丘ルトロジック4  風景男のデカダンス (角川スニーカー文庫)

【丘ルトロジック 4.風景男のデカダンス】 耳目口司/まごまご 角川スニーカー文庫

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唐突に世界が終わってしまう、という妄想をしたことはあるだろうか?―いつものように都市伝説“ビッグフット”を取り返す計画を立てていた丘研メンバーたち。だが江西陀は沈丁花桜の「世界を取り返す」という言葉に不安を感じ、オカルトとして彼女の正体を調べようと、桜丘に相談してきた。一方歓楽街オアシスではカルト集団“セントポーリア”が超巨大勢力として復活し、“黒ミサ”がおこなわれ!?最後の丘ルトが始まる―。
あれ? なんか、感想として書く事は三巻の感想記事でだいたい書いちゃった気がするぞ?
さすがに桜の「世界を取り戻す」という目的の真意と、それを叶えるための手段、非倫理性については思いもよらない形となって現れてきましたが、人間関係の帰結については大枠では三巻までで捉えていた通りの推移をたどってしまったかな、と。尤も、むしろ暴走するのは自分は桜の方じゃなくて咲丘の方だと思ってたんですよね。桜の「世界を取り戻す」という意味は独善ではあってももっと性善に類するものだと思っていたので、むしろ咲丘に桜の方がギタギタに裏切られた結果として健全な人間性を取り戻す、という展開を予想してたんですよね。ハッキリ言って、三巻までの描写だと人間性が破綻しているのは咲丘の方でしか見えませんでしたから。
ぶっちゃけて言うなら、桜の主張はワタシにはよー理解できませんでした。わりとバッサリ、最後に咲丘に弾劾されちゃったりしていますけれど、思春期特有の自我の肥大、という以前の幼稚な現実逃避だったのか。現実を否定するのに内側に篭るのではなく、外側を破壊してやろうという意気は大したものなんですけれど、その手段が神秘とは程遠い、生産性も創造性も皆無に等しいただのテロだったというのにはちょっと失望しましたね。彼女の行為の先に、果たして世界の価値観がひっくり返るような効果があったのか。果たして、「世界」が人間の手から取り戻せたのか、というと、とてもそうは思えませんでしたもの。テロと革命は、やはり異なるものなのですから。桜にはそうしなければならない動機があり、焦らなければならない理由があり、絶望に対して闘争を選ぶ決意があったのは十分に理解できるのですが、彼女には絶対的に希望と未来が存在していなかった。先につなげる意思がなく、彼女は行き止まりのまま完結していた。故にこそ、彼女には破綻と破滅しか残されていなかったのでしょう。残念な話です。
まあだからといって、彼女と相対する事になった咲丘に、何があったのか、と問われるとこちらもさっぱりわからないんですけどね。彼は彼で破綻しすぎていて、桜の裏切りが彼の何を裏切ったのか、正直な所よく分からないんですよ。江西陀や蜂須が、桜に裏切られた、というのはわかるんです。江西陀が丘研に求めていた拠り所、蜂須が抱いていた友情、親愛、信頼を桜が自分の為に裏切った、というのは理解できる。でも、咲丘については、彼が抱いている「風景」への概念がどうしても常識離れしているために、彼が望んでいた丘研の風景がこちらが捉えていた普遍的な風景と一致している気がしなくて、どうも彼の裏切りへの悲嘆に共感が抱けず、結局二人の対立については感情的に置いてけぼりになってしまった気がします。
その点、むしろ読者たる自分の感覚を背負ってくれたのは、ドM勇者たる蜂須の方だったかもしれません。彼が抱えていたトラウマ、過去の傷、そしてそれを踏まえての堅い決意とそれを実践する行動力は、むしろ咲丘よりも主人公らしかったんじゃないでしょうか。端的に言うと、彼については物凄くわかり易かった。理解できやすかった、とも言えます。
だから、蜂須が結果として二股野郎の蜂須ハーレムを築いたところで、むしろやんやと声援を送りたい。ってか、玲儀音と狭いアパートで同棲までしておきながら、萩に堂々と積年の想いを告白する度胸というか厚顔さは賞賛に値する! 挙句、三人で暮らし始めるとか、どんだけ勇者だよ。
なんかもう、蜂須さん勝ち越しってな感じの結末だったような印象さえ。いや、勝ちと言えば最初から最後まで一途に健気に、ひっそりと自分の恋を暖めていた江西陀が、ちゃんと報われたのが一番の勝利でしょう。そんな結末を導いたのですから、桜の闘争にもちゃんと価値があったのではないでしょうか。いやそれどころか、裏切り奪って孤独に世界を取り戻すよりも、与え育み未来へと繋げる事のかなった、よっぽど素敵な勝利だったように思います。
お疲れ様でした、会長。

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