永久アリス輪舞曲

2006年03月29日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第13話(最終回)

 全てに決着がつき、再び兄妹二人だけの生活を送る“有人”と“きらは”。だが、ある日、二人は突然本の世界に吸い込まれ、離れ離れになってしまう。何が何だかわからないうちに“有人”は“ありす”とともに、“きらは”は“キサ”とともに冒険に出るハメに。この世界は何らかの力の影響で奇妙な現象が続発しているようで、元に戻すにはお城に行って王と王妃を救い出さなければならない。というわけで、ほどなくして出会った二組に、たまに現われたり消えたりする“キリカ”を交えつつ、冒険が始まるのだが……――今回はかような話。

 で、何だかんだありつつも、ようやく問題のお城にたどり着いた一同。王(=“タキオン”)と王妃(=“リデル”)は、一同がこれまで倒してきたアリス能力者によって囚われの身となっていた。“有人”以外の面々が変身して彼女たちを倒し、あっさりと決着。囚われの身から解放された王と王妃は五人を祝福し、元の世界に帰してやるのだった――

 ――という新作物語を“きらは”に聞かせていた“有人”。だが、彼女は“有人”が語り終わる前に既に眠ってしまっていた。しょうがないなと思いつつ、“きらは”をベッドに寝かしつけてやる“有人”。彼がふと外に目をやると、そこには煌々と輝く満月が。そして、いつぞやのようには、その満月の夜空を飛翔する“ありす”の姿は、もう見えない。

――

 特殊な能力を手に入れた女の子たちが自分自身の持つ「心の物語」を賭けて、「終わらないアリス(の物語)」をめぐって闘い合うという本筋が前回においてあらかた決着したので、ということは全編エピローグ状態なのだろうかと思いつつ見始めた今回は、第6話における、メインキャラたちが「アリスの物語」の作品世界に迷い込んでしまうというエピソードをやり直して見せた、という趣だった次第。

 “有人”が勇者になって冒険を始めたり、途中でファミコン的な2D移動画面になったりと、ありがちなRPGテイストを前面に押し出しつつ、各キャラが一種のスターシステム(手塚マンガや『舞-乙HiME』を想起されたし)という形で扱われているわけで、前回までの剣呑極まりない話から一転しての牧歌的なストーリーや画面とあいまって、いかにも番外編といった感じ。とりわけ――これまで使い捨てられてきたアリス能力者たちによって――囚われていた身から解放された、“タキオン”扮する王様がうってかわって陽気なキャラになっていたり(にしても、かようなヘンテコキャラもソツなくできるというところに、子安某のポテンシャルの高さを感じさせられることしきり)、使い捨てアリス能力者軍団を仲間たちと倒した“キリカ”が「復活した怪人は弱いものなのだ」と、何気に特撮モノにありがちなお約束を言ってキメてみたりというところにそれは顕著だった。いつぞやの『ぱにぽにだっしゅ!』最終回のような、キャラクターが躁状態の中で大騒ぎして終わっていくという型の番外編と言うべきだろうか。「The Golden Afternoon」というサブタイトルにふさわしいと言えばふさわしい。

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2006年03月22日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第12話

 突如“タキオン”に反旗を翻した“リデル”。彼女もまた“タキオン”の語る物語に魅入られた存在だった。しかし、時が流れ、物語をせがんでも語らなくなった“タキオン”に、自分もまた棄てられてしまうのではないかと思った“リデル”は、彼の関心を自分に引きつけ続けるために「終わらないアリス」の話を吹き込んだのだった。だが、“タキオン”に物語を作り続ける力が枯渇していたことを見て取っていた“リデル”は、自分が作った物語に閉じこもる“タキオン”の傍ら、彼の後で自分の夢を託すことができる人物を探していた。そしてそれは現われた――“有人”。……――今回はかような話。

 “リデル”によって“タキオン”は消滅してしまう。最後の仕上げとばかりに“きらは”に攻撃を仕掛ける“リデル”。必死で応戦する“きらは”だが、一敗地にまみれ、心の物語を奪われてしまう。そのとき、ずっとヘタレていた“有人”は何かが吹っ切れたように立ち上がる。ペンとノートを手にした彼は「“ありす”の物語」を書き始める。封じ込められていた“ありす”は復活して“きらは”と一緒に戦い、ついに“リデル”に勝利する。彼女から心の物語を奪おうとする“きらは”。だが“有人”と“ありす”はそれを引き止める。“リデル”は生き残り、“ありす”はメルヴェイユスペースの中に留まることを選ぶ。数日後、いつものように学園生活を送る“有人”。もうこちらの世界で“ありす”と会うことはなくなったが、想像力を働かせれば物語の中で“ありす”に会うことはできる。

――

 実は“リデル”が事の黒幕だったことが明らかになった今回。彼女は、“タキオン”の寵愛を繋ぎとめておくために「終わらないアリス」という物語(の設定)を捏造し、しかしその裏でちゃっかりと、“タキオン”に代わって自分の願いを託せる存在を探すという荒鷲ぶりを発揮していたのだった。“リデル”が具体的にいかなる願いを持っていたのかはわからないが、その願いのために、現実とは別の世界(=メルヴェイユスペース)を自ら作ってしまうほどだから、その業の深さたるや、といったところ。

 さておき、“ありす”は、妹である“きらは”への、“有人”のインセスト・タブーな想いの代替物として生み出されたキャラクターであることが、ここ数回の物語展開の大きな軸となっており、従って、“有人”が“ありす”と“きらは”のどちらを選ぶのかが重大なポイントとして存在してきた。結果的にそれは“有人”が“ありす”と“きらは”を文脈上別々の存在であると認識することで両方を選ぶ(あるいはどちらも選ばない)という形で収束するのだが、かような“有人”の(非-)選択をヤマ場に持ってくるというのは、ある程度予想されていたこととはいえ、周辺描写の意外な上手さとあいまって、なかなか見られるものに仕上がっていたように、個人的には思うところ。

 ありていに言うと、“有人”が行なったのは、“ありす”と“きらは”のどちらを選ぶのかという二者択一を偽の問題として退け、二人を異なる存在として置き直すことであった。つまり、もともと「どちらを選ぶのか」という問いが成立しようがないような存在として二人を改めて発見したわけである。

 次のようなことを考えてみよう。「目の前にみかんとりんごがあるとする。どちらを選ぶか」というのは問いとして成立する。「みかん」も「りんご」も同じ共通項を持った存在であるからだ。しかし、「目の前にみかんとアイデンティティがあるとする。どちらを選ぶか」というのは、問いとしては成立しない。「みかん」と「アイデンティティ」はそもそも比較できないからである。

 “有人”にとっての“ありす”と“きらは”の関係は、まさにこの「みかん」と「アイデンティティ」の関係に似ている。もともと全く異なるものであるはずの二つ(「みかん」は名詞だし、「アイデンティティ」は概念である)が並存され、あたかも「どちらかを選ぶ」ということに何がしかの意味があるように受け取られてしまう――「物語世界=メルヴェイユスペース」とはそういう場所である。で、『(略)アリス輪舞曲』においては、「現実世界」と「物語世界=メルヴェイユスペース」とを分かつものは、“ありす”が現実世界にも存在できるという形で脱臼してしまっている。従って、「現実世界」と「物語世界=メルヴェイユスペース」との間に何らかの階層付けが必要になってくる。しかもそれは、「虚構」と「現実」を恣意的に区分し、前者を退けるという怠惰きわまりない態度とは決定的に異なる構えでもってなされなければならない。

 今回の場合、その階層付けは、“リデル”に敗れた“きらは”が“有人”に「たとえお兄ちゃんが作り出したとしても(“ありす”の存在は)私の中にある!!」「リデルのためでなく、ありすちゃんのために書き続けてもいいんだよ!!」と叫ぶというシークエンスにおいてなされている。上述したように、“ありす”と“きらは”は鏡像関係にあるというのが「物語世界=メルヴェイユスペース」のルールであり、このシークエンスも、“きらは”が“リデル”によって、“ありす”が封じ込められているモノリスに磔にされた状態――ゆえに絵的には“ありす”と“きらは”とが背中合わせになっているわけである――で発せられたのだった。そんな状態において、“きらは”は“ありす”を自分の鏡像としてではなく「私の中にある」と言うことができる存在として改めて選び直す。そこにおいて、互いに比較可能な存在として設定されていた“ありす”と“きらは”との間に質的な亀裂が走り、二人を比較不可能な存在として見る視点が“有人”の前に開かれる。こうして“有人”は「現実世界」と「物語世界=メルヴェイユスペース」とを分ける文脈を自分で再設定し、“ありす”(と“きらは”)を救い出すことができるようになる。しかもそれは「物語世界=メルヴェイユスペース」を――「現実世界」によって――滅ぼすことによってではなく、あくまでも「物語世界=メルヴェイユスペース」の文法にのっとりつつ、それを部分的に書き換えるという形で行なうわけで、そこを過たず様々な物証=照応関係を駆使して描くあたり、なかなかポイント高。そう言えば今回のサブタイトルは「The Evidence」であった。確かにタイトルに相応しい話である。

 逆に言うと、“きらは”が“ありす”を“有人”から独立した人格として受け入れなければ、かかる解決は不可能だったわけで。確かに普通に見ると、“きらは”と“ありす”がなんで急に仲良くなっているんだ? という半畳もありうるだろうが、おそらくそれは逆で、“きらは”がまず“ありす”を受け入れるという〈行為ACT〉((C)ジジェクorコプチェク)がなければ一切は不可能だったわけである。

 ともあれ今回はものすごく最終回テイストにあふれていたのだが、実はもう一回あるようで、“有人”が“きらは”とともに現実世界(というか「「物語世界=メルヴェイユスペース」ではない世界」と言った方が適当か)に戻った以上、ここからどういう話にするのか、けっこう気になるところ。まぁ総集編とかの可能性も大いにあるところだが、ラス前で話の大筋にケリをつけて最終回はウィニングラン状態という作品って最近多いなぁ(『魔法少女リリカルなのはA's』とか『ぱにぽにだっしゅ!』とか)と思うところではあるわけで。



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2006年03月16日

一昨日の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第11話

 “有人”への思いが届かないことを知って消えていったはずの“ありす”を消滅させずに封じ込めたのは、“タキオン”とゆかいな下僕たちだった。“タキオン”は“ありす”が最後まで生き残る「アリス能力者」になると見ていたため、彼女を消滅させなかったのだった。そんな“タキオン”は戦いが最終ステージに入ったことを宣言、残った一人が持つ心の物語をこちらに渡せば“ありす”の封印を解くと提案する。それに乗った“キサ”は突如“きらは”に襲いかかるが、激しい戦いの末、自裁同然に“きらは”に自分の心の物語を奪わせる。“有人”に“キサ”の心の物語を写させようとする“きらは”だが、ヘタレ一直線状態な“有人”は、もはや何もできず、“キサ”は消滅してしまう。

 さらにヘタレていく“有人”は、幻覚を見る――“きらは”へのインセスト・タブーに満ちた妄想を見せられ、自らおののくばかりの“有人”。そんな彼は“タキオン”と幼い“アリス”がボートに乗っている幻覚を見る。“タキオン”は『アリスの物語』の作者本人で、永遠の命を得るために「アリス能力者」たちの戦いをプロデュースしていたのだ。最後の一人となった“きらは”と戦うよう、ゆかいな下僕の一人“リデル”に命ずる“タキオン”。だが、“リデル”が武器を差し向けた相手は、その“タキオン”だった……――今回はかような話。

――

 いよいよ大詰めを向かえ、前半のいささかもっちゃり気味の展開がウソのような急加速を見せているこの『(略)アリス輪舞曲』。今回はついに“きらは”がアリスゲームアリスロワイヤルの最後の一人になったり、“キサ”が“きらは”への想いの果てに自裁することを選んだり、「アリスマスター」=“タキオン”とゆかいな仲間たちの真の目的が明らかになったり、“リデル”が実はただのゆかいな下僕ではなかったりと、ずいぶん詰め込みすぎな急展開を見せていた次第。フレームがギシギシ軋んでいる暴走車状態。

 さておき、“タキオン”がアリスロワイヤルをプロデュースしていた目的が、自分自身が永遠の命を得るためだったというのは、話の落としどころとしてはいささか理に落ちすぎているきらいもないではないのだが(苦笑)。もっとこう、「選ばれし者の恍惚と不安我にあり」的な、常人の想像力の斜め上を行くような凄まじい理由でも良かったのではなかろうか。せっかく子安某を“タキオン”のCVに起用しているのだし(←マテ)。そんな俗っぽい願望では満たされぬ因業のごときものを前面に押し出した方が、ここまで溢れかえりまくり、“キサ”の“きらは”への業に満ちた想いが自らを裁くという形で逆説的に叶うというシークエンスで最高潮に達した、女の子=「アリス能力者」たちの情動的な業とバランスを取るためにも必要だったのかもしれない。

 とは言うものの、ここまでフィクサー面していた“タキオン”ですらメルヴェイユスペース-アリスロワイヤルというシステムにおいて中心ではなかった、という方向に最後の最後で大きく舵を切って見せたのは、なかなか買い。それは“リデル”の突然の豹変という形で表わされていたのだが、その“リデル”は、然るべきときにはメルヴェイユスペースに変貌する図書館の司書という表の顔を持つと設定されており、そこと絡めて勘案してみると、かかる作劇上の転舵によって、実は“リデル”こそがシステムの中心ではないか(=“タキオン”もまたシステムの自己維持のための使い捨てな存在に過ぎなかった)という予想も大いにできうるわけで。

 まぁこの点についてはこのへんで止めておくが、いずれにしてもどこに話を持って行きたいのかいよいよ読めなくなってきたのも、また事実。というかここまで来たら、もはや“有人”が“ありす”と“きらは”のどちらを選ぶのか、というところには収まるまい。そういう個人的な選択の問題を追い越して、個々に絶対に還元されえないシステムの倫理的な位相がここで問題になっているからである。従って、もし最終的に“有人”がどちらを選ぶかにしても、それは――自分自身も半ば以上共有している――システムそのものの問題として提示されなければならないだろう。そう考えてみると、まさかデウス・エクス・マキナが突然現われ、「今回の実験も失敗だったか」と呟いて終わるというような『うた∽かた』方式や、“リデル”が“タキオン”を殺して自らも消滅。“有人”と“きらは”(or“ありす”)が二代目の「アリスマスター」になるというような『地獄の黙示録』方式は取らないだろうが。本当にそうなったら頭抱えて爆笑ものだよ! さて……。

 にしても、“リデル”のCV浅野真澄嬢は今回もやっぱりキャラを自分自身に染め上げたのだった。うぅむ。



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2006年03月08日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第10話

 自分には過去の記憶がないのではないか――そう思い悩む“ありす”。そんな彼女に“有人”はある日、思い出の場所とかを知りたいから連れて行ってほしいと頼まれる。思い出のお店、思い出の家を訪ねる二人。だが、“ありす”の思い出と事実とが全く食い違っていることに、“有人”は困惑することしきりだが、“ありす”に訊ねることはできなかった。そんな中再び現われた“アスカ”は“ありす”をそそのかし、彼女と“きらは”を戦わせようとする……――今回はかような話。

 で、“ありす”と“きらは”の戦いを止めにいった“有人”は、“ありす”から真実を聞かされる。“ありす”は“有人”自身の妄想によって、妹である“きらは”への許されぬ想いの代替物として作り出されたキャラクターだったのだ。あまりの事態に、“有人”とずっと一緒にいたいと懇願する“ありす”の言葉も彼の耳には入らない。そんな“有人”の態度に絶望した“ありす”は天上へと消滅してしまう。怒りに任せ、“アスカ”を倒す“きらは”。そうして生き残った“有人”“きらは”兄妹と、事態の成り行きを見守っていた“キサ”の前に“タキオン”とゆかいな下僕たちが現われる。「ようこそ、最終ステージへ」――“タキオン”がそう言うと、“有人”たちの目の前には、先ほど消滅したはずの“ありす”が鏡に閉じ込められている……

――

 ここ数話の、何かが発動したかのような修羅場な超展開におぉっと思うことしきりだったこの『(略)アリス輪舞曲』だが、こと今回に至ってはその超展開ぶりはさらに窮まっていた次第。その結果“ありす”の正体が明らかになり、「アリスマスター」=“タキオン”がラスボスとして改めて“有人”たちの前に現われてきたことで、話もそれまでの構造をガラッと変える勢いでギアチェンジしてきたのだった。で、また、それに合わせてか、作画の方も(この作品に似つかわしくないくらいに(←マテ))気合いが入っていたし。

 そんな超展開の末に明らかになったのは、“ありす”は“有人”自身の妄想によって作り出されたキャラクターで、しかもそれは妹である“きらは”へのシスコンを越えた恋愛感情の代替物だった――ということであり、それによって、実は“有人”と“きらは”との関係の方が“有人”の妄想的主観において真に叶わなければならないものであったという方向に大きく舵を切ってみせたわけだが、これまでの話の流れ的に“有人”と“きらは”の関係は邪道扱いされていたところにいきなりかような展開を投下してきたものだから、虚を突かれると同時にあぁなるほどねぇと納得するところが大いにあったのも、また事実。ってこれじゃ“有人”の壮大な一人上手話ぢゃん(←慣れない東京弁)という半畳もありつつ(笑)。何せ自分でキャラクターを作って、それとの(性的)関係に耽っていたということなのだから。

 さておき、以上のような展開から見返してみると、かかる超展開のヒントというのは、絵的な照応関係という形で意外と明かされていたわけで、例えば“有人”と“ありす”のアホ毛の生え方が同じであるというのが、その際たるものであろう。今にして思うとあれは“有人”と“ありす”との間に、友情や愛情云々というのとは全く異なるレヴェルでの関係が成り立っていたことの徴候だったことになる。

 で、仔細に見てみると、今回はこんな具合に絵的な照応関係を徴候として随所に提示していたわけで、かかる形での関係性の構築の仕方は、なかなかポイント高。“有人”が「アリスの物語」(の二次創作)を書き続けていたのは、“きらは”への許されぬ恋愛感情を昇華しようとしていたからであり、しかし「昇華sublimation」が「崇高化sublimation」でもある以上、その行為は“きらは”への想いを悪循環的に再生産していくことにほかならないのだった。こうして「昇華=崇高化」を経た心的システムの位相における悪循環の徴が“ありす”であり、彼女との関係を通じて、“有人”は自分自身の想いに否定的に固着していくことになるわけである。そしてかかる悪循環のシステムが「アリスマスター」=“タキオン”を頂点とするシステムに組み込まれているがゆえに、“有人”は男性でありながらメルヴェイユスペースに入ることができた、という按配(ゆえにここから“タキオン”もまた同様の心的システムに囚われた存在であることが告知されているわけで)。

 だから、(“有人”の否定的鏡像としての)“ありす”を選ぶか“きらは”を選ぶかが、ラストにおいて“タキオン”によってしつらえられた最終ステージとなるのもある意味当然ではあるわけで。ただ、この場合、どちらを選んでも“有人”は自らの許されぬ想いに固着することを選ぶことになる――“ありす”が鏡に閉じ込められていることは、その徴候にほかならない(で、ここにおいて“ありす”は“有人”の否定的鏡像であるとともに“きらは”の否定的鏡像でもある、という形で再設定される)――という点において、偽の二者択一であることになるわけで、ゆえに問題は“有人”が“ありす”を選ぶのか“きらは”を選ぶのか両方選ぶ(orどちらも選ばない)のかという三択問題に書き換えることができるだろう。そんな認識にヘタレモード突入状態の“有人”が至ることができるのかどうかがまず問題なのだが(笑)、ラストに向けてのお膳立てがいよいよ整ってきた。

 にしても、“キサ”がアホ毛を“きらは”の危機を察知するレーダーに使っていたのには、頭抱えて笑うことしきり。



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2006年03月01日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第9話

 自分の能力で「アリス能力者」の心に巣食うドロドロしたものを晒させ、その上で「心の物語」を奪う――そんな“アスカ”のやり方がどうにも気に食わない“キリカ”は、仲間から外れることを“有人”たちに告げる。一方、淡々とわが道を行く彼女にも晒されてはならない「心の物語」があった。幼い頃、両親が事故死して以後、英才教育を受けていた“キリカ”は飛び級を重ね、奨学金で生活するようになるが、それゆえ周りに友達と呼べる人は誰もいなかった。そんな彼女の前に現われたのが同い年の女の子“ロリーナ・リリーナ”。「アリス能力者」という共通点もあって、たちまち意気投合した二人は一緒に遊ぶ日々を送っていく。だが、そんな日々はある日終わりを告げる。教会でかくれんぼに興じる二人。“ロリーナ”は祭壇の前に置かれていた棺に隠れる。“キリカ”は棺の隙間から彼女の衣服がはみ出ているのを確認すると、ほんのいたずら心から棺の鍵を閉めてしまう。が、その棺は火葬場に持っていかれる予定のものだったのだ。こうして“ロリーナ”は(以下略)。

 ……そんなことを思い返しながら、因縁の教会に赴き、彼女が好きだった白百合の花を捧げる“キリカ”。だが、そのとき、隅に隠れていた“アスカ”がメルヴェイユスペースを発動、自分の能力で“キリカ”の忌まわしい過去を見せつけ、彼女の「心の物語」を奪う。“アスカ”は最初から仲間になるつもりではなく、ある程度物語が集まった時点でそれを総取りしようと企んでいたのだった。遅れてやってきた“きらは”や“キサ”たちの「心の物語」を奪おうとする“アスカ”だが、“ありす”に自分の能力が通用しないことに狼狽し、その場を立ち去る。

 もはや「アリス能力者」ではなくなった“キリカ”は、これからはみんなを外側からサポートすると“有人”に話す。“ロリーナ”は実は生きていて、あの日以来二人の仲は疎遠になっていた。だが、そのショックを忘れたいがために彼女は“ロリーナ”はあの日焼け死んだと思い込むことにしていたのだという。今回のことはそうやって自分を偽ってきた罰なのかもしれないと呟く“キリカ”に、“有人”は、それは罰ではなく救いだったのだと話す。

 そのころ“ありす”は、自分に「心の物語」がないことが気になってしまうのだった。

――

 前回、登場人物たちの因業が晒され始め、一挙に剣呑とした話へとヴァージョンアップした感のあるこの『(略)アリス輪舞曲』だが、クールビューティー担当の“キリカ”フィーチャー回といった趣の今回は、前回にも増して因業大爆発状態だった次第。今まで“きらは”や“キサ”たちの因業めいた所業を脇に見ながらわが道を行くといった風情だった彼女が、実は彼女たちに負けず劣らずものすごい業の持ち主だった、という。うぅむ、これがいわゆるツンデレというやつか(違)。ともあれ、かような形で業に囚われた女の子の描写をさせると、宮崎女史は当代抜群に上手いわけで、今回もそんな宮崎節を堪能できる一本に仕上がっているといったところ。

 さておき、秘密を共有し、二人の関係の中に友情以上のものをも宿していた“ロリーナ”を、ほんのいたずら心――このへんの軽やかな残酷さが意外とよく描けていた――から(結果的に)焼き殺してしまうという、何ですかその「本当は恐ろしい○○童話」的な展開は!? とついつい半畳を入れたくなるような過去を持つ“キリカ”だが、本当は“ロリーナ”は生きており、彼女に捨てられてしまったという事実を忘れたいがために、そのことを知っていて「自分がロリーナを(間接的にとはいえ)殺してしまった」という「心の物語」を敢えて捏造し、それを否定的に心の糧にして今まで生きてきたという按配だったわけで。だから“アスカ”によって実は“ロリーナ”は生きているということに改めて向き合わされることで、“キリカ”は「心の物語」を奪われ、同時に「アリス能力者」としての力も失ってしまうことになる。それをヴィジュアルでも示しているところがポイント高。“キリカ”の場合、変身すると幼女になってしまうのだが、それは彼女が“ロリーナ”とのことにさかしまに拘泥していることを示しており、そして「アリス能力者」としての力も失うことで、変身したまま元の姿に戻るのだった。

 ところで原作マンガでは“キリカ”の業をめぐる話は――“ロリーナ”や“アスカ”のそれと合わせて――さらに凄まじいことになっている。超乱暴に結論だけ言うと、“ロリーナ”をめぐるトラウマに自力でケリをつけた“キリカ”は、“ロリーナ”が生きていてほしいという自分の唯一の願いが既に叶っていることを悟り、結局メルヴェイユスペースで自裁してしまうのである。従って、アニメ版ではそこに行き着く手前で、「“キリカ”は「心の物語」を捏造していたが、敗北することで、そして“有人”に捏造を肯定されることでそれから解放された」ということにして話を曲げて終わらせている、ということになる。

 原作マンガの該当箇所と今回との差異は以上であるが、むしろかような翻案によって別の地平が開かれていることに注目する必要があるだろう。“ロリーナ”が実は生きているということを知ってしまい、彼女への本当の想いが再び亢進してついには自裁してしまうというのが原作マンガでの“キリカ”の道行きだとすると、自分自身が「嘘に生きている」ことを晒されたこと、そしてしかしそれを“有人”に――「逃避じゃない! それは救いの物語だよ。だって、その物語でキリカ先輩は救われてきたんだよ……! 自分が壊れないように」というセリフで――肯定されたことで、再び生き直すことができるようになる、というのが今回のアニメでの“キリカ”の道行きである。「嘘」をめぐって、“キリカ”の運命がちょうど真逆になっているわけである。

 「我々がパーソナリティの最も奥にある核に発見するのは、根本的な、根幹をなす、源初[←原文ママ]の嘘」なのだ――スラヴォイ・ジジェクはこのように書いているが(ジジェク(松浦俊輔(訳))『仮想化しきれない残余』p12)、“キリカ”の「嘘」をめぐる、かかる翻案上の転換はこのジジェクの物言いと強くシンクロしていると言えるだろう。真実(=“ロリーナ”への本当の想い)に生きることが、より正確には嘘を否認すること――メガネっ娘という“キリカ”のヴィジュアルがそれをさらに引き立たせている(メガネっ娘においてメガネとは「見たくないものを見ないようにする」器具であるから)――が破滅を齎すとするなら、嘘をジジェクの言う「源初の嘘」として改めてセッティングすること、より正確には“有人”によってそれを肯定されることが彼女を救うことであるということなのだから。そして、かかる転換によってキャラクターを破滅から救うことは、そのままで、世界を救うことでもある――そういうアレゴリカルな飛躍をごくナチュラルに、原作への批評的介入として行うところに宮崎節の上手さというのが存在するわけで。

 一方、末尾において、“ありす”は自分に「心の物語」が存在しないことに――自分に“アスカ”の能力が通用しなかったことで――気付くことになる。今後どうなるのやら。原作マンガでは“ありす”は“□□”の□□が×××した○○○○○ーだったことが明らかになっているのだが、さて……。

 にしても、“ロリーナ”の中の人が沢城みゆき嬢だったり、前半ちょっとだけ登場して速攻“アスカ”にやられた「アリス能力者」の中の人が能登麻美子嬢だったりと、使い捨てキャラのCVが相変わらず豪華なことで(笑)。そして“アスカ”の中の人である渡辺明乃嬢は「まーたん(能登嬢)はボクのものです!」としきりに公言しているそうで、キャラの中で能登嬢に鍵(が何のアレゴリーかは敢えて言うまでもあるまい)を突き立てることができて良かったね♪ と(←マテ)。



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2006年02月22日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第8話

 今回のを見る前に、先日発売された『電撃大王』最新号(4月号)での原作マンガを見てうぅむと思った次第。なんせ“○○○”が“□□”の△△によって×××された○○○○○ーだった(←とりあえず伏字)ってな展開になっていたから。終わりも近そうだし、なんだかものすごいオチになりそうな気配。

――

 “有人”にパヤパヤされる夢を見て自己嫌悪に陥る“きらは”。実兄への恋心を抑えることができない彼女は、“有人”と距離を取ろうと“キサ”の家に泊まることにする。そんな折、いつもの面々で食事をしていると、そこに見知らぬ女性が現われてくる。彼女は“須羽アスカ”。「アリス能力者」である面々と共闘したいと申し出てくる。仲間は多い方がいいと承諾する“有人”だが、程なくして“アスカ”の本性が明らかになる。その日の夜、招待状によって集められた面々に別の能力者“神山ミカ”が攻撃を仕掛けてくる。メルヴェイユスペースに男性である“有人”がいることに激しい怒りを抱き、その赴くままに攻撃を続ける“ミカ”だが、そこに乱入してきた“アスカ”の特殊能力によって過去のトラウマを強引に晒されてしまい、心が奪われたまま姿を消してしまう。“アスカ”は「アリス能力者」たちの「心の物語」の裏にはドス黒いものが渦巻いていると“有人”たちに宣告するのだった……――今回はかような話。

 で、実兄たる“有人”への恋心に苛まれる“きらは”は、後日“アスカ”のもとを訪ねる。彼女に自分自身の「心の物語」を奪ってもらうことで想いを断ち切ろうとする“きらは”。だが、そこに“有人”や“ありす”が乱入し、妨害してしまう。そして、“有人”は“アスカ”の攻撃から身を挺して“きらは”を助け、その場に倒れてしまう。自宅で意識を取り戻した“有人”は、看病していた“きらは”に、想いに応えることはできないがずっと守ってあげると語りかける。それを聴いた彼女は、ただ泣くことしかできない――

――

 今回は、前々回以来続いてきた“きらは”絶対運命黙示録編(←マテ)が一つの頂点を迎える話、といった按配。女の子が「心の物語」という、自分自身にとって最も内密な(と思われる)ものを賭けて戦うという筋立てには、ずいぶん剣呑やなぁと前々から思わされることしきりではあったわけだが、今回はその剣呑さが(ようやく?)全編にわたって前面に押し出されてきたといったところ。こういう話の持っていき方は、なかなか悪くない。

 その意味では、「心の物語」を賭けて戦うというフレームワークが必然的に帯びてしまう剣呑さというのが、登場人物たちがそれぞれに自覚させられるという形で、作品の中に(改めて)セッティングされた話と言ってもいいわけであるが、とりわけそれは、いつもの面々以外の「アリス能力者」以外で、初めて一話使い捨てではない存在として現われてきた“須羽アスカ”の行動原理によく示されていたのだった。“アスカ”は“ミカ”のトラウマ(幼年期に父親から性的虐待を受けた、という)や“きらは”の前意識的な層(そこでは実兄である“有人”への想いや“ありす”への憎悪が渦巻いている)を、自身の特殊能力でもってムリヤリ外に晒していく存在として今回描かれていたわけであるが、ここから見えてくるのは、彼女においては「心の物語」というのは何か歪なものとしてあるということである、とさしあたっては言えるであろう。「素敵な物語は、辛い過去や人に言えない醜い思いの裏返し、現実逃避なの」――これが今回さっそく披瀝されていた“アスカ”の「心の物語」観であり、彼女はこの認識の上に「心の物語を失ったほうが幸せな場合もある」と割り切っている。で、それに感化された“きらは”が、“有人”への想いを忘れ去ろうと、“アスカ”に「心の物語」を奪ってもらうという自殺行為に出る。

 ――以上のような諸シークエンスによって示されているのは、「心の物語」というものの両義性であろう。「心の物語」とは、“アスカ”の認識を敷衍すると、自分自身にとって最も内密なもの――つまり、それを失うことが(少なくとも主観的には)自分自身の同一性の喪失につながると思念されるような――でありながら、しかし最も疎遠でなければならないものとしてあるわけである。このこと自体は、これまでの回においても――各話使い捨ての「アリス能力者」たちによって――断片的には示されてきていたが、今回はそれが“アスカ”の、ある意味エキセントリックでファンダメンタルな認識と行為によって体系化されていた。こうして、問題はまたしても女性性(あるいは〈女の子性〉)vs資本制のアナロジーとして心的システムを記述する-公理するアルゴリズムとしての精神分析ということになる(このへん考え中なのでアレだが)。

 この対立軸にいかなる解答が――原作マンガに反してでも――与えられることになるかは未知数だが、とりあえず問いの立て方としてはなかなかブリリアントではあると言えるだろう。作品は自ら問いを立て、解答しなければならない。

 にしても、“きらは”と“キサ”はいったいどこまで突き進んでいくのだろうか(笑)。



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2006年02月15日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第7話

 “有人”と“ありす”との間に何が起こったのかを「アリスの物語」を読んで知った“きらは”は心中複雑な様子。そんな彼女のもとに“キサ”がやって来る。“キサ”と公園でデートといった趣の“きらは”。“キサ”の献身に一度は立ち直りかける“きらは”だが、“有人”と“ありす”が二人でデートしているのを目撃してしまう……――今回はかような話。

 で、家に帰ると“きらは”は閉じこもってしまった。一方“キサ”は誰も“きらは”の気持ちを分かってあげていないと憤ることしきり。そんな“キサ”はついに勢い余って“ありす”を呼び出す。彼女に向かって“きらは”は“有人”のことが大好きなのだからそのことを分かってほしいと頼む“キサ”。だが、“ありす”もまた“有人”への思いを口にし、互いのすれ違いは埋まらない。説得に失敗し、雨に濡れながら一人思い悩む“キサ”は、大好きな“きらは”のために無理をしてきた心労のあまり倒れてしまう。“キサ”の“きらは”への思いの強さに“有人”は“きらは”の思いを酌んでやれなかったことを悔いるのだった。“きらは”は相変わらず機嫌は悪いが、少なくとも思いつめた体からは脱した様子。

 “きらは”と“キサ”はプールに遊びに行く。二人の時間を過ごしていると、そこにアリス能力者が現われる。が、“有人”のことでイライラしっ放しな“きらは”の敵ではないのだった。そして“キサ”はというと、先ほど“きらは”が着ていた水着をガメて自分のコレクションに加えていたのだった――

――

 前回、「アルファベットの森」に迷い込んだ“有人”と“ありす”が互いにキスをしてそこから逃れる――という出来事があったことを、“きらは”が元ネタの「アリスの物語」を読んで知ってしまうというところで終わってしまい、“有人”へのブラコンが嵩じてダークサイドに堕ちてしまうという“きらは”絶対運命黙示録編(←マテ)になるのかなぁと思いきや、迎えた今回、終わってみれば、“キサ”ガチ百合編だったという按配。ダークサイドに堕ちた“きらは”が云々という展開は回避された格好だが、かような“キサ”ガチ百合編の方がこの作品らしいといえばらしいわなぁと思うところ。それにダークサイド云々は今期の場合『舞-乙HiME』だけでお腹いっぱいだし(爆)。

 さておき、ここ数回“有人”とアリスマスター=“タキオン”とのコンセプト上の差異を通して、「彼女たちの心の物語」がその上で交換される市場=「物語のフォーマット」の方に焦点が当たっていたこの作品だが、今回は前者の方に再び焦点を当てていた次第。普段は“きらは”ラブのあまり他人との接触が極端に苦手になっている(逆もまた然り?)“キサ”が意を決して桐原家に電話したり“ありす”を呼び出して説得しようとしたりというシークエンスを用いて、“キサ”にとって“きらは”がいかに特別な存在なのか、言い換えるなら、(明かされてはいないけれども)“キサ”の心の物語において“きらは”がいかに大きな位置を占めているかが示されていた。で、今回のことが“キサ”の心の物語に書き加えられることになる、と。そしてさらにそれをメルヴェイユスペースの向こう側から“タキオン”が窃視する――本編冒頭にて、アヴァンタイトル風にそういうシークエンスが差し挟まれていた――わけで。

 いずれにしても、当方的には、「(彼女たちの)心の物語」と「(“タキオン”によってセッティングされた)物語のフォーマット」との相補関係・相克関係というのがもう一つの主題としてあるのではなかろうかと常々思っているのだが、かような形でさらに明確にセッティングされたと見ることも、あながち不可能ではあるまい。後半、いったいどのようなみちゆきを描いていくことになるのだろうか。

 構成的にやや難ありといった趣だが、“キサ”のほとばしる情動の描写がけっこう良かったので、これはこれで。“きらは”の水着をガメるのは端的にアレだけど(笑)。



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2006年02月08日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第6話

 自分たちがハマりまくっている「アリスの物語」の作者オルタナイト・L・タキオン関連の資料を図書館から借り倒して読みまくる“ありす”“有人”と“きらは”は、そこに「アリスのお茶会」=メルヴェイユスペースへの招待状が挟まれているのを見つける。その夜“キリカ”“キサ”を加えた五人で「アリス能力者」たちが干戈を交えるあの図書館へと向かうことにするが、そこには誰もいない。そんな中“ありす”が何かの気配を察知する。その気配を追ううち、“ありす”“有人”は玄関ホールに舞い戻ってしまう。途端に部屋の鏡が光り出し、二人はそこに吸い込まれてしまう……――今回はかような話。

 で、“ありす”“有人”が入り込んでしまった鏡の世界は、「アリスの物語」の作品世界だった。大喜びでその世界の中をそぞろ歩く“ありす”。だが、「アルファベットの森」にて突然“有人”が捕らえられてしまう。途方に暮れる二人だが、この状況が「アリスの物語」の一節にあること、そしてこの状況を打開するくだりは「王子はアリスにキスをした。アリスも王子にキスをした。それは心からのキス」というものであったことを思い出し、やっぱり途方に暮れてしまう。それでも意を決し、二人は「心からのキス」をする。すると森は消滅し、元の世界の別の部屋に飛ばされてしまう。やはり「アリスの物語」の作品世界で悪戦苦闘していた残りの三人も合流する。

 そんな五人の前に現われたのは図書館の司書を兼ねている“リデル”だった。彼女は五人を「アリスマスター」のところに案内すると言う。言われるままついていく五人の前に現われたのは“タキオン”だった。彼は「アリスの物語」の作者オルタナイト・L・タキオンの曾孫に当たるという。そして“タキオン”は「終わらないアリス」と呼ばれる幻の続篇を完成させ出版する計画であること、そしてそのためには“有人”の協力が必要であることを話す。帰り際、“タキオン”に会えたことを喜ぶ“有人”だが、その“タキオン”の思惑はどうも別のところにあるようで――

――

 第一回以来いささかもっちゃり気味に展開してきた感のあるこの作品だが、今回はやや急展開を見せたかなぁといった趣。「アリスの物語」の世界に“有人”とゆかいな仲間たち(←マテ)が迷い込んでしまうという筋立てを用いて、――「vs「アリス能力者」」というプロットの陰に隠れて――これまであまり描かれることのなかった「アリスの物語」そのものと登場人物たちとの関係を描いてみせたと言うべきだろうか。

 で、それは“有人”たちと――「アリスの物語」の作者の子孫という設定の――“タキオン”との、より正確には“タキオン”によるプロトコル(メルヴェイユスペース自体「アリスマスター」である“タキオン”によって作られたということになっている)との関係を描くということにつながるわけだが、まぁ原作マンガでも依然としておぼろげにしか開示されていない“タキオン”の真の思惑がここで明かされることはなかったわけで、そのへんに関しては相変わらず引っぱるなぁといったところ。むしろここでは“タキオン”と“有人”とが初めて出会い、交錯したということを見る方が大事ではあろう。

 前回について書いた折に触れたのだが、“タキオン”も“有人”も「心の物語」を賭けて戦う女の子(“ありす”“きらは”“キサ”“キリカ”etc)たちに対してメタ物語[マスター]的に存在し、ゆえに物語のプロトコルに自らを閉ざすことはできても物語を生きることはできない存在として――描かれている/いない、というのとは全く独立に――ある。だから“タキオン”と“有人”はある意味(ベクトルは真逆であるにしても)似た者同士であると言ってもいいわけであるが、しかし今回の場合その一方で二人の違いについても言及されていたことにも注目しておく必要があるだろう。今回に限って言うと、“タキオン”はゆかいな下女たちをも自ら恣意的に作り出し、結界の奥に籠っている存在であるが、“有人”の場合はそういう恣意性を徹底的に引き剥がされた存在である。それは“有人”が“ありす”や“きらは”、“キリカ”につきまとわれ弄り回されるというこれまでの流れでさんざん示されているのだが、この差異というのは話の流れ上意外と大きいように見える。

 さておき今回は、そんな“有人”を含む一行がそれぞれ別の「アリスの物語」の作品世界に迷い込んでしまうわけであるが、“ありす”と“有人”が「アルファベットの森」に迷い込み、“有人”が捕らわれてしまうというシークエンスが「アリスの物語」と異なるものであることが示されている。実際、上記のごとき状況に遭遇した“ありす”は「こんなの変よ! アリスは私よ! これが「アリスの物語」の世界なら、捕らわれるのは有人君じゃなくて私のはずよ!」と叫ぶわけで。

 してみると、以上のようなシークエンスにおいて示されているのは、二人が迷い込んだのが「アリスの物語」の世界ではないこと(実際、この世界が“タキオン”の下女によっていたずら半分に作られた世界であることが後で明らかになる)であることになり、そして「アリスの物語」に書いてある通りに「二人が心からのキスをする」ことによって一応脱出できたことは、「アリスの物語」と「アリスマスター」(=“タキオン”)との間に何らかの違いがあることを婉曲的に示していることになる。で、それは物語とそのプロトコルとが分裂していることの徴候であると言っても、さほど的外れではあるまい。“タキオン”の思惑が依然としてブラックボックス状態なのを差し引いてもなお、この差異が話の進行上何らかの重要性を担っているであろうことは否定できないからだ。かような分裂状態の上に“タキオン”と“有人”との差異が重ねられることになるわけで、後半はこの差異に対していかなる態度決定が――登場人物たちの道行きを通して――被せられることになるかが焦点になるのかもしれない。既に「アリスの物語」を読んで「アルファベットの森」での成り行きを“きらは”が知る(それは“有人”と“ありす”がキスしたことを知ってしまうということでもある)という意味ありげまくりなシーンがあった。

 ところで“きらは”“キサ”“キリカ”も別の「アリスの物語」世界に迷い込むのだが、そこが絵本のような世界だったというのが何気に面白かった。実際、クレヨン画のような背景や動物になっていたし(これで例えばセザンヌの風景画のような世界だったらけっこう笑えたのだが(まして岡崎乾二郎の絵画みたいな世界だったら爆笑ものだ))。にしても“有人”“ありす”と“きらは”“キサ”“キリカ”という分けられ方自体、今後の話しの道行きを変に暗示していてアレだったのだが(苦笑)。頭文字が「あ」の組と「き」の組とできれいに分かれていただけに、ねぇ……。



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2006年02月01日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第5話

aruto 今日も「心の物語」集めに奔走する“有人”の姿を一人の少女が物陰から眺めていた。後日、買い物帰りに雨に降られ、雨宿りを余儀なくされた“有人”の前にその少女が現われ、自宅に招く。“デリーラ”と名乗った彼女は彼のことを「タキオン」と呼び、お話を語ってくれるように頼む。なぜ自分のことを「タキオン」と呼ぶのか腑に落ちないけれども、言われるままにお話を聞かせる“有人”。それから彼は病弱な“デリーラ”のもとに日参する日々を送るようになるが、それにつれて次第にやつれ、生気を失っていく。そんな“有人”の様子を不審に思う“キリカ”は彼の後をつけるが……――今回はかような話。

 で、“キリカ”は“ありす”“きらは”に最近の“有人”の行状を語る――“有人”は“デリーラ”が作り出した特殊なメルヴェイユスペースに引き込まれ、そこで生命エネルギーを吸い取られている。そして当の“デリーラ”は何十年も前に既に死んでいるのだった。問題の“デリーラ”の部屋に突入する三人。突然の闖入者に“デリーラ”は逆上し、戦闘に入るが、結局敗れ、「心の物語」を奪われてしまう。“有人”が読んだ彼女の「心の物語」――彼女はかつて“タキオン”と出会い、彼からいろいろなことを教えてもらう。しかしある日突然“タキオン”は彼女の前から姿を消す。“デリーラ”は彼を待ち続けるがついに逢えることなく死んでしまったのだ。“有人”に「心の物語」を読んでもらえた“デリーラ”は成仏し、夜、返すべき主を喪った「心の物語」本を読んだ“有人”は一人涙するのだった。

――

 ちょっとしたホラー仕立てといった趣の今回。話のしつらえのみならず“有人”のやつれっぷり(画像参照)や、“きらは”の相変わらずな嫉妬ぶり、そして怨念にかられて暴走する“デリーラ”あたりの描写など、ここぞというところをしっかりキメていて、ほよほよと見ていても普通に見られるものに仕上がっていた。“デリーラ”が、自分の「心の物語」を他人に読まれる(=他人と共有する)歓びを胸に成仏していくという、この作品における通例とは逆の道筋をたどっているのも、世界観をより立体的にしていて、ポイント高。

 さておき、一話限りの使い捨てキャラを用いて、フレームワークにかかわることごとを隠喩と暗示の体系を(正しく)媒介させることで見せている感のあるこの作品だが、今回もそのあたりについてはなかなか見るべきものがあったように思うところ。今回のサブタイトルは「A Caterpillar」だったが、今や○○戦車のキャタピラーは云々ってな使われ方をすることが多いこの言葉、もともとは「イモムシ」を意味する言葉で、しかも「イモムシ」というのは西洋においては「転生」や「聖職者」を象徴しているのだそうな。で、そこに、そう言えば“デリーラ”って旧約聖書における「サムソンとデリーラ」話から来てるんじゃないかというのを重ねてみると、今回の話はにわかに別の相貌を帯び始めることになるわけで。仄聞するところでは原作マンガにおいては彼女に該当するキャラには名前がなかったそうで、そうすると“デリーラ”という名前にも何がしかの意味ないし意図があるのではないかとついつい邪推してみたくなる。

 旧約聖書における「サムソンとデリーラ」話は、基本的には怪力無双のヘブライ人サムソンと彼への復讐心と恋心がないまぜになりながら近づくデリーラとの悲恋譚という体裁なのだが(当方キリスト教徒ではないので詳しくは知らない)、してみると今回の場合、サムソンに当たるのが“タキオン”ということになるのだろう。サムソンも“タキオン”も――洗練されているか否かの違いはあれ――得手勝手な性格をしているわけだから。“タキオン”は自分を刺激しない存在には価値はないと言い切ってしまう存在であり、実際、“デリーラ”に黄色い薔薇の花――「薄れゆく愛」という花言葉である――を与えて彼女を捨ててしまうのだった。で、今は“リデル”を下女として傍に侍らせている、と。

 “デリーラ”は“タキオン”に会いたい一心が嵩じて、それは“有人”を彼と勘違いするほどなのだが、そこまで煮詰められた結果、“デリーラ”の“タキオン”への想いはきわめて両義的なものとなっている。つまり、“タキオン”を想う心と恨む心とがないまぜになった状態であると見ても、さほど間違いではあるまい。それは“タキオン”が“デリーラ”を捨てる象徴として彼女に与えた黄色い薔薇の花を彼女が後生大事に窓辺に飾っていたというシーンで端的に表わされているのだが。ところで元ネタ(?)の旧約聖書においては、サムソンとデリーラは崩れゆくペリシテ人の神殿の下敷きになって二人とも死んでしまうのだが、今回の場合は“デリーラ”は80年前に死んだのに“タキオン”は生きているわけで、こうなると“タキオン”って何歳なんだ? という半畳の一つも入れたくなる話ではあるけれども、そういう形で物語と決定的にすれ違っているところに“タキオン”の“タキオン”たる所以が存在するのかもしれない――つまり、“タキオン”はメタ物語的存在であると見るべきである。

 ここでの「メタ物語的」とは、自らは物語を生きることがない存在であるということであり、一切を差異なき反復としてのみ見る存在であるということであると言える。その意味で“タキオン”は――少女たちの「心の物語」が織り成す――諸物語の上に君臨する聖職者(caterpillar)であり、一切を反復≒転生(caterpillar)としてのみ非経験する存在なわけである。しかしかような存在は既にこの作品においてもう一人いることに直ちに注目すべきであろう。言うまでもなく“有人”のことであるわけだが、“有人”が“タキオン”の設定した世界のルールを逸脱する――唯一のものであるはずの「心の物語」をコピーできるから――存在であり、しかも“タキオン”が蛇蝎のごとく嫌う「アンデルセン」の気配もする存在である(前回参照)という意味において、“有人”と“タキオン”は鏡像関係にあると言えるだろう。

 いささか意地悪な言い方をすると、この作品って戦闘シーンに関してはやはり今期始まった『Fate/stay night』の影に隠れ、百合百合シーンに関しては――少なくとも今回のように“キサ”が出ていなければ――『かしまし』の影に隠れてしまっている感がどうしてもしてしまうところなのだが、それでもなお見るべきところがあるのは、以上のごときフレームワークがしつらえ的になかなかヤバいところをついているからではないかと個人的には考える次第。“タキオン”と“有人”が鏡像的であること、それはつまりは少女たちの情動が織り成す話の一切が、物語を非経験することしかできない二人によって(相互補完的に)作られた強力な空間(メルヴェイユスペース?)の中に置かれることを意味するわけだが、それを単純に言祝いで終わることは、少なくとも宮崎女史に関してはないだろうから。さて……。

 にしても、今回からエンディングテーマ(清水愛“記憶薔薇園”)のCMが流れたのだが、相変わらずわけ分からんPV仕立てで、やっぱり清水嬢はこうでなくちゃと頭抱えて嬉しがってみたり(←マテ)。これもやっぱりPV収録のDVD付きで発売されるのだろう。うぅむ……。



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2006年01月25日

昨夜の『鍵姫物語 永久アリス輪舞曲』第4話

 “ありす”がメルヴェイユスペース状態の図書館へ行くと、そこは炎に包まれていた。新たなアリス能力者“暁アカネ”が心の物語を燃やしていたからだ。それを止めようとする“ありす”だったが、強大な炎を操る“アカネ”の前になす術なかった。翌日、辛くも生き残った“ありす”はいつものように“有人”や“きらは”“キサ”とともに昼食を楽しんでいると、その“アカネ”が行き倒れている。凄まじい勢いでみんなの弁当を食べまくる“アカネ”は、なぜか“有人”のことを「アンデルセン」と呼んで懐いてしまう。仕方ないから自宅に連れて帰ることにした“有人”だが……――今回はかような話。

 “有人”のベッドで眠る“アカネ”を、独占欲にかられた“きらは”は襲おうとするが、逆に“アカネ”をアリス能力者として目覚めさせることになってしまう。炎に包まれる“有人”の書斎。強大な力の前に“きらは”はたちまち追い詰められてしまうが、そこに変身した“キサ”が乱入。水の属性の能力を操る“キサ”は“アカネ”の心の物語を奪うことに成功する。本の形態を取ったその心の物語を読んだ“有人”は、その内容を読み、書き写すことなく彼女に返してやるのだった……。

――

 「アリス能力者」たち――おそらくそれは全ての少女が、ということと同じなのだろうが――の「心の物語」が具現化した本を燃やしてしまう“アカネ”が初登場した今回。しかし「どう見ても使い捨てキャラです。本当にありがとうございました」状態だったのには驚くばかり。ほよほよと見ていてもあれ〜〜?? と疑問に思ってしまうところ。

 “アカネ”は幼い頃のトラウマの反動からか、「炎を自在に操れる」という持ち前の能力を生かして「アリス」にかかわることごとくを灰燼に帰そうとしていると設定されているわけだが、そんな彼女が“有人”を「アンデルセン」と呼ぶこと、そしてメルヴェイユスペースの元締め的存在の“タキオン”が「アンデルセン」を蛇蝎のごとく嫌っていることを勘案すると、――「アンデルセン」が具体的に何を意味するのかがさっぱり分からないにしても――“有人”と並んで、どうも“タキオン”が作ったっぽい作品世界の基本プロトコルから決定的にズレた存在であることが見えてくるだろう。しかも「心の物語」をコピーできる“有人”と「心の物語」を燃やしてしまう“アカネ”はともに「心の物語」の唯一性という、「アリス能力者」たちの基本法則そのものを無視した存在という共通点を持っているわけだから、そんなキャラクターを一回限りの使い捨てにするというのは、話の組み立て的に何か違うんじゃないかと直感してしまうところではある。

 まぁ別に当方原作原理主義者というわけではないし、原理主義を振り回せるほど原作マンガを読んでいるわけでもないから、制作サイドはこれを必要な演出(もしくは改変)だと思っているのだろうと勝手に忖度しておくことしかできないのだが、例えば“きらは”と“有人”の近親相姦話や“きらは”דキサ”の百合話、さらには変身したら幼くなってしまう“キリカ”(しかも炎を見て、露骨に幼時退行して恐怖してしまうし)といった形で描かれる、女の子たちの情動の奔流がどういうみちゆきを描いていくのかに興味を持ちながら見ていた者としては、“アカネ”は以上のことごとを描く上で継続的に必要な存在ではあるわなぁと勝手に思っていたから、ちょっと当てが外れた気分。第一回以来、「アリス能力者」なる女の子たちの情動の奔流に焦点を当てながら描いてきたこの作品だから、その情動が物語のフレームワークとどう接し、どう変容させていくかに主眼が置かれているのかなぁと思っていただけに、この後どう持って行きたいのか、にわかには測りがたいところがある次第。

 ともあれ、今のところは絵的にはともかく話的には酷いことにはなっていないし。というか、それを判断する材料が十分出ていないだけなのだが(爆)。まぁ彼女たちの情動の奔流が、というか情動に押し流されてものすごい言動に出る彼女たち(特に“キサ”ね(笑))が存外キマっているので、そこを見るだけでも案外楽しめるのだが。そういう情動vs物語の構造(“タキオン”とゆかいな下女たちはそのアレゴリーである)というのが見どころと思っている者としては、次回以降物語の構造に対してどういう介入が施されるかが気になるところ。

 にしても、今回は“アカネ”のCVが水樹奈々嬢だったわけで、以前“ナミ”のCVが広橋涼嬢だったのとあわせると、使い捨てキャラの中の人がやたらもったいないなぁと思うことしきり。



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