副題は「理念の力と国際政治の現実」。「国際政治」とあるように、本書が取り扱うのは国際政治における「人権」が中心になります。
 近年、中国の新疆ウイグル自治区での人権侵害が問題となり、新疆ウイグル自治区でつくられたコットンを利用する企業が批判されたり、ミャンマーのクーデタでも「人権」をキーワードに批判が行われたり、人権侵害を告発する声は高まっています。
 一方、新疆ウイグル自治区の問題でも、アメリカのグアンタナモ収容所でも、告発が行われたからといって有効な制裁が行われるわけではないという問題もあります。
 
 本書は、こうした国際社会における「人権」に関して、その歴史を辿りつつ、いかなる役割を果たしたのか? その限界はどこにあるのか? といった問題を論じたものになります。
 国際社会における人権というと、何か偽善的な印象を持っている人もいるかもしれませんが、本書を読むと、それがタテマエであっても人権が果たしてきた役割というのがあったこともわかると思います。

 目次は以下の通り。
第1章 普遍的人権のルーツ(18世紀から20世紀半ばまで)――普遍性原理の発展史
第2章 国家の計算違い(1940年代から1980年代まで)――内政干渉肯定の原理の確立
第3章 国際人権の実効性(1990年代以降)――理念と現実の距離
第4章 国際人権と日本の歩み――人権運動と人権外交

 まず、本書は人権のルーツから説き起こしています。
 人権のルーツというと、ホッブズやロックの提唱した自然権に求められることが多いですが、本書ではそれとともに、他者への共感というポイントを重視しています。
 ホッブズやロックの社会契約論では、国家がその構成員の自然権を保護するという形になり、その社会集団の外側にいる人々の権利についてまでは保護しようとしません。
 ヨーロッパで発展した主権国家体制は内政不干渉の原則を持っており、自国以外の人々の権利についてはとりあえず不問に付されていました。

 こうした壁を乗り越えていくことになったのが他集団の人々への共感です。
 リン・ハントは『人権を創造する』の中で、啓蒙主義時代に流行した書簡体小説が読者と登場人物の一体化を促して、それが階級や性別を超えた共感を可能にしたという議論を行いましたが、こうした共感は普遍的な人権が広がっていく一つのきっかけとなりました。

 18世紀後半からは奴隷貿易廃止運動が盛り上がります。イギリスではクエーカー教徒などを中心にして運動が繰り広げられ、1807年には奴隷貿易廃止法が制定されました。
 イギリスが奴隷貿易廃止という理念にコミットし多国籍の奴隷船も取り締まったことから、漸進的に奴隷貿易は廃止されていくことになります。

 労働運動も国際的な人権意識を高めることにつながりました。労働運動は国を超えた労働者の団結を訴え、共産主義や社会主義の広がりを恐れた国々は1919年に国際労働機関(ILO)をつくりました。このILOが多くの法的拘束力を持つ条約を採択していくことになります。
 19世紀には、戦争の悲惨さを受けて赤十字が設立され、ギリシャやブルガリアの独立運動ではオスマン帝国の残虐な行為に非難が集まり英仏露などが介入しました。フランスでのドレフュス事件も国際的な人権問題として注目された例と言えます。

 しかし、こうした共感も植民地の人々や違う人種にはなかなか届きませんでした。民族自決権の考えは広がりましたが、これも基本的にはヨーロッパのみに当てはまる原則でした。
 第一次世界大戦後につくられた国際連盟の国際連盟規約には「人権」という文字は一度も登場せず、普遍的な人権という考えはまだ国際政治で重要な位置を占めることはありませんでした。

 1930年代になると人々の共感を集める手段として写真が登場します。貧困や人権侵害の被害者の写真が人々の共感を呼び起こしました。
 こうした中で起こった第二次世界大戦では、連合軍は自由と人権を守ることを掲げて戦いました。また、大戦終結近くになって知られるようになったホロコーストの悲惨さは、国家主権を超えた人権保護の重要性を人々に認識させました。
 こうした中で生まれた国際連合憲章では、人権が明記され、普遍的な人権を守ることが恒久平和につながるという認識が打ち出されることになります。
 1946年には国連人権委員会が設立され、48年には世界人権宣言が採択されました。普遍的人権の重要性は国際社会でも認識されるようになったのです。

 世界人権宣言が採択されたといっても内政不干渉の原則は強力でした。また、国連人権委員会にアメリカ代表として参加していたエレノア・ローズベルトのもとには、世界人権宣言を法的拘束力をもたない宣言にとどめるべきべしとの指令も届いていました。
 一方、一歩踏み込んだのが世界人権宣言の前日に採択されたジェノサイド条約です。この条約はホロコーストのような民族や人種の抹殺行為を禁止するもので、参加国に対してジェノサイド防止のための行動を求めています。

 また、この時期に国連で国際的な人権問題としてとり上げられたのが南アフリカのアパルトヘイトです。1946年にインドが南アに住みインド人が差別的な扱いを受けていることを非難する決議を提案し、これが総会で可決されます。その後も、南アは締め出しやボイコットを受け、国際社会で孤立していくこととなりました。
 60年代にアフリカの国々が独立していくと、民族自決権などを求める動きも強まり、1966年の国際人権規約では民族自決権が盛り込まれます。さらに65年には人種差別撤廃条約が採択され、76年にはアパルトヘイト撤廃条約が採択されるなど、人種差別を許さないという風潮が強まります。

 国際人権規約に関しては、ソ連と東欧諸国が推す経済権や社会権がA規約に、アメリカなどの西側諸国が推す政治権・市民権がB規約としてまとまり、1976年に必要な国の数の批准を得て発効しました。
 国際人権規約のB規約には2つの選択議定書があり、第一選択議定書では個人が直接、規約人権委員会に通報できるようにもなっています(第二選択議定書では死刑の廃止を盛り込んでいる)。

 70年代以降、国連は女性差別撤廃条約、拷問等禁止条約、子どもの権利条約、移住労働者権利条約、障害者権利条約、強制失踪防止条約と、監視機関付きの人権条約を生み出してきました。
 監視機関では締約国からの報告書が審査され、各国の代表に対して突っ込んだ質問がなされます。さらにこれらの審査は一定の期間をおいて定期的になされ、締約国に対するプレッシャーとなります。
 これらの活動には限界もありますが、内政への干渉を前提とした仕組みになっており、内政不干渉の原則から一歩踏み込んだものとなっています。

 こうした人権に関する条約は冷戦のもとでは所詮タテマエのように扱われることもありました。国際人権規約はアフリカ・アジア・ラテンアメリカ・東欧など、必ずしも人権や民主主義を重視していないと思われる国で先行して批准んされましたが、これはこうした国々が独裁者や政府の一存で批准できたからです。
 こうした国々は外からの批判に対して、人権条約に入っていることでその批判を受け流そうとした面もあるのですが、冷戦後に人権監視のシステムが機能するようになったからといって今さら抜けるわけにもいきません。
 著者は、このように独裁国家などが人権に付き合わざるを得なくなった状況を「空虚な約束のパラドックス」(84p)と名付けています。

 また、冷戦期にはソ連がアメリカにおける人種差別を批判し、アメリカはソ連の批判を封じるためにも国内の人種問題に取り組まざるを得なくなりました。

 現在も活躍している人権NGOがつくられたのも冷戦下になります。アムネスティー・インターナショナルは1961年にポルトガルの軍政下で学生は「自由に乾杯」と言っただけで逮捕された記事を読んだ弁護士のピーター・べネンソンによってつくられました。77年にはノーベル平和賞を受賞しています。
 ヒューマン・ライツ・ウォッチは78年のヘルシンキ合意の履行を確認するためにつくられたヘルシンキ・ウォッチをもとに、アメリカやアジア、アフリカなど各地のウォッチがつくられ、それが統合されて88年にヒューマン・ライツ・ウォッチとなっています。

 冷戦が終結し90年代に入ると、国連に対する期待も高まってくるわけですが、国連はその期待に十分に応えられたわけではありませんでした。
 89年の天安門事件に関連して、国連人権委員会では中国を非難する決議が何度か出されましたがいずれも否決され、しだいに経済制裁も緩んでいきます。
 ユーゴスラビア紛争においても、国連はスレブレニツァの虐殺などを止めることができませんでした。しかし、93年に国連安全保障理事会の決議によって旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷が設置されるなど、戦争犯罪やジェノサイドのなどの人権侵害を行った個人を処罰する仕組みをつくりました。

 ルワンダのジェノサイドに関しても国連の行動は遅れました。虐殺がほぼ収束してから、ルワンダ国際戦犯法廷が設置されましたが、虐殺の抑止という点からは遅かったと言えます。
 一方、東ティモール独立をめぐる混乱に対しては、オーストラリアがこの問題にコミットし、安保理の決議を取り付けて自軍を派遣したことから、大規模な暴力行為を防ぐことに成功しています。

 2001年の9.11テロはアフガニスタンやイラクでの戦争へとつながっていきますが、その中でグアンタナモ収容所やイラクのアブグレイブ刑務所などでのアメリカによる人権侵害が問題となりました。この中で水責めや感覚遮断といった体に傷を残さない拷問が「強化された尋問技術」(124p)として正当化されました。
 オバマ大統領によってこの「強化された尋問技術」の正当化は取り下げられましたが、グアンタナモ収容所の閉鎖はできませんでした。

 2002年には国際刑事裁判所が発足します。大規模な人権侵害の加害者個人を罰するための常設的な組織になります。
 ただし、この国際刑事裁判所のつくる規約であるローマ規約は、アメリカ・ロシア・中国といった常任理事国は批准していません(アメリカはクリントン政権が署名するも批准に至らず)。
 2016年にグルジアのケースがとり上げられるまで、アフリカ諸国の案件ばかりだったことから反アフリカ差別があるとの声もあがりましたが、その後はフィリピンやベネズエラ、パレスチナなどの案件もとり上げられています。

 このような大きな動き以外でも人権擁護の取り組みはなされています。
 欧州では欧州人権裁判所が加盟国の最高裁を超えるような権限で影響力を発揮しており、また、国際機関の出資条件や国際貿易協定に人権条項が盛り込まれることも多く、人権問題に取り組むインセンティブを与えています。

 著者は、国際人権の影響力は人々の人権に対する考えを変えることにあるといいます。普遍的な人権が国際社会で認識されることによって、国内の状況をおかしいと気付かせ、変化のために立ち上がる力を生み出すというのです。

 ただし、規範の外から押し付けのようなかたちになってしまってうまくいかないケースもあります。女性機の一部を切除するフィーメル・ジェニタル・ミューティレーション(FGM)に対する撤廃運動は、アフリカでは新帝国主義と批判され、必ずしもうまくいきませんでした。現地の文化を否定するのではなく、内部からその変化を促すような姿勢が必要だといいます。

 また、企業が人権問題に直面するようになったのも近年の特徴です。ナイキが直面したスウェットショップの問題や大企業のサプライチェーンにおける劣悪な労働条件や児童労働など、企業が批判の矢面に立たされることも多くなっています。
 当初は企業は関係を否定したりすることが多かったですが、国家が次第に人権に真剣に取り組まざるを得なくなったのと同じように、企業も次第に人権問題に率先して取り組むようになりつつあります。

 最後の第4章では、日本と人権の関わりについて触れられています。
 日本では明治期に啓蒙思想とともに人権の考えが輸入され、大正デモクラシー期には労働運動、女性解放運動、被差別部落の解放運動が盛んになりました。
 また、第一次世界大戦後のパリ講和会議では人種平等原則を提案しますが、アメリカやイギリス、オーストラリアなどの反対によって実現しませんでした。この挫折はアジア主義を勢いづけ、欧米からの干渉を排除する姿勢にもつながっていきました。

 1979年に日本は国際人権規約を批准し、監視機関からの監視も受けることになります。日本が継続的に批判を受けたのは、代用監獄や死刑制度なの司法問題、難民認定や移民制度、人身取引、女性差別、国内人権機構の設立の問題などです。
 
 国際的な人権意識の高まりが国内問題に大きな影響を与えた例として、本書ではアイヌの問題と、在日コリアンの指紋押捺拒否運動がとり上げられています。
 アイヌに関しては、1946年に北海道アイヌ協会が誕生しますが、政府の支援の受け皿的な存在で積極的な主張はありませんでした。しかし、70年代からの海外のマイノリティのとの交流や、86年の中曽根首相の「単一民族国家」発言などをきっかけに、積極的に国際的な場での主張を始めます。
 これを受けて、政府は91年の規約人権委員会への報告書でアイヌをマイノリティーとして認め、08年にはアイヌを先住民族だと認める国会決議がなされます。。
 
 指紋押捺拒否も80年に韓宗碩(ハンジョンソク)が最初に行いましたが、拒否に踏み切った理由として79年に日本が国際人権規約を批准したことをあげています。こうした流れの中で、他の在日コリアンの中からも指紋押捺拒否が始まり、韓国政府や各地のコリアン・コミュニティーと連携しながら運動を進め、93年に在日コリアンに対する指紋押捺は全廃されました。

 歴史認識問題でも、近年では歴史的な正当性といった形ではなく、人権問題として認識される傾向が高まっています。慰安婦問題などは、まさにこうした人権問題として扱われるようになった代表例と言えるでしょう。

 今までの日本は、他国の人権侵害に対する追及で厳しい態度をとってきませんでした。欧米とは一線を画する対話路線をとることが多かったと言えます。
 しかし、第2次安倍政権が価値観外交を唱えるなど、日本の外交においても価値観にコミットする姿勢が強まっています。日本版のマグニツキー法(人権侵害に関与した政府関係者の個人資産を凍結したりする法)の制定など、さまざまな課題が浮上しており、人権を意識した外交や政治がより必要になってきていると言えます。

 このように本書は国際人権の歩みを見ていくことで、「人権なんてタテマエ」といった見方を丁寧に批判していくような内容になっています。
 もちろん米中ロのような大国に人権を守らせる手段というのはなかなかないわけですが、広い目で見れば人権に対する意識の高まりや、人権を守ろうとする国家や人々の行動が、世界を少しずつ変えているというのは事実でしょう。
 
 ただ、本書では「日本ももっと「人権力」を持つべきだ」という主張していますが、ロシアのウクライナ侵攻で人権をめぐって究極的な選択が突きつけられている状況を考えると、「人権力」というネーミングは個人的にはやや軽く思えてしまいます(あくまでもネーミングの問題なのですが)。