展覧会/ギャラリー

2008年11月25日

杉山卓朗「Hyper-Geometrism」展

 西天満にあるYOD Galleryにて開催中の杉山卓朗「Hyper-Geometrism」展。杉山卓朗(1983〜)氏は関西の若手現代美術家の中でも卓越した画力の持ち主として近年とみに注目を集めているそうで、実際この「Hyper-Geometrism」展も関西の現代美術界隈においてそれなりに話題になっているとのこと。で、当方も会期末近くになってようやく見に行けた、と。

 さておき、今回出展されていたのは、カラフルな抽象的・幾何学的形象が画面全体を乱舞しているといった趣の絵画と線画によるドローイングだった次第。どちらも平面にあって視覚的な立体感を見る側に与えるように描かれており、例えば前者の絵画は90年代の(とりわけ格闘モノの)テレビゲームにまま見られたポリゴンを髣髴とさせるものがあり、後者のドローイングはCADによる作図画面を容易に連想させるものがあったのだが(作品の詳細はこちら)、それらの、いかにもCGしましたといった態の作品群が、しかし全て手描きによって描かれており、しかもドローイングはそのCAD的相貌に反して完全にフリーハンドで描かれていると聞くと、確かに卓越した技術力が話題になるわなと、個人的には納得しきり。ほよほよと見ていると、全体的には何らかの幾何学的(geometric)な変換や操作によって外界――それは氏の作品においてはもはやほとんど具体性を欠いたものとして立ち現われてくる――を(再-)構築していくといった形に作品がしつらえられていたように見えるわけで、その意味で「Hyper-Geometrism」という展覧会タイトルに偽りなしと言えるだろう。

 当方が見に行った折には杉山氏本人は不在で、ギャラリーのスタッフの方から氏の作品についてレクチャーされたり二・三歓談したりしながら鑑賞したのだが、絵画作品の視覚的な立体感や幾何学的解析の確かさを見るにつけ、20世紀初頭に一世を風靡したキュビスムの2008年ヴァージョンといった按配でしつらえられているのだろうと当たりをつけつつ臨んでみると、件のスタッフ氏から杉山氏本人はキュビスムというよりもむしろグラフィティやオプ・アートからの影響を念頭に置いてこれらの作品を制作している旨聞かされ、うぅむと唸ってしまうことしきり。ことにグラフィティとの関連についてはその発想はなかったわと思いつつ、しかし一方でそう言われてみると、アルファベットの全26文字をポリゴン化して描いた作品に、見かけから直接的に類推するのは難しいにしても、グラフィティ的感性が意外と如実に現われていることが思弁的に理解できるわけで――グラフィティにしてもこのポリゴンアルファベット絵画にしても、文字をグシャグシャに歪めることで文字-言語そのものを暗号化させるところに、(少なくとも観察する側からすると)その眼目が存在すると考えられるからである。

 そしておそらく、この「暗号化」という機制は、アルファベットをモティーフとした作品にとどまらず、少なくとも杉山氏の今回の出展作全体に敷衍できるのではないだろうか。視覚全体の異化をその大義とするオプ・アートの現在における後継者を自認している様子からも、それはある程度は確認できるのだが、しかしかかるオプ・アート的かつグラフィティ的な感性が、単なる技巧のための技巧にとどまらない魅力(としか言いようのない何か)を発していることに注目する必要があるだろう。つまり、これらの作品においては、氏の超絶技巧とともに、ある世界認識の形が開示されているのである。諸々の経験的な実体に還元されない領域、それらが存在する前からあり、それらを可能にするような世界。

リベスキント《Micromegas》から「Time Sections」 ところで個人的には杉山氏の作品をほよほよと見ていて、何だか建築家ダニエル・リベスキント(1945〜)の『マイクロメガス』みたいだなぁと思うことしきりだった次第。この『マイクロメガス』、ユダヤ博物館@ベルリンなどの先鋭的な建築物で知られるリベスキントが1979年に出版したドローイング集なのだが、建築家が描いたドローイングだからといって具体的な建物の設計図が描かれているわけではなく、10枚のドローイングはことごとくヘンテコな幾何学的形態が仮構された空間上を乱舞しまくっているといった趣を見せているわけで(画像参照)。建築家が描いたものとしてはほとんど破格の代物と化しているわけだが、そんな『マイクロメガス』について、リベスキント自身の《ドローイングを構成していた物質的担い手(記号)を超えて、ドローイングの内的なリアリティに入っていくことができるなら、表象の形式的なシステムの還元――最初は空虚で無用に見えるだろうが――はまったく自然なリアリティの延長に見え始める》という自註を踏まえつつ、美術学者の多木浩二氏は次のように述べている――

 「マイクロメガス」の魅力は神話と幾何学の融合にある。われわれはその神話力が幾何学に発していることを直観しているのである。だがこの幾何学と神話の結合はどうして生じえたのか? われわれが知覚するこれらの図がいったいいかなる空間の中にあるのかと思うが、平面の上にあるとも、奥行きのある空間に漂うとも定められない。リーベスキント(←原文ママ――引用者)の神話的空間の秘密は、多次元的な幾何学的システムとの結びつきからくるのだ。

(多木浩二「空間の思考6 神話と幾何学」(『ユリイカ』2002年12月号))



 ――ここで多木氏が「神話力」あるいは「神話と幾何学の融合」と呼んでいるものこそ、杉山氏の作品における暗号化にきわめて厳密に対応するものとしてあると言えるだろう。杉山氏の作品にしても『マイクロメガス』にしても、「平面の上にあるとも、奥行きのある空間に漂うとも定められない」錯覚によってしか見出されない場(フラクタル理論において「2.x次元」と表記されるような)が画面に現出しており、それこそが「神話と幾何学の融合」によって発動された「神話力」によって暗号化された「神話的空間」なのである。この“神話”は決して古臭いものでもオカルトめいたものでもなく純粋にテクノロジカルなものであり、それを卓越したテクニックで描出しているところに、杉山氏の特筆大書すべき美質が存在すると言えよう。




yami_yahma at 22:17コメント(0)トラックバック(0) 

2008年09月13日

「米田知子展――終わりは始まり」

米田知子展チラシ 品川にある原美術館にて開催中の「米田知子展――終わりは始まり」。ロンドンを拠点にして活動している写真家の米田知子(1965〜)女史の個展。米田女史は2005年の横浜トリエンナーレや昨年のヴェネツィア・ビエンナーレに招聘されるなど、ここ数年海外にも紹介されるようになっているそうで、その意味ではちょっとした凱旋帰国展といった趣。

 さておき今回は、そんな米田女史の90年代以降の写真作品が集中的に展示されていた次第。基本的にシリーズものという形で写真を発表する米田女史だが、今回はそんな彼女がここ十年ほどにわたって断続的に発表している《シーン》シリーズを軸に、同時期から並行して進められている《見えるものと見えないもの》シリーズ、さらに最近始まった《雪解けのあとに》《ワン・プラス・ワン》シリーズや、今年から新たに制作された《パラレル・ライフ》シリーズなどが一挙に紹介されているという按配。実地に見に行くまでは、これまでの制作活動の軌跡を中まとめ的に回顧するという体裁の展覧会かなぁと漠然と思っていたのだが、案外と撮り下ろし新作展の色彩も強かったわけで。当方、米田女史の作品には、国立国際美術館の常設展で《見えるものと見えないもの》シリーズ数点と、あるいは横浜美術館で2004年に開催された「現代の写真3:ノンセクト・ラディカル」展で《シーン》シリーズ数点に接した程度だっただけに、かような具合に活動を広く俯瞰できて、割と得した気分。

米田知子《フロイトの眼鏡―ユングのテキストを見るII》 個人的には、米田女史の作品というと、フロイトやトロツキー、マーラー、ル・コルビュジエ、ジェイムス・ジョイス、谷崎潤一郎etcといった、世界的に著名なメガネ男子(←マテ)たちの遺品の眼鏡を通して、彼らにかかわりの深い本や手紙、手稿の類を撮影するという態の《見えるものと見えないもの》シリーズのオモロさと手際の良さに以前から感心しきりだったもの。ことにフロイトの眼鏡を通してユングの著書を写している「フロイトの眼鏡―ユングのテキストを見るII」(画像参照)にはいい意味で頭抱えて笑うことしか、もはやできなかったわけで。この作品の場合、ユングがユダヤ人だったフロイトと袂を分かち、やがてヒトラーに接近してナチのパシリ御用学者となっていくというその後の歴史を勘案しながら見てみると、こういう取り合わせを選択した米田女史のシャープな鑑識眼が際立ってくるのだが、その一方でかような取り合わせの妙というのが、しかし彼女の恣意的な思いつきとは全く異なったものとしてあることに注目しなければならないだろう。つまり《見えるものと見えないもの》における“眼鏡”と“それを通して見られたもの”との関係は、フィクションやファンタジー的なものとしてあるのではなく、歴史の中でほぼ必然的にありえた関係としてある、と。そして、さらに重要なことは、この必然的な関係性は、しかしカメラを通して、人間的な想起を超えたものとしてしか顕現しないということである。

 一定の正しさをまとって語られてきた歴史(正史canon)に対して「こうであったかもしれない歴史」をフィクションやファンタジー、新伝綺(苦笑)といった装いとともに対置し、それによって正史の「正しさ」を批判する――かような理路にのっとった作品は文学からマンガ・アニメに至るまであまりにもありふれていて、ことさら言挙げするまでもないぐらい当たり前なものとなっている。あるいは別のレヴェルでの、伏流する潜在的な歴史(稗史apocrypha)というべきものを対置するという考え方も「正史の「正しさ」」を批判する理路のヴァリエーションとしてあげられるかもしれない。しかしながら、こういった理路を取ることでこぼれ落ちてしまう位相が存在する――歴史そのものを成り立たせるフォーマットの精度を極度に高めることで、歴史(的な出来事)から人間を排除してしまうという理路である。つまり、人間的な感傷なしに歴史を歴史たらしめること。それが可能なのが、写真というメディアにほかなるまい。かつてヴァルター・ベンヤミンは「写真小史」の中で《カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ、人間の意識に浸透された空間の代りに、無意識に浸透された空間が現出するところにある》(野村修訳)と書いていたが、してみると、米田女史の試みは「カメラに語りかけ」られた「無意識に浸透された空間」としての歴史を、正史と稗史の双方に、あるいは正史と稗史を対立的に(ということは相補的にということと同じなのだが)捉える歴史認識に対してもたらすものとしてあると言えるだろう。

米田知子《ビーチ―ノルマンディー上陸作戦の海岸》米田知子《恋人―ドゥナウイヴァーロシュ》 かかる、カメラと、被写体に内在する歴史(的な出来事)との間の、何だかねじれた関係性は、《シーン》シリーズや《雪解けのあとに》シリーズにおいて、さらにダイレクトに立ち現われているように、個人的には思うところ。どちらのシリーズも、一見すると何の変哲もない風景やシチュエーションが撮影されているけれども、個々の写真につけられたキャプションを見ると歴史的な出来事(や、そのエフェクト)が打刻された場所の現在の姿であることが明らかになるという形でしつらえられており、それは例えば、人々が海水浴に興じるビーチ(左画像参照)が実は『史上最大の作戦』でおなじみのノルマンディー海岸の現在の姿であったり、あるいは木々がうっそうと生い茂る林が実は第一次大戦の激戦地として名高いソンムの現在の姿であったり、またあるいはハンガリーで撮影されたというプールに佇む男女の写真(右画像参照)が実はかつて「スターリン・シティ」と呼ばれていた場所で撮影されていたりといったところに如実に現われていたのだが、いずれにしてもこれらの作品において共通しているのは、被写体の現在とそこに内在する歴史的な出来事との関係性がカメラによって顕現しているということであり、単に現在を写すこととも、過去の出来事そのものを写すこととも異なる潜在-現実性((C)ガタリ)としての歴史――それこそが、「無意識に浸透された空間」としての歴史にほかならない――をカメラを通してもたらすということである。

米田知子《東京宝塚劇場(クラウゼン/ヴトケウイッチ)》 ――以上のような観点から見た場合、最新シリーズとして展示されていた《パラレル・ライフ》シリーズはどのように解釈することができるだろうか。「ゾルゲを中心とした国際諜報団密会場所」というサブタイトルを持つこのシリーズ、太平洋戦争直前の時期に暗躍していたリヒャルト・ゾルゲを中心としたスパイグループや(少なからざる日本人(ex.尾崎秀実)が含まれていた)シンパが秘密裡に会っていたであろうと推測される場所(東京宝塚劇場、上野動物園、帝国ホテル、平安神宮、神戸港、奉天(瀋陽)、ハルピンetc)の現在の姿を撮影するという態でしつらえられており、その意味では《シーン》シリーズのモティーフ的な延長と見ることもできるのだが、この《パラレル・ライフ》シリーズでは(1930年代当時それなりに普及していたらしい)ブローニーフィルムのカメラを用いて撮影されており、モノクロで何が写っているかも少々あやふや、しかも約10cm四方というミニサイズといった具合に、《シーン》シリーズとは対照的な佇まいを見せているわけで(画像参照)。一見すると当時撮影された写真と見紛ってしまうし。

 その結果として、見る側は過去における「ゾルゲを中心とした国際諜報団」についていきいきと再現されたイメージを現在において見るのではなく、過去と現在とが曖昧に混濁した、より正確に言うと、カメラによって混濁させられた時空間=「無意識に浸透された空間」を見ることになる。個人的には、この空間の中に上野動物園のパンダがいたのがややウケだった次第(言うまでもないが、ゾルゲたちはパンダを東京では見たことがない)。それはともかくとして、結果として、見る側は暗黙の被写体とされる「ゾルゲを中心とした国際諜報団」に転移することができなくなり、 過去と現在とが曖昧に混濁した時空間に宙吊りにされた微妙な疎隔感を覚えることしか、もはやできなくなるわけで。そう言えばこの《パラレル・ライフ》シリーズの英語題は“Parallel Lives of Others”であった。ゾルゲたちとも、彼らに転移する私たちとも異なる“Others”の(無人称化された)生――しかしそのような“Others”の生こそ、歴史において真に救済されなければならないのもまた、事実といえば事実であろう。米田女史のカメラは、そのことを静かに、しかしこれ以上ないほど真摯に語りかけているのではないだろうか。そのようなことを考えさせられる。




yami_yahma at 22:36コメント(0)トラックバック(0) 

2008年08月29日

塩田千春「精神の呼吸」展

塩田千春「精神の呼吸」展チラシ 国立国際美術館にて開催中の塩田千春「精神の呼吸」展。大阪出身で現在ベルリンに在住し、日独を拠点に活動を繰り広げている現代美術家塩田千春(1972〜)女史の個展。国立国際美術館は移転前万博公演にあった頃、若手〜中堅どころの現代美術家を取り上げて大フィーチャーする「近作展」と呼ばれる企画をたびたび行なっていたが、今回のこの展覧会はさしずめその近作展の復刻版といったところだろうか。ちなみに同時開催のモディリアーニ展は華麗にスルーということで、ひとつ(爆)。

 さておき今回は、そんな塩田女史の最初期の作品から近作に至るまでおよそ十数点が展示されていた。十数点という数にだけ注目すると、美術館の規模からするといかにも少なく感じられるところではあるのだが――実際、会場となった常設展フロアの奥の方では、空きスペースを埋めるかのように(←マテ)、所蔵品の中から写真家の宮本隆司(1947〜)・石内都(1947〜)両氏の作品が展示されていたし(とはいえ、このチョイス自体はなかなか良かった)――、しかしほよほよと見てみると、大作インスタレーションありオブジェあり写真作品あり映像作品ありといった具合に、けっこうバラエティに富んでいたわけで。最初期の、自分自身を被写体とした写真作品から第一回横浜トリエンナーレ(2001年)に出展されて話題となった出世作《皮膚からの記憶》、そして近年の、赤や黒の糸を多用したインスタレーション作品に至るまで、それぞれのフェイズにおける重要な作品が確実にかつムダなく取り上げられていたわけで、コンパクトながらけっこう高密度にしつらえられていたのだった。

塩田千春《トラウマ/日常》(2007)塩田千春《During Sleep》(2004) とりわけ個人的には黒い糸を用いた作品《トラウマ/日常》(左画像参照)や《During Sleep》(右画像参照)が印象深かった次第。前者は衣服や本、靴といった日常品(の形をしたオブジェ)が鉄製のフレームの中で黒い糸によってがんじがらめにされている作品で、後者はベッドが何台か置かれた部屋の中を黒い糸がクモの巣(あるいは鳥の巣)のように張りめぐらされているという作品なのだが、特に後者は、仄聞するところではここ数年主に欧米の各所においてプロジェクト的に繰り返し行なわれているそうで、その意味でも近年の彼女の代表作と言っても、あながち揚言ではあるまい。この二つの作品に限らず、今回の展覧会では、大量の履き古された靴に赤い糸を結びつけ、その糸を一点に向かって束ねたインスタレーション作品《大陸を越えて》など、糸を使った作品が多かったわけであるが、何かを縛ったり絡めとったりするという形で糸というものをアレゴリカルに使用しているこれらの作品を通して浮かび上がってくるのは、いささかベタではあるのだが、私たちが様々な不可視なものによって拘束されているという事実であると言えるだろう。それは、彼女の作品を語る上でしばしば持ち出されてくる〈記憶〉という言葉にかかわって、重大である。

 上述したように、塩田女史は巷間しばしば〈記憶〉を、ことに個々人の内的なものとしての〈記憶〉を主題とした作品を作り続けている美術家として紹介されることが多い。それは確かに上述した作品に即して見てみると(ことに履き古された靴を用いた《大陸を越えて》に、それは顕著であろう)それなりに当たってはいるのだが、しかしここで重要なのは、彼女が〈記憶〉を作品に転化させる方法論がきわめて独特であり、しかもそれが、主題たる〈記憶〉の位相そのものを決定的に変形ないし転形させるようなものとしてあることである。
(a suivre)



yami_yahma at 22:50コメント(0)トラックバック(0) 

2008年08月01日

「1987年の絵画――犀・鯨・カラステング」展

小田中康浩《プライズ》 東山三条にあるgalerie 16にて開催中の「1987年の絵画――犀・鯨・カラステング」展。このギャラリーが今年に入ってから断続的に行なっている企画展「シリーズ80年代考」の一環として開かれている展覧会。

 「1980年代、西高東低と揶揄された関西ニューウェイヴの動きを軸に、関西の80年代を探ろうという企画(略)80年代が抱えようとした問題点や、80年代のリアリティを再考します」――以上のようなキュレーター(坂上しのぶという方だそうだ)の問題意識のもとに始まったこの「シリーズ80年代考」。毎回一人のアーティストをピックアップし、ある特定の時点での作品(群)を、その時代のアートシーン-における/に対する-徴候として取り上げるというスタンスでしつらえられており、第一弾では中原浩大(1961〜)氏が、第二弾では福嶋敬恭[ふくしま のりやす](1940〜)氏がフィーチャーされてかの界隈(←どの界隈やねん)でもなかなかな高評価を受けたそうで。実際、『美術手帖』誌にレヴューが掲載されていたし(『美術手帖』2008年6月号)。それだけに個人的には、とりわけ第一弾を見逃してしまったことに後悔しきりだったのだが、それはともかくとして、上二つを受けての第三弾となる今回は、80年代後半から(ポスト)関西ニューウェーブの一人として活動を始めた現代美術家の小田中康浩(1963〜)氏がフィーチャーされている、という按配。会場のgalerie 16は1962年の開廊で、存在自体が関西の現代美術史と呼ばれることしきりだそうで、その意味では、かような趣旨の展覧会を開くにうってつけであると言えるだろう。

 さておき、今回は、そんな小田中氏が1987年前後に描いた大作の絵画三点と、ドローイングやエスキースの類十数点が展示されていた次第。展覧会タイトルからも一見即解なように、サイやクジラ、カラステング(烏天狗?)が絵画作品のモティーフとなっているのだが、ほよほよと見てみても容易にはモティーフのフォルムを見出すことができないわけで。例えば、ひときわ巨大な作品として出展されていた《プライズ》(上画像参照)はクジラをモティーフとしているのだが、だからと言ってクジラ自体が具象的に描かれているわけではなく、しかも壁一面になんなんとする大きさゆえ、一瞥した限りでは圧倒的な色彩と筆触の洪水にしか、もはや見えないのだった。それでも、サイをモティーフとした《犀のおりもの》やドローイング・エスキースを見てみると、確かに――何だか北斗神拳をくらって爆裂しているように見えるけれども(←マテ)――モティーフのフォルムを見出すことができなくもないわけで、してみると今回の展示作品は〈絵画〉を〈絵画〉としてフレーミングする際にえてして持ち出されてくる「「図」と「地」」の二分法を、色彩と筆触の差異に還元ないし一元化しようという意図のもとに描かれたものと見ることも、あながち間違いではあるまい。実際、絵画作品にあわせて出展されていたエスキースの中に、欄外に「イメージ←→フォルム」という書きこみがなされていたものがあったことからも、そのことは容易に類推できる――つまり、先ほど触れた「図」と「地」を一元化しようという試みも、かような「イメージ」と「フォルム」の二分法を一元化する試みの一局面であると見ることができるわけで。言い換えるなら、「イメージ」と「フォルム」を、完全に同一のものとすることはできないにしても、少なくとも「←→」という形で相互に往還・通約可能なものとして思考するというモーメントが、これらの作品において立ち現われ(ようとし)ているのである。

坂上しのぶ(編)『シリーズ80年代考』 ――以上のことを踏まえた上で、そんな小田中氏の作品が「1987年の絵画」という形で現在において召喚されていることのアクチュアリティについて考えていくことが必要になってくるであろう。従って、ことは当時の現代美術界隈を陰に陽に規定していた問題機制(=「80年代が抱えようとした問題点や、80年代のリアリティ」)にとどまらず、「「当時の問題機制」を現在において取り上げること」のアクチュアリティにかかわってくる――氏の作品がほかならぬ徴候としてあるとするならば、それはかような位相においてである。まぁ当方80年代における現代美術の動向については基本的に不勉強なのでアレなのだが(爆)、それでも当時関西の若手美術家――具体的に言うと森村泰昌(1951〜)氏や石原友明(1959〜)氏、中原浩大氏、山部泰司(1958〜)氏、松井智恵(1960〜)女史といった面々のことであるが――たちが、前時代において次々と叢生した諸ムーヴメント(“具体美術協会”or“ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ”or“ハイレッド・センター”→“もの派”or“グループ〈位〉”or“美共闘”→“ポストもの派”……)を横目に見つつ次々とデビューし、「関西ニューウェーブ」と呼ばれる独自のムーヴメントを形成していったことはとりあえず仄聞しているわけで。前出の山部氏はこの「関西ニューウェーブ」について、その始まりを1982年に同定しつつ、《七〇年代のモダニズムの末期的アートに対する失望感や出口のない閉塞感が八〇年頃まで続いて、ハイカルチャーとローカルチャーが相対化され、美術に対する価値観の地殻変動が起ったのが、関西では一九八二年だったと考えられる》と発言しているが(坂上しのぶ(編)『シリーズ80年代考』(画像参照))、それを勘案してみると、60年代から70年代にかけて最も強力な問題機制としてあったモダニズム(およびそれと不可分な前衛主義的態度)を部分的にせよ相対化/無化しようとする試みとして「関西ニューウェーブ」があったと言うことができるだろう。

 ところで、80年代前半に「アートに対する失望感や出口のない閉塞感」によって「ハイカルチャーとローカルチャーが相対化され、美術に対する価値観の地殻変動が起った」という山部氏の見解をさしあたり受け入れたとき、「美術に対する価値観の地殻変動」のもう一つの動きとして、まさにその80年代前半に起こったイラストレーションブームと呼ばれるムーヴメントを外挿することが可能であろう。「ヘタうま」((C)湯村輝彦)と呼ばれるキャッチーなフレーズに象徴されるこのイラストレーションブームは、狭義には当時パルコが主催していた公募展である日本グラフィック展がこの時期いささか唐突に(イラストレーションに本来求められるべき)“広告デザインとしての実用性”を光速で置き去りにしたような作品や作家(ex:日比野克彦)を輩出するようになり、それによって若手美術家の登竜門的な位置を簒奪するようになったことを指すが、ここではより広義にとらえてみたい――すなわち、前時代から引き継がれてきた、絵画(に限った話ではないのだが)をめぐる問題機制が決定的に変化したことの象徴としてこの事象があるのではないだろうか、という。つまり、「イメージ」と「フォルム」の相関/相剋関係という前時代以来の問題機制に加え、80年代後半においては、こと平面に関して言うと、「絵画」と「イラストレーション」の相関/相剋関係というのが、新たに問題機制として加わったのではないか。

 ――以上の二つのムーヴメントを現在の視点から再配置してみると、「1987年の絵画」の位置性というのが、よりヴィヴィッドに立ち現われてくるように、個人的には思うところ。「1987年の絵画」という見立てが含んでいるのは、かかる二局面における相関/相剋関係を、他ならぬ「絵画」の枠内で突き詰めようとするような動きが分水嶺を迎えたのが1987年という年であり、小田中氏の絵画を直接的に規定していたのも、以上のような問題機制だったのではないだろうか――というのは半分くらい当方の妄想ではあるのだが(爆)。しかし90年代に入って以降支配的になったのは、本来同時に解かれるべきであった両者の問題を「絵画」/「イラストレーション」という対立軸に一元化し、そこに〈キャラクター〉という新たなファクターを導入することで「イメージ」と「フォルム」の相関/相克関係を想像的に解決(したことに)するというレトリック的な操作であったことは、まぁ事実と見て差し支えあるまい。

 かかるレトリック的な操作の結果、小田中氏のこの時期の作品に典型的に表れている、1987年における「「イメージ」と「フォルム」の相関/相克関係」という問題機制はなかったことになり、そしてその「なかったこと」すら忘却されるようになったことで、、一時期『美術手帖』誌がフィーチャーしていた“ゼロゼロジェネレーション”に代表されるような健忘症的現在に至ったと見る必要があろう(本論から少し外れるが、宇野某なる人物が『SFマガジン』誌上の連載で振り回していた「ゼロ年代の想像力」というのも、かかる健忘症の一種ではないのか)。確かに〈キャラクター〉というファクターを導入することで絵画にもたらされた新たな局面とその成果を無視することはできないのだが、一方で深刻な影響を及ぼしたことにも触れないわけにはいくまい。

 小田中氏は今回展示された作品を描いた後イタリアに留学し、帰国後は対照的な二画面を一つに繋いだ絵画作品《世界/残酷/物語》や《Urlicht》((独)根源-光)シリーズを現在に至るまでコンスタントに発表し続けているそうだ。個人的にはそのような試みの方にも、振り返るに値するものがあるように思ったわけで、その意味では非常に興味深い展覧会だった次第。




yami_yahma at 23:05コメント(0)トラックバック(0) 

2008年06月04日

「液晶絵画」展

「液晶絵画」展チラシ 国立国際美術館にて開催中の「液晶絵画」展。近年めざましい活躍を見せている国内外の現代美術家のビデオアート・メディアアート作品を集めたアンソロジー展といった趣の展覧会。

 「液晶絵画」とはあまりなじみのない言葉だが、主催者いわく《それら(←この展覧会の出展者――引用者)に共通する特色は映像表現の中に絵画的な世界の効果を生かしているというところにあります。動くイメージに、これまでは静止した画面に固有なものと思われていた表現の豊かさを取り込んで見せているといってもよいでしょう》(本展チラシより)という観点から用いられているそうで、近年の技術進歩によって新たな位相を迎えた感のあるこの界隈の諸作品を〈絵画〉という観点から問い直そうという意図が、いささか生硬な感のある「液晶絵画」という言葉に込められていると言っても、あながち間違いではあるまい。液晶テレビでおなじみのシャープが特別協力に名を連ねているからだけではないのだ?(←マテ)

 【今回の出展者(展示順・敬称略)】
ビル・ヴィオラ(1951〜)、ヤン・フートン(1971〜)、ブライアン・イーノ(1948〜)、サム・テイラー‐ウッド(1967〜)、森村泰昌(1951〜)、ジュリアン・オピー(1958〜)、やなぎみわ(1967〜)、千住博(1958〜)、イヴ・サスマン(1961〜)、鷹野隆大(1963〜)、ドミニク・レイマン(1969〜)、チウ・アンション(1972〜)、ミロスワフ・バウカ(1958〜)、小島千雪(1971〜)

 さておき、展示室に入ってみると、AQUOSに映し出された(←ここ重要(←マテ))上記の面々の映像作品やビデオアートを、セクションごとに見て回っていくという体裁にしつらえられていた次第。個人的には映像作品の展覧会ということで、過去の展覧会経験からして音がウザいだろうなぁと思っていたのだが、ほよほよと見てみるとサイレント作品が大半を占めていたわけで、それはなかなか悪くなかったように思うところ。美術館でこの手の作品を見ているときって、どこかから別の作品のBGMが漏れ聞こえてくるとかなりゲンナリしてしまうものだから、ねぇ……。

 かかる半畳はともかくとして、展示されている作品を見て回っていると、〈絵画〉という観点からビデオアートを問い直すという主催者側の意図が十全に反映された品揃えとなっていたわけで、この手の作品の展覧会にありがちなガチャガチャした騒々しさよりも、むしろ淡々とした静謐さやアンビエント感の方が前面に押し出されており、雰囲気的になかなか良かった。まぁアンビエントミュージックの創始者的な存在でもあるブライアン・イーノの作品が出展されている時点で、それは既に決定づけられていたと言ってもいいのだろうけども。まぁ当方の場合、ビデオアートに関しては、映像化された時間感覚によって自分自身の(バイオリズム的な)時間感覚に直に触れられてしまうようなイヤ〜な感覚を覚えてしまうところがあって――でもなぜかアニメや映画では(ごくまれな例外を除いて)それを感じないから、エエカゲンきわまりないんですけどね(^^;――、意外と苦手だったりするのだが、今回のこの「液晶絵画」展の場合は割とすんなりと腑に落ちる作品が多かったわけで。曲がりなりにも「絵画」を標榜していることの功徳というのは、案外とかようなところに現われているのかもしれないと思うことしきり。

サム・テイラー-ウッド《スティル・ライフ》千住博《水の森》 そんなわけだから、明確に絵画的な視覚効果を狙った作品の方が個人的には見ていて気持ち良かったわけで、ほよほよと見ていてそういう気持ち良さを感じさせられたのは、例えばサム・テイラー-ウッドの《スティル・ライフ》(左画像参照)や千住博氏の《水の森》(右画像参照)あたりだった次第。前者はいかにも近代絵画的に配置された果物の山やいかにもデューラー風に配置された動物の死骸にカビやウジ虫が湧いて腐爛し腐り果てていく過程をハイスピード撮影していくという作品であり、後者は近年の千住氏がよくモティーフにしているという、(長谷川等伯風に描かれた)霧にけぶる水辺の森を屏風的に配置された縦長液晶ディスプレイに映し出し、かすかな動きを見せるといった趣の作品であるが、どちらにしても映像作品というより、まさに「液晶絵画」と呼んだ方がはるかにふさわしい趣を十全に湛えており、ついつい見入ってしまう。と同時に、最近の液晶ディスプレイの解像度の高さにも普通に驚いてしまうことしきり。で、その解像度の高さは、クッキリした色面と単純化されたフォルムで人物や風景をアニメ的に描くジュリアン・オピーの作品において、さらに際立つのだった。さすがは世界の亀山ブランド(爆)。
(a suivre)


yami_yahma at 21:14コメント(0)トラックバック(1) 

2008年05月27日

「民衆の鼓動:韓国美術のリアリズム1945-2005」展

「民衆の鼓動」展チラシ 西宮市大谷記念美術館にて開催中の「民衆の鼓動:韓国美術のリアリズム1945-2005」展。タイトルから一見即解なように、1945年の独立以後現在に至る韓国の現代美術について、韓国国立現代美術館やソウル市立美術館の所蔵作品を中心に回顧していくといった趣の展覧会。

 ここ数年、いわゆる韓流ブームの影響もあってか、日本でも現代韓国への関心が良くも悪くもにわかに高まっているように見えるが、こと美術に限って言うと、一般的には高麗王朝や朝鮮王朝(李朝)時代の伝統工芸品に対する骨董的な(≒『開運! なんでも鑑定団』的な(苦笑))関心が依然として支配的なのもまた事実といえば事実なわけで、独立/分断後の現代美術に関しては、過去から現在に至る日韓間のいろいろな経緯もあってか――日本に留学に来て、そこから“もの派”のフロントランナーとなった李禹煥氏という例外的存在を除いて――長年にわたって紹介が遅れてきたと言っても、あながち揚言ではあるまい。しかしながら、近年では光州ビエンナーレが有名になったり、ソウル郊外にギャラリーやアーティスト・イン・レジデンスが集まった複合施設「ヘイリ芸術村」がオープンしたりするなど、ある意味日本以上に現代美術を取り囲む環境の整備が進んでいるとのこと。で、そんな現状を迎えている韓国の現代美術の中において、とりわけ独特な展開を見せてきたと言われるのが、今回フィーチャーされている「民衆美術」というムーヴメント――「民衆美術」といっても日本ではほとんどなじみがないものであろうが、《1980年代の民主化運動の影響を受けた「民衆美術」は、それまでの主流であったモダニズム絵画への反動という側面だけでなく、当時の激動する韓国社会そのものを映し出す美術運動として現われました。そして、この民衆美術運動によってつちかわれた社会の現実や歴史に向き合う姿勢は、今日の韓国現代美術の中にも息づいています》(本展チラシより)といった具合に韓国内で展開されたものだそうで。そりゃ確かにリアリズムだわ、といったところ。

 さておき、この展覧会では、そんな民衆美術運動の中心的な存在となった「現実と発言」グループやその後身の「民族美術協議会」に参集した面々の作品を中心に、主に80年代から現在に至る時期の作品が展示されていた次第。この時期の韓国は、1980年に軍事クーデタで政権を握り、それまで――1961年以来独裁者として君臨してきた朴正熙[パク・チョンヒ]暗殺を契機として――盛り上がっていた民主化運動を弾圧した全斗煥[チョン・ドゥファン]の強圧的な政権運営に対する不満が大衆の間に広がり、民主化運動が再び激しくなっていく時代であったのだが、民衆美術運動もかような状況の中で生起し、急速にラディカル化していくことになるわけで。で、かようなラディカル化の結果、単なる全斗煥政権への反発にとどまらず、南北分断や「漢江の奇跡」と呼ばれた高度経済成長、相変わらずな儒教的-権威主義的な風土、といった要素に規定されつつ近代化路線を驀進していった韓国の歪さを総体的に問題にするというスタイルを共有しつつ、多様な展開を見せることになるのだった。

呉潤《父》姜堯培《脈読み》(1983) かかる傾向は、管見の限りではとりわけ――この展覧会でも大フィーチャーされていた――「現実と発言」グループの中心メンバーだった林玉相[イム・オクサン](1950〜)や呉潤[オ・ユン](1946〜86)の作品に非常にヴィヴィッドな形で現われていたように、個人的には思うところ。実際、林は具体的な事象や風景からモティーフを援用しつつ、ストレートなメッセージ性と寓意とが同時に盛り込まれた作品を多く手がけ、呉は木版画というローテクな、それでいて東アジアにおける社会運動-革命運動の伝統に忠実なメディアを大々的に活用して、権威主義体制の中で進んだ歪な近代化の中で生き抜く市井の人々の姿を粗削りに描く作品(左画像参照)を多く手がけることになるのだが、彼らの作品に顕著に現われているのは、美術は社会の現実や歴史に対して、それを変えうる力を持っているという強固な信頼であり、と同時に美術家は現実と徹底的に向き合わなければならないという一種の使命感であると見ても、さほど揚言ではあるまい。実際、彼らは韓国美術界で一大勢力を形成していたモダニズム的傾向(60〜70年代の韓国では特に「モノクローム絵画」派が隆盛を極めていた)への反発を隠さなかったし。してみると、民衆美術運動はそれ自体、韓国現代美術界におけるインディーズ的な性向を強く持っていたと言えるだろう。伝統的な絵巻物や民画、仏画、壁掛け絵(コルゲクリム)の形式を借りたり、メジャーなアートシーンが描くことを忌避していた(あるいはセルフオリエンタリズム的にリファインされた形でのみ描いた)妖怪や幽霊、巫女、舞楽師、呪術師といった怪しげかつ反近代な人やモノが彼らの間でモティーフとして広く共有されていることが、それをよく示している(右画像参照)。

 ――かような具合に、「リアリズム」と言っても、少なからざる作品に関してはほとんどシュールレアリスム的なテイストが醸し出されているわけであるが、リアリズムであれシュールレアリスムであれ、それが意匠の問題としてではなく、何かを描く際のスタイルの問題として多くの作家たちに感得されているであろうことは作品をほよほよと見ていても十分に伝わってくるわけで、これはなかなか興味深かった次第。実際、この展覧会では80年代に至る前段階といった趣で、他の時代の作品も展示されていたのだが、それらを見ても、韓国美術におけるリアリズム的動向はこの時期に外から(「最新の美術動向」といった意匠をまとって)突然導入されたわけではなく、それなりの前史があり、しかも正史(canon)という形で整序されえない稗史(apocrypha)にかかわるような主題(妖怪、幽霊、巫女etc)に潜行していくというスタイルは一貫していることがよく分かるわけで。近代化が生み出した社会的な諸矛盾を別の近代化=意匠によってではなく、言わば「前近代を通じた近代の超克」((C)花田清輝)と言うべき態度によって明るみに出すこと――「スタイル」とはここにかかわってくる。かつて中国文学者の竹内好(1910〜77)は中国の近代化を「抵抗を通じた主体の形成(過程)」と要約し、明治維新以後の日本の近代化にはこの「抵抗を通じた主体の形成」が存在しないorいつしか途絶えてしまったと決め打ちしていたが(竹内『日本とアジア』)、かかる竹内の判断の是非はさておくとしても、「抵抗を通じた主体の形成」というプログラムは、こと現代美術に関しては、中国よりもむしろ韓国においてより顕著であったと言うことができるだろう。言うまでもなく、「抵抗」とは意匠の導入にではなく、身体化されたスタイルにかかわるものであるからだ。

 その意味では、1987年に新憲法が発布され、民主化が(少なくとも政治的には)一通り達成されてからの作品は、個人的にはどうもあまり食指が動かないというか、80年代前半の作品に見られる緊張感が足りないように見えてしまう。いやまぁかような感想を抱くこと自体、当方の韓国現代史に対する無知と彼我の文化的歴史的差異を無視したヒドい態度であることは重々承知しているのだが、それでも、作家自身が官憲に逮捕されるかもしれないという危機の中で生み出された作品(実際、何点かは一度没収されていたそうで)を最初に見せられてから90年代以降の作品を見ると、そう思わざるを得ないわけで。軍事独裁政権という見えやすい敵がなくなって、それに代わる敵を見失ったがゆえに関心が拡散してしまったのかなぁというありきたりな感慨を抱くことしきり。

朴永均《大韓民国》 そんな中でも、個人的には朴永均[パク・ヨンギュン](1966〜)の映像作品《大韓民国》(画像参照)が民主化以後の作品の中ではとりわけ興味深かった次第。80年代にソウル最大の大通りである世宗大路で繰り返された大規模デモの映像に、2002年に開催されたワールドカップ日韓大会の際の音声――「テ〜ハンミングック!」というアレ――がBGMとしてかぶせられているという、それだけといえばそれだけの作品なのだが、そこに籠められたインプリケーションの深さは、なかなかなものがあったわけで。件のワールドカップの際には世宗大路は赤いTシャツを着た群衆が国旗を振りながら韓国チームを応援しまくっていたわけだが、それは80年代の光景と重なりつつ決定的に異なるものとしてあるわけで。映像と音声を分離して再結合することで、その差異はよりヴィヴィッドに立ち現われてくるだろう。朴はいわゆる「386世代」に属する作家だが、この世代は民主化以後の韓国の栄光と悲惨を一身に背負うことになった世代である。そんな彼がかような表現を敢行することで、民主化によって韓国社会は変わったか/変わっていないかを改めて問い、その問いを通して、遂行的に民主化-民衆美術運動が本質的に未完の、何度でも繰り返されるべきプロジェクトであることを示しているように見えるわけで。

 絵的には洗練からほど遠いし、諸文脈に強度に依存した作品が多いので、敷居の高い展覧会ではあるのだが、彼我の差異を考えながら見ていくと、非常にタメになる展覧会であると言えるだろう。ことに「リアリズム」がいつの間にか抑圧され、似て非なる概念である「リアリティ」が跳梁跋扈している日本と突き合わせていくことが重要なのかもしれない――そのようなことを考えさせられる。



yami_yahma at 23:07コメント(0)トラックバック(1) 

2008年05月08日

「特別展覧会 暁斎――近代へ架ける橋」展

暁斎展チラシ 京都国立博物館にて開催中の「特別展覧会 暁斎――近代へ架ける橋」展。幕末から明治初期にかけて江戸/東京で活躍した絵師河鍋暁斎(1831〜89)の回顧展といった趣の展覧会。当方のアニメ+現代美術仲間である「蜂列車待機所日記」管理人のてんちょさんから招待券を頂いたのを機に見に行った次第。いつも本当にありがとうございます。

 下総国古河(現在の茨城県古河市)に生まれ、ほどなくして江戸に出た暁斎は、最初は浮世絵師歌川国芳(1798〜1861)に、次いで狩野派(駿河台狩野派)に弟子入りし、修行を積む。独立後「狂斎」を名乗って幕末-維新の激動期に様々な作品をものすが、維新後の1870年に明治政府を諷刺した廉で逮捕されてしまう。釈放後「暁斎」と改名してからは、浮世絵と狩野派に学んだ経歴を生かして、あらゆる画題をあらゆる画風で描く桁外れのヴィルトゥオーゾとして特に外国人(ex:ジョサイア・コンドル(1852〜1920))にウケるようになり、この時期、欧米において最も著名な日本人画家の一人となっていくのだった……――彼の生涯を超乱暴にまとめると、概ね以上のようになるだろう。で、今回は、かような暁斎の全画業を――「狂斎」名義時代のものも含め――肉筆画(や、その下図)をメインにしてドバッと紹介していく、といった按配にしつらえられていた。

河鍋暁斎《地獄太夫と一休》 さておき、上述したように浮世絵と狩野派というほとんど相反するメソッドを自家薬籠中のものとしていったこと、しかも彼が最初に師事したのがお化けや妖怪変化の類を得意にしていた歌川国芳であったこともあってか、出展作もそういったものや、あるいは鍾馗や布袋、おたふくといった民間信仰の神々、ドクロや地獄あたりを主題にした作品が多かったように、個人的には思うところ(画像参照)。まぁ実際にざっと眺めてみると、動植物や女性、風俗の類が描かれたものの方がはるかに多いのだが、ゆやよんと見ていてキャッチーきわまりなかったのが前者のようなオドロオドロシイ系の作品だったこともまた、事実といえば事実。かかる具合に、全体的には暁斎の超発想が大爆発したような作品がフィーチャーされていたわけで、「絵画の冒険者」「Kyosai Show!」というキャッチコピーにも、これなら納得。京都国立博物館では2000年に伊藤若冲(1716〜1800)、2005年には曾我蕭白(1730〜81)を大フィーチャーした展覧会が開かれており、そのことも勘案すると、今回の暁斎展も彼を件の若冲や蕭白に代表される「奇想の系譜」((C)辻惟雄)の延長線上に――あるいはその掉尾に――位置づけるといった趣を見せているわけだが、それはさしあたり上手くいっていると言えるだろう。ほよほよと見ていても何この超展開!? と頭抱えて笑うことしかもはやできない作品が多く、しかもとんでもない職人芸と奇想に裏打ちされた絵力が展示作品全体にわたって激しく漲っていたわけで、個人的にはすっかりそれにアテられてしまうのだった。

河鍋暁斎《新富座妖怪引幕》(部分)河鍋暁斎《地獄極楽めぐり図》(34/40) 管見の限りで、かような絵力をとりわけ強く感じたのは、明治期に入ってから描かれた《新富座妖怪引幕》(左画像参照)と《地獄極楽めぐり図》(右画像参照)だった。前者は当時の歌舞伎界のスターを様々な妖怪になぞらえて描いたもので、縦4m×横17mという巨大な作品、後者は当時懇意にしていたパトロンの娘が夭折したのでその追善のために描かれた特製の画帖(40枚の絵からなっている)なのだが、巨大画面と小さな画帖、荒々しいライヴペインティング感――実際、暁斎はこの超巨大作品をわずか四時間(!)で仕上げたという――と緻密なコンポジション感、江戸時代の浮世絵テイストと明治以降の錦絵テイストといった対照的な相貌を見せているにもかかわらず、彼の奇想が同じくらいのテンションで爆発していたわけで、つい引き込まれてしまう。その一方で《蟹の綱渡り》や《墨合戦図》といった中世の戯画にインスパイアされた作品や《日本神話》《百怪図》のような劇画テイストにあふれた作品、《枯木寒鴉図》のような堂々たる狩野派的作品、《鯉魚遊泳図》のような円山応挙or長沢蘆雪テイストの作品に至るまで、良くも悪くも節操のない、けど絵的にはバシッとキマっている作品が続いていく。

 ――というわけで、京都国立博物館における(若冲、蕭白に続く)奇想系画家シリーズ第三弾として非常に堪能できた次第なのだが、その一方で、暁斎が江戸時代から明治時代にかけて生きたこと、その明治政府に一度逮捕された経歴があることに重点を置きながら作品を見てみると、彼の奇想をヴィジュアル的なスペクタクルとしてのみ見る――もちろんそれだけでも十分に楽しめるのだが――のとはまた違った角度から見ていく必要があるように、個人的には思うところ。ことにそれは、暁斎の明治以降の画業と日本の近代化とを両の目で見ていくと、よりはっきりするのではないだろうか。ことにそれは「日本文化」や「日本美術」といった概念にかかわって、重大である。

河鍋暁斎《漂流奇譚西洋劇》 これらの概念が(さらに言うと「日本」自体が)明治維新以後の近代化の中で制度的に創出されていったことは、こと文化史においては既に広く知られるようになっており、ここで今さら縷々繰り返すまでもないのだが、かかる制度的な創出の中で模倣と排除が大々的かつ隠微に進められていったことをここで改めて強調しておくことが重要であろう。「模倣」とは言うまでもなく西欧列強諸国を対象にした機制であり、それはあらゆる分野において強力に推進されていったわけだが、その中で過去の、そして現下の日本が「排除」の対象とされたことに注目しなければなるまい。暁斎が死後――現在に至るまで――「忘れられた画家」「いまいちマイナーな画家」扱いになっているのも、彼の作品のありようが、日本の近代化の中で排除されなければならないようなものとしてあったからであろう。暁斎の生きた明治初期は、美術史・文化史的には江戸時代であり、近代化によってその時代の混乱した状況を排除することによってはじめて単線的な歴史観が語られることになる。ことに日本美術の場合、例えば日本においては現在に至るまで絵画のカテゴリーとして機能している「日本画」は、それまでにあった様々な流派やスタイルに対して中立的なものとして想像=創造されたのだが――それは近代化の中での「想像の共同体」((C)ベネディクト・アンダーソン)の形成と制度化とパラレルである――、そこにおいて排除されたのは、暁斎のような桁外れの職人芸によってあらゆる流派を横断するような態度であったと言えるだろう。逆に言うと、かような職人芸性を基礎にしたクロスオーバーが禁じられたとき、はじめてあらゆる流派から中立的な「日本画」が制度化されることになったわけで。だから余談になるのだが、暁斎をはじめ、狩野芳崖(1828〜1888)や高橋由一(1828〜94)といった(方向性はどうあれ)クロスオーバーな絵師たちがあらかた死んでから、東京美術学校を中心とした日本画と、絵画史における日本画に至る単線的な歴史観の制度化が本格的に始まったことは、決して偶然ではないのである。

 ところで政治学者の丸山真男は、日本においては18世紀中頃〜19世紀初頭にかけて近代的なネイションに類似する概念が開花し蓄積していったと述べ、かようなムーヴメントを「ナショナリズムの「前期的」形成」と名づけている(丸山「日本におけるナショナリズムの「前期的」形成」)。丸山の議論の背景には、例えば国学の勃興と発展というムーヴメントがこの時期にあったことなどがあげられるのだが、ここにおいて重要なのは、かかる具合に形成された「前期的」ナショナリズムが、明治維新の思想的バックボーンとなったにもかかわらず、維新以後は逆に排除されるようになったということである。明治維新以後、政府によるオフィシャルなナショナリズムの基盤となったのはraison d'etatの訳語としての「国家理性」、あるいはStaatsformの訳語としての「国体」概念だったのだが、いずれにしても欧米のそれの模倣であることには変わりないわけで。

 そういったことを勘案しながら見てみると、「奇想」を丸山の言う「前期的」ナショナリズムと結びつけて見るのも、さほど突飛な妄想ではあるまい。若冲や蕭白といった奇想系画家たちが主に京都を活躍の場としていたことからも、それは窺えるだろう。そういった流れの掉尾に位置するのが暁斎であった、と。その意味で暁斎の絵が垣間見せてくれるのは「失われた日本」であり、「失われた選択肢・失われた可能性」であると言ってもいいのかもしれない。展覧会タイトルになぞらえて言うと、暁斎の「近代へ架ける橋」は、しかし現実の近代化とは断ち切られたまま、宙を浮いているのである――そのようなことを考えさせられた次第。




yami_yahma at 23:17コメント(0)トラックバック(0) 

2008年02月10日

「映像のコスモロジーXII 新作展」

今日の出来事 - livedoor Blog 共通テーマ

c1ce808a.jpg 灘にあるアトリエ2001で今日開催されていた「映像のコスモロジーXII 新作展」。毎年同所で一週間ほど行われる各種映像作品の上映会「映像のコスモロジー」の一環として開かれた、自主制作映画サークルの発表会といった趣のイベント。当方のアニメ&現代美術仲間のてんちょさんが毎年この会で自主制作映像作品を上映しており、今年も誘われて見に行った次第。

 当方、この新作展を見に行くのは昨年に続いて二度目だったわけで、昨年初めて訪れた際には、会場のアットホームな感じに和んだり、(制作者/鑑賞者問わず)その場に居合わせた人々の多士済々ぶりに普通に驚いたりと、普段この手のイベントごとに関しては一人でこっそり見に行くことの多い当方的には――そこで上映されていた個々の映像作品への評価云々とは全く独立に――なかなか刺激的なイベントだったもの。で、そのあたりについては、今年も全く変わっていないのだった。みんなで床にザコ座りして見ていくというスタイルや、見に来た人々のいい意味での雑多ぶりが。実際、普段どこで何をしているのかにわかには掴みがたい風体の人が多かったし(ってそれは当方も同じなのだが(爆))、当方の斜め後ろにいたのは、周りの人たちとの会話から察するにどこかの美大の教授だったし。かような不思議な場が今でも――年に一日だけとはいえ――あるというのは、実はなかなかでっかい奇跡です(CV:広橋涼)状態なのかもしれない。

 さておき、実際に上映会が始まってみると、居合わせた人々のかかる多士済々ぶりに対応するかのように、出展作品の傾向も作品のメディア形態――「16mm作品」「8mm作品」「DV&DVD」という三つのカテゴリーがあるそうで――も雑多なものがあったのだが、全体的には短編が多かったわけで、割とサクサク進行していったように、個人的には思うところ。基本的には上映→制作者による自註→セッティング→別作品の上映…… というサイクルで進行していったのだが、「制作」という本質的に自己満足的な行為と「上映」という本質的にパブリックな行為とのバランスがしっかりと取れていた作品が多かったわけで、なかなか充実した時間を過ごせた次第。この手の自主制作映像作品って、えてして前者の側面に異常に亢進してしまうことが多いもので、実際、当方も学生時代にそういう状態の作品を見せられることしきりだったし(苦笑)。まぁ確かにそれでもいい作品というのは当然ありうるのだが、管見の限りではなかなかお目にかかれなかったのもまた、事実といえば事実――そういう個人的な経験と照らし合わせて見てみても、レファレンスとの、あるいはカメラやメディア(の物質性)との距離感が、より正確に言うと、人間はメディアの物質性を通さなければそもそも世界を認知できないという認識(←何だかラカン-ジジェク的だな)が適切に生かされた作品が多かったわけで、その点に関しては普通に肯定されるべきところだろう。「コスモロジー」の看板はダテじゃない。

 かような観点から見た場合、個人的になかなか興味深かったのは、劈頭に上映された大田曜氏の『INCLINED HORIZON』という作品。「2006年夏、山梨県北杜市白州町で行なわれた『ダンス・白州2006』に参加した美術家原口典之氏の立体造形作品『斜面』について、映画的な解釈を試みた作品」(事前に配布されたレジュメより)として作られたそうだ。ここで特権的に取り上げられている《斜面》という作品自体は、畑の真ん中に土を盛って斜面をオブジェ風にしつらえるという、何だかジェームズ・タレルのアースワーク作品のいかにも日本的な劣化コピーといった風情を見せているのだが、こちらの『INCLINED HORIZON』の方は、魚眼レンズを使って道路を撮影し、通り過ぎる自動車がレンズのエフェクトによって歪んだところを斜面に見立てるという形で全編(といっても8分ほどなのだが)しつらえられている。つまり、肉眼の視覚とレンズのそれとの差異を愚直に示すことで、世界を認知することそれ自体を一挙に対象化しようとしていたわけで、それがこの映像作品だけで上手くいっていたかどうかはやや議論の余地があるにしても、きわめて興味深い作品に仕上がっていたと言えるだろう。あとは、現地取材によって戦時下のアメリカに生きる人々をドキュメントorドキュガンダ(documentary + propaganda)していくといった趣な藤本幸久氏の『アメリカ ―戦争する国の人びと―』(予告編)や、寓話的かつすっとぼけた雰囲気のアニメーションといった趣のK.Kotani氏の作品『モグモグ』『紙の風景』が個人的にはなかなかツボだった。

 そんな中、我らがてんちょさんが出展していたのは『内なるニュース#9 Last Days』。昨年が『内なるニュース#8 桃花台』だったから、『内なるニュース』シリーズの新作といったところ。氏が気になったニュースの場所を実際に訪ね、そこでの様子をビデオに収めていくといった具合に展開していくこの『内なるニュース』シリーズなのだが、今回は昨年ジェットコースターの事故が相次ぎ、死者まで出てしまったために一時閉園の已むなきに至ってしまったエキスポランドを訪ねてみたというエピソードをメインにしつつ、そこに昨年名古屋市で発生した、いわゆる「闇サイト殺人事件」のことについても触れられていく、という按配。一見すると何の繋がりもない二つの出来事をめぐってエッセイ&メモランダム風に綴っていくといった形で進行していくのだが、実は「終わり」というモーメントをめぐる考察になっているわけで。

 上述したように、ジェットコースターの事故で死者が出て、安全対策の徹底が謳われたのにその数ヶ月後にまた事故が発生するという体たらくになってしまったために一時閉園ということになったエキスポランドをてんちょさんが各種乗り物の最終日にDV片手に訪ねるという体裁で始まっている今回の『内なるニュース#9 Last Days』だが、実際に訪れたエキスポランドで経験するのは、既に運転を停止し廃墟と化したジェットコースター「風神雷神II」(←ここで死亡事故が発生したのだ)を目撃したり、翌日以降もイベント棟でのモアイ展を見に来る人のためにとりあえず開いているという事実だったり、一時閉園と言いつつこのまま永遠に閉園するのではないかという予感――しかし、USJの独り勝ち状態な関西遊園地事情を勘案すると、その感覚は予感よりも確かなものであろうことも、また事実――を強く抱いたりといったことごとなわけで。つまりここでは「エキスポランドの「終わり」」というモーメントが変に錯綜してしまっているわけである。てんちょさんが収めているのは、部分的には既に終わっていたり、(撮影時点では)未だに続いていたりといった具合に、「終わり」が特定の日付に収束しないでグダグダになった幽霊的≒デリダ的な時空間であった。で、そこに、被害者が逆に理不尽な形で人生を終わらされてしまった「闇サイト殺人事件」の映像が対照的に付されることで、「終わり」というモーメントが、結局は複数的かつ恣意的なものでしかありえないことが淡々と示されていく。まさに「Last Days」というタイトルに偽りなし。

 昨年の「#8」では、映像に写ったものごとのセリーの連鎖と、そこに(ウザくならない程度に)自分自身の視点を繰り込んでいくという構成が際立っていたのだが、今回はかようなレファレンスをめぐる文脈(「終わり」というモーメント)に対するマルチインプリケイションの巧みさが昨年に較べて格段に上手くなってるなぁと、ほよほよと見ていて強く感じるところ。そして、映像もそうだが、今回は素材選びの上手さが際立っていたし。まぁでも、てんちょさんと会話したときに口をついて出てきたのは「今年は『かわいい実験映画』はないんですか?」だったのだが(←マテ)。

 時間の都合で、今年も夕方あたりで中座することになったのだが、けっこう充実した体験になった次第。来年こそは。



yami_yahma at 23:49コメント(0)トラックバック(0) 

2008年01月22日

「ROGUES' GALLERY 827 DRIVES」展

現代美術全般 - livedoor Blog 共通テーマ

「827 DRIVES」展チラシ 当方の2008年展覧会初めは、深江橋にあるノマル・プロジェクトスペースにて開催中の「ROGUES' GALLERY 827 DRIVES」展。浜地靖彦(1970〜)と中瀬由央(1971〜)両氏によるユニットROGUES' GALLERYの新作や現在進行中のプロジェクトをフィーチャーした展覧会。ノマル・プロジェクトスペースでは二年に一度外部キュレーターを招いて「Nomart Projects」という企画展を行なっているそうで、今回の「827 DRIVES」展もその一環として行なわれているという按配。

 このROGUES' GALLERY、当方は寡聞にして今回初めて知ったのだが、結成された翌年の1994年から開始された《ガソリンミュージック&クルージング》(以下GMCと略)なるパフォーマンス/体験型アート作品で、知る人ぞ知る的な人気を得ているそうだ。このGMC、車にマイクやアンプなどの音響機器を搭載し、エンジン音や走行音を増幅させて車内で流しながら夜の道路をドライブしていくという形で行なわれ、鑑賞者はROGUES' GALLERYの二人とともにこの車に同乗してドライブにつきあうことでこの作品に触れるという次第。で、一昨年からは、それをさらに拡張した形で、二人で日本縦断ドライブを敢行しつつ、途中の各所でGMC体験イベントを開催するという旅を行なっているとのこと――現在山口県まで走破しており、今年三月末に完結する予定だという(ちなみに、エンジンをかけてから切るまでを「1DRIVE」と数えているそうで、展覧会タイトルの「827 DRIVES」はそこから来ている)。というわけで、今回の「827 DRIVES」展は、さしずめその中間報告会といった趣を見せているのだった。

 さておき、ギャラリーでの展示ということで、さすがにGMCそのものは展示(?)されていなかったのだが――1月27日から山口情報芸術センターでGMC体験イベントが行われるそうで――、現在進行中の旅の映像から作られた映像作品や、今回の旅で蓄積された諸データ(特に移動ルートのGPSデータ)を素材にした平面作品が展示されていた次第。つまり、GMCによって得られたデータを元ネタにした二次創作といった趣で、これらの作品がしつらえられていることになるわけで。

 ことに個人的に興味深かったのは、《DELAY》という映像作品。上述したように、現在進行中の旅の映像を、より正確に言うと、今回の旅に際して新たに搭載されたビデオカメラで撮影された後方の風景映像を用いて作られているのだが、普通に風景(といっても夜景なのだが)をえんえん流しているわけではなく、8×8に64分割された状態で流されており、しかも分割されたそれぞれが微妙に時間がズレた状態で同じ風景を流しているという形を取っている。で、そこに車に搭載された音響機器によって増幅されたエンジン音や走行音がかぶさっていく、と。だから信号待ちやカーブを曲がるといった折には、分割された各画面の時間的ズレのために全体がぐにゃっと溶解していくかのようになっていくわけで、視覚的にきわめてオプ・アート状態になっている次第。ちょっとしたサイケデリック。おそらくは音に注意を向けさせるために夜景を映写している――エンジン音に特徴があるというフランス車(シトロエン)が使われているのも、そのためなのだろう(もっとも、当方自動車界隈については端的に無知なのでアレなのだが)――のだろうが、かかる操作を経ることで、視覚的にも面白いものとなっていると言うべきか。

「827 DRIVES」の軌跡 一方、平面作品の方は、上述したように、これまでの日本縦断ドライブで得られたGPSデータを素材にした作品が中心。これまでのドライブの軌跡をほぼそのままプリントアウトしたかのような作品――今回は全国版(画像参照)と地域版の二種類が数点ずつ展示されていた――や、その軌跡を加工して作られた画像を描いた作品が展示されていた。特に後者の方は、ドライブの軌跡そのものを回転させたり何回もコピー&ペーストしたりといった形で描かれており、何だかCADの画面を髣髴とさせるものがあったように、個人的には思うところ。旅の様子や風景を写真に収めました的な、いかにも(団塊の世代受けしそうな(苦笑))ロードムービー臭漂う作品が展示されるのかなぁと漠然と思っていたのだが、なかなかどうして。無論展示作品の方がはるかにクールでカッコイイ。上であげた《DELAY》でもそうなのだが、旅そのものではなく、移動することによって得られた諸エフェクトの方が主題になっているのだから、このような作品を持ってくること自体、確かに理に適っている。

 で、実際、これらの作品をほよほよと見ていると、彼らのドライブの軌跡がそれぞれの地域においてかなり錯綜した様相を見せていることがよくわかるわけで。市内をぐるぐる回ったり、同じ道を数回たどったりしたであろうことが腰囲に見て取れるし。してみると、彼らのドライブが目的地を目指すというのとは別の目的に衝き動かされていることが、ここからも見えてくるだろう。確かに今回の場合、日本縦断ドライブという目的は設定されているのだが(実際、今回の展覧会での売り上げがこのドライブの旅費ないしガソリン代に使われるそうだ)、そこに向かっていかに逸脱していくか、いかにそれを迂回していくかがここで目的にされているわけで、その意味では目的に近づくことそれ自体が自己目的化していると言っても、あながち間違いではあるまい。現在の速度制社会((C)ヴィリリオ)の象徴である自動車を、その使用法を守りつつ厳密に逸脱していくことで、速度制社会の新たな位相がもたらされているわけである。

 にしても、作品とは関係ないのだが、画像データを見てると、いかに道路が日本中をくまなく張りめぐらされているかがよく分かるわけで。道路特定財源さまさまですな(苦笑)。



yami_yahma at 22:22コメント(0)トラックバック(0) 

2007年11月01日

「特別展覧会 狩野永徳」

美術館・博物館 - livedoor Blog 共通テーマ

「特別展覧会 狩野永徳」チラシ 京都国立博物館で開催中の「特別展覧会 狩野永徳」。戦国時代から安土桃山時代にかけて、信長や秀吉の御用絵師的な存在として活躍した画家狩野永徳(1543〜90)の作品を集めた展覧会。

 日本史の教科書にはほぼ確実に載っているであろう《洛中洛外図屏風》や《唐獅子図屏風》などの大作で知られる永徳だが、かような具合に回顧展形式で取り上げられるのは今回が初めてだそうだ。そういうこともあってか、あるいは主催者に名を連ねるNHKが『新日曜美術館』などの番組を使って大々的に宣伝しまくったこともあってか、一般的にも注目度はかなり高く、開場前に当方が赴いた際には既に行列ができていて20分待ち、という状態。平日の、しかも朝9時とかそんな時間帯やのにみんな暇人やねぇ〜――って当方が言えた話ではないのだが。で、しかも、人垣に悪戦苦闘しつつも一通り見終わって会場を後にした昼前には、行列はさらに伸びていて90分待ちとかそんな世界になっていたわけで。してみると今回は早起きは70分の得だった、と。

 さておき、そんな今回の展覧会は、主催者がこの世に現存する永徳の作品を全て集めたと豪語していただけあって、大は件の《洛中洛外図屏風》や《唐獅子図屏風》、あるいは晩年の超大作《檜図屏風》から小は扇子用の表画や大作の下絵、そして最近発見された《洛外名所遊楽図屏風》に至るまで最新の研究成果にも目配せしつつ集められていた次第。まぁ実際は主催者側の豪語とは裏腹に全て集めた! とはいかなかったようではあるが、没後400年以上経っていて、様々な外的要因で作品が散逸してしまっているという悪条件の中では、それもまぁ致し方あるまい。

狩野永徳《洛中洛外図屏風》(右隻)狩野永徳《檜図屏風》 やはりと言うべきか、ほよほよと見ていてヴィジュアル的にキャッチーだったのは、件の《洛中洛外図屏風》(左画像参照)や《唐獅子図屏風》、《檜図屏風》(右画像参照)といった作品。上述したように、永徳は信長や秀吉の寵愛を得て、彼らの権力を飾り立てるページェントとしての作品を数多くものしていったのだが、主だったものは今日現存していないわけで。もし安土城や大坂城の障壁画が残っていたら間違いなく永徳の代表作になっていただろうけど、後の戦乱で灰燼に帰してしまっているし。だからこれらの作品は、かつて存在していたであろう超巨大作品の断片といった趣を呈しているわけであるが、断片でも大迫力だったのは、いくら強調してもし過ぎることはあるまい。特に《唐獅子図屏風》なんて縦2m以上×横5m近く(!)とか、そんな具合だったし。京の街並みを細密に描写している《洛中洛外図屏風》の前では画面に食い入るようにできていた人垣が、この作品の前では逆に遠目に囲むようにできていたのだから、推して知るべし。仄聞するところでは、この《唐獅子図屏風》については、もともと大坂城ないし聚楽第の障壁画だったのを加工して屏風仕立てにしたという説も最近は出されているそうで、たとえそれが間違いだとしても、かかる巨大さに際会すると、まさに権力者のページェントたるにふさわしい作品であると言っても、あながち揚言ではなさげ。

 その一方で、祖父にして狩野派の創始者である狩野元信(1477〜1559)の時代からの有力な顧客だった京都のお寺向けの仕事も並行してこなしていたそうで、全体的に見てみると、今回の展覧会でより多く展示されていたのは、こういった出自の作品だった次第。個人的にはこちらの系統の作品はほとんど見たことがないだけに、なかなか興味深いところ。

狩野永徳《花鳥図襖》(部分) ことに個人的に惹かれたのは、劈頭あたりに展示されていた《花鳥図襖》(画像参照)。大徳寺の塔頭の一つである聚光院の障壁画として描かれた作品だが、枝ぶりや葉のあたりの、素人が見てもわかるくらいに冴えた筆跡や、うねるように描かれた幹を見ていると、画題も作風も明らかに違うけど、やはりこれは《洛中洛外図屏風》や《唐獅子図屏風》の人が手がけた作品なんだなぁというのが如実にわかるわけで。で、しかも、障壁画のような大作のみならず、扇面画のような小品でも画面にほとばしる緊張感とスピード感がほとんど変わらないわけで、そこにも驚くことしきり。小品に関しては、真筆かどうか怪しいものも多々あったのだが、いくつかはそうなんじゃないの? と思えるものがあったわけで。えてして大作には大作なりの、小品には小品なりの描き方をもって接するというやり方があるものだが、彼の場合、でもそんなの関係ねぇ! とばかりに同じハイテンションで突っ切っている野が、こういう作品を見ると如実に伝わってくる。仄聞するところでは、永徳は過労で亡くなったと言われているが、今回展示された作品を見ていると、それも肯ける話ではあるわけで。そういうところも、権力の中心においてページェントを描き続けた絵師にふさわしいものがあると言えなくもない。

 にしても、出口のところで、永徳がライバル視した画家長谷川等伯(1539〜1610)の展覧会の告知があったのだが、開催されるのは2010年だそうで、ずいぶん気が早いなぁと思うとともに、今日来た人のうち何割がそれまで生きていられるんだろうかと思うことしきり(爆)。と言うか当方も生きていられるんだろうか(←マテ)。


yami_yahma at 21:53コメント(0)トラックバック(0) 
Archives
livedoor プロフィール

あたしか

  • ライブドアブログ