カクリヨの短い歌 (ガガガ文庫)

【カクリヨの短い歌】 大桑八代/pomodorosa ガガガ文庫

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失われてしまった<和歌>を巡る物語――。

もし「歌」について語る機会があるのならば、断絶という一語で足りてしまう。

遠い遠い昔に生まれた「歌」は、ある時に一首の例外もなく幽現界(カクリヨ)に消えた。それから後に、僅かずつではあるが「歌」は還ってきたが、昔の人たちのようにただ無邪気に楽しむことはできない。「歌」のありかたは、根本から変わってしまったのだ。

白髪の青年・祝園完道と類なき天才歌人・帳ノ宮真晴の
命運が交錯する――失われてしまった和歌を仲立ちに。
新星、大桑八代がおくる・三十一文字を巡る物語……。
五・七・五・七・七の合計してたった三十一文字(みそひともじ)のみで綴られる短歌の文化。
短歌の歴史は古く、平安時代以前、古事記によって記されている須佐之男が櫛名田比売を娶った時に読まれた歌が最古とされていることから、短歌という文化は神代の時代から日本という国の原風景に存在していた、とも言える。
だからだろうか。舞台の時代背景は現代にも関わらず、そこに流れている空気はどこか幽玄の側に寄り添っているかのように感じられる。霧の向こうに佇んでいるかのような、朧気ながらも懐かしい気にさせられる、古い古い記憶の風景、空気の匂い。薫ってくる山や海といった自然の静かな雰囲気。人の営みもまた、その風景の中に混じいっている。
完道という主人公の暮らす屋敷は、その大きな正門を常に開きっぱなしにしているという。どこか、その屋敷の佇まいは幽世と現世を渡る門の役割を果たしているかのようだ。そして完道は、常に門の内、屋敷側に居る。勿論、友人と会う為に人里に降りてきて、喫茶店などで談笑していたりもするのだけれど、彼が身を置く場所は常に門の向こう側。俗世から隔離されたような、時代に取り残されたような「あちら側」にするりと佇んでいる。
若くして祝園の家を継ぎ、その祝園家に蓄積されたすべての歌を管理する役割を担うという祝園完道。その姿は家に、屋敷に、幽世に、歌に縛られているかのようでいて、その実、心は自由だ。彼は自由の中の選択として、門を開けた幽玄の向こうで佇み続けている。

逆に、一所に留まることを知らず、歌を求めて日本中を往訪し、何者にも縛られないように正義からも倫理からも枷解き放たれ、奔放に飛び跳ね踊っている帳ノ宮真晴。誰よりも、何からも自由に見える彼女だけれど、真晴は歌に縛られている。歌に囚われきっている。そも、歌もまた彼女に惹かれ囚われてしまうほどに、両者は自縄自縛の関係だ。自由に見えて、彼女は自身を雁字搦めにしている。

二人は、そんな自分にこの上なく満足しているようだ。

満足してしまっている。今の自分のあり様に満たされてしまっている。さらに貪欲になるほどに。だからこそ、相容れない。同じ道を歩けない。もし、二人が同じ世界を共有する事になった時は、どちらかの生き様が否定された時なのだろう。その時、否定された側の人はその人足り得なくなっている。
こんなにも愛し合っているというのに、この二人は合わされば壊れてしまう関係なのだ。
不思議な二人である。真晴も完道も、そのあり様は逆様だけれど捉えどころがないという意味ではよく似ている。だから、なかなか気づかなかったのだけれど、お互いについて言及してみれば随分とあからさまだった。この二人、本当に好きあっている。完道のはにかみを見ればいい、真晴の上機嫌さを見ればイイ、すぐに分かる。理解できる。この二人、お互いのことが本当に好きなのだ。
それなのに、求め合わない。お互いに逆様の道を歩んだからこそ、合わされば壊れると理解しきっているから。
ともあれ、壊れると解っているから尊重して別れていられるほど、出来た人間ならば破綻などしていない。そもそも、完道は人としてあまりに完結しているがために終わっていて、真晴は人としてあまりに壊れているがために終わっている。
だから、それでも良いから、奪ってやろう。そう考えたのは真晴だった。それもまた良いか、と脳裏に過ぎらせたのは完道だった。
もし、ある要素が介在しなければ、二人の再会は見事に壮麗な破滅を呼んでいたのかもしれない。
別れた二人が再会する前に、完道の前にもう一つの再会が成っていた。
藍佳という幼い少女である。おかしな、可笑しな娘だ。真晴が腹を抱えて爆笑するほどのおかしな娘だ。私も、あの変化はまあ斬新だと思う。だからなんだ、とも思う。正体の獣のプライド的にそれはどうなんだ、とも思う。まあどうでもいい、それについてはどうでもいいが、少女の存在価値についてはどうでもよいはずもない。
藍佳という少女が鍵である。隔てる扉を開ける鍵、とでも言うべきか。
見れば、彼女の存在が完道の完全性にして完結性に一穴を生じさせている。彼女と暮らすことで、青年は時の静止したような空間から逸脱し、人のように生きている。生活している。
それを、終わっているとは到底言えない。
真晴がなぜ再び完道の前に現れたかというと、終わっているものをさらに終わらせて壊すことにためらう必要を見いだせなかったからではないかと思うのだ。愛情は、この際なんの歯止めにもならない。愛しているからこそ嬉々として殺し、愛しているからこそ嬉々として壊す。価値がなければ、嬉々として捨て去るだろう。
ところが、来てみれば彼は完結から逸脱していて、その傍には畜生が居た。何とも笑える話で、前提が狂ったけれどまあ別段それはどうでも良くて、やっぱり欲しくてたまらなくなった。歌も、完道も。
真晴という女に軌道らしきものはどうやら存在しないらしい。自由気ままに無軌道で、それでも歌に縛られている。彼女はやっぱり壊れていて、終わっていて、全くもって人生楽しそうだ。
対して、完道である。完結性を逸した彼は、どんな形であれ終わってしまうことを拒絶した。これほど悠然と、泰然と、にこりと微笑んで楽しそうに問題を先送りしてみせたご大人はなかなか存在しない。
答えを出すということは、ある意味においてはそれもまた終わりを迎えるということだ。それを選ばなかった彼の貪欲さは、私にとっては好ましい選択だった。それは、自分を明け渡さないまま相手を丸ごと受容するようなもの。なかなかに辛辣で、愛情に満ちている。いつでもいつまでも待っていると囁きながら、同時に満足できなければ幾度でも突き放すと言うようなもの。何ともツレナイ花である。フッてフラれてフラれてフッて、愛するもの同士でありながら相容れぬという悲恋を連想させる間柄ながら、この二人、何故かひたすらに楽しそうに見えるのは気のせいか。
願わくば、完道の完結性に不足を生じさせたように、真晴の破滅性にも藍佳が緩みをもたらしてくれないかと、願うところだ。この二人が道を同じくすることは決してないのだろうけれど、藍佳を真ん中にして川の字に寝るひと時が訪れないとまでは言い切れない。ひと時の交錯も幾度も重ね束ねれば、それなりの長い蓄積へと至るだろう。二人の間には逃れがたい断絶が横たわっているけれど、それは関係が無に帰したわけではなく、愛情は偏向しながらも続いている。好きで好きでたまらないという気持ちは、ずっとある。
だから。
どんな形であれ、二人が楽しそうで、藍佳が了承しているのなら、まあいいか、と思うのだ。ニヤニヤと、相好が緩むのをどうしようもなく堪えられないそのままに。