丘ルトロジック2江西陀梔のアウラ (角川スニーカー文庫)

【丘ルトロジック 2.江西陀梔のアウラ】 耳目口司/まごまご 角川スニーカー文庫

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街でトイレを探し、すんでのところで女子トイレに駆け込んだ咲丘。危機から解放され個室を出ると、そこにいた長身痩躯のギター少女の襲撃を受ける――!! 現代の都市伝説《幼なじみ》との最悪の再会だった!!
ああ、そういう事か。このシリーズってサブタイトルは中身となんにも関係ないんだ。そもそも、今回の話ってメインとなるのは香澄であって、江西陀はじゃないもんなあ。とはいえ、物語の決着として決定的な役割を果たすのは江西陀な訳で、そうなるとサブタイトルも無意味じゃないのか。あの「アウラ」をどう捉えるかにもよる。一巻のカンタータから連なるのならこのアウラも音楽用語なんだろうけれど、画家であり芸術家である江西陀に該当すると思われるのはむしろヴァルター・ベンヤミンの語る「アウラ」っぽいんだよなあ。
前回で死体を描く事を咲丘に止められたその先で、彼女が新たに見出したモチーフは既存の芸術作品を自分なりに捉えて描く死の残像だったわけですが、結局それは江西陀の魂に響かなかった。それはどれほどオリジナリティを発掘しようとも所詮複製芸術であり、そこにはアウラが宿っていない。しかし、彼女のアウラを宿した作品は、まさに人としての禁忌を体現したものである以上、そこには常に相克があり続けるわけだ。結局、狂人である咲丘は、江西陀の欲求を認め、肯定してくれるんだけれど、江西陀自身が自分の芸術家の魂が備えた本質に対して嫌悪感や畏怖を抱いて止まない訳で、そんな自ら悪夢に踏み込み、悪夢にこそ喜悦する自分の在り方に苦悶する江西陀だからこそ、香澄のしがみつく「ロック」の虚飾を毟り取れたわけで、んん、そう考えると回り回ってこの「江西陀梔のアウラ」というタイトルこそが、この二巻の帰結であり、相応しいものだと言えるのか。
世界とは人そのものであり、人の在り方こそが世界である。沈丁花桜の語る世界征服とは、社会の制圧や掌握というよりもむしろ、人の価値観や概念を破壊し、自分の思い描く人の在り方を世界中の人に植えつけることこそを世界征服と銘じている、そう考えるべきなんだろうか。平穏と退廃が表裏のように並列しているこの街こそ、その執行のモデルケースとしては相応しいのだろう。時に、人智を超えた怪異が存在し、そしてそんな怪異たちもが可愛く見える壊れた人間たちがただ在るが儘にそこに在る街こそが。
この話、壊れた心を治そう、という話じゃないのが面白いよなあ。壊れている心そのものやその壊れた在り方に価値を見出しているわけじゃないんだけれど、その人が壊れた事その事にこそ何か大切なものを見いだしているような気がする。特に、今回の黒幕については。咲丘もそうだよなあ。

ドッペルゲンガーの真相については、実は最初期の段階で言及はされてたんだよなあ。これにはかなり振り回された。最初は良く知られているドッペルゲンガーとしての現象こそが唯一の真実だと思ってたんだが、一巻で出会ったあの人みたいな存在が居るなら、こういう存在も居ておかしくなかったわけか。しかし、さらにそっちが真実かと思わされたところでまたひっくり返されたわけで、随分と上手いこと振り回された感じ。黒幕については本気で最後まで気づかなかった。別の問題の方で目眩ましされてましたからね、てっきりそっちの為に登場したのとばかり思ってた。

新キャラとして登場し、今回の事件の渦中に巻き込まれた幼馴染の香澄だけれど、今後はこれヒロインとしてではなくて準レギュラーになるんですかね。学生じゃないから丘研のメンバーにはなれないし、そもそも彼女はロックンローラーではあっても、丘研に加われるような狂気の持ち主ではないですものね。あそこのメンバーは多かれ少なかれ人として壊れて狂った人たちですし。一番ましなのが、意外にも江西陀なんだよなあ。ブッチギリに異常な性癖、性癖じゃないか、モチーフ趣向の持ち主なんだが、そのメンタルはわりとまともな方だし。
つまりは江西陀かわいいよ江西陀、ということで。
しかし、なんで香澄も江西陀も、咲丘なんて男が魂の拠り所になってるんだろうかなあ。あの根本的なところで揺るぎのない存在が、時に常識や良識、倫理や善悪や社会秩序すら無視して、在るが儘の風景を愛するこの咲丘だからこそ、基準を見失いがちになる彼女たちにとっての指標となるのか。面白い。

1巻感想