バッテリー

しまった、野球小説じゃなかった(苦笑)

読み始めて僅か10ページ足らずでグイ、と引き込まれました。隅々にまで優しさが満ち満ちたお話、それも庇護や慈しむ優しさではなく、子供たち、大人たち、物語そのものを自立したものとして尊重する、そんな優しさ。それが事の他心地よかったです。
ジャンルとしては児童小説に当たるのですが、心理描写や情景描写、はっきりと書かず読者に感じさせる行間。それらは非常に分かりやすく噛み砕かれており、スッとダイレクトに染み込んできます。子供でも楽に読めるように、これはそういう浅薄な考え方では決して書けない。平易で分かり易く、それでいながら薄っぺらい中身の無い内容ではなく、密度の濃い命の吹き込まれた文章、これは数多くいる作家という人間の中でも僅かな割合でしか出来ない領域の職人芸、そう言っても過言ではないでしょう。

出版社/著者からの内容紹介
そうだ、本気になれよ。関係ないこと全部すてて、おれの球だけを見ろよ。

中学入学を目前に控えた春休み、父の転勤で岡山の県境の街に引っ越してきた巧。ピッチャーとしての自分の才能を信じ、ストイックなまでにセルフトレーニングに励む巧の前に同級生の豪が現れ、バッテリーを組むが…。


豪の台詞にもあるんですが、とにかく巧が「すごい性格をしてる」んですわ。よくもそこまでと思う自信過剰、自意識過多。元甲子園球児の大人と勝負する場面があるのですが、勝つと思うどころか自分の球が前に飛ぶわけがないとすら思い込んで揺るぎもしない自信。他者の内面を慮る事への軽侮。頑ななまでの頑迷さ。馴れ合う事を良しとしない刺々しさ。彼は視野狭窄気味であり、傲慢ですらある。
ただそれだけではなく、これらの要素を硬とするなら、ちゃんと軟と呼ぶべき要素も備わっている。弟を思いやり、無意識に意を受けとろうとする優しさ。馴れ合いを拒絶しながらも、江藤に示した行動のように蔑ろにしてはいけない部分を見失わない聡明さ。

巻末の解説に巧の事を、技術的にも精神的にも周りの少年とは次元が違っていると評している。そうだろうか。私には、彼が周りと同じ、等身大の思春期の少年のようにしか思えないのだが。あの時期の青い硬さと鋭利さ、ささくれ立った落ち着かなさ、その方向を、彼は純粋に突き詰めてしまっている、そういう風にしか見えない。
果たしてこの歳で彼は揺ぎ無く生きているのだろうか。私には、遥か高みをじっと睨み付けながら、その一点しか見ていないつもりでいながら、視界の端にちらつくものに気を取られ続けているように思える。
歳相応の少年らしい、不安定さを感じるのだ。
むしろ、豪の方が、あの包容力といい大らかさといい小学生離れしているように思う。
ともかく、あの一所に定まることの無い思春期の少年の心の機微を、繊細に丁寧に時に大胆に自在に描き出されるさまは、読んでいて本当に心地よかった。彼らを取り巻く大人たち。父親や母親たち、そして爺さんや弟の青波。誰もが型に嵌めようと思えば類型出来てしまうタイプの人物造詣でありながら、その型に押し込められて黙っていない大きさ、柔軟さを備えている。等身大の人間の息吹を感じるのだ。ありがちな人間像をありがちに描きながら、ありがちな人物だな、と思わせない。これは非常に難しいにも関わらず、あさのあつこ氏はこの編が絶妙と言ってもいい。
ただ、少し面白いと感じたのは、母親たちに関してだけ(特に子供たちに対しての対応時)、どこか既製品のキャラクターをそのまま当てはめたような感覚を受けることだ。子供を理解していない母親、という世間が思う母親像をそのまま当てはめているように思うのだ。なんだかここだけ思いが定まらずに考えあぐねているような感を受けた。

あとがきを読むならば、あさの氏もまた母親という立場の人間であるらしい。
自分と同様の立場を、客観的に解きほぐして表現するのは難しいのかもしれない。
そう考えると、母親に感じた硬質感もまた、非常に面白く感じるのだ。