澤田啓司の「ブラーヴォ! 赤ちゃん!!」

小児科医・澤田啓司(三重県津市乙部ヤナセクリニック)のブログ

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2016年02月

 私が過去に発表した記事・記録を読み返してみて、もう一度読者の皆さんにご披露したくなりました。また、赤ちゃん記事から離れたことも、このブログで書いて見たく思います。
 そこで、通常の記事と、「こぼれ松葉」の他に、もう一つ「落穂拾い」というタイトルの引き出しを追加することにしました。

 「落穂拾い」よろしくお付き合いください。

 先ず第一回は、昭和58年6月25日の朝日新聞に、私が、小児科医 澤田啓司という署名で投稿し掲載された「バランスを欠く育児論 科学の衣まとい迷信説く危険」という記事す。
 
 ”朝日新聞日曜版・みんなの健康欄に「母乳が出ない’くさりちち’ 栄養のとりすぎに原因」の見出しで、乳児のアレルギー病を防ぐにはママも食事に気をつけ母乳をのませなければならない、という主張を持つ助産婦グループの活動例が紹介されていた。かなり独特な彼女たちの考え方が、医学的な理論を背景に、説得力のある筆致でのべられていた。しかし、正しい情報提供という意味ではややバランスを欠く感がある。
 例えば、アレルギー素因がある家系では、母の食物アレルギーが母乳を介して子に影響することはある。これが病的な意味をもつのは、むしろまれで、すべての母子には当てはまらない。高たんぱく、高脂肪食が母乳を出すのに必ずしも必要ないことはたしかだが、乳製品、卵、獣肉を食べてはいけないというのは飛躍が過ぎる。かつての日本のように、米や雑穀、野菜中心の食事でも母乳は出たし、欧米、アフリカなど牛乳や獣肉中心の食事で、ちゃんと母乳で育てている民族がある。
 のびのびと、授乳を楽しみながら育児することが、母乳育児成功のかぎという立場からみれば、日常生活、食生活に制限の多い指導は好ましくない。この例に限らず、最近いくつか、この種の気になる育児記事を目にした。
 母と子の心の絆は、すでに胎児期に結ばれはじめ、人生のごく初期に人格形成の基礎作りがされるという話、さらに、青少年非行の源を乳幼児期のかんきょうにまでさかのぼって求めようとする考え方、がその例である。「三つ子の魂百まで」のことわざが科学的裏付けを持つようになったのは結構だが、論理の展開いかんでは、とんでもない結論にも到達する。
 「今の子供たちの家庭内暴力、学校内暴力は乳幼児期の育て方に問題があるからだ。学齢期に入ってから、そのツケを学校や教師に回されてもどうにもならない」という教師のはつげんがあるときいたが、乳幼児期の母子関係論を逆手にとった誤った論理展開というべきである。乳幼児期は大切にちがいないが、人格形成は三歳で終わるものではない。それ以後の環境と、他の動物にはない人間のすぐれた学習能力が、十分に乳幼児期のゆがみを修正してうれることも、同時に強調されねばならぬ。
 歩行器は有害無益と専門家グループが指摘した、と報じられたことがある。この場合も子供の発達生理を巧みに二利用し、偏った議論が展開されていた。
 自然科学の進歩で、人間の生活は著しく向上し、生命の維持も容易になった。特に乳幼児死亡率の減少は目ざましい。その結果として、魔よけ、まじない、迷信の大部分は伝承がとだえた。非科学的迷信は消えるべくして消えた。
 しかし、新しい迷信が次々に生まれつついある。科学的根拠をたくみに利用しながら、十分に学問的に解明されていないことを主張する誤った育児論、偏った育児論は、なまじもっともそうな根拠を持つだけに、かつての根も葉もない迷信より始末がわるい。
 どんなに偏った考え方でも、限られた人たち間で論じられている限り、被害は少なく、またその自由は、妨げられるべきではない。しかし、それが新聞や放送、出版などマスコミによって普遍化され、権威付けられたとき、新しい迷信が生まれる。
 知識レベルは高まったが、知的、精神的にはそれほど進歩していない現代人は、昔以上に理論で装った迷信に弱い。まして育児という長い時間の後でなければ結論が出ない問題に関する場合は、母親を安心させるより、迷わせ不安にすることの方が多いことを、忘れてはなるまい。」

 現在にもじゅうぶん通用する問題です。ご参考までにお読みいただければ幸いです。

 今回のテーマは、仮死で生まれ蘇生した赤ちゃんについてです。

 今回は先ず、有島武郎「小さき者へ」を紹介します。
 有島武郎(1878-1923)は、明治・大正期の日本の上流階級に属し、「Boys be ambitious」で有名なクラーク博士の居た札幌農学校に入学し、農学者、北海道開拓を志し、文学的には志賀直哉、武者小路実篤らと同人誌「白樺」に参加。小説「或る女」、「カインの末裔」、評論「惜しみなく愛は奪ふ」などの作品があります。家庭的には、妻安子との間に3人の男子をもうけましたが、安子は大正5年(1916)に肺結核で歿、当時3人の子どもは6歳・4歳・2歳でした。妻の死後独身を通していましたが、大正12年(1923)に、人妻・波多野秋子と知り合い、秋子の夫に知られて脅迫を受け、軽井沢の別荘で秋子と心中死を遂げました。
 「小さき者へ」は大正7年(1918)「新潮」に掲載された作品です。母を失った子たちへ当てた手紙の体裁をとっています。

 有島武郎の長男(後の俳優・森雅之さん)は、北海道札幌の市街地を離れた一軒家で、吹雪の夜に生まれました。産婆、看護婦、医師、書生、女中と人手は多かったのですが、お産は長びきました。微弱陣痛、分娩遷延の状態で、陣痛が去ると産婦はすぐに眠りに落ち、それの繰り返しで時間が過ぎました。そして、産気づいてから12時間後、仮死状態の赤ちゃんが生まれました。   

「ふと産婦の握力がゆるんだのを感じて私は顔を挙げて見た。産婆の膝許には血の気のない嬰児が仰向けに横たえられていた。産婆は毬でもつくようにその胸をはげしく敲きながら、葡萄酒葡萄酒といっていた。看護婦がそれを持って来た。産婆は顔と言葉とでその酒を盥(たらい)の中にあけろと命じた。激しい芳紛(ほうふん)と同時に盥の湯は血のような色に変わった。嬰児はその中に浸された。暫くしてかすかな産声が気息もつけない緊張の沈黙を破って細く響いた。」

 赤ちゃんを逆さにつるして背中を敲くことは、つい数十年前くらい前まで行われていた新生児仮死蘇生法でした。胸を激しく敲く事も。
 葡萄酒を混ぜた湯に浸すことは、知りませんでしたが、1910年台に葡萄酒が家庭にあることは珍しかったでしょうから、産婆はあらかじめ仮死を考慮して準備していたのでしょうか。私は、葡萄酒の湯に浸す蘇生法は、この作品を読むまで知りませんでしたし、この方法を記載した他の文章を読んだことがありません。いずれにしろ、赤ちゃんは仮死から蘇生し、長じて名優森雅之として映画に名声と姿を遺しています。

 次は、A.J.クローニンの小説「城砦」の一節を紹介します。(クローニン全集8三笠書房 竹内道之助訳1978)
 
 A.J.クローニン(1906-1981)は、スコットランド生まれの医師で作家です。1919年グラスゴー大学医学部卒業、ウェールズの鉱山町で開業、1931年、小説「帽子屋の城」で文壇デビュー、1937年、小説「城砦」を発表しました。「城砦」は、私が高校生の頃、近所の京都大学医学部学生だった方から、医学部志望の私に贈ってもらった小説で、裏表紙にその方が、”Nur ein guter Mensch、kann ein guter Arzt sein."(よい人間だけが、よい医師になれる)と書いてくれました。何年か後、彼は京都大学医学部内科教授に就任されました。よい人間の定義は難しいですが、高校生の私にはとても励ましになる言葉でした。小説の内容にも教えられたことが多々あります。今も時々、引っ張り出して読んでいる小説です。
 
 小説の概要は、"奨学金で大学を卒業したアンドルー青年が、奨学金返済のため、ウェールズの炭鉱町の開業医の代診となり、努力して学位をとり、ロンドンで公職につき、ついでロンドンで医院開業、我を忘れてしまって、上昇志向の虜になり、愛する妻の死によって目覚め、自分のためより患者のために尽くす医師になるまでの物語です。
 
 代診時代、鉱夫の家族の信頼を得、何十年ぶりで懐妊した鉱夫の妻の出産に立ち会うよう依頼されます。産婆とふたりで出産に立ち会うのですが、蒼白の重症仮死の赤ちゃんが生まれます。赤ちゃんの処置は産婆に任せ、出血で意識を失った産婦の蘇生に専念して成功するのですが、振り返ってみると、産婆に任せた赤ちゃんは、古布に包まれ、ベッドの下に放置されていて、産婆は死産ですから手の下しようが無いとオドオド、うろうろするだけの状態でした。
 アンドルーは、鉱夫家族に言い訳できないと、猛然と仮死状態の赤ちゃんの蘇生に取り掛かります。

 「かつてサマリタン産院で見た或る方法、むかしから行われている処置を、あわてて思い出そうとした。彼はすぐ立ち上がった。
 ”熱い湯と冷たい水をもってきて” 彼は産婆に言葉を投げつけた。”それと洗面器も。はやく、はやく!”
 ”だけんど、先生ーー”産婆は、赤ん坊の蒼白なからだへ目をやりながら、口ごもった。
 ”はやく!”と彼はどなった。
 彼は毛布をひったくると、赤ん坊をその上にねかせて、特殊な人工呼吸をやりはじめた。洗面器と水差しと大きな鉄の釜がきた。気ちがいのようになって、一つの洗面器に冷水を、もう一つのには、やっと手が入れられる熱さに水を割った熱湯を入れた。ついで発狂した手品師のように、二つの洗面器のあいだで、赤ん坊を冷水に
漬けたと思うと、こんどは熱湯へと、すばやく入れかえた。
 十五分がすぎた。汗はアンドルーの目まで流れこんで目先が見えなくなった。彼はだんだん息切れがはげしくなった。しかし、ぐったりした赤ん坊からは、呼吸らしいものの気配すら見えなかった。
 失敗の絶望感がおそってきた。彼は産婆が驚愕のあまり、呆然として自分を見ているのを感じた。そこには、壁にぴったりくっついて立ったまま、自分の咽喉を手でおさえ、音ひとつたてずに燃えるような目を彼に向けている産婦の老母がいた。老母がその娘におとらず、この孫を待ちのぞんでいることは、彼も忘れてはなかった。すべては挫折し、むだになって、手のほどこしようもないのだ。
 ”ごしょうですだ、先生”と産婆がしくしく泣き声を立てた。”死産ですだもん、な”
 アンドルーは彼女の言葉など一顧もしなかった。半時間も手ごたえがなく、絶望しつつ働きながら、彼はなお最後の力をふりしぼって、粗いタオルで赤ん坊をこすったり、両手で小さな胸を押えたり、またゆるめたりしながら、そのぐにゃりとしたからだに、呼吸をふきこもうとがんばった。
 と、そのうち、奇蹟でもおこったのか、彼が手で押えている小さな胸が、ちょっと痙攣するように、ピクッとふくらんだ。また一つ、そしてまた一つ。アンドルーはめまいを感じた。あれだけ無益な努力をしたあげくに、指の下で弾ねあがる生命の感触は、なんとも形容できぬこころよさで、このまま気が遠くなりそうだった。彼は努力を増加してがんばった。いまや赤ん坊は、しだいに深くあえいでいた。四肢はもう骨なしのようではなかった。白茶けた皮膚が、おもむろにピンク色を呈してきた。やがて、いいようもない赤ん坊の泣き声が耳をうった。」

 有島武郎とクローニンの記した大正期頃の仮死新生児蘇生法と、2016年現在の仮死新生児蘇生法の対比は、次回のブログで。

 出産にともなう母子の生命の危険は、過去のどの時代にもありましたが、あまり遡りすぎないで、新生児死亡数が、出生1000人当たり70人台(現在は1.5人)だった明治・大正期の文学作品で、お産前後を扱ったものを幾つか拾ってみることにします。

 まずは、夏目漱石の「門」から。明治43年(1910)、半年間、朝日新聞に連載された小説です。男性作家の創作ではありますが、漱石が周囲から聞き知った事実を書いているのでしょう.。また、漱石は鏡子夫人の間に七人の子を持ち、最初の妊娠は流産だったということですから、その心情が、「門」に投影されているかもしれません。
 「門」の主人公は宗助、その妻は御米(およね)です。大学時代の親友安井の妻御米と恋に落ち、安井から御米を奪ってしまった過去があります。世間をはばかりながら、ひっそりと、しかし仲良く暮らしている夫婦です。
二人に授かった最初の赤ちゃんは5カ月で突然流産、二度目は早産でした。「 」内は、漱石の原文です。

 「産婆は首を傾けて、一度医者に診させるように勧めた。医者に診て貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変わらないくらい、人工的に暖めなければならないと云った。宗助の手際では、室内に暖炉を据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。風はわが時間と算段の許す限りを尽くして、専念に赤児の命を護った。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けた情の塊はついに冷たくなった。」

 三度目の妊娠では、

 「ちょうど五月目になって、御米はまた意外の失敗をやった。」

 井戸端の濡れた板に滑って尻餅を搗いてしまいます。宗助には黙ったまま月日がたって、この失敗が身体に異常を引き起こさなかった事が分かった時、宗助にそのことを告げます。
 産気づいた時、産婆も間に合い、脱脂綿その他の準備もことごとく不足無く取り揃えてあり、産も案外軽かったのですが、

 「肝心の小児は、ただ子宮を逃れて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細い硝子の管のようなものを取って、小さい口の内へ強い呼気をしきりに吹き込んだが、効目はまるでなかった。生まれたものは肉だけであった。その咽喉から出る声はついに聞くことができなかった。
 産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧に胎児の心臓まで聴診して、至極御健全だと保証して行ったのである。よし産婆の云う事に間違があって、腹の児の発育が今までのうちにどこかで止まっていたにしたところで、それが直取り出されない以上、母体は今日まで平気に持ち応える訳がなかった。そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚いた。胎児は出る間際まで健康であったのである。けれども臍帯纏絡(現在は、巻絡という)と云って、俗に言う胞(えな)を頸へ捲きつけていた。こう云う異常の場合には、固より産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、旨く頸に掛った胞を外して引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸に絡んでいた臍帯は、時たまあるごとく一重ではなかった。二重に細い咽喉を捲いている胞を、あの細い所を通す時に外し損なったので、小児はぐっと気管を締められて窒息してしまったのである。
 罪は産婆にもあった。けれどもなかば異常は御米の落度に違なかった。臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅を搗いた五カ月前すでに自ら醸したものと知れた。御米は褥中にその始末を聞いて、ただ軽く首肯いたぎり何にも云わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ眼を潤ませて、長い睫毛をしきりに動かした。宗助は慰めながら手帛(ハンケチ)で頬に流れる涙を拭いてやった。」

 その後も御米は自らを責め続けるのです。

 ブログにも書きましたように、現在の産院分娩であれば、二度目の早産児は死なせずにすんだでしょう。保育器、モニター、酸素、輸液、いろいろ手段がありますから。

 三度目の死産の場合、頸部に二重の臍帯巻絡はそれほど珍しいことではありません。頸部への臍帯巻絡の頻度は30%の出産でみられるもので、二重巻絡も漱石が書いているほど珍しいものではありません。
 現在では、超音波(エコー)による胎児診断で、臍帯巻絡は出産前に発見されますし、分娩中はモニターで赤ちゃんの心臓の状態がチェックされていますから、適宜必要な処置を講じることができ、赤ちゃんは無事に生まれます。仮死状態の赤ちゃんの蘇生手段も進歩しています。それでも、頸部二重の臍帯巻絡は、まれに赤ちゃんの胎内死亡の原因になることがありますけれども。
 また、妊娠五カ月時の御米の尻餅が臍帯巻絡の原因になるとは考えられません。今なら、御米は自らを責め続けずに済むでしょうし、産婆の罪も、「門」に書かれているほど重いものではないでしょう。家族の心情としては、現在でも、責められるべきでないことで出産時の処置やスタッフが責められることはないわけではありませんが。

 (産婆が免許制度になったのは明治32年(1899)、助産婦と名称変更・国家試験実施は昭和23年(1948)、助産師と名称が変更されたのは平成14年(2002)です。)

 前回までのブログで、現在の産院での出産・産褥・新生児ケアを9回に分けて紹介しました。母体に対しても、赤ちゃんの扱いに関しても、最新の器具、専門のマンパワーによって、幾重にも安全が図られていることをご理解いただけたことと思います。
 その補足という意味で、昔の産褥と現在の産褥を比較してみましょう。

 生まれてきた赤ちゃん千人について、生後28日未満の死亡数を、新生児死亡率といいます。
 平成20年代の日本の新生児死亡率は、ほぼ 1.5/1000 です。千人の赤ちゃんの998人は無事に新生児期を過ごし、997人が最初の誕生日を迎えています。明治33年(西暦1900年)には920人が新生児期を通過し、845人が誕生日を迎えることができました。もっとさかのぼると、江戸時代の日本、18-19世紀のヨーロッパのどちらも、新生児死亡率はほぼ200/1000, 5歳までに500人が亡くなっていました。

 この劇的な変化の背景には、文明の進歩が大きな役割を果たしています。

 まず、赤ちゃんの生命を脅かす感染症が減り、治療できるようになりました。

 昭和30年頃には、施設内分娩と家庭分娩がほぼ同数だったのですが、その後の10年間に施設内分娩が急速に増加し、現在では、ほぼ99%が施設内分娩(98%が病院・診療所、1%が助産所)です。ブログで紹介したように、赤ちゃんの施設内ケアがほぼ完璧に整い、、新生児だけでなく母体の安全も守られるようになりました。江戸時代に戻って考えると、母の無い子・子を亡くす母がほとんど亡くなったということになります。

 受胎、胎児の発育に関しては、まだ医学の手が届かぬことがたくさんありますが、胎内診断の進歩で異常をもって生まれてくる赤ちゃんを予測できるようになり、出生前・出生直後に医療の手がうてるようになっています。妊娠初期・妊娠中の知識や注意すべきことなどについての学問的裏づけのある情報量が増えました。

 新生児期の栄養法に関しても、乳母・貰い乳・乳付けといった手段から、進歩した育児用粉乳を利用した安全な手段が使えるようになりました。

 いまさら、古い産褥の過ごし方から育児技術を学ぶ必要は無いのですが、長い歴史を刻んだ母性・女性のあり方には、知るべきこと、振り返るべきことが多々あるように思います。それらをこれから、ご一緒に考えていきましょう。     産褥・今と昔(2)につづく。

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