出た当初はスルーしていたのですが、いくつか面白そうな感想を目にして読んでみたら、これは面白いですね。幕末において幕藩体制がいかに緩んでいたか、開国からはじまる社会変動がどのようなものであったのかということが庶民の目線から描かれています。
 とり上げられている事例は関東・東北・甲信などの東日本のものが多く、京都と西国雄藩中心に描かれることが多い幕末の歴史について、東国の様子を知ることができるのも興味深いところです。
 天狗党や渋沢成一郎のつくった振武軍など、去年の大河ドラマの「青天を衝け」と重なっている部分も多く、去年出版されていれば大河ドラマのよき副読本となったでしょう。また、新選組についての記述もありますし、土方歳三の義兄の佐藤彦五郎の活動もかなり詳細に追っています。新選組好きも面白く読めると思います。

 「民衆史」というと、以前はどうしても「政治権力vs民衆」的な図式を描くものが多かったですが、本書は民衆の「衆」としての力に着目しつつも、さまざまな意志を持った「個人」を描き、それを幕末の社会情勢とリンクさせているところが面白いです。

 目次は以下の通り。
序章 武威と仁政という政治理念
第一章 天保期の社会揺らぐ仁政
第二章 弘化から安政期の社会失墜する武威
第三章 万延から文久期の社会 尊王攘夷運動の全盛
第四章 元治から慶応期の社会 内戦と分断の時代

 まず、著者は「仁政と武威」という江戸時代の理念に着目します。
 秀吉の朝鮮侵略や鄭成功の物語などから、江戸時代には日本は「武威の国」であるという認識が広まっていました。また、武士は武力を独占しつつ百姓らに仁政を施し、その代わりに百姓らは年貢を納めるという「仁政」の考えも広がります。
 百姓一揆においても百姓たちが暴力を行使することはほとんどなく、幕藩領主の仁政を引き出すための訴願として百姓一揆という方法がとられたのです(著者が調べた百姓一揆1430件のうち武器を携行・使用した事例はわずか14件で、そのうち13件は19世紀になってから(5p))。

 江戸時代の前半は新田開発が進み人口も増えますが、享保期になると限界に達し、新たに百姓が分家をつくることは難しくなります。
 天明期になると田沼意次が株仲間の公認を行いますが、これは商売への新規参入が難しくなることでもあります。結果的に、百姓でも長男以外の男性は、「厄介」になるか、都市で奉公人、日傭稼、棒手振になるしかなく、若者たちは閉塞感を強めていくのです。

 こうした「仁政と武威」が崩れ始めるのが、徳川斉昭が「内憂外患」という言葉で表した天保期です。
 文政7(1824)年、イギリス捕鯨船員が水戸藩領常陸大津浜に上陸します。これを受けて水戸藩の会沢正志斎は「新論」を執筆します。正志斎は「富国強兵」という言葉を使い、軍事力の立て直しを訴えました(もとは古代中国の言葉だが、天子の「徳」を重視する中国では使われなくなっていった)。

 一方、在地社会も動揺します。天明期に関東で生糸や絹織物の生産が盛んになり、それに伴って貨幣経済が広がりますが、その一方で農村から労働力が街道や宿場などに流出し、農村の荒廃も進みました。
 そうした中で博徒や無宿や渡世人などが目立つようになります。これに対して幕府は関東取締出役を設置するわけですが、関東取締出役の定員は当初8人にすぎませんでした。
 幕府は農村の風俗統制などによって治安の回復を図ろうとしますが、そこでは若者組の在方歌舞伎や相撲興行などが禁止の対象とされました。これらの興行を仕切っていたのが博徒であり、そこには独自のネットワークもあったからです。

 一方、関東取締出役については現地に不案内であったために、「道案内」と呼ばれる地域の有力者を雇うのですが、博徒に詳しい人物が求められたために、博徒そのものや無宿などが就任すケースもあり、関東取締出役と博徒の癒着が問題になりました。

 前にも述べたように、この時期になると百姓でも長男以外は将来の見通しが立たなくなり、若者たちが村から逃げ(これを「不斗出」という)、宿場や河岸に滞留するようになります。
 「不斗出」者が犯罪を犯して捕まった場合は入牢その他の費用は村の負担となるため、村は彼らを宗門人別帳から抹消し、関係を絶ちました。こうして彼らは無宿となります。
 宿場や河岸の有力者は無宿を人足として雇用し、さらに賭場を開くことで彼らに支払った賃金を回収していきました。
 こうして博徒の活動も活発になり、国定忠治のような有名な博徒も生まれます。

 博徒の活動は関東で目立ちましたが、これは幕府が江戸防衛の観点から関東地方に大藩を設置せずに中小の譜代藩領と旗本・寺社領が入り組むような形にしたからで、それによって犯罪の取り締まりが難しかったからです。
 また、何者にも負けまいとする気概や秩序からの逸脱を良しとする関東人の気質も大きかったいいます(この気質が剣術の流行にもつながる)。
 
 天保期になると一揆も変質してきます。
 天保7(1836)年、甲州騒動と呼ばれる山梨県全域に広がる打ちこわしが起こっています。この打ちこわしは、飢饉にも関わらず甲州の米が江戸に廻米されていたことに怒った百姓らが穀物を買い占めていた米商人らの居宅を襲ったことから始まっています。
 当初は一揆の作法に則っていた打ちこわしでしたが、次第に飢えてない国中の人々が参加し、米穀商以外の質屋などの有徳人を打ちこわし、盗みまでもはたらくようになります。騒動に参加した人々は「赤き色物」を好んで身に着け、幕藩領主や村々は彼らを「悪党」と呼びました。
 そして、鉄砲などによって騒動勢を殺害・撃退する村も出てきます。捕縛された騒動勢は500人んにもおよび、そのほとんどは20代以下の若者だったといいます。

 一方、同じ頃に発生した三方領知替え反対一揆は、藩の転封をめぐって庄内藩で起きた一揆でしたが、こちらは江戸や水戸藩・仙台藩への愁訴を中心とした「一揆の作法」に則ったものでした。
 この愁訴は庄内藩の暗黙の後押しもあって成功し、三方領知替えは撤回されるわけですが、領主の「仁政」という建前は保持されたものの、幕府の「武威」は大きく傷つく結果となりました。

 そして、この幕府の武威の失墜を決定的にしたのが、ペリーの来航から桜田門外の変にいたる一連の出来事です。
 この流れの中で水戸学から「尊皇攘夷」と「国体」という言葉が生まれます。現在からみると保守的で国粋主義的な言葉という印象ですが、当時としては革新的な思想でした。
 「国体」は会沢正志斎が「新論」の中で使った言葉ですが、正志斎は欧米列強に対向するには武威だけではなく新たなアイデンティティが必要だと考え、天皇家を中心とした宗教的儀礼の中にそれを求めました。これは日本の独自性を打ち出す議論でしたが、同時に徳川将軍家を相対化するものでした。

 「新論」を読み解くには高度な知識が必要であり、吉田松陰も当初はその内容を理解していなかったといいますが、その存在が「聖典」のようになり、国体の考えは全国に広がっていきます。
 海外渡航を試みて失敗し入牢した松蔭は、改めて日本史を学び、国体論を内面化していきます。そして、この松蔭の影響を受けた長州藩の弟子たちが尊皇攘夷を行動原理として政治を揺り動かしていくことになります。
 
 異国人が日本にやってきた弘化〜安政期は地震が頻発した時代でもありました。弘化4(1847)年には7年に1度の善光寺開帳のさなかで起こった善光寺地震や、安政2(1855)年の江戸大地震をはじめとして多くの大地震が起きています。
 この地震は多くの犠牲者を出しましたが、貧富の差なく平等に襲いかかるというのも自身の特徴です。この時期の地震に関する錦絵では「世直し鯰」を描いたものもあり、「地震が社会的格差を”ならした”」(104p)と見た庶民もいたようです。

 一方、安政5(1858)年にアメリカの軍艦から日本の長崎に上陸したコレラは、衛生状態の悪い都市貧困層を襲いました。こちらは地震とは違って、その被害は不平等だったと言えます。

 さらに本書ではこの時期に百姓身分の中から登場した「強か者」に注目しています。
 盛岡藩(南部藩)では江戸時代を通じて150件もの百姓一揆が発生しています(隣の仙台藩は数件)。この背景には、蝦夷地警備の実績が評価されて表高がそれまでの2倍の20万石に引き上げられたこと(その分、百姓の負担も増えた)、天明期以降、御家騒動などがつづいたことなどがあります。
 
 嘉永6(1853)年の三閉伊通の百姓一揆は、藩政の紊乱に耐えかねた百姓たちが仙台藩への逃散・強訴をはかるという前代未聞のものでした。百姓たちは自分たちを仙台藩の百姓にしてほしい、無理ならば仙台藩が三閉伊通を幕領にするように幕府に推挙してほしいと主張したのです。
 仙台藩はこの願いを受け入れるわけにいきませんでしたが、このことは幕府の知るところとなり、盛岡藩は処分を受けました。一方、百姓たちに処罰者は出ませんでした。

 これだけでもインパクトのある話ですが、この一揆のリーダーの1人だった三浦命助は、地域社会とうまくいかなくなったこともあって出奔し、京に上って献金により二条家の家来になります。そして一揆から4年後に武士の身なりで大小を帯び「二条殿御用」の目印を立てて村に帰ってきます。二条家の家来という立場で三閉伊通の幕領化を成し遂げようとしたのです。
 結局、命助は盛岡藩に捕らえられて牢死しますが、型破りな個人の行動と言えるでしょう。

 和宮降嫁→坂下門外の変のころになると、尊皇攘夷は在地社会にも広がり、「異人斬り」といったことが暴力行為も起こってきます。
 坂下門外の変の実行犯に影響を与えた大橋訥庵は、高杉晋作に言わせれば「愚ニ堪カね」(136p)という人物なのですが、そうした者の影響を受けて老中襲撃が行われています。

 和宮降嫁と引き換えに「破約攘夷」を約束した幕府が追い詰められ、攘夷運動が幕府への批判につながっていきます。
 本書では長州藩や薩摩藩の動きも追っていますが、やはり興味深いのでは在地社会の動きです。

 島崎藤村の『夜明け前』の舞台となった木曽谷・伊那谷の地域では平田国学が広がっていました。もともとこの地域は幕領と飯田藩領などが点在する地域であり、木曽谷は遠く離れた尾張藩の領地でもあったため、統一的な当地は不可能でした。さらに材木業や製糸業がさかんだったこともあって、現金収入があり、また、独自のネットワークも発展していました。
 この地域でも幕末になると遊興にあけくれる若者たちが問題になりましたが、そこで在地社会の秩序を守るために受容されたのが平田国学でした。幕藩領主の存在感の薄いこの地で、一君万民的な考えを持つ平田国学は在地社会の安寧をもたらすものと捉えられたのです。

 本書でとり上げられている竹村(松尾)多勢子(松尾多勢子の名で知られているが松尾は嫁ぎ先の名字で実家の竹村を名乗っていた)は、平田国学に入門し、思いもよらないような行動力を見せた人です。
 多勢子は伊那谷に生まれ、伴野村の庄屋に嫁ぎ、7人の子どもを育て上げます。文久2(1862)年、50歳になった多勢子は京都へと旅立ちます。多勢子は中村半次郎(桐野利秋)をはじめとする志士たちと交流し、平田国学のネットワークを利用して公卿の大原重徳にも会っています。
 多勢子は老婆であるということで幕府の探索から逃れ、長州藩などの尊王攘夷派に朝廷内部の情報を伝えました。

 一方、尊王攘夷運動に染まらなかったものの、時代の変化に対応しようとした地域指導者もいます。土方歳三の義兄にあたる佐藤彦五郎もその1人です。
 佐藤彦五郎は代々日野宿の名主をつとめる名家に生まれ、治安の悪化に対応しようとしました。まずは自らが天然理心流に入門するとともに自宅を改造して道場を設け、そこで近藤勇・土方・沖田総司らの試衛館の中心メンバーが多摩の門人に直接稽古をつけました。彦五郎は道場を開くことで、個人の暴力を事故の統制下に入れたとも言えます。

 ご存知のように試衛館のメンバーは上洛し新選組を結成していくのですが、彦五郎はその後もその後も試衛館のメンバーと書翰のやり取りを重ねました。
 さらに幕府の代官・江川英武が多摩地域で農兵の取り立てを行うと、彦五郎は日野宿農兵銃隊の隊長に就任しました。この農兵銃隊は最新のゲベール銃で武装しており、のちの武州世直し騒動で活躍します。

 文久3(1863)年の八月十八日の政変によって京都から尊皇攘夷派が追放されますが、関東では翌年に横浜鎖港を実現するために天狗党が筑波山で挙兵します。もともとは水戸藩の内紛が生んだ天狗党でしたが、これが関東を内戦状態に巻き込んでいきます。
 天狗党は各地で金銭の強要や殺人・放火・強奪などを行うとともに、下妻、水戸城下、那珂湊などの各地で幕府の追討軍と戦います。那珂湊の戦いに破れた天狗党は横浜鎖港をあきらめて京都に向かうことを決めますが、北関東を横断した天狗党は在地社会の恐怖となりました。
 
 天狗党は上州から信州に入り、和田峠で諏訪藩らを打ち破って伊那谷に入ります。ここでは平田国学者らが活躍し、天狗党に軍資金3000両を提供して乱暴狼藉を回避するとともに、尾張藩の領地を迂回するルートを案内しています。一方、先述の多勢子は天狗党に会おうとはしませんでした。岩倉具視に傾倒していた彼女にとって天狗党は時代遅れの存在だったのかもしれません。
 実際、頼りにしていた一橋慶喜にも見放された天狗党は悲劇的な最期を遂げることになります。

 慶応2(1866)年には再び関東で騒乱が起きますが、これは尊皇攘夷とは関係なく物価高騰から起こった打ちこわしである武州世直し騒動でした。 
 飯能町の米穀商への打ちこわしから始まったこの騒動は、打ちこわしを起こした農民はおとなしく帰村したものの、さまざまな人が集まって広域化していきます。有徳人や横浜貿易で利益を得ていた「浜商人」を襲撃し、秩父や上州、多摩地域にまで広がっていきました。
 
 そして、多摩ではこれを佐藤彦五郎らが率いる農兵銃隊が迎え撃ちます。騒動勢を「暴民」とみなし、ゲベール銃での一斉射撃のあとに剣槍隊で追撃したとのことで、もはや、する側も迎え撃つ側もできるだけ暴力を行使しないという一揆の作法などは吹き飛んでいます。
 上州でも小栗忠順が農兵の取り立てを企図しますが、農民たちは反発し、小栗が罷免されたあとは小栗のいた東善寺に幕府の軍資金があるという噂が流れ、東善寺が襲撃されています。

 関東は幕府崩壊後も戦場になりました。
 佐藤彦五郎は江戸に戻った土方から情報を得て、横浜で新式の「元込筒」(スナイドル銃か)を20挺購入し戦いに備えましたが、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊と合流しようとしましたが、甲陽鎮撫隊が潰走したために、彦五郎は新政府の追求を逃れるために身を隠しました。

 この他、幕府の抗戦派の古屋作左衛門率いる古屋隊と新政府軍が栃木県の足利市の梁田で新政府軍と激突した梁田戦争、彰義隊から分かれた渋沢成一郎率いる振武軍が飯能で新政府軍と戦った飯能戦争(この戦いで渋沢栄一の養子の渋沢平九郎が戦死)などが起こっています。
 
 東北での戦いに関しては、本書は庄内藩の戦いを中心にとり上げています。庄内藩の戦いでは「鬼玄蕃」と呼ばれた酒井吉之丞の戦いが有名ですが、同時に注目すべきは2000人を超える農兵・町兵が志願したことです。三方領知替え反対一揆でも見られたように、幕領にはなかった領主と領民の一体感がこの地にはあったということなのでしょう。

 このように本書は幕末の在地社会のさまざまな動きを切り取っています。ここにはとり上げられなかったエピソードもたくさんありますし、また、ここでは書きませんでしたが幕末の政局の基本的な動きもきちんと追っています。
 幕府にとどめを刺したのが薩摩や長州だとしても、それ以前に幕府を支えてきたものは失われつつありました。本書を読むと、幕末において在地社会において既存の秩序が失われ、そこに新しい個人が登場しつつあったことがわかります。そして、彼らが幕藩体制を大きく揺り動かしていたのです。非常に刺激的な本だと思います。