龍盤七朝 DRAGONBUSTER 〈02〉 (電撃文庫)

【龍盤七朝 DRAGONBUSTER 〈02〉】  秋山瑞人/藤城陽 電撃文庫

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秋山は死せず!鬼才が描く剣をめぐる物語、超待望の第2弾

 卯王朝、第十八皇女の月華(ベルカ)。感情が高まるとぐるぐる回る癖がある困った姫様。
 とある夏の日のどぶ川の畔で、虐げられる民“言愚(ゴング)”である涼孤(ジャンゴ)の剣舞を目撃し自らも剣をとる。はじめは金持ちの道楽でしかなかったその剣術だが、あるきっかけからまさかの開眼をはたし――!?
 一方、元都には武人が生死をも賭して真剣試合を行う大比武が近づいていた。頂点まで勝ち上がった者は「独峰(どっぽう)」と呼ばれ大変な名誉であり、そこに至らずとも武技優秀と認められれば相応の軍籍が与えられる。
 涼孤の働く講武所の師範代・蓮空(デクー)や、一番手講武所の一番弟子・阿鈴(アレイ)など、それぞれの志を抱き出場を決める。
 涼孤と月華は武の頂を目指す者たちを巻きこみながら、その運命を近づけていく。はたして二人の剣が交わる日はくるのか!?
……うははは、すげえわこれ。なにこれ、マジすげえ。格が違いすぎる。
そうだよ、これなのだ。圧倒的なまでの文章の奔流に、抵抗の余地なく押し流されていく感覚。
これが秋山瑞人だ。
この作者の絶対兵装とも言うべき隔絶した描写力は、あまりにダイレクトに体感を強要し、斯くの如く読者の意識を完全に支配下に置いてしまう。お陰で、はたと気づけばいつの間にか本が読み終わってしまっていて、忘我となって座り込んでいる自分の有様を目の当たりにしてしまうのだ。そうして、自分が今どんな体感を得ていたのかを後になって理解し実感し、鳥肌に襲われる事になる。
なんでこんな文章が書けるんだ? 同じ日本語だぜ? なぜこんな圧巻の世界が組み上がる。瀑布さながらの描写が現出する。こんな文章を果たして余人が真似できるのか。努力を重ねれば、斯くの如き魔王のような文章を書き連ねることができるのだろうか。無理に決まってんだろうが、こんなものそれこそ「龍」そのものじゃないか。
如何なる形にせよ、文を書くものの端くれとして、彼の人のそれは憧憬の対象である。どれだけ、こんな文章を書いてみたいと思ったことか。何度も何度も読み返し、得たものは焦がれであり、光悦であり、そして絶望なのである。果たして、作中にい出る群狗翁の心底が幾許かなりとも感じ入れるなどと言っては身の程知らずもいいところか。
そう、この物語の内側においても、龍は焦がれの対象であり、また絶望の化身なのである。猫が虎に化けたとて、龍にとっては猫も虎もさして違わぬ小動物に過ぎない扱いなのだ。ただただ無邪気に龍の強さに焦がれ慕ってその頂に辿り着こうと走り続けていた月華が、その龍からまるで相手にされていなかった事を知った時の絶望は如何程のものだったのか。自負も誇りも純心すらも打ち砕かれ踏み躙られ、屈辱の果てに目の前に浮かび上がったのは、自由と肯定によって織り成されていた彼女の人生における初めての「挫折」だ。

一方で、当の「龍」である涼孤はと言えば、彼には龍たる自覚は何も無い。強者であるという意識すらもない。被差別民族の出身である彼は、言うなれば最初から挫折し続けていると言っていい。心折れたまま、自分に対する一切の肯定を持たぬまま生きてきた存在だ。彼にとって自身の武には何の意味もなく、何の価値もないのだろう。だからこそ、彼は他者である蓮空の人生に価値を求めた。身代わりとして、或いはもっと卑小に彼の人生に輝きが生じれば、それを傍で眺めている自分にも価値があるかのような錯覚を味わえるのだと期待して。
最初からお零れにもならない幻想を求めた涼孤は、だが蓮空の堕落によって自分はそんな幻想すらも味わえない存在なのだと絶望してしまう。
なんて、空虚な龍なのだろう。最初からすべてを諦め、何も成そうとせず、底辺で泥に塗れて廃するを良しとする存在でありながら、その武は人域を逸脱した龍。たいそう皮肉な生き物だ。
自分の武に価値を見い出せない虚ろの龍に、その武にこそ価値を見出し同じ場所に辿り着こうとしていた無邪気な虎。最初から、この二人は何も噛みあっていなかったのだ。その齟齬が今回露呈してしまったに過ぎないと言えばそれまでなのだろう。
だがしかし、それでこの二人の縁は終わりなのか。虎は果たして龍への憧憬を捨てられるのか。龍は、自分に向けられる憧憬を受け取れもしない実のない虚ろのままで終わるのか。
むしろようやくここからが本番じゃないのかと思わずには居られない。たった二冊で終わるはずもなかったのだ。
次は何年も待ちたくないなあ……待つけどさ。