オンライン書店ビーケーワン:夜のピクニック
【夜のピクニック】 恩田陸


文末の池上冬樹の解説は、なかなか言いたい事を言っていて面白かったw
それはさておき本文である。
私は正直、読み始めたときちょいとこっ恥ずかしかった。ダラダラと生きている人間の僻みだろうか、ここに登場する人間たちの些細な健全さに照れを覚えてしまった。
今時の高校生なら、80キロもの距離を延々歩く学校行事なんてものに、もっと倦怠感や忌避感を覚えるもんじゃないだろうか、とか。私なら、嫌で嫌で仕方の無く憂鬱の塊になってるに違いないな、これ。
でも、ここにでてくる高校生たちは、みんなこのイベントに否定的な感情は抱いていなくて、こういっちゃなんだがこのイベントに対してそんな前向きな時点で青春してるんだよ、君たち。

歩く、という行為は実に偉大だと私は思う。よく、散歩をすることで新しい発想が生まれてくる、なんてことが言われるけれど、あれは紛れもない事実なんだろう。ヒトの進化は、ヒトが歩き続ける限り終わらないに違いない。実際、黙々と歩いてみるといい。それ以外の時間と比べて、驚くほどの密度と規模の思考が脳内に展開されていく。自己の内と外が曖昧になり、考えを、思いを、妄想、想像、それらが脳内で巡らされるという現象に自分の存在が集約されていく。

この【夜のピクニック】という作品は、とにかくただ友達たちと駄弁りながら歩き続ける話だ。だが、歩き続けるということは同時に、考え続けるとイコールでもある。
人間、なかなかただ考え続けるという行為は続けられない。日常というのはまったくもってスケジュールが詰まっていて生きるのに忙しい。受験前の高校三年生ならなおさらである。
そうした状況下では、なかなか思考の深化はままならない。考えの方向性は固着化し、新しい方向、深度へと向かう余裕もなくそのまま流されていく。
この12時間あまりをかけて80キロ近い距離を歩き続ける「歩行祭」というイベントは、見方を変えればそんな彼らに、ポンと12時間余もの思考に没頭するしかない時間を押し付けることにもなるわけだ。
自分のこと、家族とのこと、友人とのこと、心に引っかかっていた問題のこと。それらについて、今までにないくらい深く静かに思い巡らすことになる。
まったく、そう考えるとこの悪逆非道なイベントも稀に見る得難い体験なのかもしれない。
私は勘弁して欲しいが。


感服させられたのは、そんな彼らが思い巡らす感情や考え方の表現や描写の平易さだった。実にわかりやすい。明確な形にならない、当人にとっても訳の分からない自分の心の中のもやもやとした何か。それが小難しい言葉や飾った解釈を一切伴わず、ふっとしみこむような分かりやすさであらゆるところに間配られている。
わけのわからないグチャグチャとしたあやふやな想いを、物凄く明確に理解できたのだ、これが。
これは、心情描写における一種の結晶なんじゃないだろうか。
飾らず気負わずムキにならず、あるがままの姿を捉えた描写表現。なるほど、むしろこうしたなだらかなものの方が、青春小説として結実を得ているのかもしれないなあ。