犯人は夜須礼ありす (MF文庫J)

【犯人は夜須礼ありす】 伊都工平/ろんど MF文庫J

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代わりに、私は葦人のものになる

悠木葦人はある日、自宅の前で倒れていた少女を拾う。彼女の名は夜須礼ありす。おとなしいクラスメイトだった彼女は、同級生を殺害し、逃亡しているところだった。「大声を出したりしないって約束できるかしら?」「どのみちあなたは、今日のうちに死ぬしかないもの」「運がなかったわね、悠木君」目覚めたありすに凶器で脅され、葦人はありすを匿うことに。奇妙な同居生活のかたわら、彼女の殺人が信じられず、葦人は事件を調べはじめる。だが二転三転する事件の姿は、全ての出来事を一つの形に繋いでいく――。伊都工平が贈るボーイミーツガールミステリー、ここに開幕!
うははははは、なんじゃこりゃ、わけわかんねえ!! おもしれぇーー!!
相変わらず伊都工平さんは、今まで食べたことのない味覚食感を味わわせてくれる、これを奇才と言わずして何というのか。作品を重ねるごとに、マイルドになるどころか先鋭化してないか? 何かと経年するほど角を落とされていく傾向のあるMF文庫にあって、此処までエッジを効かせ続けてる人は珍しいです。頼もしい。さすがは伊都さん、大好きすぎる。
作者の執筆コンセプトの訳のわからなさは、如実に作中に現れているのだけれど、今回に限ってはちゃんとそれを後書きで詳しくまとめて解説してくれてるんですが、ぶっちゃけ何言ってるかワケワカンネ(笑
なんか、論理帰結のルートが他の人と違うんだろうなあ。
ともあれこの話、異常者の狂気を堪能するものではなく、各々が置かれた環境の中で変質し破綻していく人間心理の在り様を客観的かつ論理的に説明できる形に細かく詳らかに細かく切り刻んで解体し、腑分けし、バラバラの微細な断片にまで切り開いて、人のあり方のすべてを覗き見るという悪趣味さに悪酔いするという類の代物と考えるべきなのだが、面白い事に存在意義(レゾンデートル)にまで踏み込んで、人心を切り開き単純な言語表現によってその人の在り方の全てを説明しようとすると、逆に深みにハマりすぎて本質を見失っているような気にさせられてくる。
解体の結果導き出された人物像は、おそらく紛い事無く正しいのだろう。だが、それで果たしてすべてなのか。ミクロを注視しすぎていて、ミクロの集合体であるマクロを見失ってはいまいか。
ミクロ視点では、多分ありすとはそのような人間なのだろう。だけれど、それでありすという少女の全てを分かった気になるのはずいぶんと的外れな気がするのだ。そのミクロを踏まえた上で、もっと大雑把に、大胆に、簡略的にその心情を捉えたならば、それはとても単純な単語で整理表現出来てしまうものなんじゃないだろうか。
顕微鏡で見たものがすべてではない。その物質が何出てきているかは顕微鏡で細かく観なきゃわからないかもしれないけれど、でも顕微鏡を覗く前にまず人間はそれを肉眼で捉えるのだ。
しかし、そうやってマクロを強く意識してしまうのは、ミクロな部分まで覗いたからとも言える。
本作を読み始めた前半では、そのマクロな部分こそが軽視すべきものだった。言うなレバ、愛だの恋だの、好いた惚れたといった浅はかで薄っぺらな分かりやすく実際は何も内実を語っていない空虚な単語だけで、すべてを説明しようとすると、つまり頭空っぽで何も語っていないのと同様の気にさせられてしまう、ってな感じで。
その薄っぺらで空虚な外殻の内側が見たかった、奥底を覗いて見たかった。その奥にあるものこそが真実で、外側の殻は何の説明にもなっていない記号に過ぎないと思えていた。
ところが、実際に奥底の底の更なる底までさらって覗いて解体しきって並べてみると、結局真理の一部を極々近視眼的に捉えているように思えてくる。ただの理屈で塗り固められた本物ではない違ったものに見えてくる。
それはつまり、結局のところ、薄っぺらで浅はかで記号にしか見えなかった、愛だの恋だの、好きだの惚れただのと言ったシロモノにこそ帰結し終着している在り様なんじゃないだろうか、と。
まったく。
なんて、愉快で面白い往還だろうか!!
きっと裏も表も、外も内も、表層も深層も、どちらもが真実で、どちらもが一部に過ぎず、両方纏めて見てすらも歪で納得の行かない、まったく理不尽で矛盾した、破綻の極み。まったくもって、人の心の在り様そのものである。それがここでは、余すことなく描かれている。ぶちまけられている。踊り狂っているのだ。
最高だ。

この座りの悪さ、理解の滞りこそが、快感になってくる。心地よくて仕方がない。それが伊都工平作品から受ける私の心象であり、自分の好みのドストライクであることを鑑みるなら、まさにこの作品、自分にとっての大当たりなのだと、改めて再認識した次第。

存在意義に基づく根源欲求の合致によって結びついたありすと葦人の信頼関係。それを何と名付けるかは、当人たちではなくむしろ何も知らない周りの人達が付けるべきなのかもしれない。
何しろ観測は、すべからく対象に影響を与えるものであり、状況は続けば当人たちの認識を超えて馴染んでしまうものなのだから。そして、理屈はあくまでどう転ぼうとも理屈にすぎないのである。さて、果たして人の心はどこまで理屈でねじ伏せられるのか。全くもって見物である。