ニーナとうさぎと魔法の戦車 6 (ニーナとうさぎと魔法の戦車シリーズ) (集英社スーパーダッシュ文庫)

【ニーナとうさぎと魔法の戦車 6】 兎月竜之介/BUNBUN スーパーダッシュ文庫

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ニーナの憧れの歌手・リディアがアンフレックでコンサートをすることに。幼い頃に野良戦車によって全てを奪われた彼女の、平和を訴える歌声は世界中から賞賛されていた。そんなリディアのコンサートへの出演依頼が、ラビッツの元に舞い込んできた!手の届かない憧れの存在に会えると聞き、喜びを隠しきれないニーナだったが『白い歌姫』とも呼ばれる世紀の歌い手は、実はとんだわがまま娘で…。ステージに立つことになったラビッツは、とんでもない衣装を着せられたり、慣れない歌に苦労したりと大騒ぎ!しかし、コンサートの影では、ある陰謀が進行していて…。
平和って難しいんですよね。スプライカが貫こうとした平和を守るための悪は、やっぱり平和を言い訳にしているだけと思うんですよね。でも、言い訳する余地すら与えられなかったらこういう仕事は精神的に耐えられるはずもない。奉仕には、それ相応の意義が見いだせないとどれだけ強靭に精神を鍛えあげていたって耐えられるもんじゃない。
平和に対する理想と現実は、何時だって対立するもので、そこに妥協は存在しないし相容れぬものではありません。妥協が混じれば、理想も現実も価値と効果を喪ってしまう。しかし、そのどちらもが平和には必要不可欠なもので、一番利口なのはお互いを尊重して、好意的な無視、或いは適度のお互いの利用に留めて住み分けすることなのでしょう。
今回の悲劇は、まさにこの平和への理想と現実が、住み分けできない一所で両立してしまったことにあるのでしょう。リディアの歌姫としての活動がもっと無力なものだったら、スプライカたちの工作員としての活動がもっと微々たる些細なものだったら、両者の在り様は併存できたのかもしれません。しかし、両者の活動は今や国際情勢そのものに大きな影響を与えるものとなってしまいました。もはや、そのどちらかを打ち捨てなければならない状況になってしまっていたのではないでしょうか。
と、マクロな視点から破綻の原因について言及するとこういう見方になるのですが、もっと個別の人間に焦点を合わせると違った見方が出てくるような気がします。
個人的には、リディアが反抗を決意したのは、スプライカの思想が先鋭化しすぎたところにあるようにも見えるんのです。言い訳に固執しすぎて、リディアとスプライカが共有できていた平和への思想が致命的にズレてしまった。というよりも、スプライカが原点を見失いつつあり、スプライカという個が失われようとしている事に耐えられなかったのではないかと。
リディアは、この娘は理想家ではありますけれど、同時に非常に現実主義者なところがあって、だからスプライカが一線を越えなかったら、わりとこのままスパイ活動を内包しながら音楽活動を続ける事に忸怩たるものを抱きつつも否はなかったんじゃないかな。
リディアが止めたかったものが何なのか。それに注目すると見えてくるものは色々とあるのではないでしょうか。

スプライカのような平和維持の手段は大手を振って罷り通るものではありませんし、それが正しいと公に認めてしまってはいけないものです。対峙すれば阻止され、打倒されて然るべきものなのでしょう。しかし、全否定だけはされるべきではない。悪しきを全部否定する潔癖さは、のちのちより大きな惨劇を招くばかりです。この作品は現実が招き寄せる主に戦争や国際間対立がもたらす悲劇についてガンガンと恐れず書き連ねながら、こうした必要悪については、実はかなり繊細に扱っているフシがあるんですよね。悪を認めてはいけない、美化してはいけない、しかしそれを根こそぎ否定してはいけない。そんな風に。
スプライカの最期は先鋭化しすぎた部分については討滅されつつ、しかし和解なく彼が生き方を貫いたという意味でどこか象徴的だったような気がします。
平和を思う心は万人にあるもの。街の平和、国の平和、世界の平和。全体を見て平和を守ろうとする事は決して間違っているとは思いません。しかし、だからこそ一番原点、根本の部分において平和を願うのが自分という個であることを喪ってはいけないのだと思います。個を失った歯車がどれだけ平和を訴えても、そこに響くものはありません。リディアが戦場に響かせた歌声は、言い訳に逃げて引きこもった個としての心を容赦なく打ち据えました。まったく、厳しいことこの上なしです。彼女の歌は、そう考えると闘争の歌だなあ。

シリーズ感想