましたがまもなく離婚し、その後は独身を貫いています。
 1898年、第2次山県内閣の清浦法相のもとで優秀な司法官が遣外法官として欧米に派遣されますが、そこに平沼の名前はありませんでした。平沼は山県系のネットワークの中には入り込めてなかったようです。

 しかし、この遣外法官から漏れたことが平沼にとってかえってプラスになりました。遣外法官から帰国した者たちは司法官の増俸を目指して運動を行って司法省を去り、山県閥とは遠いと見られたことから平沼は政友会から好ましい人物だと思われることになります。
 
 第1次桂内閣のときに平沼は司法省参事官と検事を兼任することになります。この時期に平沼が力を入れたのが検察の地位の強化でした。
 当時の日本の刑事訴訟では予審制度が導入されており、予審判事が証拠の収集や捜査を行い控訴するかどうかを判断していました。一方、検事は被告人や証人を訊問できないなど、その権力は制限されていました。

 平沼は1907年の新刑法の成立に力を尽くし、この功績もあって鈴木喜三郎とともに遣外法官に選ばれます。
 欧州に派遣された平沼は、そこで指紋法の知見を学ぶとともに、無政府主義やストライキへの警戒感を強めました。また、イギリスの陪審制や裁判官への国民の信頼を知り、刑事司法改革のビジョンを得ます。鈴木との関係が深まったのもこの外遊の成果でした。

 平沼は帰国後の1909年、司法省民刑局長兼大審院判事として政治腐敗事件などの捜査に乗り出していきます。
 まず最初の事件は日糖事件でした。これは大日本製糖株式会社が政治家に賄賂を送ったとされる事件で、小林芳郎東京地裁検事正が指揮し、平沼はこれをバックアップしました。捜査の過程では内外石油株式会社からの贈賄の証拠も出てきましたが、平沼は当時の桂首相と交渉してこちらを不問に付す代わりに、日糖事件での検挙を認めさせました。
 1910年の大逆事件においても平沼は小林らを取り調べに当たらせ、桂首相と周到に連絡を取りながら起訴に持ち込んでいます。なお、死刑を求刑しつつも被告人のうち3名は陰謀に参与したのかわからぬと平沼も言っており、明治天皇による特赦もこうした強引な捜査と起訴に対応したものだと言えます。

 1911年、第2次西園寺内閣のもとで平沼は司法次官に昇格しますが、そこで取り組んだのが1908年施行の新刑法の厳罰化によって増えてしまった収監者の増加でした。
 平沼はこれに検察による不起訴の活用や、仮出獄の許可などで対処しようとします。結果、不起訴が増える代わりに無罪判決が減っていきます。今に至る精密司法が、1900年代〜20年代にかけて出来上がっていくのです(1901年に10%だった無罪率は1921年に0.8%になる(59p4−3参照)。
 また、第2次西園寺内閣での行財政改革に合わせて高齢の検判事を退職させていきます。これによって司法省内部での平沼の影響力が強まり、いわゆる平沼閥ができることになります。

 1913年、平沼は検事総長に昇格します。平沼は政治勢力から距離をとりながら、政治家の贈収賄事件などに関してはときの内閣と連絡を取り、辞職をすれば起訴しないなどの起訴猶予制度を活かした捜査を行いました。
 シーメンス事件では、この事件を山県有朋による山本権兵衛首相内閣の倒閣運動だと見ながら、検察が海軍の圧力に屈さずに公平な捜査をしているという印象を世間に持たせようとしました。
 一方、大隈内閣のもとで大浦兼武農商務相(この後内相に転じる)が議員の買収工作を行ったとされる大浦事件では、大浦の政界引退と引き換えに事件の幕引きをはかったものの、大浦がこれに応じず、検察が起訴に踏み切り、その後に大浦が辞職という展開になります。
 山県はこれを司法部と政友会が結託したものと考え、寺内内閣における平沼の法相就任に対して首を縦に振りませんでした。

 初の本格的な政党内閣である原敬内閣が成立すると平沼は法相を打診されましたが、これを断っています。政党色がつくのを嫌ったのが辞退の理由と見られます。
 原が導入しようとした陪審制に関しては賛意を示し、1922年制定の大正刑事訴訟法では起訴便宜主義を明文化し、検事を公訴前手続きの主宰者へと引き上げました。
 一方で、社会秩序の動揺に危機感を覚え、日本の伝統的価値観への傾斜を強めていきます。道徳を重視し、外交においても人種の違いを意識するようになっていくのです。

 1923年、第2次山本権兵衛内閣のもとで平沼は法相になります。実は平沼はこの前の時期に宮中入りを模索していました。将来的には宮相か内大臣の地位を狙っていたものと思われます。
 また、同じ岡山出身の竹内賀久治と意気投合し、竹内が設立した国本社、そして雑誌『国本』の活動に関わるようになっていきます。当時の雑誌には蓑田胸喜なども参加しており、国家主義職の強いものでした。

 その後、平沼は枢密院の顧問となりますが、普選と治安維持法を同時に成立させるという政府の方針に平沼は賛同していました。共産主義を警戒しつつも、普選の導入は必至であり、挙国一致のためにも役立つと考えたからです。
 また、平沼は法相辞任後に本格的に政治的な活動を始めることになります。国本社を改組して自ら会長となり、そこに宇垣一成や加藤寛治、荒木貞夫、鈴木喜三郎などを参加させたのです。
 会の主張は皇室中心主義や儒教的道徳の提唱、政党政治の弊害の是正、国際主義への批判といった漠然としたものでしたが、だからこそ他の国家主義的団体よりも多くの人物を集めることに成功しました。
 さらに平沼は政友会、薩摩閥、山県系の田健治郎などにも接近しています。

 1926年4月、平沼は枢密院副議長となります。議長は司法官として同僚だった倉富勇三郎で、大臣経験のない倉富は平沼を頼りにしました。
 平沼は元老の西園寺にも接近し、私設秘書の松本剛吉から高い評価を得ますが、肝心の西園寺は平沼の国家主義的言動や軍人との人脈などを警戒していました。
 1926年12月、平沼は西園寺に対し松本を介して、自分と田健治郎が支えるので西園寺が組閣をしないかという考えを示しますが、西園寺は何も返答しませんでした。この後の西園寺の行動を知る人であれば平沼の構想は見当外れであり、平沼は西園寺の本質を見誤っていたと言えます。

 1922年に山県有朋枢密院議長が死去した後、枢密院が政治的に活動することを避けるために倉富や平沼が任命されたわけですが、平沼は厳格な法令審査を行おうとして、政党と対立していきます。
 1927年の台湾銀行救済問題では、枢密院は若槻内閣の緊急勅令によって救済をはかろうとしますが、枢密院は議会を軽視するやり方に反発しました。平沼は支払猶予令を出すことを提案しますが、若槻はこれを拒否して総辞職します。
 その後の田中義一内閣の支払猶予令を枢密院は通したことから、平沼らが憲政会内閣の倒閣をはかったという話に発展していきます。支払猶予令ならば若槻内閣のときでも通ったのですが、世間や憲政会(立憲民政党)はそうは受け取りませんでした。
 鈴木喜三郎が政友会入りしたこと、治安維持法の最高刑を死刑にする改正を緊急勅令で通したことなどもあって、平沼は政友会寄りの陰謀家というイメージが強くなっていくのです。

 田中内閣につづいて成立した浜口雄幸内閣ではロンドン海軍軍縮条約の批准が問題となります。平沼は基本的に反対の立場で、海軍の加藤寛治などと連携してこれを阻止する構えも見せますが、政府の強い姿勢もあって押し切られました。 
 
 1930年11月に浜口首相が狙撃されるなど、30年代になると政治的なテロ事件が頻発するようになります。こうした中、平沼は共産主義の拡大や軍の内部の下剋上の風潮の広がりを危惧していました。そして、荒木貞夫や真崎甚三郎などと連絡を取りながら、牧野伸顕内大臣の排斥や、自らを首班とする内閣の樹立を模索するようになるのです。
 平沼は荒木や真崎といった陸軍皇道派や、東郷平八郎、小笠原長生らの海軍艦隊派と連携し、挙国一致内閣の首班となることを目指しました。

 1934年になると斎藤実内閣に代わって平沼内閣を求める声が強まります。しかし、倉富枢密院議長が辞職した後任に、西園寺が平沼ではなく慣例を破って一木喜徳郎を据えたことで、西園寺が自らを首相に推してくれる可能性がないことを悟ります。
 平沼は加藤寛治を首班とする構想を持ちますが、その加藤が34年10月に後備役に編入されるなど、海軍内の平沼と提携する人々が影響力を失っていきます。また、陸軍でも皇道派を抑え込む動きが起こり、平沼の軍部での影響力は衰えていくのです。

 斎藤内閣のときにおこった帝人事件についても平沼による倒閣の陰謀と思われていますが、平沼が捜査に直接的に関与したという証拠はないそうです。天皇機関説事件もあり、この時期は司法部が平沼の指示のもとに穏健派を攻撃したというイメージもありますが、司法部は美濃部の処分を見送るなど、軍部とは距離をとる姿勢をとっています。

 二・二六事件後、一木枢密院議長が辞任の意向を示し、西園寺が難色を示したものの、平沼は枢密院議長となりました。このときに西園寺が出した条件が国本社との関係を断つことで、平沼を失った国本社は解散することとなります。
 1937年に宇垣一成の組閣が失敗すると、湯浅は平沼を第一候補にあげますが、平沼は辞退しました。おそらく、荒木や真崎などがいなくなった陸軍を統制する術を持たなかったからだと思われます。

 そんな中、第1次近衛内閣が日中戦争で行き詰まると、1939年1月についに平沼に大命が降下します。平沼72歳のときでした。
 西園寺はこのとき平沼について「エラスティック[elastic 融通が効く]だからね」(216p)との言葉を残していますが、以前は危険な国家主義者と見られた平沼も、議会制などの憲法の体制自体は守ろうとしていた人物であり、また、ファナティックなところがないことから、それなりにやると考えたのでしょう。

 実際、平沼は内閣人事は近衛内閣のものを引き継ぎつつ、政務官をすべて衆議院議員から採用するなど政党への配慮も見せました。議会での施政方針演説では、憲法や議会の尊重を明言し、新党運動を否定しています。
 しかし、最大の難問が三国同盟でした。平沼は防共や欧米中心の国際秩序への反発は持っていましたが、だからといって英米を敵に回すような考えは持っていませんでした。三国同盟に関しては、対ソ同盟ならありだが対英同盟は結べないというスタンスです。
 しかし、大島浩駐独大使と白鳥敏夫駐伊大使らは日本からの訓令を無視して、英仏との戦争になったら日本が独伊側で参戦する義務を約束していしまいます。平沼はこうした方針に反対でしたが、国内での三国同盟を求める声の高まりを受け、交渉を打ち切りはしませんでした。

 三国同盟の交渉が行き詰まり、中国での汪兆銘政権が期待はずれに終わったことなどから、平沼は対米工作を始め、欧州での大戦を避けるための国際会議の開催などをルーズベルトに呼びかけます。しかし、アメリカは日中戦争の仲介役をさせられることを警戒し、この話に乗りませんでした。
 ソ連との間にはノモンハン事件が起こるなど外交は難局が続きますが、さらに独ソ不可侵条約の衝撃が加わります。
 ここで平沼は「複雑怪奇」声明を出して辞職するわけですが、ある意味で独ソ不可侵条約は「渡りに船」(241p)でもありました。これで就任以来つづいていきた三国同盟の問題を終結させることができたからです。

 平沼は新体制運動に乗っかった第2次近衛内閣に無任所相として入閣しています。平沼は新体制運動に批判的でしたが、新体制運動を持て余すようになった近衛は、大政翼賛会の無力化を平沼に期待し、平沼は後に内相に転じて企画院の改革派を検挙するなどしていきます。
 外交面ではソ連との連携を主張する松岡洋右外相と合わず対立します。これが原因で1941年8月には狙撃されて重傷を負いました。日米開戦にあたっては平沼も意見を聞かれていますが賛成とも反対とも取れる意見を述べています。

 最後に、平沼が重要な役割を果たすのは終戦の決断においてです。ポツダム宣言を受諾すべきか決着がつかない8月9日、鈴木貫太郎首相は最高戦争指導会議に枢密院議長となっていた平沼を参加させるように願い出ます。これによって受諾賛成派(東郷外相・米内海相・平沼)と反対派(阿南陸相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長)が同数となり、鈴木首相は天皇の聖断を仰ぎました。
 平沼はここで、西園寺のいう「エラスティック」な面を見せたと言えるかもしれません。ただし、戦犯となった平沼は、戦争の遠因として自らを拒否した西園寺の外交上の失政をあげるなど、恨みがましい面を見せています。そして1952年に84歳で亡くなっています。

 本書を読むと、平沼に対する「戦前期の政治を動かした国家主義者であり陰謀家」といったイメージは相対化されるでしょう。平沼は、分権的傾向をもつ大日本帝国憲法のもとで司法部、特に検察の独立性を確立しようとし、首相の座を狙うようになってからはその分権的傾向を国本社を使った軍人との人脈で乗り越えようとした政治家と言えるかもしれません。
 しかし、皇道や道徳を重視するその政策は漠然としたために、期待を集めると同時に重要なポジションについても何かを大きく変えるようなものではなかったという感じでしょうか。
 日本の精密司法の源流を知ることもできますし、面白い評伝だと思います。