与謝野晶子(明治11年1828生まれ、昭和17年1942歿)は、東京新詩社を創設し短歌誌明星を主宰する与謝野鉄幹に出会い、鉄幹の先妻瀧野から鉄幹を奪って結婚し、波乱万丈の人生を送りながら、終生与謝野鉄幹を愛し続け、12人の子を育て、多くの短歌・評論を発表し続けた女性です。
 
 鉄幹と知り合う前後の、主として鉄幹との恋を詠った「みだれ髪」(明治33年)は、今もよく知られています。自由奔放な、華麗な「みだれ髪」の中の数首(例えば”清水へ祇園をよぎる桜月夜今宵逢ふ人みなうつくしき””やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君)や、日露戦争に出征する弟を詠った「君死に給ふことなかれ」で記憶に残る歌人ですが、昭和17年に亡くなるまでの壮烈な生涯、激しい情熱を詠った3万首を超える短歌を知る人は少ないでしょう。「みだれ髪」刊行の年に鉄幹と結婚しますが、恋多き鉄幹は、結婚後も晶子の外に山川登美子、増田雅子との関係も止めず、先妻瀧野とその子とも繋がりを絶たず、晶子もまた、恋敵ともいうべき登美子、雅子と三人で短歌集「恋衣」(明治38年)を刊行するという複雑な時を過ごします。最後には晶子一人が鉄幹をわがものにしますが、それまでの葛藤は並大抵では無かったでしょう。

 それだけではなく、晶子は明治35年1902から大正8年1919までの17年間に14人の子を宿し、6男6女の12人を育てました。双生児が2組あり、最初の双胎は女子2人で無事出産、2度目の双胎は先に生まれた女児宇智子は無事生まれましたが、後に残った女児は死産でした。6番目の男児も出生後2日目に亡くなっています。その間にも、育児、作歌、評論の著述、鉄幹への愛をやり遂げた晶子ですから、堂々と”母性偏重を排す”という論文を発表して母性こそ第一と主張する平塚雷鳥と論戦を戦わしています。”母性偏重を排す”という論文は、育児か仕事か、家庭育児か保育施設依存かという現在の問題に関してもじゅうぶん参考になる論文ですから、興味のある方はお読みください。Webの無料アプリ「青空文庫」で読むことができます。渡辺淳一著”君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟という与謝野晶子・鉄幹夫妻の伝記小説も参考になります。
 与謝野晶子についての予備知識はこれくらいにして、本題に入ります。

 
「産褥の記」は4女宇智子の出産(明治44年2月1911)で入院中の産前産後の、晶子自身の手になる記録です。
 それまでの出産では、産後5日後位から筆を取る習慣と晶子は書いていますが「産褥の記」が何日後にかいたものかはわかりません。問題のある部分を、抜粋します。

”書き留める気力が無いままに小説のプロットが2種ばかりできた。連載20回分くらいはできて、暗誦して忘れないようにしている。歌の形をして浮かんだものは、筆を取ることを禁じられているので、良人に鉛筆で書きとってもらい約束のある新聞雑誌へ送っている。産前産後へかけて七八日間は全く一睡もしなかった。産前の二夜は横になると飛行機の様な形をした物がお腹から胸へ上がる気がして、窒息する程呼吸が切ないので、真直坐ったまま呻き呻き戸の隙間の白むのを待って居た。この前の双児の時とは妊娠して三月目からだいぶ苦しさが違う。上の方になっている児は位置が悪いと森棟医学士が言われる。其児がわたしには飛行機の様な形に感ぜられるのである。わたしは此飛行機の為に今度は取り殺されるのだと覚悟して榊博士の病院に送られた。
    生きて複かへらじと乗るわが車、刑場に似る病院の門
と云うのがわたしの実感であった。”

”わたしは病院の御厄介になると云う事をこれまで経験しませなんだが、お産を病院ですると云う事は経済さえ許せば万事に都合がよい。院長さんに親しく脈を取って頂き、産婆さんや看護婦さんの手が揃っているので、産婦には何よりも心強い。けれども産む時の苦痛は減じない。
悪龍となりて苦しみ、猪となりて啼かずば人の生み難きかな。
    蛇の子に胎を裂かるる蛇の母そを冷たくも「時」の見詰むる。
と思って悲鳴を続けて居る外は無かった。先に生まれた児は思ったより容易でしたが、例の飛行機が縦横にわたしを苦しめる。
 逆子の飛行機が死んで生まれた。後で聞くと院長さんが直ぐに人工呼吸を施して下さったそうであるけれど甲斐が無かった。
     その母の骨ことごとく砕かるる呵責の中に健き児の啼く。
     胎の子は母を噛むなり。静かにも黙せる鬼の手をば振るたび。
     よわき児は力及ばず胎に死ぬ。母と戦い姉と戦い。
     あわれなる半死の母と呼吸せざる児と横たわる。薄暗き床。
 産後の痛みが又例の無い劇しさで一昼夜つづいた、此の痛みの劇しいのは後腹の為に好い兆候だと
云うのですけれど、鬼の子の爪が幾つもお腹に引っ掛かって居る気がして、出た後までわたしを苦しめることかと生まれた児が一途に憎くてなりませなんだ。親子の愛情と云うものもこう云う場合には未だ芽を萌かない。考えてみると変なものである。
 良人が「一目見ておいて遣らないか。これまでに無い美しい児だ」と云ったけれど、わたしは見る気がしなかった。産後の痛みの劇しいのと疲労とで、死んだ子供の上などを考えて居る余裕は無かった。
     その母の命に代わる児なれども器の如く木の箱に入る。
     虚無を生む、死を生む、かかる大事をも夢と現の境にて聞く。
 実際その場合のわたしは、わが児の新で生まれたと云う事を鉢や茶碗が落ちて欠けた程の事にしか思って居なかった。”

”日が経つに従って産後の危険期も過ぎ、余病も癒り、体も心持も次第に平日に復して行くらしい。昨日から少しづつ室内を歩く事を許され、文字なども短いものならば書いてよい事になった。
 わたしの目に触れないで消えてしまった死んだ赤ん坊の印象は、産の苦痛の無くなった今日何もわたしに残らない、まるで人事の様である。空である、虚無である。唯其児の為にと思って拵えた赤い枕や衣類が、副室の押入に余計な物になって居るのを見ると、物足らない淡い哀しみが湧いて来る。やはり他人に別れたのでは無い、棄てられた母と云った様な淋しい気持である。”

”婦人問題を論ずる男の方の中に」、女の体質を初から弱いものだと見て居る人のあるのは可笑しい。そう云う人に問いたいのは、男の体質はお産ほどの苦痛に堪えられるか。わたしは今度で六度産をして八人の児を挙げ、七人の新しい人間を世界に殖した。男は是丈の苦痛が屡々せられるか。少なくともわたしが一週間以上一睡もしなかった程度の辛抱が一般の男に出来るでしょうか。
 愚人の体質がふくよかに美しく柔らかであると云う事は出来る。其れを見て弱く脆いと概論するのは軽率では無いでしょうか。更に其概論を土台にして男子に従属すべき者だと断ずるのは、論ずる人の不名誉ではありませんか。
      男をば罵る。彼等子を生まず命を賭けず暇あるかな。”

 以上が六度目の産褥で与謝野晶子が記した言葉の主要部分です。
 現在の産褥との比較、母性愛は生得的なものか否か、産褥で子を亡くした母の気持ち、出産の苦痛が母性に影響するものかどうかなどについて、次回に考えてみたいと思います。   (つづく)

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与謝野晶子







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