「哲学」というと、どうしても西洋のものということになり、中国や日本のものは「思想」という形で括られることが多いですが、本書は、あえて「哲学」という言葉を使い、西洋哲学や仏教との比較や対話も試みながら、中国哲学の歴史を描きだしてます。
 中国の思想を紹介する本は数多くありますが、基本的には諸子百家を中心にそれぞれの違いなどを論じたものが多いです。そうした中で、本書は、中国内の関係(例えば孔子と老子)だけではなく、中国の外から来た思想との関係(例えば儒教と仏教、キリスト教)を見ていくことで、より立体的な中国哲学の姿を構築しています。
 
 索引なども入れれば360pを超える本で、内容的にも難しい部分を含んでいるのですが、今までにないスケールで中国の思想を語ってくれている本であり、中国社会を理解していく上でも興味深い論点を含んだ本だと思います。

 目次は以下の通り。
はじめに――中国哲学史を書くとはどういうことか
第1章 中国哲学史の起源
第2章 孔子――異様な異邦人
第3章 正しさとは何か
第4章 孟子、荀子、荘子――変化の哲学
第5章 礼とは何か
第6章 『老子』『韓非子』『淮南子』――政治哲学とユートピア
第7章 董仲舒、王充――帝国の哲学
第8章 王弼、郭象――無の形而上学
第9章 仏教との対決――パラダイムシフト1
第10章 『詩経』から『文心雕龍』へ――文の哲学
第11章 韓愈――ミメーシスと歴史性
第12章 朱熹と朱子学――新儒教の挑戦
第13章 陽明学――誰もが聖人になる
第14章 キリスト教との対決――パラダイムシフト2
第15章 西洋は中国をどう見たのか1――一七~一九世紀
第16章 戴震――考証学の時代
第17章 西洋近代との対決――パラダイムシフト3
第18章 胡適と近代中国哲学の成立――啓蒙と宗教
第19章 現代新儒家の挑戦――儒教と西洋哲学の融合へ
第20章 西洋は中国をどう見たのか2――二〇世紀
第21章 普遍論争――二一世紀
おわりに

 目次を見てもらえばわかるように、論点は多岐に渡っていますので、ここでは個人的に気になった部分を中心に紹介していきます。

 本書の記述は孔子から始まりますが、その思想の核心は「仁」だといいます。
 フランスの中国学者のアンヌ・チャンは仁について「孔子の斬新で大いなる概念であって、人間に賭けるという思いが結晶化したものだ」(51p)と述べています。
 日本では「仁」というと「仁政」と結びつきやすいですが、孔子は「広く民に恩恵を施して、万人に必要なものを与えること」は「もはや仁とは言えず、きっと聖であろう」と述べています(51p)。仁とは人間的な関係に基づくものなのです。

 ただし、孔子をヒューマニズムと結びつけることに著者は慎重です。孔子の教えには宗教的な超越性への志向もありますし、仁も「礼」という形式に沿って示されます。
 その礼についてですが、孔子は形骸化した礼であっても守るべきだとしている一方で、時代の変化の中で礼が形骸化することも認めています。

 孔子は政治を司るとしたら「名を正す」(「正名」)と言っています。「政は正である」(60p)と言うように、政治の目的は正しい秩序の実現として捉えられています。
 これは守旧的な考えにも見えますが、一方で力が正義だいう考えを認めないことでもあります。
 
 この「正名」の考えを哲学的に突き詰めたのが荀子で、「名には固有の意味がない。約束をして命名し、その約束が定着し慣習となったらそれをその名の意味という」(67p)と述べ、名が流動的であることを示唆しています。
 そして、王は旧名にそって新しい名前をつけることで、民を統率できるとしています。

 この荀子が性悪説をとったのに対して性善説をとったのが孟子です。
 『孟子』の中に、王が犠牲に捧げられる牛を見て憐れに思い、羊に替えさせたという話が出てきます。人々は牛がもったいないから羊に替えた、つまり王はケチだと考えましたが、孟子はこの王の判断を誉めました。犠牲になる牛を見て、憐れだと思った心(惻隠の心)こそが仁の始まりだからです。私たちの心にはこうした憐れみの心が備わっており、それを伸ばすことで正しい存在になっていくのです。
 それとともに孟子は礼を失った王を討伐することも認めています。一種の正戦を認める考えで、著者は「礼を民主主義やその他のイデオロギーに置き換えてみれば、今日の世界でも十分に通用してしまう」(93p)と述べています。

 孟子にしろ荀子にしろ人々を「教化」(啓蒙)することについては共通していましたが、荘子にはこうした考えはなく、すべての変化を受け入れるという徹底的に受動的な姿勢となります。
 荘子は「死者も、はじめに生を求めたことを後悔しているのではないだろうか」(83p)と言いますが、著者はこれを単なる運命論とはとらずに、この世界の可能性を想像するラディカルさを秘めていると考えます。

 一般的には老子→荘子という流れで認識されていますが、テキストの成立では『老子』は『荘子』よりも後のものだと言います。
 『老子』のポイントとしては生成論がとり上げられることが多いですが、著者は『老子』のポイントを「水の政治哲学」と見ています。老子は「天下で水より柔弱なものはない。しかし、堅く強いものを攻めるのに水に勝るものはない」(106p)とし、王のあり方にも水の動きを投影しました。
 『老子』において理想とされる国は「小国寡民」であり、他の共同体との交わりがない世界です。これはユートピアですが、同時に他者が消されたディストピアとも言えます。

 一般的に道家と法家は対照的な思想と考えられていますが、『韓非子』の中には『老子』を解釈したテキストがあります。アンヌ・チャンによれば「自然の秩序と人間の秩序の連続性」という点では『老子』と韓非の考えは共通しており、その上で韓非は「人間の秩序の求めに応じて、天の秩序を裁断した」(111p)のです。

 漢帝国は武帝期の途中から「天」を持ち出して、その正統性を打ち立てようとしますが、このときに活躍したのが董仲舒でした。
 董仲舒は「人を作るのは天である」とし、「人が人であるのは天に本づく」としました(123p)。そして、「天が民のために王を立てる」と考えます。天によって皇帝の権力を基礎づけているわけですが、これは同時に天によって皇帝権に制約がかけられることでもあるのです。董仲舒は天は天災などによってその意思を示すと考えました。
 一方で王充は天災は自然現象であり、天は自然であり、無為であるという道家の考えを引き継ぎつつ、天と人を媒介する聖賢という特別な人間を想定しました。

 後漢崩壊後になると、玄学という道家・道教的な思想が生まれます。後漢末の桓帝の治世において、宦官に反対する士人たちがだなつされる事件が起こります。この後、士人たちは政治から身をひいて「清談」に耽るようになるのですが、そこで生まれてきたのが玄学です。

 その代表的な人物の一人である王弼は、無を万物の根源とする形而上学を唱え、無為の中でそれぞれがあるべき場所にある一へと集約された世界を理想としました。「自然」を理想とする本質主義とも言えます。
 西晋の時代の郭象は、無が何かを生じさせることを否定した上で、「では、何かを生じさせるのは誰なのか。独りでに、自ずから生じただけである」(145p)と述べ、自然のままにすべてが自足するような世界を理想としました。

 こうした中国の思想状況の中で外来思想としてやってきたのが仏教です。
 六朝期には儒学者の范縝と仏教徒の間で「神滅不滅論争」が行われています。これは仏教徒が「形(身体)」が滅んでも「神(精神)」は滅びないと身体と精神の二元論を主張したのに対して、范縝が形が滅べば神も滅ぶと一元論を主張したものです。
 范縝によれば、刀がないのに鋭さだけが残っていることがないように、形と神は不可分だというものでした。

 しかし、この議論だと形と神が一対一で対応している必要があります。沈約は范縝に議論に従うならば、死体も物質である以上、そこに何らかの「死神」を想定する必要が出てくるのではないかと述べています。
 また、仏教は仏になるという形で救済を示しましたが、范縝はあくまでも現世にこだわり、そこですべてのものがあるべき姿になることで救われるという本質主義を主張しています。

 南北朝から隋・唐の時代、儒教は仏教に押され気味でしたが、その儒教を独自性を回復させようとしたのが唐の韓愈です。
 韓愈はブッダを夷狄とし、先王の道を説きました。悪に溢れた人間の世界に、聖人が秩序を与え道を教えました。これが先王の道です。しかし、この聖人の道は堯から舜、そして代々の王〜孔子と伝えられましたが、孟子のところで断たれている状況です。
 この道が失われた状況において、韓愈は天と鬼神に頼み、さらに「古」を参照しながら、それを模倣するのではなく自己発出する「古文」を生み出そうとします。新しい言葉によって古き伝統を取り戻そうという試みです。

 この韓愈の挑戦を引き継ぐ形で、仏教に匹敵する内面の形而上学を確立したのが朱熹になります。
 朱熹は、身体的、仏式的な気と、天の理を共有する性からあらゆるものは説明できると考えました。性は本来、性善的なものですが、気としての身体や、欲望が偏った私から悪が生じます。
 この悪を制する道として、朱熹は礼の他に、その悪を自己欺瞞として定義し、誠意によって乗り越える道を示しました。自分の内面に向き合って悪を乗り越えるという禅に似たやり方を朱熹は採用したのです。
 この自己啓蒙は困難なものですが、朱熹は「物の地に至り、地を極めたること」である「格物致知」がこれを助けると考えました。また、君主が自己啓蒙を行うことによって民もまた自発的に自己啓蒙を行うと考えました。ただし、これは君主は慎むべきだという朱熹の別の主張とは矛盾します。
 一方、明末清初の王船山は、君子の閉ざされた自意識こそが自己欺瞞を可能にし、巨悪をなすという理論を展開しています。

 朱熹の打ち立てた朱子学は元の時代に科挙の中心となり、明の科挙においては朱子学の解釈のみが採用されるようになりました。そうした中で登場したのが王陽明であり、陽明学になります。
 朱子学と陽明学は対立的に論じられますが、著者はむしろその徹底と見ています。王陽明は朱熹が格物致知においてこだわった外部性を消去し、内部性に徹したのです。

 陽明学は独我論とも思われていますが、他者の心を想定していることから著者は「弱い独我論」だと考えています。王陽明によれば「天地万物と人はもともと一体」(204p)であり、この一体を支えるのが「良知」という知です。
 良知には「自ら知る」という自己反省的な構造があり、善であれ悪であれ意において作動したその時に、人は良知によってそれを知ります。つまり小人も善悪を自ら知ることとなります。
 ここから「満街これ聖人」(207p)という、すべての人が君子であり成人であるという考えが生まれてきます。

 この陽明学は、「独りよがりの信」に陥ることをどのように避けるかで、王学左派と王学右派に分裂しますが、王学右派の流れを汲む東林派は公共空間についての思考を深めました。繆昌期(びゅうしょうき)は是非の判断について民衆に求めました。民衆は「天下のことに携わっていないからこそ、その態度は衡平であり、見方は明晰であって、まっすぐに胸の中に満ち、喉に迫り、口を衝いて出て、天下の是非を確定するに至る」(212p)というのです。
 ただし、同時に繆昌期はその公論はあくまでも士大夫によって代理される必要があると考えていました。

 明末になるとキリスト教が中国にやってきます。イエズス会のマテオ・リッチは仏教の殺生戒や輪廻転生をめぐって仏教徒と論争を行なっています。このとき、仏教側が孟子の牛を見た王の憐れみの心を持ち出しているのは興味深いところです。

 一方、中国についての情報はヨーロッパの思想にも影響を与えました。ライプニッツは朱子学に神に基づかない世界観を見ようとしましたし、中国は聖書よりも古い「古代」として注目を浴びました。
 ディドロは中国が神なしで秩序ある世界を構築したと読める議論をした一方、「東洋の精神は、静かで、怠惰で、本質的な必要に閉じこもっていて、自分たちが打ち立てたいと思うものにとどまっていて、新しさに欠けている」(241p)とも述べています。
 これは19〜20世紀の中国イメージに通じるものであり、ヘーゲルも中国は変化がなく「世界史の外にある」(244p)と書いています。
 
 清の乾隆帝は『四庫全書』の編纂を命じました。こうした中で考証学が発展しますが、考証学の泰斗が戴震です。
 耐震は宋儒は「理に固執して権がない」(252p)と言いましたが、これは朱子学のような大きな理にこだわるのではなく、判断力である「権」を重視するということです。著者はこうした戴震の議論をヒュームと重ねています。

 19世紀、中国の前に再び西洋が登場しますが、中国の思想にもインパクトを与えたのがダーウィンの進化論です。
 厳復は、西洋のさまざまな思想書を翻訳するとともにスペンサーの社会進化論を紹介しましたが、「進化」を「天演」と訳し、中国の天の考えに引きつけて考えようとしました。

 日清戦争に敗北すると、康有為や梁啓超などが近代化を進めようとします。康有為は自らの考えるユートピアと孔子の理想を重ねましたが、梁啓超になると儒教的な伝統を批判して、民衆が「国民」になることを訴えています。
 
 ナショナリズムが盛んになる中で、プラグマティズムをもとにして新たな中国哲学を確立しようとしたのが胡適です。
 胡適はジョン・デューイに学びましたが、デューイが歴史的な因果関係を否定しそのプロセスに注目しましたのに対して、胡適はむしろ祖先とその子孫のつながりを重視します。
 そのせいもあるのか、最初は儒教に否定的だった胡適ですが、のちに孔子をメシアと捉え儒教を新宗教として描き出そうとします。胡適は自分の思想の「短所は浅くてわかりやすいことだ」と述べていますが、儒教をキリスト教に読み替えるような形も「浅い」啓蒙の一つのスタイルと言えるかもしれません。

 20世紀後半になると「新儒家」と呼ばれる運動が起こります。
 新儒家のスローガンとして「内聖外王」というものがあります。これはまず自らの内において「成聖」を目指すというもので、仏教の考えも取り入れながら聖人の道を目指すものです。そして、同時に経世済民のための「外王」の道をそこにいかに接続するかということが課題になります。

 こうした中で牟宋三(ぼうそうさん)は、外王を「新外王」としての民主主義に置き換えるという道を示しました。牟宋三は共産党の弾圧から逃れるため、1949年に台湾に渡っていますが、昔からの「内聖」と「外王」を直接結びつけるのではなく、自己否定を通じて新たな「外王」に至ろうとしました。
 一方、唐君毅は普遍的な理によって、「内聖」と民主主義をつなげようとしました。

 1980年代になると、大陸でも儒学の復興の動きが顕著になります。
 共産党を儒化して「儒士共同体」とし、マルクス・レーニン主義を「孔孟の道」に代える儒教国教化を唱えた康暁光のような人物もいますし、現在の中国社会を支えるものとして儒教に注目が集まっています。
 また、「天下」や「王道」といった中国的な普遍を語る言説も活発になっています。ただし、ここで持ち出される「天下」はどうしても復古的な響きのある言葉で、「中華の復興」に過ぎないのではないかという声もあります。
 第21章での議論を見ると、「「アジア」の共通点として「西洋ではない」こと以外の普遍的な何かがあるのか?」という問いが中国でもあるようです。

 このように非常に内容に詰まった本ですが、これでも言語や詩に関わる部分などはばっさりと落とした紹介です。
 なんとなく、諸子百家+朱子学+陽明学で終わってしまいがちな中国思想に関する知識ですが、本書ではこれを「哲学」として捉え、そのダイナミックな動きを歴史の中に追っています。「歴史の外」にあった中国哲学を「歴史」に取り込もうとした野心作だと言えるでしょう。