日本型の雇用をメンバーシップ型雇用として欧米のジョブ型雇用と対比させながら論じてきた著者が日本の賃金の歴史について論じた本。
日本の賃金の特徴については『ジョブ型雇用社会とは何か』(岩波新書)の第3章でも論じられていますので、単純に日本の賃金の特徴を知るのであればそちらのほうがいいかもしれません。
一方、本書はさらに細かく日本の賃金の歴史が深掘りしてあり、そして多くの人が気になっている「日本の賃金が上がらない理由」というものがわかるようになっています。
「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」という謎掛けのような言葉が最後に登場しますが、本書を読めばその意味がよくわかると思います。
目次は以下の通り
序章 雇用システム論の基礎の基礎第1部 賃金の決め方(戦前期の賃金制度;戦時期の賃金制度;戦後期の賃金制度;高度成長期の賃金制度;安定成長期の賃金制度;低成長期の賃金制度)第2部 賃金の上げ方(船員という例外;「ベースアップ」の誕生;ベースアップに対抗する「定期昇給」の登場;春闘の展開と生産性基準原理;企業主義時代の賃金;ベアロゼと定昇堅持の時代;官製春闘の時代)第3部 賃金の支え方(最低賃金制の確立;最低賃金制の展開;最低賃金類似の諸制度)終章 なぜ日本の賃金は上がらないのか
目次を見ればわかるように本書は3部仕立てになっています。
まず、第1部では賃金の決め方の歴史が語られています。日本型雇用といえば終身雇用と年功賃金ですが、かつてはまったく違った世界が広がっていました。
明治期の工場労働者の特徴はその高い異動率で、腕の良い労働者ほど工場から工事へと異動していきました。
当然ながら、年功賃金が存在するはずもなく、工場内の労務管理を請け負っていた親方職工による技能評価によって賃金が決まりました。
ところが、このやり方は日露戦争後の重工業化の中で変わっていきます。
工場では親方を通じた間接管理から工場の監督者による直接管理が導入されるようになり、大工場では自前の熟練工の養成に取り組み始めました。
第一次世界大戦後に不況が訪れると、企業側は渡りの職工を思い切って切り捨て、自前の職工を中心とする体制をつくっていきます。
また、「定期採用」、「定期昇給」の仕組みがつくられ、企業内で労使の意思疎通を図るための工場委員会ととともに、終身雇用、年功賃金、企業別組合に代表される日本型雇用のプロトタイプがつくられていくことになります。
この時代には生活給の考えも打ち出されています。著者が今までの本でも持ち出してきた呉海軍工廠の伍堂卓雄の考えが紹介されていますが、これによれば若者に多くの賃金を与えても酒や映画に使うだけであり、一方、ベテランの職工の賃金は家族を養うには厳しいものがあるのだから、年齢とともに給料が上がる仕組みが望ましいというものです。
1930年代前半、政府で職務給の導入が模索されたこともありましたが、日中戦争の開始とともに経済統制が強まり、雇用や賃金への統制も強まります。
新卒技術者は割当制となり、軍事産業の労働者は許可なく転職できなくなりました。さらに企業には企業内の訓練システムの導入を命じています。
賃金についても1939年3月の第一次賃金統制令で未経験者の初任給の最低額と最高額を決め、10月の賃金臨時措置令では賃金を引き上げる目的で基本給を変更することを禁じ、ただ内規に従っての昇給のみが許されました。この抜け穴となったのが家族手当で、日本の賃金は年功的要素、生活給的要素を強めていきます。
53p表2では第二次賃金統制令における男子労務者の最高初給賃金が紹介されていますが、年齢と経験年数によって上がる仕組みになっています。また、生活給の要素が強いため、男子と女子で平均時間割賃金が大きく違います(30歳以上、金属精錬業で男子は42.7銭、女子は16.0銭(54p表3参照))。
さらにホワイトカラーの賃金統制も同時期の会社経理統制令で始まりました。ここでも初任給の上限や昇給率に制限がかけられたことでホワイトカラーの賃金も年功的にならざるを得なくなります。
1942年の重要事業場労務管理令では、これまで別立てであったブルーカラー労働者とホワイトカラー職員を「従業員」という単一のカテゴリーに事業主に賃金規則や昇給内規の作成を義務付けました。
このように戦時の統制が強まるにつれ賃金は年功的、生活給的性格を強めていくわけですが、それを正当化するために生産性と賃金と結びつけるのは「賃金奴隷」の考えだというような言説まで登場していくるのは興味深いところです。
戦争が終わり戦時統制も終わるのですが、賃金は戦時を引きずることになります。
1946年12月に締結され、その後の日本の賃金に大きな影響を与えた電産型賃金体系は、本人の年齢と扶養家族の人数+能力によって賃金が決まるというものでした(66p表5参照)。
また、抑えられた基本給に各種の手当が肥大化しており、終戦後の電気産業では本給287円、家族手当148円、その他の手当含めて計616円と、本給の占める割合は4割強でした。
しかし、こうした生活給はGHQや世界労働組合連盟(世界労連)から批判されます。
GHQの労働諮問委員会報告では、賃金が仕事の性質と連関していないこととともに、生活給は団体交渉を混乱させ、低水準の婦人や児童の過度の使用を促すと指摘しています。
世界労連も日本の賃金制度が差別的待遇に繋がりかねないことを批判しました。
GHQの影響で職務給への転換が進められたのが公務員です。
1947年10月に成立した国家公務員法には職階制が明記され、1950年5月には国家公務員の職階制に関する法律(職階法)が制定されています。ここでは明確にジョブ型の公務員制度が志向されていました。
今いる公務員に対してもその職に的確かどうか試験を受けさせることにし、1950年1月に「S-1試験」と呼ばれる試験が行われましたが、これによって約1/4の幹部職員が職を追われることになり、猛反発を受けます。
結局、占領が終わるとジョブ型の公務員制度は捨て去られることになります。賃金についても縦の等級は15級もあるのに、横の職務区分は一般、税務、公安、船員しかないというジョブ型とはかけ離れたものになっていきます。
1950〜60年代にかけて、政府とともに職務給の旗振り役だったのは日経連でした。身分ではなく、職務に応じた賃金こそが科学的だという考えがあったのです。
一方、労働組合の反応はさまざまでしたが、総評が1952年にすべての生活費目を価格換算して積み上げるマーケット・バスケット方式を打ち出したように、生活給の考えから脱しようという考えが主流にはなりませんでした。
高度成長期に入ると賃金の上昇圧力も強まります。
そうした中で日経連は職務給と定期昇給の推進という二本立てで対応していきます。職務給によって給与を抑制することもできるはずですが、現実的には定期昇給という仕組みで賃金総額を抑制しようとしたのです(もし各年齢の労働者が1人ずつで、一番上の人が定年で抜けるのであれば、定期昇給を実施しても会社全体の給与の支給総額は変わらない)。
一方、労組は職務給の受け入れをめぐって割れていました。
全国産業別労働組合連合(新産別)は賃金の近代化のために職務給の導入は必要だというスタンスでしたが、当時最大のナショナルセンターであった日本労働組合総評議会(総評)は議論自体を拒否するような態度を示しています。これは職務給の導入によって中高年男性の賃金が下げられる恐れがあったからです。
1960年代後半になってくると、日経連が職務給の導入を放棄して能力主義へと転換していきます。労組も口先では同一労働同一賃金を唱えながら本音では年功賃金を維持したいと考えており、職務給導入の機運はしぼんでいきます。
経営者側からも年功賃金が日本に合ってるという認識が広まっていくのですが、高度成長が終わり安定成長の時代になると、ピラミッド型の人員構成が崩れていき、名ばかり管理職の問題が現れてきます。
そこで役職位の管理と処遇の管理を分けていこうという動きが起こります。ただし、この結果出現したのが高給をとる中高年ヒラ社員でした。
また、定年延長の際にも、この年功賃金の存在は大きな障害になりました。
バブルが崩壊すると企業側は賃金を抑制する姿勢を強めます。そうした中で、1995年に日経連は『新時代の「日本的経営」』という報告書の中で、①「長期蓄積能力活用型」、②「高度専門能力活用型」、③「雇用柔軟型」という3つの雇用類型を示し、①では「職能給+年齢給」、②では「年俸制」、③では「職務給」といったイメージを描きました。①でも成果によっては降給もあり得るとし、全体的な賃金の抑制を行おうとしたのです。
ただし、②の雇用スタイルは普及せず、③の仕事は派遣やバイトやパートに置き換えられ、職務給というよりは低賃金に張り付くことになります。
非正規雇用の増大により非正規雇用の低すぎる賃金が問題として浮上します。
「同一労働同一賃金」のスローガンも唱えられますが、年功賃金のもとではこの同一労働同一賃金を導入するのは至難の業でした。
それでも同一労働同一賃金を目指す動きは続き、2014年には同一労働同一賃金をめざす職務待遇確保法が成立し、2016年になると安倍首相が同一労働同一賃金を目指す考えを示します。
さらに岸田政権になると「職務給」という言葉が首相の口からも語られるようになりました。
第2部は「賃金の上げ方」となっていますが、冒頭で紹介されているのは日本では例外的に産業レベルで団体交渉を行い、職種や技能水準ごとに賃金を決めている船員の例です。そして、日本では例外であっても欧米ではこれがスタンダードなのです。
一方、日本では企業別に総額人件費をいくら増やすかというベースアップ(ベア)が賃上げ交渉の中心になります。
このベアの起源は第二次賃金統制令にあるといいます。欧州でWW2が勃発し物価の上昇が予想されるが、我が国の物価をストップするには賃金をストップしなければならないという考えのもとに導入された賃金総額制限方式がベアにつながったというのです。
戦後になると次々と労働組合が設立されていきますが、その多くは産業別でも職業別でもなく、産業報国会の流れをくむ企業ごとにホワイトカラーとブルーカラーを包含した組織でした。こうした組合は給料一律何割値上げといった形の主張をしていきます。
戦後のインフレの中、公務員の賃金を抑制するために「賃金ベース」という言葉が登場します。この賃金ベースの考えは緊縮政策を進めるGHQのもとで民間企業でも使われるようになり、労働組合も賃上げのために賃金ベースという言葉を使いだします。もともと賃金を抑制するために使われていた言葉が、賃上げのためにも使われるようになっていったのです。
そして、1950年には「ベースアップ」という和製英語が使われるようになりました。
経済が上向いてくると、賃金抑制の手段であったベースアップ方式は賃上げのロジックになっていき、経営側はベースアップの代わりに定期昇給という考えを打ち出していきます。
先にも述べましたが、定期昇給は年齢構成のバランスが良ければ個人は昇給しても全体の賃金総額は変わらないというもので、これが経営側の賃金抑制のロジックとなります。
ただし、現実には1970年代なかばまでベースアップはつづき、90年代後半になってその姿を消します(198p図2参照)。好景気の中での賃金抑制というのはやはり無理があるのです。
1955年には春闘が始まります。これはベースアップ方式が前提とする企業別交渉の問題点を乗り越えるための工夫でした。
企業別交渉だと自社でベースアップを実現させても他社が賃上げをしなかれば競争に負けてしまうかもしれませんし、ストライキをしている間に他社にシェアを奪われてしまうかもしれません。これを防ぐためにある程度要求額やスケジュールを統一して交渉を行おうというのです。
60年代になると、鉄鋼労連がこの春闘を引っ張っていくようになります。
1973年に石油危機が起きると74年の春闘では32.9%という空前の賃上げが実現します。こうした中で経営側は生産性を基準とした賃金の抑制をはかろうとします。
政府もインフレの抑制を考え、三木内閣で副総理兼経済企画庁長官として入閣した福田赳夫が鉄鋼労連の宮田義二委員長に賃金の抑制を含む所得政策を持ちかけます。これに対して、宮田は所得政策に反対しつつ、賃上げの自粛を持ち出し、75年の春闘は13.1%の伸びにとどまります。
労組はあくまでも政府との話し合いの中で賃上げを自粛したわけですが、経営側はこれを「勝利」と受け止めます。
この石油危機が分水嶺となり、労組も賃上げよりも雇用の維持を重視するようになっていきます。経営側からも賃金は企業ごとの生産性によるべきだという声が強まり、企業別労組との協調を日本型経営の長所だとする声も生まれてきます。
また、80年代後半〜90年代に労組の側からも消費者目線からのデフレ推進論があったのは興味深いところです。日本の物価は欧米に比べて高いとの認識から、これを引き下げれば実質賃金が上昇するとの指摘が出てきたのです。
1993年の日経連内外価格差問題研究プロジェクト報告では「仮に3年で10%の物価が引き下げられれば、毎年約9兆円の実質所得の向上にな」り、「国民は新しい購買力を獲得し、そこから商品購買意欲の高まりが生まれる」(223p)という、その後の展開を知っている者からすれば「何を言ってるんだ…」としか思えない展望が示されています。
90年代後半になるとベースアップはほぼ消滅してしまいます。ベースアップによる賃上げは企業がこれだけ儲かっているんだから給料も増やせというロジックでしたが、肝心の企業業績が低迷すればベースアップの要求は難しくなります。
2002年になると、連合の要求も「賃金カーブ維持分+α」という具合にベアゼロを認め、定期昇給だけはなんと開示するといった具合に後退していきます。
2000〜2013年に至るまで、ベースアップはほぼゼロだった一方、定期昇給分は2%弱の水準で維持されましたが、これは個人としては給料は上がるが、総額としては凍結された状況でした。
このベアゼロ時代に変化をもたらしたのが安倍政権でした。デフレ脱却を旗印に賃上げにも積極的な姿勢を示し、わずかながらでもベアが復活します。
そして、世界的なインフレの波もあり、2023年以降は大きなベースアップがなされることになるのです。
最後の第3部は主に最低賃金がとり上げられています。
日本で本格的に最低賃金が導入されたのは1939年の第一次賃金統制令です。政府は労働者の異動を制限しようとしましたが、その代わりに何らかの保障が必要だと考えられたのです。
戦後になると労働基準法で最低賃金の根拠規定が設けられます。ただし、具体的な金額を決めるとなると抵抗も大きく最低賃金が設定されないままに時が過ぎていきます。
この状況を変えたのが業者間協定でした。1956年に静岡缶詰協会が缶詰調理工の初給賃金について結んだ業者間協定を皮切りに各地で業者間協定が結ばれていきます。
1959年にはようやく最低賃金法が成立しますが、業者間協定方式が中心であり、横断的な最低賃金は設定されないままでした。これが設定されるのはようやく1968年になってからで、地域別の最低賃金が決められることになりました。
当初は中卒労働者の初任給を念頭に設定されていた最低賃金でしたが、次第にパートやアルバイトなどの非正規雇用を念頭にしたものとなり、日給表示はなくなり、時間給の表示となります。
そして、00年代後半になると非正規雇用の賃上げのためにこの最低賃金への上昇圧力がかかっていくことになります。
一方、顧みられなくなっていったのが産業別最低賃金の制度です。産業別の労組や産業別の交渉が発展しなかったこともあり、使用者側からは廃止を求められながら、特定最低賃金という形でなんとか存続しています。
最後に日本の賃金はなぜ上がらないのか? という問題がとり上げられています。
その答えが冒頭でも紹介した「上げなくても上がるから上げないので上がらない賃金」ということになります。
日本には定期昇給の制度があり、個人の給与は2%程度上がっていきます。しかし、それはあくまでも個人にとってのものであり、総額の人件費は据え置かれたままです。
職務給の世界では賃金を上げるには労組としてまとまって戦う必要があるのですが、日本では「上げなくても上がる」という状況です。だから、「上げない」ままでもそれなりに満足でき結果として「上がらない」わけです。
こうした中で、著者は特定最低賃金と名を変えた産業別最低賃金でエッセンシャルワーカーの賃金を上げるやり方や、公契約条例、派遣労働屋の労使協定方式などに期待を寄せています。
このように読みどころの多い本ですが、第1部と第2部で2回歴史をたどる形になっているので少し読みにくさはあるかもしれません。自分も1回目に読んだときはずいぶんゴチャゴチャしているなと思いましたが、この記事を書くために読み直してみると第1部と第2部のつながりがよくわかりました。
そして、戦時体制のもとでビルトインされた制度の根深さ(個人的は産業報国会→企業別組合という流れの影響力の強さを改めて感じた)というのも感じました。