なぜ経済的な成功が手放しで賞賛されるようになったのか?
 本書はこの問いから始まります。アリストテレスは「貨殖」を批判しましたし、キリスト教でも富は警戒されていました。多くの宗教において貧者への施しが求められ、必要以上の蓄財は悪いものでした。
 ところが、現代の社会では大金持ちは尊敬を集め、生き方の手本にもなったりしています。

 著者はこの背景に人間観の転換があったと考えています。経済学が生み出した自己の利益を最大化することを目的としている「ホモ・エコノミクス」なるモデルが、いつの間にか実際の人間に重ね合わされ、そして一種の規範性を持つようになったというのです。
 本書は、この「ホモ・エコノミクス」がいかに誕生し、それが経済学と共にいかに広まっていったかを思想史的に辿った本になります。
 経済学がいかに生まれ、いかに数学を取り入れていったかということを、それぞれの思想家や経済学者のプロフィールなども交えながら語っていくさまは面白いです。
 ただ、後半の議論の運び方にはやや一面的な部分もあると感じました。

 目次は以下の通り。
第1部 富と徳
第2部 ホモ・エコノミクスの経済学
第3部 ホモ・エコノミクスの席捲

 基本的には清貧をよしとしたキリスト教ですが、中世になると利子や商売をどのように位置づけるかが問題となります。
 13世紀末以降、徴利禁止令の徹底によって姿を消したキリスト教徒の金貸しに代わってユダヤ人の金貸しが連れてこられ、のちには強欲の権化として差別されるようになります。
 しかし、15世紀になると「モンテ・ディ・ピエタ」と呼ばれる公的な金貸し(質屋)が登場し、教会も積極的にその設立を呼びかけるようになります。建前としては貧民の救済のためなのですが、喜捨や施しではなくあくまでも貸付でした。

 こうした中で、だんだんと貧者を問題視するような言説も生まれてくるわけですが、著者はここでメルヴィン・ラーナーの「公正世界仮説」というものを紹介しています。
 これは人は窮地に立たされた人や一方的な暴力の犠牲者に対して、その人にも何か落ち度があったのではないかと考えて自分を安心させるというものです。世の中の理不尽さから目を逸らすために被害者にその責任の一部を転嫁するというのです。
 こうした考えをもとに「悪い貧民」というカテゴリーが生まれてきたとも考えられます。
 
 ヨーロッパにおいて「富と徳」をめぐる問題を投じたのがマンデヴィルです。『蜂の寓話』(1714年)で有名ですが、マンデヴィルは人々の私益の追求が全体の利益になるということを、かなりエグい形で示しました。
 スコットランドのハチスンはこれに反論していますが、それは商売などにも一定の節度を求めるもので、徳と富の両立が目指されています。
 このハチスンの後継者がヒュームやスミスですが、ヒュームになると徳と富が必ずしも対立的には捉えられなくなります。

 ヒュームは、快楽を与えてくれる心の性質を「有徳」、苦痛を生み出すものを「悪徳」とし、有用性、あるいは効用、有利さ、利益といったものを徳の基準としました。
 ただし、それは自分の主観的快苦だけではありません。「共感」という働きによって他者の快苦もその判断に含まれ、それが道徳やルールの源泉になるのです。
 また、ヒュームは古代スパルタを持ち出して商業を抑圧する社会を批判し、商業の発展や都市化が「洗練」をもたらし、人々を穏和で冷静な存在にしてほどほどの平和な社会を生み出すとしました。
 ただし、この「洗練」と、例えばゾンバルトの指摘する「奢侈」や「見せびらかし消費」を分ける線をひくのは難しいもので、ある意味で奢侈に向けた欲求の道を開いたとも言えます。

 こうしたヒュームの考えに対して、意外にもアダム・スミスは少し違った考えを持っていたと言います。
 アダム・スミスは人々が富を目指す理由として、金持ちや権力者は見ているだけで快をもたらす存在だからだと言います。一瞬、よくわからないような考えに見えますが、セレブやストロングマンを好む人々のことを考えれば納得いくでしょう。
 スミスはこうした傾向が人々が権力者や金持ちに擦り寄る傾向をもたらし、道徳の退廃を招くと考えます。
 スミスは下層階級や中産層にとっては富の追求のための行為が堅実さや節度といった徳をもたらすと考えましたが、富裕層の段階では財産の追及と徳の追求は両立し難いと考えていたのです。

 富と徳を結びつけた有名な人物としてアメリカの100ドル札にもなっているベンジャミン・フランクリンがいます。
 フランクリンは「節制・沈黙・規律・決断・節約・勤勉・誠実・正義・中庸・清潔・平静・純潔・謙譲」という13の徳を掲げ、チェックシートをつくってそれを守れたかどうかを毎日書き留めたといいます。そして、フランクリンの中ではこれらの徳と富(成功)が分かち難く結びついているのです。
 ちなみに勤勉の権化のようなフランクリンですが、『自伝』の中の「時間表」を見ると、仕事は午前3時間、午後3時間の計6時間で(97p)、現代から見るとのんびりした日課です。

 このように18世紀になると「徳」と「富」の一体化が進むわけですが、「ホモ・エコノミクス」の誕生は、経済学の発展と経済学への数学の導入が大きなきっかけとなったといいます。第2部ではこの動きを追っています。

 経済学の歴史においては、「理論派」と「歴史学派」の対立がありました。イギリスではリカードウに対して歴史学派が反発する形で論争が起こりましたが、ドイツでは逆に歴史学派の重鎮シュモラーに対する理論派のメンガーの挑戦という形で論争が行われています。
 理論派は演繹的な理論によって経済学を科学として確立することを重視しましたが、歴史学派は帰納的な方法論を重視ししました。

 こうした中で、J・S・ミルは、人間の多面性を認める一方で、演繹的な方法論を支持し、富を所有しようと欲して合理的に行動する人間のある側面を分析する学問として「政治経済学」という分野を打ち立てようとしました。「ホモ・エコノミクス」の原型になります。
 
 オーストリア出身のメンガーも『社会科学、とりわけ政治経済学の方法に関する研究』の中で、「ホモ・エコノミクス」に対する歴史学派の批判に応えています。
 メンガーによれば、完全に合理的で経済的な利得動機だけで行動する人間があり得ないのは当然だが、それは化学における「純物質」や物理学における摩擦のない世界と同じで、ある種の理念系だというのです。

 メンガーは主著の『国民経済学原理』の改訂に力を注ぎますが、生前に完成させることはできませんでした。メンガーは現実の複雑さを理論に取り入れようと悪戦苦闘しましたが、同じオーストリアのハイエクらが受け継いだのは『国民経済学原理』の第一版でした。 
 著者はこのあたりの流れについて「理論の前提として人間がホモ・エコノミクスであると仮定しよう→人間は事実としてホモ・エコノミクスだ→人間はホモ・エコノミクスとしてふるまうべきだ」(133p)という「仮定」→「事実」→「規範」という拡張があったと批判しています(ちなみにハイエクに関しては、自由市場経済を擁護するために自身の理論が新自由主義の風潮の中で雑に利用されることを黙認してきたとみている)。

 メンガーは限界効用逓減の法則という、財から得る効用はだんだんと減っていくという考え(本書では、りんごは一口目はおいしいが、だんだん飽きてきてこってりとした家系ラーメンが食べたくなると説明されているが、普通の人にとっては家系ラーメンとりんごが逆では?)を経済学に導入し、「限界革命」を担った人物の1人としても知られています。
 この「限界革命」の立役者としては他にジェヴォンズとワルラスがいます。

 ジェヴォンズは、当初は自然科学を専攻し、一度職についてから経済学に目覚めたといいます。
 人々の行動を効用から捉えようとする考えはベンサムにもありましたが、それぞれの個人の間の効用をどう比較するかが課題となっていました。
 この効用に対して、ジェヴォンズはだんだんと効用が減っていくという性質に注目し、この動きを曲線として描き、それを微分して得られる接戦の傾きを効用として捉えようとしました。
 複数に人間の間の効用は直接比較できませんが、市場では交換が行われており、この効用をもとにして、これ以上の交換が行われない均衡点が求められます。この均衡点が「てこの原理」における釣り合いに重ねられるのです。

 レオン・ワルラスの父のオーギュスト・ワルラスも経済学者であり、オーギュストは数学者のクールノーと出会って経済現象を数学で記述するというアイディアに賛意を示しています。
 息子もこの考えを受け継ぐわけですが、レオン・ワルラスは父から土地国有化論というアイディアも受け継いでおり、それが原因でフランスの学会でポストを得られなかったとも言われています。
 ワルラスはローザンヌの力学教授であったアントワーヌ・ピカールの助けなども得ながら、経済学に数学を導入し、一般均衡の考えにたどり着きました。
 ワルラスもジェヴォンズと同じように、二者にとって最も効用が大きくなり受給がバランスする点というものが方程式によって示されますが、これは効率的であるだけでなく、誰も他者に比べて損していないという点で公平でもあります。

 このように経済学に力学の考えが取り入れられたことによって、「富と徳は両立するのか?」「商業の発展が新しい道徳をもたらすか?」といった問いは背後に退きました。
 また、市場の均衡と財の配分が重視され、その背後にあるはずの人間の欲望といったものは分析の対象から外れていきます。そして、市場の「外部」に関しても忘れられていくことになったのです。

 第3部ではこうして「科学」の装いをまとった経済学がどのようにその範囲を広げ、さまざまな影響を与えたかが批判的に検討されています。
 前半では「シカゴ学派第二世代」と呼ばれる人々がとり上げられていますが、本書で「シカゴ学派第二世代」の代表とされているのはゲイリー・ベッカーとセオドア・シュルツになります。

 まずベッカーですが、ベッカーは差別や犯罪といった分野に経済学の考えを持ち込んだことで知られています。
 ベッカーは、差別は経済的な損失を発生させるが、差別をする人間はそれをわかっていやっている。つまり、差別に対する好み(taste)を有していると考え、差別にまつわる非合理さをコストに換算して分析しようとしました。

 バッカーは犯罪に関しても、犯罪によって社会が被る損失と犯罪を取り締まるために社会が必要とする負担の均衡という形で考え、犯罪に対する対策を考えました。
 ベッカーは「ある人が「犯罪者」になるのは、他の人と基本的な動機が異なるからではなく、犯罪の費用と便益が異なるからである」(215p)と述べていますが、まさにさまざまな社会現象を「ホモ・エコノミクス」の観点から分析していると言えるでしょう。

 ベッカーの広めた概念として重要なのが「人的資本」です(シカゴ学派に人的資本論を導入したのはミンサーだと言われる)。
 これは今まで時間単位で測られるのみだった労働力の内実を説明しようとするもので、投資によって増えると考えられています。人は消費をするか、自らの人的資本の価値を上げるために投資するかという、企業と同じような選択を行っているというのです。
 人的資本は教育への投資などを考える場合には便利な考えですが、これによって教育もその「収益」が問われることになります。著者は日本の近年の大学改革の背景にもこうした流れの中にあると見ています。

 さらに著者はシュルツの農業経済学と「緑の革命」も批判的にとり上げます。
 シュルツは途上国の農民が貧しいのは無気力や新しい方法への無関心などではなく、これ以上の追加投資や労働を行っても精算がさほど増えない「慣習的農業」における均衡状態にいるからです。
 ここから抜け出すには「近代的農業」への脱皮が必要だとシュルツは言いますが、こうしたシュルツの考えを歓迎したのが、「緑の革命」を推進しようとしていた人々です。
 「緑の革命」では高収量品種の導入や化学肥料の投入によって農業の生産性を引き上げる試みがなされましたが、シュルツの考えがその理論的背景となりました。
 「緑の革命」は世界の食糧事情を改善したとして評価されていますが、種子や肥料を買う必要があるといった問題点もあります。著者はさらに遺伝子組み換え作物なども一連の流れと捉えてこれを批判するわけですが、ここはやや勇み足のような気もします。

 第3部の後半では、政治学への経済学の進出がとり上げられています。ゲーム理論、アローの社会的選択理論、「行動主義革命」などに簡単に触れた上で、ダウンズとブキャナンについて重点的に検討しています。

 ダウンズは『民主制の経済理論』で政治のおける投票行動に市場の考えを持ち込みました。
 有権者は投票において、投票所に足を運ぶコストや候補者を選ぶ情報コストを負担します。このコストと実現される政策からもたらされる便益によって投票行動は決まってくるというのです。
 政党も有権者と同じく、選挙の勝利を目指して「合理的」に行動します。二大政党の場合であれば、有権者が一番多くいるボリュームゾーンを狙って両党の政策は似通ってくると、ホテリングの店舗立地の理論を使って分析しました(もっともダウンズはイデオロギー的な分裂によって項はならないケースも想定している)。

 ブキャナンはタロックとともに『公共選択の理論』を書いていますが、政治社会のすべての争いを個人の選択の問題に還元して読み解こうとしたことが特徴になります。
 さまざまな問題に対して、それぞれの個人はまずは自発的な調整を試みますが、市場への参加が多くの人に利益をもたらすように、政治への参加も利益をもたらします。公共心や他者を思いやる心などがなくても政治は機能するのです。
 ブキャナンは『公共選択の理論』の「日本語版序文」で自分たちの考えをロールズになぞらえていますが、自らの利益を考える個人が憲法のような基本的なルールを生み出すさまをブキャナンらは描き出しています。

 著者は、こうした「ホモ・エコノミクス」を下敷きにした政治理論が「政治嫌い」を増やしているのではないかと、コリン・ヘイの議論を援用しながら述べています。
 政治アクターも自己の利益のために動いているわけであり、エリートたちも公共心などのためではなく自己利益のために政治を利用していると考えられるからです。
 そして、エリートも自己利益のことしか考えていないのならば、わざわざ税金を集めて甘い汁を吸わせるよりも市場に任せたほうがよいでしょう。こうして新自由主義による「脱政治化」の動きが支持されるのです。

 このように著者は「ホモ・エコノミクス」という人間像と、それを使った経済学の政治などの他分野への侵略を問題にしているわけですが、これはやや一面的にも思えます。
 経済学が他分野に手を伸ばしてきたという面もありますが、同時に社会問題を解決しようとした政治が経済学的な知を求めた面もあるでしょう。アーレントのように「政治に社会問題の解決を求めてはいけない」という考え方もできますが、経済成長や年金の支給などが政治の重要問題となっている現代において、あまり現実的とはいえないでしょう。
 ジェイン・ジェイコブズは『市場の倫理 統治の倫理』で、「道徳体型には市場の倫理と統治の倫理という2つのものがあって、それが混ぜ合わせると腐敗が起きる」といったことを主張しましたが、本書もこうした二面性に着目したほうが説得力が出るではないかと思いました。