8月24日・月曜日はマスさんの仕事が休みだったので、私も一緒に休みを取って月山・六十里越街道の松根~田麦俣区間を歩いてきた。
この区間は林道や舗装道路が錯綜し、山歩きと言う面ではイマイチの感は否めないが、歴史的に貴重な石碑や古刹が道中次々と現れ、とても興味深いコースとなっている。

【 8╱24 月山・六十里越街道:松根~田麦俣区間(山形・月山)】 
上松根~松根・庚申塔~縁結の眺望~追分石~大滝~追分石~田ノ頭林道~尾根コース分岐~庄内平野一望坂~十王峠~イタヤ清水~注連寺~稲荷峠~中村の庚申塔~大網の棚田~大日坊~関谷の庚申塔~旧大日坊跡~皇壇杉~関谷~賽ノ神峠~柳清水~田麦俣駐車地点 

1200年前に開かれたと伝えられる六十里越街道は、鶴岡から松根、十王峠、大網、塞ノ神峠、田麦俣を経て大岫峠を越え、志津、本道寺、寒河江を通り山形に至る山岳道であった。
山岳信仰がさかんだった室町・江戸時代には、出羽三山は東北・関東の各地から訪れる「行者」(参拝者)たちでにぎわったという。
また、戦国時代の奥州出羽合戦の折には酒田東禅寺城主志駄義秀が、この街道を侵攻して最上領深くの寒河江付近まで軍を進め、江戸の藩政時代には参勤交代にも利用されたという記録が残っている。
しかし大勢の行者や武士、旅人たちが行き交ってふみしめられた道は、明治30年代になって大越を通る車道が開通すると表舞台から退き、廃道に近い状態となっていたが、近年整備されて多くのハイカーが訪れる事となった。
苔むした沿道には今も、時代の名残をとどめる数多くの史跡がひっそりと眠っていて、当時の往来が盛んであった時代の名残を残している。

私の車を田麦俣集落の北側にデポし、マスさんの車で上松根の八幡神社まで走行した。
神社前の駐車スペースは2台程度。
2015082401

 
蝉時雨の中、狭い石段を登って八幡神社にお参りする。
2015082402

山裾の農道を奥に進むと、田園の奥に湯ノ沢岳から母狩山の稜線が一望できた。
2015082403

その右手には鎧ヶ峰から金峰山へ連なる稜線が見えている。
今年の秋に再訪してみたいと思っている。
2015082404
 
農道を左折し、水路(越中堰)を渡った先に、高さ2.2m、延亨5年(1748年)に祀られた松根の庚申塔がある。
2015082405

この上から本来の街道は田畑によって失われていて、道の接続が分かりにくい。
六十里越街道の幟旗が目印になっていて、畑の畔を歩いてダートの車道に合流する。

その先、軽トラ専用の様な細い林道に入っていく。
松根道入口の標識があるが、その林道はほぼ旧六十里越街道に沿っているらしい。
2015082406

少し登ると、右手に明治25年(1892年)の山の神碑がある。
枯死した松の根元にあるが、強風の時は枯れた松が倒れる危険性があるかもしれない。
2015082407

縁結の眺望の標識があったので、右手斜め後方に下る道に入ってみた。
杉林が一部伐採されていて、庄内平野が一望できた。
2015082408

ここで休憩してマスさんの手作りのケーキアプリコットパイ』をいただく。
パイ生地のお皿の中にアプリコットムース。ムースの上にたっぷりの生クリーム。アプリコットジャムで線描きしてある。
2015082409

分岐まで戻り南下すると、高さ1.2mの湯殿山碑が右手に建っている。
『ざんげ松の湯殿山碑』と言われ、元治元年(1864年)に秋田藩中の方々によって建立された。
伝承によれば、他藩の者が領内で石碑を建ててはならぬ、との事で、秋の字の脇に『木』の文字を伏して、事態を収拾したと言われている。
2015082410

今回の山旅の途中、あらゆるところに葛の花が繁茂していて、常に甘い花の香りが漂っていた。
2015082411

湯殿山碑から1kmほど進むと、道が二手に分岐する場所に追分石が建っている。
『右湯殿山 左大瀧山』と刻まれている。
2015082412

大滝(大滝山)まで片道0.6km・25分との標識を見て、大滝に寄り道する事にした。
下っていく杉林の林床にはトチバニンジンの赤い実が鮮やかな色彩で目立っている。
2015082413

大滝までの山道は刈払いがほとんど成されず、夏草に覆われて踏み跡も定かでない箇所が多い。
完全に道を失って右往左往する局面もあった。
おまけにアイコや他の棘植物が繁茂しているところもあって、先週の砂利押沢並みに歩き難い道であった。

苦労してたどり着いた大滝手前の平地には、『鉄門海』碑、『鉄龍海上人』碑、そして『山神』の碑が並んで建っている。
2015082414

大滝は落差15m。
渇水期のために水量は少なかったが、滝行の行場であった雰囲気に溢れていた。
2015082415

追分石まで戻って軽く食事をとる。
大きなアブが一匹まとわりついて煩い。

ここから先は林道ではなく、古道歩きが堪能できる山道になる。
右手から沢音が近づいてくると田ノ頭林道の橋に出る。
この橋を渡って直ぐに左折。

林道から侵入するマウンテンバイクやオートバイの進入禁止看板が建てられていた。
2015082416

この少し先で三叉路となる。
直進するのは谷道コース。
我々は展望が良さそうな峰道コースへ右折する。

歩き始めて僅かな距離で、十王峠を通る舗装道路に合流。
その道を少し歩くと、送電線の巡視路が峰道コースとなる。

峰道のうなぎの背坂を登り、庄内平野の展望が素晴らしい庄内平野一望坂に出る。
後を振り返ると、送電線の鉄塔の背後に鶴岡市から酒田市に広がる庄内平野が見渡せた。
しかし鳥海山に雲がかかっていた点が残念。
2015082417

南西には摩耶山の姿も見えて嬉しくなった。
2015082418

現在の十王峠は掘抜(切通し)になっているが、本来は今回歩いた送電線沿いの峰道が六十里越街道であったと言われている。
往時の街道は大きくくぼ地状に巡視路の横を走っていて、その盛況ぶりを察することができる。
2015082419

上の写真の鉄塔のところは電線に邪魔されずに庄内平野が見られる。
鶴岡市の市街地が一望できた。
2015082420

左手には高館山
2015082421

十王峠は湯殿山の参拝道の中で庄内側の結界の役割をはたしていた。
ここまでが俗界で、峠から南が湯殿山の聖域とされる。
峰道の山頂部にはかつて十王堂があり閻魔大王など十体の木彫りの仏像が祀られていた事から十王峠と呼ばれた。しかし十王堂は今はなく、閻魔大王木像は七五三掛注連寺に安置されている。


その山頂部は大網地区や月山の展望地となっていて、丸太のベンチも置かれ、休憩場所としてはこの日の行程で一番と言える。
中間部の山が鷹匠山で、六十里越街道は鷹匠山の右端の一段下がった地点を通過する。
その背後に月山が見えるのだが、この日は雲がかかって見えなかった。
2015082422

視線を右手に振ると、大網地区と月山ダムが見えてくる。
2015082423

現在の切通しになった十王峠に下ると、そこには新しい三基の地蔵が祀られている。
2015082424

峠からオオヤマザクラが植栽された公園を下って行く。
2015082425

車道を横切って下っていくとイタヤ清水が湧き出している。
清水の傍に小さな六地蔵が祀られていて、清水を飲む際は、六地蔵に水を六回かけてから飲むのが習わしと言われている。
水量は少なかったが清水を飲んでみると、冷たく美味しい水だった。
2015082426

イタヤ清水から少し下ると、小規模であるが、気持ちの良いブナ林の中を通過する。
この日の行程の中で、旧六十里越街道の古道の雰囲気を一番残している場所と感じた。
2015082427

道中、ずっと道案内をしてくれた六十里越街道の標柱
2015082428

人工物がある原野を抜けていくと、建物が取り壊された新山神社の前に出る。
そこから急な石段を下っていく。
2015082429

下りきると七五三掛注連寺に着いた。
このお寺が真言四ヶ寺の一つで、縁起によると天長2年(824年)弘法大師天海が開基した。
天海が赤川の畔で大日如来の梵字が流れてくるのを見て、赤川を上流へ遡り、湯殿山権現の導きでこの山を開山。
桜の枝に自分の注連縄を掛け、弟子を残して去ったので、お寺を注連寺、集落名は七五三掛となったらしい。
2015082430

昭和48年に芥川賞を受賞した小説『月山』は、作者の森敦が注連寺にて冬ごもりした体験から生まれたと言われている。
また文政12年(1829年)に入定した鉄門海上人が即身仏として。このお寺に現存している。

風が吹き抜ける木陰で休憩すると秋を感じた。
傍らのプランターにはサギソウの花が可憐に咲いている。
2015082431

注連寺のある七五三掛地区は地すべりのために全戸集団移転して、現在は田畑しか残されていない。
地下水を抜き取る井戸が彼方此方に設置されているが、地滑り対策としては完全に機能していないそうだ。

民家が消え去り、以前の庭は雑草が繁茂していて、残されたコスモスの花が草に埋もれている光景は寂しさを感じた。

七五三掛地区から大網地区の先の関谷までは舗装道路の歩きとなる。
山道は迷うことはないが、車道となると分岐が判別せずに、幟旗と標柱が頼りとなる。

途中、左折してかなり登っていくと、何処が峠だったか分からない内に稲荷峠を越えた。

下り始めると棚田の奥に鷹匠山が近づく。
2015082432

転作した蕎麦畑が随所に見られ、初秋の季節を感じた。
2015082433

中村と言う集落の住吉神社のそばに明和7年(1770年)の庚申塔がある。
2015082434

僅かな距離、車道を離れて作業道を下ると、小網川を渡る。
2015082435

ここから先は一直線に大網上村に向かう車道を登っていく。
左右には大網の棚田が広がり、振り返ると十王峠の鉄塔がかなり遠ざかって見えていた。
2015082436

右手に真言四ヶ寺の一つ、瀧水寺大日坊が現れたので立ち寄ってみる。
ここも空海が清浄の霊地をして大日如来を勧請し、一宇を建てたのが始まりとされている。
2015082437

大日坊はこの場所から東に離れた場所にあったが、明治8年、火事で多くの伽藍のそのすべてが消失していまい規模を縮小してえ再建された。
しかし昭和11年に地滑りが原因で倒壊し、現在の場所に移転再建したと言われる。
ここには天明3年(1783年)に入定した真如海上人が即身仏として現存する。

大日坊前のベンチに座り、自販機から飲み物を買って一息ついた。
大型バスの観光客が到着をたのをみて出発する。

旧大日坊跡地の一角に日本一の大きさ(高さ3.65m、幅2.2m)の庚申塔が建っている。
安永9年(1780年)に関谷村の人々も協力して建立された。
2015082438

ところで今回のコースの彼方此方で見られた庚申塔であるが、この場所の看板で庚申の意味が書かれていた。
『古くから庚申待(庚申講)と言って、庚申の日には村人たちが集まり、庚申様の掛図や庚申塔を祀って夜通し語り合い、飲み食いする習わしがあった。庚申様に祭神は信仰される地域によってさまざまで、最も大きなご利益は不老長生であると言う。』

庚申塔から少し歩くと旧大日坊跡の看板を見つけるが、そこに樹齢1800年と言われる老杉『皇壇ノ杉』があると書かれていたので寄り道して観に行った。

空海が夢枕で見た老杉『五鋸杵掛杉』を見つけて、湯殿山の諸仏神をこの地に祀ったと言う謂れのある杉で、旧大日坊跡の東奥に生えている。
『皇壇ノ杉』とも呼ばれ、日本武尊の父:景行天皇の御子がこの地で没し、塚木として植えられたという伝承もある。
何れにしても樹高約27m、根周り約8m、枝の長さ半径22mあり立派な巨木であり、凄みを感じた老木であった。
2015082439

関谷地区に入ると二匹の猿が畑を荒らしていて、我々の姿を見ると慌てて逃げていった。
車道沿いには食い散らかされたナスとトマトが落ちていた。

この付近の車道には幟旗がほとんどなく、間違いなく賽ノ神峠に向っているのか少し不安になす。

車道沿いにはツリフネソウが咲き乱れていて目を楽しませてくれた。
2015082440

ヤマトリカブトも咲き始めている。
2015082441

関谷地区の奥にある田んぼを抜けると藪っぽい山道に入る。
この日最後の登りであるが賽ノ神峠は近い。
2015082442

やがて切り通しになった賽ノ神峠(標高512m)に到着。
『賽ノ神』は疫病や悪霊の侵入を防ぐ防塞神となっている。
過去に、この場所には掛小屋の茶屋が存在していたと言われているが、今はそんな隆盛を感じさせないほど寂しい場所であった。
2015082443

そしてたった一基、明治4年(1871年)の湯殿山碑が建っているのみ・・・
2015082444

峠から先は国道112号線まで山道が続くと想像していたが、少し下るとため池が現れ、そこから国道まで車道が通じていた。
しかし、田麦俣に中学校が無い頃、田麦俣の中学生たちはこの峠を大網まで日々通っていたというのだから驚く。

車道から柳清水分岐を右折して杉林を下ると、民宿田麦ほそう荘の西側に位置する国道112号線に降り立った。
2015082446

この写真の後側に柳清水が湧き出しているが、田麦俣集落の簡易水道の水源なので、フェンス内への侵入は禁止されている。
空海が湯殿山に向う途中、使い終わった柳の箸を土に刺したところ、その箸が根付いて柳の木に育ったと言われる場所だ。
2015082445

車の往来が激しい国道112号線を走って渡り、舗装道路の九十九折を下って行くと、田麦俣集落の多層民家が望まれた。
2015082447

ここから車をデポした広い路側帯はすぐだった。

マスさんの車を回収しに再び国道112号線を西進して庄内平野に入る。
汗をかいたのでかたくり温泉ぼんぽに入るつもりだったが、この日は定休日。
仕方なく月山新道を越えて水沢温泉に入って汗を流した。

結局、この日歩いた距離は約16km、累積標高差は780mだった。
思ったより歩行距離があって歩き甲斐がある一日だった。
山歩きの要素が少ないコースであったが、一種のオリエンテーションをやっている感じで面白かった。
そして樹林帯の木陰の下では涼しい秋風が吹き抜けていて、暑かった夏の終わりを感じさせてくれた。
昔の旅人に思いを馳せる峠越えや古道歩きは秋が似合う。


今回の六十里越街道の山歩きが終わり、課題として残ったのは寒河江ダム湖畔の追分石から四ツ谷川を渡って弓張茶屋跡、そして志津に至るルートである。
距離的には大したことがないルートであるが、一昨年の豪雨により、四ツ谷川にかかる木橋が流失して、このルートは現在通行禁止になっているらしい。
渇水期の晩秋の頃に四ッ谷川を渡渉することも可能であろうが、焦らずに橋が再建するのを待つのが望ましいであろう。


GPS軌跡です。(クリックで拡大)
rokujyuuri


動画です。