「蘇州夜曲 誕生物語・1」 服部良一初めての中国

昭和15年。
映画「白蘭の歌」のヒットを受けた東宝は、続く李香蘭・主演映画に流行歌・支那の夜の
映画化を企画。
*参照昭和15年の支那の夜・1 「企画」

「片手間の流行歌映画でなく、最高のスタッフで 現地ロケをして本格的な作品にしたい*1
という東宝宣伝部長・森満二郎氏の言葉通り、
監督には当時、最も音楽を効果的に活用する演出家と言われていた伏水修か選ばれた。
伏水修が音楽担当として指名したのは流行歌・支那の夜の作曲者、竹岡信幸ではなく、
服部良一であった。

二人は前年、映画「東京の女性」(東宝・昭和14年)で初めてコンビを組んで仕事をしている。

             
                      東京の女性


伏水修は自らピアノを弾いて作曲するほどの音楽好き。
服部良一のレコードも数多く所有していることから、二人はすっかり意気投合して友人になっている。
伏水修の自作曲には「まつり」という曲があり、映画評論家の回想によれば、
『うまい』と感じさせるピアノの腕前であったという。*2

伏水修は服部良一に副主題歌の作成を依頼。
服部良一は知友「水さん」への特別な思い入れから、彼のために。
そして白蘭の歌以来、李香蘭の才能を引き出す音楽を作りたい、との想いからとっておきの曲想を用意する。
それが昭和13年3月初めて中国へ行き、西湖で得たメロディである「中支の印象」だった。*3

蘇州夜曲の作詞者は流行歌・支那の夜と同じく西條八十が選ばれた。

ところで蘇州夜曲はメロディが先に出来ている、という事で西條八十が歌詞を書いた時点で完成した
と思われる方がいるかもしれない。
しかし幾つかの資料をみるとそうではないようだ。
「中支の印象」は原曲であって完成品ではない。
服部良一は完成した歌詞を手に映画・支那の夜の中国ロケに同行。
蘇州へ再び向かい、現地の風景と歌詞を見ながら、蘇州夜曲の完成を目指した。*4

さて、西條八十が服部良一に歌詞を伝えるにあたって、面白いエピソードが残されている。
完成した歌詞だが、服部良一は映画のロケに同行する直前で原稿を渡す時間がない。*5
そこで八十は店の電話を借りて服部家へ電話をかけ、歌詞を伝えようとした。

「西條八十全集9」国書刊行会刊 441pより〜
新緑のある宵、銀座の一口テキが看板だった「因豪屋」で夕食を注文した八十は、
その夜の飛行機でロケ先の蘇州へ発つ服部良一の邸へ、出来たばかりの「蘇州夜曲」の
歌詞を電話で知らせようと思った。

そこで、店の電話を借りて第一連を読み上げると、食事しながら八十の電話に
耳そばだてていた若いOL達がクスクス笑う。

これに閉口した八十は一連だけ読み上げて電話を切ると、大急ぎで食事を済ませて、
客のいないネクタイ屋で電話を借り、詩稿の二・三連を連絡した。

50近い大の男が「君がみ胸に 抱かれて聞くは〜」と大真面目に言っているのだから、
OLから見れば可笑しいものがあったのだろう。


4月1日前後、当時吉祥寺にあった服部良一邸には、上海ロケ出発直前*6の映画・支那の夜の
関係者が集まっており、披露された蘇州夜曲の原曲は一同を感激させた。

「ラジオ番組 NHK東京 昭和歌謡大全集服部良一(2)」昭和55年9月14日放
より〜
服部良一
「みんな出来まして、全部歌手もすべてうちの家に集まりまして、これを聞いて中国に
発つんですが、そのときにみんな感激して聞いてくれました。」

「みんな出来まして」「全部歌手もすべて」
という表現からすると歌詞も知らされており、
李香蘭も居たのだろう。
おそらくは服部良一によるピアノ演奏と、歌詞の本読みが行われたと思われる。
*参照昭和15年の支那の夜・5 「ロケ入り前の李香蘭」

服部良一はこの後、上海への映画ロケに同行。
昭和13年3月以降、2年ぶりに蘇州を訪れた。

撮影隊の内、伏水修ら演出部・撮影部のスタッフが第一陣。
第二陣として役者が4月4日に出発したという資料があることから、*7
服部良一は伏水修らと行動を共にしたのであろう。


続く



余話 ネクタイ屋の娘
銀座のネクタイ屋で電話を借り、服部家へ蘇州夜曲の歌詞を送った西條八十。
店の電話を借りたというあたり、時代を感じさせる話である。

この恩返しかはわからないが、後日八十は「ネクタイ屋の娘」という歌を書き、
店の看板娘は、彼女目当ての客が何度も通うような美人に描かれている。
大変ユーモラスな、八十の隠れた一面が見える曲である。

         
        「ネクタイ屋の娘」 歌・古川ロッパ 作曲・古賀政男

「西條八十全集9」国書刊行会刊 442pより〜

ネクタイ屋の娘
この唄のモデルは、八十が「蘇州夜曲」の歌詞を服部良一に知らせる為に
電話を借りた、銀座のネクタイ屋の看板娘かもしれない。
いずれにせよ、こうしたユーモラスな内容は、当時の検閲官にはおよそ不向きな代物だった。
八十はそれを承知で三連まで書いて、ラストの四連の後半で、落語のサゲの手を
使ってサラリと巧みに検閲の鋏を避けている。
検閲の却下サゲをサゲで救っているのは、江戸っ子詩人の粋なウイット精神の賜物であろう。


ちなみに服部家の電話であるが、映画「白蘭の歌」の主題歌、「いとしあの星」のレコードが
60万枚と言われるヒット。その印税で買ったものであった。

「ラジオ番組 NHK東京 昭和歌謡大全集服部良一(2)」昭和55年9月14日放より〜
服部良一
久米政男さんは原作で李香蘭の歌がありました。
映画の主題歌で「いとしあの星」というのがずいぶんはやりましたけれども
たちまちうちに60万枚を突破したという。

印税でそれで電話を買うことが出来ました。
自分では始めて電話を引きましたですね。
この印税で6000円くらいもらいました。
あの当時で6000円というのはコロムビアでは現金でくれるんです。
その日は書生も女房もついてくるんです。
銀座で豪遊とかしました。思い出深い曲ですね。


参考資料
*1CD解説書「渡辺はま子懐かしのアルバム」 ビクター発売 

*2「日本映画監督全集」キネマ旬報社刊 343p

*3 「李香蘭 私の半生」山口淑子・藤原作弥著 新潮社刊145p
「上海から帰ってきて、水さん(伏水監督)のためなら、と引きうけた。
『白蘭の歌』以来、李香蘭の才能を引き出す音楽をいつか作りたいと思っていたこともあってね。

「ぼくの音楽人生」服部良一著 日本文芸社刊
181p
この映画(東京の女性)で伏水修監督とはじめて組んだ。伏水氏は自分でもピアノをひいて小品を作曲するほどの音楽好きで、
東宝で最も音楽を効果的に活用する演出家だといわれていた。ぼくのレコードも沢山持っていて、すっかり
意気投合してしまった。

183p
『支那の夜』は、竹岡信幸のヒット曲『支那の夜』(西條八十詩・渡辺はま子歌)の映画化だった。
このときに監督の伏水氏は音楽担当と同時に副主題歌もぼくに頼んだのである。
それというのも、同じ長谷川一夫と李香蘭のコンビによる『白蘭の歌』(久米正雄原作・渡辺邦夫監督)にぼくが
書いた主題歌『いとしあの星』(サトウハチロー詞・渡辺はま子歌)が六十万枚を越えるヒット中で、映画の
主題歌なら服部良一という定型ができつつあったからであろう。伏水氏の特別の思い入れもある。
ぼくも知友「水さん」のために力になりたかった。
とっておきの曲想を五線紙に定着させた。中支旅行中に杭州の西湖で浮かんだメロディーである
『蘇州夜曲』という題で西條八十先生が書いてくださった。

*4CD解説書「服部良一/僕の音楽人生」
蘇州夜曲
水の都蘇州、京都やイタリーのベニスとも似た風情に魅せられ、寒山寺や虎丘山を眺めながら、
春うららの一日を船の上で過ごし、かつて西湖で浮んだ曲想をまとめたという。

*5LPレコード解説書「鳳凰花 胡美芳」
作詞した西條八十は、映画ロケに立合う為に蘇州へ出発する作曲家へ原稿を渡す時間がなくて、
電話で歌詞を作曲家に伝えたのでした。

*6「キネマ旬報」昭和15年4・11号 

*7「ぽいんとファン」六月終刊特篇号30p 支那の夜ロケ便 三松加藤治