“菜々子さん”の戯曲  Nの悲劇と縛られた僕 (角川スニーカー文庫)

【“菜々子さん”の戯曲 Nの悲劇と縛られた僕】 高木敦史/笹森トモエ 角川スニーカー文庫 

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第13回学園小説大賞《優秀賞》受賞作、登場!
“菜々子さん”が、突然3年前の事故は「事件だった」と語り出した。彼女が語る情報の断片は、なぜか次第に菜々子さんが犯人だと示し始める。しかしそれは、菜々子さんの巧妙なる“シナリオ”だった!

名無しの菜々子さんはどこにいる? 本当の“菜々子さん”はどんな人?
「ぼく」と「菜々子さん」の間で繰り広げられるそれは、ほとんど一方通行のコミュニケーションにも関わらず、此処で繰り広げられているのはぎりぎりの瀬戸際を綱渡りするような駆け引きだ。
何が真実で、何が事実とされるべきなのか。「菜々子さん」から提示される情報と、過去の記憶のみを糧として、主人公は彼に許された唯一の行動である「思考」を駆使して、名前を失った少女の真の像を構築していき、その上で彼女が暗に指し示している条件を摺りあわせて行く。
断絶したコミュニケーション上で繰り広げられる駆け引きと、その過程で浮き上がってくる真相は非常にスリリングで、なるほど謎解きとはまさにこのようなエンターテインメントなんだなあ。
「菜々子さんは陰険である」
まったくもって怖い人である、菜々子さんは。でも、それ以上に可愛い人である、菜々子さんは。
一連の駆け引きを持ち出した彼女の意図がどこにあったのかというと、真相の口封じと事実とするべき事柄の相互確認、というのが「僕」が表層的に認識している動機なんだろうけれど、最後の彼女の独白を見ると、確かにそれは重要であるけれども建前に過ぎなくもあるんですよね。
本当の目的は、自分という女の子がどんな人間であるかを深く深く考察してもらうこと。そして、彼の意識の深い深いところまで、楔を打ち込む事。自分のことを忘れないように、自分を決して蔑ろにしないように。もはや、逃れられないように。
興味深いのは、彼女がそうした偏執的な自分の執着心を完全に客観的に把握した上で楽しんでいるところなんですよね。彼女のそれは一種の病的なものとすら言えるんだけれど、同時に完全に制御されている。理性的にコントロール出来ているわけだ。彼女のたちの悪いところは、コントロール出来ているにも関わらず、それを一切抑制しようともせず開放しきっているところ。
解ってやって、しかも楽しんじゃってるんだから、そりゃあ「陰険」呼ばわりされても仕方がない。
勿論、彼女が事故の際の「僕」の行動で根深いトラウマを植え付けられてしまった事からも、彼女にも人並みの良心や罪悪感があるのは想定できる。これがあるからこそ、彼女が本心から「僕」の回復を願っている事も信じられるし、彼女の「陰険さ」に愛嬌が感じられるのかもしれない。いや、彼女がその「陰険さ」を隠すどころか、「僕」に余すこと無く伝わるように仕掛けてきた開けっ広げさが、彼女の陰険さに陰湿な部分を匂わさず、快活ですらあるように見せているのかもしれない。
とはいえ、「僕」が菜々子さんの「陰険さ」を知り、彼女がどんな人間なのかを思考し、ほぼ正解の形で想像してしまったからこそ、あの呪いは発動してるんだから、やっぱり素晴らしく「陰険」だわ(苦笑
これもまた、ひとつの愛情の形なのかもしれない。自然と結ばれる愛情もいいけれど、こんな風に狡猾に手ずから玉結びにしてしまう繋がりも、アリといえばありなのだろう。長い人生においては、こうした愛情の方がロングスパンで見ると上手くいくような気すらしてくる。