保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議あり!!!

保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議あり!!!
……保守論壇は、何故、かくも幼稚になったのか?       山崎行太郎


「月刊日本」http://www.gekkan-nippon.com/ 2月号(発売中)






■保守論壇は、何故、かくも幼稚になったのか?
 昨年末の、「沖縄集団自決」において「軍命令」があったか、なかったか……を争う大江健三郎の『沖縄ノート』の記述をめぐる名誉毀損裁判に、訴えられている側(被告)のノーベル賞作家・大江健三郎が大阪地裁に出廷し、被告として証言したことから、この「沖縄集団自決裁判」問題が、マスコミや論壇だけではなく、教育界や政界をも巻き込んだ形で、あらためて話題になっているが、私も、かつて青春時代に決定的な影響を受けた大江健三郎という作家が被告として法廷に立つということでちょっと興味を感じ、遅ればせながらこの裁判の資料や大江健三郎の『沖縄ノート』、あるいは曽野綾子の『ある神話の背景』などを読み進めて行ったわけだが、読み進めて行くうちに、私はすっかりこの問題に魅入られてしまった。というのも、実は私は、自分の父親が、かつてすでに妻子持ちでありながら沖縄の「南大東島」に出征し、末期の沖縄戦に参加、沖縄全滅という噂から、ほぼ生存は絶望と言われながらも、病身を引き摺りながら、命からがら生き延びて帰還したという話や、薩摩半島の奥地に疎開していた母親が、米軍が薩摩半島南端の枕崎方面に上陸するのではないかと言う噂が流れたために、米軍機が飛来するたびに、乳飲み子を抱えながら、さらに山奥の避難所へ逃げ込むということを繰り返していたという、まさに沖縄集団自決の現場を連想させるような話を思い出し、この問題が、他人事ではないと実感しつつ、あらためてこの問題に深入りすることになったからだ。というわけで、すでに、この問題については、本誌の前月号(「月刊・文藝時評」)でも簡単に触れているが、しかし、そこでは紙数の制限もあり不充分な発言しか出来なかったわけだが、幸いにも本誌編集主幹より今月号の誌面をあらためて提供され、さらにこの問題に関して詳しい私見を述べよ、という申し出をいただいたので、批判や反論を覚悟の上で敢えて再論する次第である。さて、日頃の私の「保守反動的」な言論からは意外かも知れないが、私は、「沖縄集団自決裁判」に関しては、多くの留保をつけた上でだが、原告側の旧帝国軍人や曽野綾子の主張よりも、本質的には大江健三郎の主張を擁護する立場に立っている。保守派を自称していながら、何故、左翼作家・大江健三郎を擁護するのか、と疑問に思われる方も少なくないだろうが、以下に私が書こうとしていることで、その疑問は解けるはずである。今回、青年時代の読書体験を思い出しつつ『沖縄ノート』をあらためて熟読し、さらにそれを批判して、今回の裁判の切っ掛けになっている曽野綾子の『ある神話の背景』(『「集団自決」の真実』に改題、ワック)をもあらためて熟読、そしてその上で、保守論壇やその周辺で展開されている「大江健三郎批判」の言論をも読み較べてみたわけだが、そこで保守論壇に蔓延している「曽野綾子神話」と、「曽野綾子神話」を前提にした「大江健三郎批判」の無知無教養と論理的な出鱈目さに、私は、自称とはいえ保守反動派を自認しているにもかかわらず、愕然とした。愕然とした理由は単純である。それは、保守論壇の面々が、大江健三郎の『沖縄ノート』や曽野綾子の『ある神話の背景』をまともに読むこともせずに、噂話や伝聞を根拠に付和雷同しつつ気軽に議論しているという事実と、そもそもこの裁判は、『ある神話の背景』を書いた曽野綾子の「誤字・誤読」事件から、つまり大江健三郎の書いた「罪の巨塊」を「罪の巨魁」と誤読した事件……から始まっているという事実を発見したからである。さらに付け加えるならば、「曽野綾子神話」の根拠になっている曽野綾子の「現地取材主義」や事件当事者達への「直接取材主義」なるもの歴史的実証性に疑問を感じ始めたからである。そして、問題はむしろ、曽野綾子の発言や著書を正確に読むことを怠り、曽野綾子経由の歴史資料や伝聞情報を、言い換えれば一種の「曽野綾子神話」を、盲目的に信奉して議論している保守派や保守論壇の知的退廃と思想的劣化現象にこそあるのではないか、と私は考えるようになった。私は、政治的にも思想的にも、青年時代以来一貫して保守派や保守思想を支持しているつもりだが、しかし、明らかな誤解や誤読、あるいは無知無学、あるいは勉強不足に基づく、思想的レベルの低い堕落した保守思想や保守理論までをも擁護し、支持するつもりはない。むしろ、「愚かな保守からよりも、優秀な左翼から学ぶべし」というのが私の長年の持論である。というわけで、誤解を恐れずに、敢えて言わせてもらうならば、以下は、自称・保守派からの保守論壇批判であり、保守思想批判であり、より具体的に言えば、保守論壇に無批判的に受け入れられている「曽野綾子神話」への批判である。
■渡部昇一は、『沖縄ノート』を読んだのか?
 保守論壇では、誰もが大江健三郎の「名誉毀損」を自明のことのように語るが、実は大江健三郎の『沖縄ノート』も、そして曽野綾子の『ある神話の背景』も、ほとんど読んでいないというのが保守論壇の現実である。それでは百戦錬磨の文筆家・大江健三郎のレトリックと論理に勝てるわけがないだろう。保守論壇に蔓延している「大江健三郎批判」の多くの言説は、他人の言説の「引用の引用」や「伝聞」や「又聞き」を根拠にしている。「沖縄集団自決裁判」に積極的に発言している渡部昇一や秦郁彦でさえそうなのだから、他は押して知るべきである。要するに、渡部昇一も秦郁彦も、そしてこの裁判の原告等も、厳密な意味で、大江健三郎の『沖縄ノート』を読まずに議論し、激怒し、告訴しているわけで、言い換えればそれは、この問題のもう一人の主人公である曽野綾子の間違いだらけの「大江健三郎批判」を鵜呑みにし、しかるに『ある神話の背景』の「大江健三郎批判」の部分は、単行本刊行時に意図的に後から書き加えられたものに過ぎないのだが、曽野綾子が各所に、『ある神話の背景』執筆の動機の一つだと書いている大江健三郎の『沖縄ノート』の言葉(「罪の巨塊(罪の巨魁)」)とその批判を、つまり「曽野綾子神話」を、そのまま鵜呑みにして議論しているということである。前号ですでに書いたので反復を避けたいのだが、一例だけ挙げておこう。
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「集団自決」の問題で一番事実を伝えていて優れているのは、曽野綾子さんの『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック出版。一九七三年文藝春秋社より発刊された『ある神話の背景』を改題、改訂)です。
 沖縄に関するインチキ報道の中心となったのは、昭和二十五年に沖縄タイムス編著で朝日新聞から出版された『鉄の暴風』という本に基づいて、中野好夫氏らが岩波書店から出版した『沖縄問題二十年』(岩波新書)、大江健三郎氏が同じく岩波書店から出版した『沖縄ノート』です。(中略)
 曽野綾子さんはこれらの書籍を読んだうえで、次のようなことを述べています。「このような著書を見ると、一斉に集団自決を命じた赤松大尉を人非人、人面獣心などと書き、大江健三郎さんは『あまりに巨きい罪の巨魁』と表現しております。私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するならば作家として会っておきたいという無責任な興味からでした。……」
 そして曽野綾子さんが足を使って綿密な取材をした結果、ついに赤松大尉が「集団自決」命令をしたという事実はどこからも出てこなかったのです。≫(「歴史教育を歪めるもの」「will」12月号)
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 この渡部昇一の議論は、「軍命令説」は、「遺族年金」目的の自作自演の創作であった……という話と共に、しばしば保守論壇誌等で繰り返されているステレオ・タイプ化した紋切り型の議論であって、別に渡部昇一が独自に展開している議論ではないが、いずれにしろ、この発言から、渡部昇一が、大江健三郎の『沖縄ノート』を読んでいいないばかりでなく、おそらく曽野綾子の『ある神話の背景』すらもろくに読んでいないだろうということが、私にはわかる。渡部昇一は、≪「罪の巨塊(巨魁)」イクオール「赤松大尉」≫と解釈し理解しているが、実はこれがとんでもない誤読と誤字に基づくことは、すでに述べたので繰り返さない。渡部昇一は、誤字か校正ミスかわからないが、ご丁寧にも、「罪の巨塊」(物)を、「罪の巨魁」(悪党、人間)と書き換えているが、これも曽野綾子直伝の「誤字・誤読」の受け売りである。法廷で、この「誤読」問題を指摘した大江健三郎証言に対して、当人の曽野綾子だけではなく、保守派の面々も、まともな反論もできないままに、「卑怯」「言い逃れ」「論点のすり替え」と感情的な批判や罵倒を重ねているが、いずれも恥の上塗りに過ぎず、どう見ても大江健三郎の言い分の方が論理的である。たとえば、裁判を傍聴した秦郁彦はこんなことを書いているが、笑止というほかはない。
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午後早く再開された法廷ではまず原告の赤松秀一氏(渡嘉敷島守備隊長だった故赤松嘉次元少佐の実弟)、続いて大江氏の尋問となったが、軽い飄逸味を混え鋭く切り込んだ原告側弁弁護士の反対尋問に対し、大江氏は言い逃れ、はぐらかし、論点のすり替えなど詭弁としか言いようのない非常識、不誠実な答弁をくり返した。私をふくめ傍聴者の多くは呆気にとられたが……(「徹底検証 沖縄集団自決と大江健三郎裁判」「諸君!」2008/2)
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 私には、秦郁彦が、何を根拠に、大江健三郎の証言を、「言い逃れ、はぐらかし、論点のすり替え……」と言うのか解らないが、この人が、文学や文学者というものに無知だと言うだけでなく、文学や文学者を軽視し、文学的な思考まで蔑視しようとしていることは明らかだと思う。こういう人に、「科学で滅びないためには、芸術が必要なのだ」(ニーチェ)と言ってみても豚の耳に念仏だろう。ともあれ、大江健三郎の「テキストの誤読」批判の意味も理解できずに、ただ「呆気」に取られている歴史学者に「歴史の真実」なるものが見えるものだろうか。曽野綾子はこういう無知無学な応援団に任せるのではなく、曽野綾子自身が堂々と反論し、さらに大江健三郎が「罪の巨塊」と書いた文章を「罪の巨魂」と誤記して引用した本を今でも発売し続けているという問題についても釈明すべきである。
■『ある神話の背景』は歴史的実証性批判に耐えられるか?
 さて、渡部昇一の文章には、実はもう一つの問題点がある。それは、≪そして曽野綾子さんが足を使って綿密な取材をした結果、ついに赤松大尉が集団自決」命令をしたという事実はどこからも出てこなかったのです。≫と書いている部分で、渡部昇一は、曽野綾子の『ある神話の背景』の登場で「沖縄集団自決」に関するすべての問題が一挙に解決したかのように錯覚し確信しているようだが、むろん錯覚である。後述するように『ある神話の背景』はなかなか面白い本だが、歴史的実証性という点では問題だらけの本である。『ある神話の背景』を熟読して行くと、曽野綾子が自慢する沖縄渡嘉敷島の現地取材による情報はあまり多くなく、ほとんどの重要な情報や資料や文献が、生き残った赤松隊長や赤松部隊関係者からの聞き取り情報や、赤松隊作成の『陣中日誌』であることがわかる。たとえば、曽野綾子は、沖縄の取材先の現地の旅館で、「手榴弾配布」を最初に証言した当時の兵事主任・富山真順という人物から取材していることが明らかになっているが、富山真順の名前は『ある神話の背景』には一回も登場せず、しかも後に、家永教科書裁判の法廷では、「そういう人物は知らない」と嘘の証言までして、富山真順との接触を否定しているが、その理由は、富山真順が、曽野綾子の取材に対して、「軍命令はあった……」に近い証言、つまり自決用の「手榴弾が配られた……」という証言を行ったからだと思われる。富山真順は、証言者としてはかなり問題のある人物らしいが、少なくともこう証言しているのは、事実だろう。
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玉砕場のことは何度も話してきた。曽野綾子氏が渡嘉敷島の取材にきた1969年にも、島で唯一の旅館であった『なぎさ旅館』で、数時間も取材に応じ事実を証言した。あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われるとは夢にも思わなかった。事実がゆがめられていることに驚いている。法廷のみなさんに真実を訴えるためにも、わたしの証言を再確認する次第である。(「安仁屋政昭・沖縄国際大名誉教授の陳述書」,2007/7/12)
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 曽野綾子が「会ったこともない」「知らない」と言う人物の証言である。それにしても、曽野綾子は、何故、富山真順との接触さえ否定するのだろうか。むろん私がここで確認したいのは、富山真順が嘘を言っているか曽野綾子が嘘を言っているかというようなことではなく、二人が取材を通じて接触したという事実である。いずれにしろ、当然のことだが、曽野綾子が、自分に都合のいい資料やデータだけを収集し、富山真順証言のような都合の悪い情報は排斥した上で、沖縄戦の歴史を記述しようとしていることは明らかだろう。逆に、曽野綾子が決定的な資料として頻繁に引用し、議論の根拠として活用しているのが赤松隊員の一人(谷本小次郎)が、戦後になって書き上げた『陣中日誌』という資料であることも、『ある神話の背景』を熟読するまでもなく明らかであろう。しかし、この『陣中日誌』は、赤松隊が「沖縄集団自決」の当事者としてマスコミに大きく取り上げられ、世間の批判や非難の目が、赤松隊長や赤松隊隊員に向けられていた頃に書き上げられ、昭和45年に、赤松隊員や曽野綾子等に配布されている。むろん、執筆者は赤松隊員であり、戦闘の現場にいた当事者なのだから、『陣中日誌』の内容がまったくのフィクションということではないだろうが、そうだからと言って、曽野綾子のように、これこそ決定的な歴史資料の出現であると即断するもの問題だろう。この『陣中日誌』とは、いわば、赤松隊長や赤松隊員の「名誉回復」という目的をもってまとめられた、一種の政治的な意図をもった「謀略文書」の一つなのであって、純粋な意味での『陣中日誌』ではない。しかるに曽野綾子は、沖縄タイムスの『鉄の暴風』などに関しては、かなり辛辣な「資料批判」を展開し、「伝聞情報」を元にしているが故に資料的価値はないと断罪しているわけだが、この『陣中日誌』に対しては、そもそも資料的価値があるのかないのか、というような物書きとしての初歩的な疑いすら持たず、これぞ最後の決定的な資料と確信(錯覚)し、全面的に信頼し依存した上で、沖縄側の資料やデータ、証言を批判、罵倒する論拠として活用しているが、しかし実は、この『陣中日誌』には明らかな加筆修正があることがわかっている。曽野綾子の『ある神話の背景』の中で、赤松嘉次自身が加筆の事実を告白しているのだ。沖縄現地の少年をスパイ疑惑で処刑した話の部分である。
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「実を申しますと、陣中日誌にを主に書きました谷本(候補生)も、私も、そのことについては、まったく、この前沖縄へ慰霊祭に行くまでは知らなかったんです。(中略)ちょうど陣中日誌の印刷準備にかかっていた時でした。その事実がわかった以上、いくらこちらの記憶にないことでもいれねばいかん、ということで、谷本が後から付け加えたのですが、……」(『ある神話の背景』)
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 この赤松発言は重大である。というのは、この赤松発言によって、一切の加筆も削除もないという『陣中日誌』の歴史的実証性に疑問が出てくるからだ。ちなみに、『陣中日誌』の執筆者(谷本小次郎)は、次のように、『陣中日誌』の中に書いているのだ。
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(前略)私、本部付として、戦闘詳報、命令会報を記録し、甚だもつて僅かの戦闘のみしか参加せず、誠に汗顔の至りでございますが幸いに、基地勤務隊辻正弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四日迄の記録、第三中隊長所有)を資に取りまとめ、聊かの追加誇張、削除をも行わず、正確な史実を世代に残し、歴史は再び巡りて精強第三戦隊たりと誇れることを念願します。(中略)
 戦死の概況は記述調査官により、復員時援護局へ提出済のものであります。以上の如く沖縄現地に在る渡嘉敷戦闘概要は、全く史実に反し記述しあることを、現地の村民の方々からも聞き及んでおります。 昭和四十五年八月十五日 元海上挺進第三戦隊本部付谷本小次郎 
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 そもそも、「聊かの追加誇張、削除をも行わず……」とわざわざ書き加えて弁解しなければならないというところに問題がある。つまりこれは、明らかに自作自演の戦後版『新訳・陣中日誌』なのである。僕は、この『陣中日誌』の中身や、谷本小次郎の「断り書き」が「嘘」で「虚偽」だと言うつもりはないが、逆にここに、「嘘」や「虚偽」、あるいは「書き換え」や「書き加え」「削除」はいっさいないと言いきることもできないだろうと思う。谷本が、「基地勤務隊辻正弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三陣中日誌……」「を資に取りまとめ……」と書いていることからも明らかなように、谷本執筆の『陣中日誌』は第一次資料ではなく、「昭和四十五年」の時点で、第一次資料から引用・編集・再構成して出来上がった第二次資料であることがわかるだけでなく、さらに「以上の如く沖縄現地に在る渡嘉敷戦闘概要は、全く史実に反し記述しあることを、現地の村民の方々からも聞き及んでおります。」とあることからも分かるように、この『陣中日誌』の執筆意図が、赤松隊の「戦争犯罪」の自己弁護、自己正当化にあることは明らかであろう。ところが、この『陣中日誌』を手にした曽野綾子は、それを疑った気配はまつたくなく、逆に、執筆者である谷本小次郎の「但し書き(まえがき?)」を読んだ感想として、「これは唯一の、『手袋は投げられた』という感じの文章ではないだろうか。」と書いている。「手袋は投げられた」とは、決定的な資料が出たという意味だろうか。曽野綾子が、いかにこの『陣中日誌』という資料を全面的に信用し、そして依存しているかが解るだろう。いずれにしろ、この『陣中日誌』が客観的な歴史資料としてはあまり信用できないとすれば、この『陣中日誌』に全面的に依存している『ある神話の背景』も、そして「曽野綾子発言はすべて正しい」とする「曽野綾子神話」も、あまり信用できないということになるわけだが、むろん、保守論壇の面々で、こういうテキスト・クリティークに基づく問題提起をしたものは皆無である。
■「太田氏という人は分裂症なのだろうか」―「太田良博―曽野綾子論争」を読む。
 曽野綾子が「沖縄タイムス」紙上で(1985年4月連載 )、「鉄の暴風」の執筆者の一人である太田良博と、「沖縄集団自決」の歴史記述の方法論をめぐって論争し、論理的に追い詰められた曽野綾子が、太田良博に向かって、「太田氏という人は分裂症なのだろうか」と罵倒した文章がある。「太田良博ー曽野綾子論争」である。繰り返すまでもなく、曽野綾子の『ある神話の背景』の最重要テーマは、大江健三郎の『沖縄ノート』批判ではなく、初めて「沖縄集団自決には軍命令があつた……」と書いた太田良博等の『鉄の暴風』への批判である。そこで曽野綾子は、太田良博等への直接取材をもとに、『鉄の暴風』の内容は、集団自決事件の生き残りでも当事者でもない、現場にいなかった、わずか二人の情報提供者(宮平栄治と山城安次郎……)から得られた「伝聞情報」を元にデッチアゲられたウソッパチ(神話)であると推論した上で、『鉄の暴風』の記述の資料的実証性を徹底的に批判し、したがって『鉄の暴風』の主張は信用できないと結論付けている。これが、保守論壇の面々が盲目的に信奉し、信頼している「軍命令はなかつた」論の根拠になっている。曽野綾子はこう書いている。
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太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三ヶ月で調べ、三ヶ月で執筆したのである。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないと言う)
 (中略)いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。(『ある神話の背景』)
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 ここから、曽野綾子の『ある神話の背景』によって、沖縄集団自決に「軍命令があった」という『鉄の暴風』の立論の信憑性が崩れ、「軍命令説」論争とでも呼ぶべき論争が本格的に始まったわけだが、しかし『鉄の暴風』の執筆者である太田良博によると、曽野綾子が言うほど問題はそんなに簡単な問題ではないらしい。『ある神話の背景』を執筆中の曽野綾子の取材を受けた太田良博は、取材に際して、「二人の名前」(宮平栄治と山城安次郎……)をたまたま思い出したので、気軽にそう答えただけらしい。そこから曽野綾子は「伝聞情報説」を主張し始めたわけだが、『鉄の暴風』が、その二人の伝聞情報や伝聞証言だけを元にして出来た神話だというのは、曽野綾子の思い込みと勝手な妄想に過ぎない、と太田良博は反論している。つまり、太田良博によると、『鉄の暴風』の渡嘉敷島の集団自決の項は、新聞社の企画した「集団自決」の生き残りや目撃者達との座談会に出席した上で、彼等の体験談や目撃談を元に書き上げたもので、伝聞情報だけを元に記者たちが勝手に想像して書き上げものではない。とすれば、曽野綾子の『鉄の暴風』批判の論拠である「伝聞情報説」は崩れることになる。曽野綾子は、さかんに自分は、現地取材と当事者への取材に基づいて書いたと言って、それを自説の信憑性の根拠にしているわけだが、『鉄の暴風』も、現地取材と当事者への取材に基づいて書いたものだとすれば、『鉄の暴風』は伝聞情報を元にしたデッチアゲで、証拠も何もない神話だ……という曽野綾子の主張は破綻することになる。太田良博は、論争の過程で、次のように曽野綾子の「伝聞情報説」を批判している。
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住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏はまったくの虚構としてしりぞけている。(中略)が、あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない。
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 私は、『鉄の暴風』の詳細な描写を読み、曽野綾子のように『鉄の暴風』は、伝聞情報を元にしているから信用できないと簡単に言い切れるものかどうか、疑問に思っていたが、この太田良博の『鉄の暴風』執筆時の周辺証言で疑問は氷解した。しかし秦郁彦は、「諸君!」最新号で、この論争を知ってか知らずにか、未だにこう書いている。
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風向きが変わったのは『ある神話の背景』(一九七三年)が出現してからである。著者の曽野氏は現地調査の過程で、『鉄の暴風』の執筆者たちが現地を訪れず、村長以下の当事者に取材もせず、伝聞や風評だけで書き上げたことを突き止め、渡嘉敷については軍命説を裏づける証言は見つからなかったと結論づけた。(「諸君!」2008/2)
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 これこそ、保守論壇に蔓延する「曽野綾子神話」とでも呼ぶべきものだが、少なくともこの論争を見る限り、「曽野綾子神話」は根底から崩れつつあるはずだが、秦郁彦には、それも無縁の話らしい。集団自決前後の情報や証言が真実か虚偽かは別にしても、『鉄の暴風』の記述内容が、集団自決の生き残りや目撃者の証言を元にしたものであることは間違いないだろう。それを否定することは、おそらく曽野綾子でも出来ないことだろう。これに対して、曽野綾子は、『鉄の暴風』の「伝聞情報説」が根底から覆されているにもかかわらず、まともにその問題に反論しようとせず、沖縄在住のジャーナリストを「小馬鹿」にして見下しつつ、「こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。」とか、「太田氏にはジャーナリストとしては信じられないような甘さがある。」とか、「素人のたわごとのようなことをいうべきではない。」とか、あるいは「沖縄は閉鎖者社会だ。」とか、「太田氏という人は分裂症なのだろうか」とか、東京から沖縄を見下すかのように、お説教や空威張りの反論を繰り返している。さらに、「沖縄集団自決裁判」の原告側弁護士・松本藤一までもが、この論争について、無神経にも、「その結果、太田氏は曽野氏から分裂症なのだろうかと激しい批判を受けているが(五月三日分)、むしろ当然の批判でしょう。」(「will」1月号)と論評しているが、言うまでもなく、これは弁護士が言うべきことではないだろう。こういう発言こそ、名誉毀損、人権侵害に相当する言論ではないのか。あるいは沖縄蔑視、沖縄差別を内に秘めた差別的言論ではないのか。「『騒げばカネが出る』というメンタリティーが相当広く沖縄の人たちの間に根付いてしまった……」と断言する渡部昇一等らの差別的発言とともに、曽野綾子や松本藤一等、保守論壇の面々には沖縄県人を「同胞」として見る視点と感情が欠如しているように見える。心ある沖縄県民が密かに「独立」への志向を強める所以である。
■「集団自決事件」の陰に「沖縄住民処刑事件」が……。
 曽野綾子は、不思議なことだが、赤松大尉や赤松隊を擁護し弁護するあまりに、赤松大尉や赤松隊の「戦争犯罪」めいた問題については、「批判的なこと」は一切書いていない。たとえば、赤松大尉や赤松隊が、沖縄現地住民や少年少女達を、「スパイ疑惑」や「密告の可能性」という理由から、次々と処刑・斬殺していったことを記述しているが、それらの斬殺事件はすべて戦時下でのことであり、法的にも許されるはずだ……とか、軍隊は住民を保護する存在ではなく、戦うことを第一義とする存在である、それ故に住民処刑もやむをえなかった……とかいうような論理で擁護しているが、私は曽野綾子のその強引な論理に何か腑に落ちないものを感じる。当然のことだが、「曽野綾子神話」を鵜呑みにして論理を組み立てている保守派の面々も、この「沖縄住民スパイ疑惑斬殺事件」には触れようともしない。おそらくその原因は、曽野綾子の『ある神話の背景』をまともに読んでいないからだろう。読めば誰だって、疑問に思うはずである。たとえば、『ある神話の背景』に、こんな記述があるが、これらの記述をどれだけの人が読んでいるのだろうか。
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 赤松隊がこの島を守備していた間に、ここで、六件の処刑事件があつた、といわれる。琉球政府立・沖縄資料編集所編『沖縄県史』によっても、そのことは次のように記されている。
 一、伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女六名が、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣され、赤松大尉に斬り殺された。
 二、集団自決の時、負傷して米軍に収容され、死を免れた小峰武則、金城幸二郎の十六歳になる二人の少年は、避難中の住民に下山を勧告に行き、途中で赤松隊に射殺された。
 三、渡嘉敷国民学校訓導・大城徳安はスパイ容疑で斬殺された。
 四、八月十五日、米軍の投降勧告に応じない日本軍を説得するために、新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四人は、投降勧告に行き、捕えられることを恐れて、勧告文を木の枝に結んで帰ろうとした。しかしそのうち、与那嶺、大城の二人は捕えられて殺された。
 五、座間味盛和をスパイの容疑で、多里少尉が切った。
 六、古波蔵樽は家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋軍長の軍刀で切られた。
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 私は、いかなる理由があるにせよ、これだけの「住民処刑事件」を引き起こしながら、名誉回復を目指す赤松嘉次大尉や赤松隊隊員、あるいはそれを支援する曽野綾子等の気持ちがわからない。私は、ここで被害者側の立場に立って、斬殺された少年少女たちが可愛そうだ……と言いたいわけではない。むしろ逆に、これだけ残虐な住民処刑を軍法会議にかけることもなく次々と実行した赤松部隊が、それでも、自分達は悪くない、名誉回復をして欲しい……と裁判に踏み切ったという精神構造が、私には不可解だと言いたいのである。名誉を重んじる帝国軍人ならば、黙って死んで行くべきだったのではないか、というのが私の正直な感想である。保守論壇にステレオタイプな物語として蔓延しているもう一つの話、「軍命令説」と「遺族年金」の問題についても言及したかったが紙数が尽きた。簡単に、そもそも「軍命令説」なるものは、昭和25年の沖縄タイムスの『鉄の暴風』の段階で主張された説であり、「遺族年金」給付目的で「軍命令説」を創作・偽証したのは昭和28年から31年頃にかけての話であって、遺族年金欲しさで、「軍命令説」をデッチ上げたことが事実だったとしても、元々からある「軍命令説」には何の関係もなく、「遺族年金」証言で、「軍命令説」はすべて破綻したとは言えない……と記して終わりにしよう。 要するに、ここで、私が言いたいのは、「保守論壇よ、あるいは保守思想家よ、保守思想の原点に帰れ」ということだ。

■「青色発光ダイオード裁判」について・・・・・・・「発明物語」に踊ったマスコミ・・・・・・。(「産経新聞」文化欄 2005・2・8)

■青色発光ダイオード裁判・「和解決着」の意味するもの。
(「産経新聞」文化欄 2005・2・8)


 日亜化学と、元社員の中村修二カリフォルニア大(サンタバーバラ校)教授との間で戦われていた「青色発光ダイオード」裁判が、「8億4000万円和解」という予想外の結果で終わった。一審(東京地裁)の「200億円判決」や、一審判決後のテレヒや出版界での「中村修二フィーバー」から考えれば、この裁判闘争は日亜化学側の見事な逆転勝利と言っていいだろう。中村教授自身が、判決後の記者会見で、「100パーセント負けですよ」「日本の裁判制度は腐っていますよ」と興奮気味に怒りをぶちまけているぐらいだから、この裁判が中村教授側の全面敗北であったことに間違いはない。

では、なぜ、こういう結果になってしまったのか。なぜ、中村サイドは、高裁はもちろん、最高裁まで争おうとしなかったのか。実は、私は、この和解決着は当然の結果だったと思う。マスコミでは、裁判官が社会防衛的な意味から会社の経営的立場を考慮して無難な線で決着をつけたという批判的な解説が主流のようだが、私の考えは少し違う。

私の考えでは、この裁判には「特許問題」や「発明の対価問題」は別として、隠された問題点が二つあった。その一つは、「世紀の発明」と言われる青色発光ダイオードの開発を実質的には「誰が」やったかという問題、もう一つは、中村氏が理系の「文化ヒーロー」として繰り返してきた過激な日本の教育制度

私は、「大学入試を全廃しろ」「社員は会社の奴隷ではない」とか言うような、中村氏の粗雑な文化論や教育論にはかなり早くから疑問を感じていた。そこで、「中村発言」や「中村フィーバー」の原点である「青色発光ダイオード開発成功物語」そのものを、日亜化学側が一審判決後に公開した新しい詳細な内部データを元に検証してみたくなった。その結果わかったことは、「青色発光ダイオード開発は日亜化学の若い研究者たちの共同研究の成果」であって、「会社の反対を押し切って自分一人で開発した」という中村氏の「単独成功物語」にはかなり無理があるという事実であった。おそらく裁判官も弁護士も、私と同じように日亜化学側が公開した内部データを元に、青色発光ダイオード開発の本当の物語を知ったはずである。「青色発光ダイオード開発における中村氏の役割は、中村氏が大言壮語するほどでのものではない」。これが、一審判決直後は意気軒昂であった中村派の弁護士が、屈辱的とも言っていい和解案をあっさりと受け入れざるをえなかった背景であろう。

ころで、「青色発光ダイオード開発」には三つの「ブレイク・スルー」(「ツーフロー方式」「p型化アニール」「ダブルへテロ構造」)が必要だったが、中村氏は科学研究者としては、第一段階の「ツーフロー方式」(いわゆる「404特許」)以外では、さほど重要な役割を演じていない。実は中村氏の役割は、社内的には、国内外を飛び回って「青色発光ダイオード開発物語」を宣伝する広告塔的な色彩が強かった。その結果、中村氏の唯我独尊的な独特のキャラの影響もあって、社外や国外では「青色発光ダイオードを一人で開発した男」という「スター科学者」の虚像が一人歩きすることになったのである。しかし、実質的な研究開発の多くは彼の部下たち(妹尾、岩佐氏など)の手によってなされたのであった。ところが日本のマスコミの多くは、未だに中村氏の「青色発光ダイオードは自分独りの力で開発した」という「自作自演」的な自慢話を一方的に信じ込み、「日亜化学側の言い分」を黙殺した上で、中村応援のキャンペーンを繰り返している。マスコミこそ不勉強である。

いずれにしろ、この高裁での和解決着は、中村修二氏の「世紀の発明」物語の根拠の怪しさとともに、中村氏がテレビや書籍で大言壮語、悲憤慷慨した稚拙な「日本的システム批判」や「教育制度批判」も、口から出任せの空理空論だったことを間接的に立証したと、私は思う。中村氏は、高裁判決後の記者会見で、「これから研究生活に戻りたい」と発言している。大いに結構である。ついでに言わせてもらうならば、専門外の幼稚な教育論や文化論はほどほどに慎むべきであろう。いずれにしろ、中村氏の本来の専門分野での活躍を祈りたい。しかし無理だろうと私は思う。中村氏が批判し罵倒してやまない日本の集団主義的研究生活よりも、アメリカの大学の個人主義的研究生活の方が、より豊かな研究成果をもたらすだろうとは、私は思わないからだ。「集団主義」的、「協調主義」的な日本的システムの強さと豊かさに、中村修二氏が気付くのはそう遠い日ではあるまい。

■註…新聞掲載の文章とは若干異なります。

■東京新聞・書評……勢古浩爾『思想なんかいらない生活』(ちくま新書)を読む。

 ■「生活者」の視点から、現代思想、現代思想家をメッタ斬り!

 庶民や生活者は、いわゆる「思想」というものと無縁に暮らしている。思想とは、例えばマルクス主義とか実存主義、あるいは構造主義とかポスト・モダニズム……と言われるような「理論」や「哲学」のことだ。むろん、そういう「新しい思想」に無縁だからと言って日々の生活に困るわけではない。むしろ彼ら生活者の多くは、「思想」という言葉を口にすることさえ嫌悪し、恥じる傾向がある。何故か。それは、彼等から見ると、一見、知的で高級そうに見える「思想」なるものも、一皮剥けば、生活や現実からかけ離れた、何か「うさんくさい」、「いかがわしい」ものでしかないからだ。
 本書は、そういう生活者の視点から、「現代思想」および現代の思想家たちを切れ味鋭く批判し罵倒した書である。「思想」とは、所詮、生活や労働の現場に無自覚な思想家が単に営業上必要としているバッタ商品(商売道具)にすぎないのではないか、というのが著者の立場だ。
 著者の勢古氏が、この本でメッタ斬りにしている相手は蓮実重彦や柄谷行人から韓尚中や福田和也にいたるまで、現代日本で活躍する思想家たちのほとんどである。つまり思想という空理空論を一種の知的アクセサリーとして弄ぶ「口説の徒」たちのすべてが批判の対象になっている。
 ところで本書は、著者の意図に反して「現代思想案内」としても抜群に面白い。現代思想の現状が見事に要約、整理されているからだ。しかし問題がないわけではない。
 たとえば本書の現代思想批判の論理は、明らかに勢古氏が敬愛している吉本隆明の理論(「大衆の原像」という思想)に依拠している。つまり吉本理論を振り回す勢古氏も、現代思想を振り回す現代の思想家たちも所詮は同類なのである。しかし勢古氏には現代思想批判も思想であるという自覚がないように見える。
 いずれにしろ、本書は読み物としては面白いが、それほど思想的レベルが高いとは言いがたい。

■ 柳美里『八月の果て』を読む。(「週刊読書人」8/25)


■存在の危機から祖父の物語へ
    ……祖父は、何故、日本に渡ってきたのか
    ……事象そのものへの遡行

 柳美里は処女小説『石に泳ぐ魚』以来、一貫して「問題作家」だった。それはサラリーマン以上にサラリーマン的な小市民的価値体系の中に閉じこもる作家たちが大多数である現在、きわめて目立つ存在であると言わなければならない。プライバシー裁判、サイン会中止事件、私生児出産事件、酒鬼薔薇少年擁護論……。そしてこの『八月の果て』をめぐる朝日新聞連載中絶事件。柳美里がこれだけのスキャンダラスな事件の中心人物となりえた理由は、「事実」や「体験」や「生活」に固執する私小説的な作家だからだ、と私は思う。

  私は、柳美里が主演するテレビのドキメンタリー番組を、偶然だが二回ほど見た事がある。一つは自殺未遂を繰り返していた孤独な少女時代に、物心両面からお世話になったらしい初老の男性を千葉県外房の大原に訪ねていく番組であり、もう一つは父祖の地である韓国に、祖父の来歴を訪ねていく番組であった。父祖の地を訪ねる番組では、柳美里の祖父の親友としてベルリン・オリンピックのマラヒンで金メダルを獲得した「孫基禎」が登場し、同じく有望なマラソン選手だった祖父の話を詳細に語るというものだった。まさしく『八月の果て』のテーマである。ところがそれ以上に驚いたのは、柳美里が訪ねていった千葉県大原の男性だった。実は私もその男性に面識があったからだ。その男性は私がその頃よく行っていたオート・キャンプ場の平凡な管理人だった。しかし柳美里にとっては、おそらく死の淵をさ迷っていた柳美里の「存在の危機」を救ってくれた人だったのだろう。

 私は、柳美里の新作『八月の果て』を読み、「事実」と「体験」を執念深く追求していくこの二つのドキュメンタリー番組のことを想い出した。柳美里の文学の本質は「事実」と「体験」を徹底的に追求していくところにある。この『八月の果て』という作品も例外ではない。「存在の危機」と「存在の回復」に深く関わったこの二つのドキュメンタリーは、いずれもこの小説の中で重要な役割を担っている。とりわけ柳美里が韓国の慶尚南道の密陽(ミリャン)を訪れるドキュメンタリーは、この小説誕生の起源そのものと言っていい。

 この小説は内容的には柳美里の一族の歴史を描いている。在日一世の祖父(李雨哲)、在日二世の母(信姫)、そして在日三世の柳美里。これが構造的な縦糸である。それにこの祖父の弟で若くして革命運動に殉じた李雨根。あるいはこの祖父が日本人妻や愛人たちに産ませた子供たちや日本の植民地時代の韓国に住む日本人たち、などが横糸である。むろん、そこには日韓併合から皇民化教育、創氏改名、抗日闘争、従軍慰安婦、そして「八月十五日」の日本の敗戦と朝鮮の開放・独立……などの歴史的な問題がちりばめられ、その合間に韓国・朝鮮の歌や風俗、宗教儀礼がふんだんに引用され描かれている。

 ところで、この小説の大きな特質は、主調低音として絶えず冒頭から結末まで繰り返される「すっすっはっはつ」という走者の呼吸音であろう。わずらわしいノイズと思う読者も多いかもしれない。しかしここにこそ、柳美里の発見と創造がある。

 また日本語の世界への韓国語の暴力的な多用は、何を意味しているのか。私は、これらは、柳美里の存在の危機そのものを体現していると思う。日本語と韓国語が入り乱れていた家庭に育った柳美里にとってそれこそが自然であって、日本語だけ、あるいは韓国語だの世界こそが不自然だったのだ。かつてそれは、柳美里に存在の危機をもたらしたが、今はむしろそれが存在の回復の象徴と化している。「すっすっはっはっ。すっすっはっはっ」という走る男の呼吸音や、日本語と韓国語の混合こそが、救いの恩寵となっているのだ。

 では柳美里は、どういう動機からこの小説を書き始めたのだろうか。柳美里にとっては長い間、祖父は憎むべき対象だったらしい。この祖父こそはおそらく柳美里に存在の危機をもたらした張本人だった。母親から聞く祖父とは、妻子を棄て、祖国を棄て、あらゆるものから逃げて日本へ渡り、そこでは日本人妻との間に子供を設けるがそこからも常に逃げ続けていた男の物語だった。ところが柳美里は、その祖父が、「走る」という一点において「逃げない男」であったという事実を発見し、歓喜する。そして書き始めたのがこの小説である。むろん、この新しい物語は柳美里の存在の危機を救ったはずだ。

 私は、この小説を読みながら、柳美里という作家の「個人的な体験」や「事実そのもの」へのこだわり方に、普通の作家にはない暗い執念のようなものを感じた。柳美里は、何故、これほどまでに自分の過去の体験や事実に深く固執するのか。言い換えれば、何故、柳美里は多くの現代作家たちのように私小説的世界ではなくフィクションやメタフイクションの世界を目指さないのか。何故、あえて古いと思われている私小説的な小説のスタイルに固執するのか。

 私は、その理由は、柳美里という作家が、自分自身の存在の危機から出発した作家だからだと思う。それは新しいとか古いと問題を超えている。むろんどんな作家も存在の危機から出発するだろう。しかしその存在の危機の深さが違うのだ。柳美里は、たとえば「自分には書くことはない……」などというようなホスト・モダンン的言説に酔うことが出来ないほどの存在論的な作家なのだ。柳美里が、在日三世という奇妙な自分の存在条件や祖父の来歴の物語に固執する、いわわゆる「私とは何か」「祖父は、何故、妻子や祖国を捨ててまでも日本に渡ってきたのか」と問う私小説的な作家たらざるをえない理由がそこにある。

 さて、柳美里はあるインタビューで、この小説を書き終えての感想として「疑問符は疑問符のままに残った」と言い、同時に「本当の問いには答えがないと思う」と言っている(「読売新聞」8/16夕刊)。つまりこの小説は、日韓両国にまたがる膨大な歴史資料の解読と現地調査の上に成立した1700枚にも及ぶ大長編小説であるが、それでも最終的な答えは見つからなかったと柳美里は言っているわけである。言い換えればこの小説の真髄は最終的な答えではなく、探求と調査と分析のプロセスそのものにあるということだ。つまり柳美里という作家は、「私とは何か」を求めて執拗な探求の旅を続ける作家なのだ。

 「柳美里」という名前の名付け親であり、また一族の苦難の原点そのものであった祖父を描いたこの小説が柳美里にとって幸福な作品であることは間違いない。おそらく柳美里は、自分はこの作品を書くために作家になったのだと思っているに違いない。それは作品の成功/失敗という問題の次元を超えているはずだ。この小説は、巫女による死せる祖父・李雨哲と柳美里の宗教的な次元の対話の場面から始まるが、この場面が象徴するのは、祖父と孫娘との和解である。そこが、日韓という国家と国家の狭間にある砂漠だとしても、柳美里は自分の存在の根拠はここにある、と存在の回復への道を確信しているはずである。

          山崎行太郎(埼玉大学講師、文藝評論家)

■ こには山崎行太郎が書いた最新の書評、コラム、エツセイなどが収録されています。

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