空ろの箱と零のマリア6 (電撃文庫)

【空ろの箱と零のマリア 6】 御影瑛路/鉄雄 電撃文庫

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人を傀儡化し、世界を支配しようとする醍哉を捕らえたのは、一輝が展開した箱“願い潰しの銀幕”。大嶺醍哉の『人生』を上映するこの空間で、すべてのプログラムが終われば彼は敗北する。星野一輝の狙いを阻止するために醍哉がとった奇策によって、ついに醍哉は一輝を映画館へと引きずり込むことに成功する。音無彩矢、麻理亜、そして、“O”。“零のマリア”を巡って、一輝と醍哉は衝突する。二人のうち、『世界』を救う/変えるのは、果たして―。
いったい、この登場人物たちの眼には世界はどう写っているんだろう。誰も彼もがあまりにも一線を越えすぎていて、彼らが何を見ているのかさっぱりわからなくなってきた。
特にその最たる者は一輝その人なのだろう。手段と目的を履き違えている人は珍しくはないけれど、彼の場合は目的を達成するために目的を見失っている、としか思えない思考に陥っているように見える。
結局、彼の目的を叶えるためには彼自身がたとえ非日常に身を置くことになっても彼の精神は日常の側に在り続けなければならなかったはずなのに、マリアを失わないために彼は壊れ逸脱することを選んでしまった。もう、一輝は自分がそうなってしまった以上、彼が望む形でマリアを取り戻すことは絶対に叶わなくなったにも関わらず、彼女を取り戻すためにブレーキが壊れたように邁進し始めてしまう。絶対に辿りつけない場所に届くまで止まることを知らない、諦めることを認知しない彼の有り様は、どう見ても破綻している。
星野 一輝はこれ以上無く正しい形で、足を踏み外してしまったのだ。
もうこれ、バーサーク状態と言っても過言ではないですよね。空恐ろしいほど冷静に見えながら、根本的な所で正気を逸している。冷酷に、非情に、淡々と手段を選ばず他人を傷つけることを躊躇わず、立ちふさがるものをたとえ親友だろうとなんだろうと薙ぎ払っていく彼は、機械のように理性的に見えるけれど、もはやこれは静謐な狂乱だ。
醍哉も自己矛盾の果てに相当に壊れ果てていたけれど、一輝に比べればあまりにも正気すぎた。幾ら逃避していても、理性が残っていたら理解が及んでしまう。理解が届いてしまえば、自分のやっていることの虚しさに気づいてしまう。気づいてしまえば、走り続けることなんて出来ようはずがない。最初から、彼には一欠片も勝ち目はなかったのだ。彼の凄味は、それを半ば承知していて、最後の最後に足掻いた挙句に逃避の先を、次に繋いでしまったところなのだろう。彼は、つなぎ役という自分の役目にすら気づいてしまった、というわけだ。
そこに、幸福も希望も何もあったもんじゃないというのに。
この話、いったい誰が救われるっていうんだろう。心音と醍哉は正解に辿り着きながら、あまりにも手遅れで何もかもが遅すぎた。この結末は、どうしようもなく虚脱してしまって、俯いた顔をあげることも出来ない。一番可哀想なのは心音でしょうに。陽明にしても、報われないことを承知していたとしても、その献身も犠牲も全部無駄となってしまったというのなら、あまりにも悲しすぎる。
なんで、みんな自分を許してあげないんだろう。どうして、みんなこれでいいや、と妥協しないんだろう。諦めもせず、なあなあで済ませもせず、ひたすらに頑なに、誰も彼もを裏切るまいとして、傷つけまいとして、正しく生きようとして、まっすぐに進もうとして、自分を罰しようとして、そうやって全部壊してしまうのだというのなら、そんな不器用な愚直さは糞食らえだ。小器用に生きろよ、小狡く立ち回れよ、全力を尽くすなよ、曖昧で済ませろよ、濁を飲んで笑ってやれよ。
自分を、好きになってあげなよ。
許せない、という事は、こんなにも雁字搦めに生き方を縛ってしまうものなのだという現実が、ただただ哀れで虚しい。
もう、一線は越えてしまっている。人としても、物語としても、引き返せるところを踏み越えてしまった。そんな先にある、果てにある結末がいかなる形を造るのか。希望も期待も何もなく、断罪を待つかのような心地である。

シリーズ感想