尾木花詩希は褪せたセカイで心霊を視る (ダッシュエックス文庫)

【尾木花詩希は褪せたセカイで心霊(ゴースト)を視る】 紺野アスタ/竣成 ダッシュエックス文庫

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久佐薙卓馬は廃墟と化したデパートの屋上遊園地で、傷だらけの古いカメラを持った不思議な少女―尾木花詩希と出逢う。卓馬の通う高校で“心霊写真を撮ってる変わった女”と噂される詩希に「屋上遊園地に出るといわれる“観覧車の花子さん”を撮ってほしい」と依頼するのだが、「幽霊なんていない」と取り合ってもらえない。しかし、諦めきれない卓馬は写真部を訪ね、詩希を捜そうとするのだが、彼女がいるのは“心霊写真部”だと教えられて…。卓馬が逢いたいと願う“観覧車の花子さん”を、詩希は写すことができるのか―。少年の想いが少女の傷を癒す、優しく切ない青春譚。
昔から写真は撮るのも映るのも何故か苦手で、未だにスマホのカメラ機能ってほとんど使った事がない。
最近の人は老いも若きも関係なく、このカメラ機能を使いこなして、気軽に自分の周りの風景や時間を切り取っていく。携帯電話が世の中に登場して、そこに写メと呼ばれるカメラ機能が当たり前のように付属しているようになってから、もう20年近く経っているのだから、それも当たり前のことなのだろう。
ドラマや漫画などでは、事件や事故が起こった時一斉に野次馬たちがスマホを翳すシーンや、料理なんかを食べる前にパシャッと撮影するシーンなんかが、どちらかというとネガティブに描かれる事が多くて、何となく良からぬ印象が付きまとっている感もあるのだけれど、まあ野次馬の悪趣味な撮影はやっぱり嫌なものだけれど、個人個人が好きな時に気軽に手軽に写真を取って、記録できるということは素敵なことだと思うんですよね。自分はやんないのだけれど、それでも何かを残す、何かを切り取って置いておく、というのは素敵だな、と思うんですよ。そこに特別感がなく、本当に何気ない行為だからこその貴重さが在る。
一方で、今時フィルムタイプのカメラを用いて写真を撮る、という行為にはそれこそ特別な熱があるんじゃないかと思ってしまうわけです。何しろ、カメラのメンテナンスやレンズの扱い、フィルムから写真を現像するにしろ、デジカメなんかとは異なる面倒さが常に付きまとうのですから。
気軽にいつでも写真を撮れることと、写真を撮ること自体に特別を込める、両者には貴賤の差はなくても、やっぱり明確なスタンスの違いが在るんだろうなあ、と漠然と外側からは思っていたわけですけれど、彼女――尾木花詩希はその両方共と異なる一種独特なスタンスで写真を撮るという行為に没頭する少女でした。というか、彼女はフィルムの写真に特別な価値を認めているわけではなく、単に偶々安く手に入って簡単に扱えたから、という理由に過ぎなかったわけですし。
別にデジカメでも良かったのよねえ。デジタルを使えこなせれば、の話でしたが。
たったひとりの世界に追いやられて、そこから孤独でなかったころのキレイの残滓を探してカメラを構え続けた少女の世界に、割って入ってきた一人の少年。彼は、詩希がファインダー越しの覗いてる世界に居るかもしれない「幽霊」の姿を求めて、詩希の世界に踏み入ってくる。
二人の世界は思わぬところから交わりだしたのだけれど、断絶したお互いの世界はお互いの理解も断絶せずには居られない。それでも詩希は自分の手段である写真を通じて、過去とのつながりであるキレイの証明によって歩み寄ろうと必死に頑張るのだけれど、二人の世界が交わった「ゴースト」から。想いの残滓から。詩希の見た「キレイなもの」の正体に腰が引けてしまった卓馬とは、どうしたって繋がることが出来なかったのである。
二人とも不器用すぎて、すごく偏った手段でしか自分の望むものを手繰り寄せる方法を知らなくて、このあたりは見ていて本当にもどかしかった。
消され奪われてしまったがゆえに無関心で無感動で世界を色あせさせてしまっていた詩希が、あんなにも懸命にみっともないくらいにバタついて半泣きになりながら自分のできる手段で何とか卓馬に繋がろうとしているシーンの、息苦しさといったら。
「卓馬くん」とこの子に呼ばれる価値を、少年はもう少し噛みしめるべきだった。まあ、言葉も意図も想いも通じてくれない、という辛さはわからなくもないのだけれど。どっちもどっち、でお互いに思い込みが強すぎたのだろう。
個人的にはもう少し、語り口のスムーズさが欲しかった。特に主人公が予定された脚本通りにしか喋ってないなあ、という感覚を覚えてしまったので。