B.A.D. 4 繭墨はさしだされた手を握らない (ファミ通文庫)

【B.A.D. 4.繭墨はさしだされた手を握らない】 綾里けいし/kona ファミ通文庫

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「それじゃあ、行こうか──小田桐君」いつものように紅い唐傘の影で繭墨あざかは囁いた。白雪があさとに捕まった。無力な僕ができることは少なく、結局はこの異能の少女に助けを求めるしか術がない。だが、あさとへの手がかりを掴み、事務所に戻った僕が目にしたのは、引き千切られた繭墨あざかの姿だった。無惨な光景を前に、僕はようやく決意する。狐を殺そう、と──。残酷で切なく、醜悪に美しいミステリアス・ファンタジー。因縁と対峙する第4弾!

望みもない、光もない、希望も未来も何も無い。大切なモノを失ってしまった絶望は、自分の無力さが招いてしまった悪夢は、人から生きる気力も何もかもを奪い去る。何も無い、空っぽの魂。虚のような心。人は、なぜそんな有様になってまで生きるのか。生きている事ができるのか。
その答えを、雄介が叫んだ時、読んでて思わず泣きそうになった。
そうなのだ。突き詰めれば、ただそれだけのことなのだ。どれほど酷い有様になりながらも、生きる希望も何もかもを失いながら、生きたいとすら思わないのに、辛いのに、苦しいのに、それでも生きてしまうのは、本当にただそれだけのことなのだ。
死にたくない。
ただ、それだけなのだ。そして、それはどれほど大きな絶望をも超えて、人の本能を縛り続ける。
人の生命をゴミクズのように軽く消し去ってしまう、無残に無常に無慈悲に失わしめるこの作品だからこそ、その浅ましく醜くあざといまでの本能の叫びが、なぜだか途方もなく尊い真理に見えたのだ。
この巻で訴えられる叫びは、とてもシンプルだ。どれほどみっともなく壊れた振りをしながらもしがみついてしまう、死にたくないという想い。残酷で悪趣味で悪意に満ちた作為に対して、ただ怒ればいいのだ、という示唆。人は考えを巡らすものであり、その知恵こそが人という存在を高めてきたと言っていい。だが、それは時に人を泥沼のような迷宮の底に突き落とす。自ら足を踏み外し、誘われるように深みへとハマっていく。複雑な思索に溺れ、自責に浸り、一歩も動けなくなり、絶望を積み上げていく。
そんな悪夢を前に、提示されるのは、とてもシンプルな本能に基づいた行動だった。ただ、それが正しい事、正解だと明示しているわけではない。奸智に長けた悪意を振り払うために、小田桐たちが必要としたのが、それだったというだけだ。結果として、小田桐は狐の悪意を振りきったけれど、それで彼が救われたとは言えないのだろう。彼にはもう、救いといえる未来など無いのだから。
それでも、今回の一件で彼は「死にたくない」と思う自分を否定する事はなくなったのではないだろうか。積極的に「生きたい」と思わなくても、自分自身が生きる事に罪悪感を抱いたままなのだとしても、生きていたくない、とまでは思わなくなったんじゃないだろうか。
だったら、それで十分な気がする。繭墨あざかの死に怒り、その生を喜び、自分の周りに居る人々を気にかけ、自分を気にかけてくれることを感謝する事が出来ているなら、それで彼が生きる事を肯定するには十分なんじゃないだろうか。幸せなんて見え透いたものを、人は絶対に必要としている訳ではない。自分が生きることを肯定できる分の何かがあれば、それで十分という人は決して少なくないような気がする。
繭墨あざかは、小田桐を救わない。でも、彼を決して絶望させ続けない、という意味において、誰よりも今の彼を守り続けているように思う。優しいよ、この人は。他人の悲劇を楽しむ趣向の人なのかもしれないけど、自ら悲劇を作り出す事は概してやらない事からも、それは伺える。
自分が死んだら、小田桐が怒ると信じて疑いもしなかったあたり、面の皮が厚いだけじゃなく、随分と機微にも通じているのではないだろうか。悪しきなりとも、邪ならざりき、という奴か。

狐の物語が終わって、この作品も終わりなのかと思ったら、まだ続くのか。そろそろ、本当の繭墨あざかの話になるのかな。
繭墨はさしだされた手を握らない。このサブタイトルが、繭墨あさとの事なのか、それともあざかの事なのかは定かではないけれど、少なくとも繭墨あざかは、さし出された手を握らないのだとしても、彼女自身からは手を差し伸べてくれる。手を取り握れば、握り返してくれる。そういう人なのだと、忘れないで置きたい。たとえ、これからどんな話になっていこうとも。

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