柳瀬幸子の「地球(ここ)に生まれて」

三重県津市にあるヤナセクリニックの院長・柳瀬幸子のブログです。 ヤナセクリニックの基本理念: 私たちは、患者様の思いを尊重し、患者様に寄り添った医療やケアを目指します。 ヤナセクリニックの基本方針: 1.安全、安心なお産を提供し、出産の喜びと子育ての楽しさを感じられるような支援を行います。 2.女性の健康増進のために地域から信頼される医療を提供します。 3.子どもを大切にする街作りを応援します。 ヤナセクリニックのモットー:良いお産、楽しく子育て!!

三重県津市にあるヤナセクリニックの院長・柳瀬幸子のブログです。

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<ヤナセクリニックの基本理念>
私たちは、患者様の思いを尊重し、患者様に寄り添った医療やケアを目指します。
<ヤナセクリニックの基本方針>
1.安全、安心なお産を提供し、出産の喜びと子育ての楽しさを感じられるような支援を行います。
2.女性の健康増進のために地域から信頼される医療を提供します。
3.子どもを大切にする街作りを応援します。
<ヤナセクリニックのモットー> 
良いお産、楽しく子育て!!
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孫の誕生

今年はいろいろなことがありました。
9月5日に父が亡くなりました。そして、12月5日に娘に可愛い女の子が生まれました。
命が終わり、そして、命が始まる。命が受け継がれていくことをとても深く実感する一年でした。

12月21日が予定日だったので、まだまだだろうと思っていたのに、12月4日妊娠37週、お腹が痛くなってきたと娘から朝7時にLineが入り、その後、破水したみたいと電話がはいりました。産婦人科医である婿が私のクリニックまで送ってくれました。子宮口は1㎝でまだ固く、赤ちゃんもまだ下がってきておらず、婿は一度職場へ。午後、本格的な陣痛にならないため、陣痛促進剤を内服することにしました。夕方からは本格的な陣痛が開始しました。婿は、病室に内診セットを持ち込み、ずっと娘に付き添ってくれて、分娩経過をみてくれます。先輩産婦人科医である義母から、「今はどんな状況?」と常に聞かれるのだから、プレッシャーだろうなと思いつつ、分娩は自分がみて取り上げると宣言したからには、頑張れ。大学病院の先生が心配して面会に来てくれました。分娩は微弱陣痛でゆっくりとしか進行せず、病室で婿はずっと夜中娘に付き添って二人でうとうとしながら、陣痛時には腰をさすってくれていました。朝になって子宮口は8㎝開大してきましたが、陣痛が弱く、児頭は高い。陣痛促進剤の点滴を行うことに。私は外来をしていたので、ずっと婿がお産をみてくれていました。順調に分娩となり、婿が無事に自分の子どもを取り上げました。とても誇らしげな父親の顔になっていました。分娩の時は、何かあってはいけないと教授の指示で、産科の病棟医長がかけつけて待機してくれていました。ありがたいことです。私も分娩に立ち会いましたが、結構冷静でいつものように振舞っていました。しかし、必死に出産に臨んでいる娘の姿をみて、娘も母親になるのだなと、心の奥からにじみでるような嬉しさがこみあげてきたのも事実です。元気に赤ちゃんは産声をあげてくれました。婿は助産師と医師の二役をこなしたため、疲れ切ったようで、その後は爆睡。産科医としてとても良い経験ができたのではと思っています。

その後の育児は、やはり、娘は助産師だけあって、赤ちゃんの抱っこは戸惑うこともなく、完全母乳で育てています。ベテラン助産師の適切なアドバイスとおっぱいケアにより、母乳もトラブルなく良くでています。良く飲み、良く寝る、とても育てやすい赤ちゃんで、お父さんとお母さんの愛情を一杯受けています。赤ちゃんが一人いるだけで、みんなに癒しと幸せを与えてくれます。

おばあちゃんになってみて、感じること。今までいてくれることがあたりまえだった両親は、父が亡くなり、母は年老いて病院の入退院を繰り返しています。あんなにしっかり者だった母は、少し痴呆も入ってきてしょっちゅう電話をしてきて、私に頼ってきて大変です。その反面、まだまだ子どもだと思っていた娘が、親になり、しっかり子育てをしています。時の流れを感じます。
そして、赤ちゃんが家にやってきました。こんなに小さい身体で何も話すこともできないのに、その存在感はだれよりも大きく、そしてだれよりもみんなを幸せな気持ちにしてくれます。日々の生活は大変で、先行きが見えなくなっている時でも、赤ちゃんは全てを忘れさせ、未来を感じさせてくれ、希望がわいてきます。本当に不思議な愛おしい存在です。
私の両親がいなければ、この赤ちゃんも存在しない。ずっとずっと命はつながっていく。そんなことを考えると、自分の命も愛おしく、自分を誉めてあげたい気持ちになり、命をつなぐことができたことに深く感謝の気持ちがわいてきます。
これからは、孫とのどんな生活が待っているのだろう。そう考えるとこれからの人生も楽しみで満たされていきます。おばあちゃんにならせてもらって、ありがとう。

ドラマ「コウノドリ」

ドラマ「コウノドリ」のシリーズ第二弾をよく見ています。かっこいいヒーローの医師が活躍して人を助けるといったドラマではなく、病院に勤める様々な職種の人たちが、個々の立場や個性がありながらも、患者さんの幸せのために一生懸命に考えて頑張っているところにとても好感がもてます。また、医療スタッフ側の心の悲しみ、くやしさ、葛藤、疲労感、そして幸せも一緒に描いてくれているところに共感しながらみています。
前回の話は、若手の女医さん(下屋先生)が、当直先で患者さんと仲良くなり、症状に不安を感じながらも病院に戻って勤務をしていたら、その患者さんが甲状腺クリーゼで急変して心肺停止の状態で搬送され、母親は亡くなり、赤ちゃんだけ助かるというストーリーでした。下屋先生は、泣き崩れ、何もしてあげられなかった自分を責めます。次の日の外来で、全妊婦さんに甲状腺の検査を行います。先輩医師から仕事を休むように告げられます。休んでいる間、何も手につかない状態でしたが、「やっぱり自分は産科が好きだ。産科にもどりたい。」でも、自分がもっと実力をつけなければと救急の現場にいくことを決めます。
下屋先生が、「この悔しさを乗り越えて、患者さんを助けられる医者になりたいのです。」といった時、コウノドリ先生は「乗り超えることなんてできないよ。上手くいかなかったことはずっと心の中に残るものだ」と言っていました。医療者であれば、とてもこの言葉は響きます。上手くいかなかった辛い経験は、その経験が自分にとってよかった、乗り越えられたなどとは絶対に思えません。自分の心の中にずっと重いものとして残るものです。
目の前の全ての患者さんが、良い結果になるようにと、自分なりに医療者は日々最善をつくしています。でも、自分の予想とは裏腹に、良くない結果になってしまうことがあります。逆に、もうダメかもと思っていたのに、良い結果になっていくこともあります。良くない結果でも、患者さんから感謝の言葉をもらい、励ましの言葉をいただくこともあります。しかし、良い結果になっても非難の言葉を浴びせられることもあります。
心が折れそうになる時も多々あります。でも、医師を続けられるのはなぜなのか・・・と考えてみました。それは、良くない結果であっても「ありがとうございました。先生も頑張ってください。」と言ってくれた患者さんの言葉があるからのように思います。だから、頑張らなければと思います。
医師としての辛い経験は乗り越えるものではなく、心にしまっておくものだと思います。心に積み重なっていったものが「経験」と言われるものだと思います。医師としての技術だけでなく、診察や診断能力、患者さんへの態度や話し方は、患者さんから教えてもらった「経験」の積み重ねです。若い医師の方は、新しい知識も豊富で、体力もあり、手先も器用です。でも、患者さんから教わった一つ一つの心の中に積み重なった経験は、ベテランの医師にはかないません。長い年月、患者さんと真剣に向き合ったからこそ出来上がるものだからです。
「私たちの教科書は目の前にいる患者さんです」そんな言葉を忘れずに、一人一人の患者さんを大切に診察していこうと思います。そして、若いドクターにもそれが伝わっていってほしいなと思います。

地域で見守る

骨盤骨折のため3ヶ月近く入院していた母が退院となりました。入院中に父が亡くなり、帰る時には一人暮らしになってしまいました。83歳の後期高齢者の母に対しては、入院中から病院の介護支援専門員の方が本当に親切に介入してくれ、娘の私に何度も電話していただき、退院後がスムーズにいくように相談にのってくれました。「介護支援を受けられますか?」「介護認定の手続きをしましょうか?」「地域包括支援センターに連絡しましょうか?」
平日の日中には、診療のため動くことができない私にとっては、本当にありがたいことでした。介護認定については、地域包括ケアセンターの担当のケアマネさんが病院に出向いて母の状態を確認してくれました。自宅に帰った日は地域の支援員さんが訪問してくれ今後の生活についてアドバイスをしてくれました。
父が亡くなってからの退院後の生活について、1.自宅に帰り一人で生活する、2.娘の家に来る、3.老健施設に入所する。3つの選択を母は悩んでいました。一人で生活することには不安があるが、自宅の整理などまだまだしたいことがあるし、自宅であれば友達が訪れてくれるから寂しくないし、一人で生活できそうな間は自宅に帰りたいというのが母の意思でした。とりあえず、一人暮らしが難しくなるまでは、自宅に帰ることにしました。帰宅してからは、毎日のように友人が訪れてくれ、食事を運んでくれたり、ごみをだしてくれたりしてくれているそうです。一人で寂しく不安なこともあるだろうけれど、住み慣れた家で、自分の住みやすい空間の中で、友人の訪問がある生活が最も良い選択だったと思います。

超高齢化がハイスピードで進んでいる日本社会において、高齢者をどのように地域で見守るかは待ったなしの重大な問題だと、当事者になって痛感しました。地域での福祉の見守り体制は随分進んでいると感心しました。しかし、医療の面では近くの在宅医を見つけることはできませんでした。母は今まで通い慣れた総合病院に通院したいという希望がありました。高齢者にとって病院を変更することは、病状をわかってもらうことも大変で、ずっと同じ病院で同じ先生に診てもらいたいのだろうと思います。
今までの日本では、子どもが親の面倒をみるのが当然でしたが、これからは結婚せず子どものいない独居老人が増えてきます。子ども達は、夫婦とも仕事をしていることが当然となれば介護の中心的な担い手になることができません。高齢になっても働き続けるようになれば、職場の友人はいても地域との繋がりは希薄になり、自分の自宅の近くには友人がいない状況になります。
「地域包括ケアシステムとは?」高齢者が住み慣れた地域で自分らしい暮らしを送り続けられるように、「住まい」「医療」「介護」「生活支援」「介護予防」のサービスを包括的に受けられるシステムです。特に住み慣れた地域ということに重点が置かれています。地域包括ケアシステムを実現させるためには、地方自治体の地域力が不可欠です。なぜなら、高齢者だけでなく、その地域に住む住民のニーズを的確につかむと同時に地域における課題をみつけ、行政だけでなく企業やボランティア団体等が協力しあって、その解決に向けて地域の自主性を重んじ取り組みを進めていかなければならないからです。これからの取り組みを進める上では「自助」「互助」「共助」「公助」という考え方が基本です。これは、自らの健康的な生活は自分で支えるという「自助」と、家族や親戚、地域住民同士で助け合う「互助」を基本として、そこで十分できないケアの部分を介護保険や医療保険などの「共助」、生活保護や社会福祉からの「公助」で補っていく、というものになります。今回母が、老人施設ではなく地域に帰ったことで、一人暮らし老人をみんなでどのように支えていくのか、考えていかなければと思います。

超少子化が進むなかで、妊娠・出産・子育てについても同様のシステムが進められようとしています。子育て世代包括支援センターの構想が国から平成27年9月に示されています。
1. 妊娠期から子育て期にわたるまで、地域の特性に応じ、「専門的知見」と「当事者目線」の両方の視点を活かし、必要な情報を共有して、切れ目のなく支援すること
2. ワンストップの相談窓口において、妊産婦、子育て家庭の個別ニーズを把握した上で、情報提供、相談支援を行い、必要なサービスを円滑に利用できるよう、きめ細かく支援すること
3. 地域の様々な関係機関とのネットワークを構築し、必要に応じ社会資源の開発等を行うこと
私の住んでいる地域では、保健センターを拠点として子育て世代包括支援を行うと聞いていますが、なかなか現実としては十分に機能していません。なぜ、高齢者のように進んでいかないのでしょうか?病気を持っているお子様の家庭などの支援がはっきりしている部分は、以前から医療・福祉が中心となって行われています。しかし、ほとんどの健康で問題がないと思われる家庭には今までには子育て支援という考えはなく、子供会などの地域の小学校単位での繋がりの「互助」で、上手くいっていました。しかし、夫婦共働き家庭が多くなり、片親家庭も多くなりました。子どもの数が減ったため、周囲に子育て中の家族が少なくなりました。生徒数の減少により地元の小学校は廃校になっています。多様性が認められる社会となり、親の考え方や価値観も様々となりました。貧困家庭が多くなり、自分たちの生活だけでも精一杯という家庭が増えてきました。親世代が高齢だったり、働いていたりで子育てに協力してもらえなくなりました。そんな社会状況の中で、地域で子育てを見守り支援していこうという方向性はとても重要だと思います。

私が運営委員として参加している「つながりひろば」(津市の子育てひろば支援者交流会)ができて5年となります。少しずつのつながりは出来てきましたが、なかなか思うようには進まないジレンマを感じています。
1.「当事者目線」がなかなか反映されない。子育て家庭は日々の生活が忙しく、時間があれば子どもとの時間を大切にしたいと考えています。いろいろな不満や不都合があったとしても、それを訴えることはなかなかしません。子どもは日々成長し、不満や問題も数年たてば過去のことになってしまいます。お母さん達の声を待っているのではなく、何か困っていることはありませんか?と行政や支援者の方から出向いていく必要があると思います。そして、本当に困っている人は声もだしません。何か困っていることがあるのでは?と当事者目線になって支援することが必要ですが、行政を含め支援者の方がそのような姿勢を学んでいません。専門的知見と当事者目線を活かすには、お互いが歩みよることが必要ですが、まだまだ当事者のニーズに合わせた対応ができていないのが現実だと感じています。
2.ワンストップの相談窓口はとても大切です。どこに相談にいけばいいのか、相談に行ってもここではありません、と言われた時のがっかりする気持ちや、二度と相談に来るものか、といった怒りが、子供への虐待に繋がっていくケースもあります。ワンストップの相談窓口では、支援者の力量が大きく影響します。優秀な保健師がいる市町などでは、ワンストップ事業がうまく運営されています。逆にその保健師が辞めてしまうと、うまく運営されていかないのが行政によくあることです。ワンストップの相談窓口では支援者の質の向上とともに、他機関といかにつないでいくかの関係性も問われます。ワンストップ事業がうまくいくためには、そこが一番の課題だと思います。
3.地域には、医療・福祉・教育・子育て支援・民間・企業・地域住民・ボランティアといった子育てを見守ってくれる場が沢山あります。力があり、しっかりとした子育て支援の考えをもつ民間団体や企業もたくさんあります。しかし、それを繋ぐネットワークが希薄です。「つながりひろば」というネットワーク事業を津市と立ち上げても、市役所の中でのネットワークもいまだに上手くいきません。そんな状況では民間や企業とのネットワークなどは、なかなかできていかないものです。今ある社会資源を有効に利用し、無駄な税金の使い方にならないように、もっと繋がっていくことが大切です。

少子化対策、働き方改革、女性の活躍促進・・・など様々な政策はでていますが、別々に考えるのではなく、トータルに考えていかないと社会の変化には対応できません。高齢者対策のようには一筋縄ではいかないように感じています。子どもを産み育てやすい社会、子どもがいきいきと輝く社会になるよう一人一人が声をあげ、課題に向き合い、つながっていくことが必要ですね。

父について

父が、平成29年9月5日に亡くなりました。

父は、両親ともが小学校の先生で、一人息子として昭和9年に京都に生まれました。学業成績はとても優秀、高校生の頃は洋画が好きで、外国の有名な俳優にファンレターを英語で書き、返信のサイン入りのブロマイドが沢山アルバムに貼ってあるといったハイカラな学生だったようです。京都大学医学部に進学し、大学時代に母と知り合いました。卒業後は京都大学の精神医学講座に入り、生化学教室で研究していました。その後、アメリカのスタンフォード大学に留学、家族4人で2年間カリフォルニアに住みました。その時の研究の成果は、アメリカの上司のノーベル賞受賞に繋がっているそうです。旅が好きだった父は、アメリカでの生活はとても充実していて一生の中で一番楽しかった時だと言っていました。帰国後、京都大学での上司の先生が三重大学の教授になったため、三重大学に誘われ、三重県に移り住みました。その教授が退官された後、三重大学医学部精神医学講座の教授を15年間勤めました。その頃、私は三重大学医学部の学生で、父の教授室を時々訪れ、教授である父を誇りに思っていました。定年退職後は、三重県の医療専門学校の校長、様々な精神科の病院やクリニックの外来を手伝っていました。

2年前、高血圧で通院していた内科で黄疸を指摘され、精密検査のため鈴鹿中央総合病院に入院することになりました。主治医の消化器内科の先生のお母様が精神科医ということで、とても素晴らしいご縁をいただき、父が亡くなるまで、父の意思を第一に尊重してもらいながら、治療にあたっていただきました。病名は膵頭部癌Ⅲ期で、腫瘍によって胆管が圧迫されての黄疸でした。手術可能なステージと言われましたが、父は手術を望みませんでした。病名や治療方針は、医師であり娘である私に話してほしいということで、父と一緒に今後の治療について説明を受けました。父からは「私は、自分の予想以上に長生きをして、十分に生きた。手術をして頑張って病気と闘うということはしたくない。痛くない程度に病気と付き合って死を迎えたい。でも、初めての経験だし、どんなふうになるんだろうね。」と客観的に動揺することなく冷静に淡々と私に話す姿は、精神科医の父らしいと思いながら、「死を迎えるってどんなことなんだろうね。でも、いつかはそんな時が誰にでもくるものだから・・・。」と私も冷静に涙することもなく、父と話しをしました。父にとっては、対等に冷静に自分の考えを理解してくれる娘と話しをするのが一番楽だったようで、この時も娘に自分の意見をいいながら、自分のなかで自分の病気に対して覚悟していったのだろうと思います。
「何も治療しなければ、余命6ヶ月。抗ガン剤が効くかもしれないので、無理のない程度の抗ガン剤治療はしていきたいと思います。」という主治医の方針で治療が開始されました。父は、すぐに自分の死に向けて準備を始めました。自分で葬儀社とうち合わせをし、お世話になっている寺の住職に葬儀のお願いをし、遺言を書いて信託会社に依頼をし、兄に葬儀の喪主のお願いと段取りについて話しをし兄嫁に葬儀の費用を預け、自分が心から許せる精神科医の弟子二人を呼び寄せ葬儀委員長として葬儀が滞りなく行えるように指示をしていたようです。

余命の宣告は、嬉しい方向に外れました。月1回の外来での抗ガン剤点滴治療で腫瘍の進行はほとんどありませんでした。死への準備を終えた父は、誰かに会うこともなく、自宅で好きなクラシックを聴き、映画やドラマを見て、好きな食べ物をネットで注文して、自分の好きなことだけをしてゆっくりとした生活をする日々でした。孫である私の娘が産婦人科医と結婚することになり、孫夫婦が会いにくると、とても楽しく幸せそうでした。そして、孫夫婦が12月に子どもが生まれるとわかって、そこまではちょっと無理かなと残念そうにしていました。

正月に会いに行った時には、抗ガン剤も体力的に辛くなってきたと、抗ガン剤の中止を自らお願いしたと。そして、ゴールデンウィークには、そろそろ2階の自室での生活は困難になりそうだから、介護ベットが必要になりそうだと相談を受けました。

6月18日(日曜日)、母が私のクリニックに電話をしてきましたが、1回目の電話は私の母親だとスタッフがわからず、2回目の電話でスタッフが私の母親からの電話と気づき、私の携帯に電話をしてきました。午前4時、何事かと母に電話をしますが、「さっちゃん、助けて。」と言うだけで、事情を聞いても少し認知が入ってきている母親では「助けにきて。」というだけ。ただ事ではなさそうと思い、クリニックに実家に帰ることを告げ、急いで鈴鹿の実家へ。1階の和室で父と母が倒れていました。1階の和室には介護ベットが置かれていて、その横に布団が敷かれていて、そこで父と母がいました。母に聞くと、2日前に父がベットから落ちて倒れており、それを自分が介護しようとしたら、今度は自分が腰痛となり動けなくなり、前日の夜から二人とも飲まず食わずの状態になってしまったというのです。なぜ、もっと早く倒れた時点で連絡しないのかと思いながら、娘に心配をかけてはいけないと、老老介護をしていた両親に申し訳ない思いでいっぱいになりました。とりあえず、二人にそこにあったレトルトのおかゆとおかずと水分をとらせ、母をソファに寝かせ、父のオムツを替え、父から何かあったら鈴鹿中央で入院させてもらうようになっているというのを聞き出しました。朝まで二人を休ませ、鈴鹿中央に電話をし、救急車で父を鈴鹿中央に運び、すぐに内科で入院させてもらいました。主治医は日曜日で不在のため、とりあえず点滴をして様子をみますと言われます。父は自宅でも少し様子がおかしく、時間や今の自分の状況がよくわからないようでしたが、病院についてからは不穏状態となり、寝ていたと思うと急に起き出し「トイレにいく」と言ったり、点滴のルートがわからないようでとても気にして触っていたり・・・。看護師からは、病院に急に入院となったため、精神的に不安定な状態なので、ずっと家族に付き添いをしてもらうか、夜は身体拘束をさせてもらうかもしれないので許可してほしいと言われるました。入院当日、父親は寝ているか不穏状態でまともな会話ができませんでしたが、夕食の食事介助、トイレへの歩行介助など、この日は娘として父親に親孝行がゆっくりしてあげられた唯一の日でした。出産の呼び出しで常にオンコールの状態の私としては、後ろ髪をひかれながらも、夜には看護師さんにあとをお願いし、実家に残した母の様子をみてから自宅に帰ってきました。その日は突然立ち上がったり危険だったため、身体拘束をされたらしく、それを父は翌日とても怒っていたらしく、身体拘束の許可にサインをしてしまったことをとても後悔しています。
自宅で救急車を待っている間、父のオムツを替えていた時、父は「娘にこんなことをしてもらって、とても幸せだよ。」と言ってくれました。この日がなければ、私は両親に何もしてあげれず、仕事ばかりしていた親不孝者だという思いで一生後悔していたと思います。神様は、私に本当に大切な一日をくれたと今でも感謝しています。

虫垂に膿瘍を作り、それが衰弱した原因というのがわかり、膿瘍の治療をしてもらいました。しかし、その後の父は少し正常な意識の時もありましたが、徐々に衰弱し、面会に言っても寝ているかせん妄状態で対等に会話ができる時間はどんどん少なくなっていきました。毎日面会に来ていた母が転けて骨折し、母も鈴鹿中央の整形外科に入院し、4階は父の病室、6階は母の病室という状態になりました。看護師さんや母の友人の気遣いで、車椅子で時々お互いの病室に行くことができたようで、父が意識がわかる状態で母の病室に連れていってもらい、手を握ってくれて、お互い頑張りましょうと言ってくれたと嬉しそうに母は話していました。

延命治療等は何もしてほしくないというのが父の希望でした。9月3日、看護師さんから食事が全くとれなくなりましたと連絡がありました。9月4日の朝には、呼吸状態がよくないので酸素投与を始めましたと連絡、兄にも連絡し、午後から少し持ち直した状態で母、兄、私の娘、私とゆっくり面会をすることができました。最後の夜は優しい目で私を見つめ、何か言おうとしてくれてました。酸素マスクがあり、言葉にはなっていませんでしたが、きっと「ありがとう」と言ってくれたように思っています。いつでも診療を変わってもらえるように大学の先生方にお願いし、学会で人手がないところ大学からの医師応援体制をとっていただきました。9月5日、外来中に病院から血圧が測れなくなってきましたと電話が入り、すぐに病院へ。病院へ到着したと同時に呼吸が止まり、心臓が止まっていきました。静かな安らかな死でした。

その後の葬儀の段取りは想像を絶する以上で大変でした。しかし、父の2年前の万全の準備のおかげで、父がどんな旅立ちを願っていたかが手に取るようにわかり、父が望んでいたような葬儀ができたのではないかと思っています。
父が準備した葬儀は、精神科医の弟子二人に指示され、その二人の先生は忙しいなか真夜中まで、葬儀社とのうち合わせを一緒にしてくださいました。連絡して欲しい人へのリストは精神科の先生に父からきっちりとした指示がされていました。また、新聞広告にも載せてほしいこと。出棺時のお見送りの曲も指示されていました。
もう一人の精神科の先生には、病気の経緯について弔辞で話しをしてほしいと頼んでいました。病気になってから、他の人とは会おうとせず、父かとても信頼していたその先生だけには会いたがり、同じ病院勤務だったので、病室に毎日のようにに顔を出してもらい、自分の苦情や苛立ちや希望についてはその先生に話しをし、その先生が父の意思に添えるような治療や入院生活が送れるように主治医と相談してくれていました。その先生に感謝の気持ちを込めて、自分の最後の生き様を皆様に報告してほしかったのだと思います。
葬儀の祭壇は生花で飾られ、沢山の花に囲まれることを願っていました。クリスチャンの母のためにキリスト教の骨壺を用意し、母の友人も多く参列できるようにマイクロバスが用意されていました。家族の中で一人クリスチャンになった母のことをきちんと認め、母のために自分ができることをこっそり準備しているところは、とても父らしいと感心しました。

父が準備をした葬儀を終えて、本当に最後まで父らしく、素敵な葬儀ができたことに皆様に深く感謝しています。そして、父がなぜ自分自身で葬儀の準備をしていのかを感じています。父は、三重で精神科医として楽しく充実した仕事ができ、沢山の素晴らしい同僚や後輩に恵まれたことにとても感謝していたのだと思います。そして、三重大学精神医学名誉教授であったことを誇りに思い、自分の最も信頼を寄せている弟子二人に最後まで大切な仕事を託したのでしょう。母に対しては、生きている時は自宅では文句ばかりで母のことを相手にしていない感じでしたが、本当は自由で他人のためにしてあげることが大好きな母の生き方を尊重し、父なりの愛情で母に感謝の気持ちを残していったのでしょう。
私にとって父は、私のことが大好きで、自慢の娘で、一度も怒られたことはなく、優しく、私の自由を尊重してくれていました。でも、自分の意志で決めたことに、ぶれていきそうに心が迷った時には、厳しい一言を言っていくれる存在でした。私の今の生き方は両親の影響が本当に大きいと思っています。そして両親のことが大好きでとても尊敬しています。自分のことより人のことが優先で奉仕の心が強く、でもちょっと天然なところがある母。自分の意志が強く、自分の進むべき道のためにしっかり準備をして着実に結果をだしていく、一見自分勝手なようにみえるけれど、他の人のことを考え大切に思い準備してくれている、そして遊び心があるお洒落で紳士的な父。
二人の両親のもとに生まれ、育ててもらい、私を常に尊重してくれたことを本当に幸せに思います。
父が生きている頃より、父の仏壇の前で手を合わせるようになった今の方が父と心の中で会話することが多くなりました。これからもぶれない芯のある生き方ができるように導いてほしいと思います。

妊娠は病気?

日本の年間の出生数は、第1次ベビーブーム期には約270万人、第2次ベビーブーム期には約210万人であったが、1975年に200万人を割り込み、それ以降、毎年減少し続けた。1984年には150万人を割り込み、2016年に生まれた子どもの数は97万6979人で、1899年に統計をとり始めてから初めて100万人を割り込んだ。1人の女性が生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)は、第1次ベビーブーム期には4.3を超えていたが、1950年以降急激に低下した。その後、第2次ベビーブーム期を含め、ほぼ2.1台に推移していたが、1975年に2.0を下回ってから再び低下傾向になった。1996年には1.57、2005年には過去過去最低の1.26まで落ち込んだ。その後少し増加傾向であったが、2016年は1.44と前年を0.01ポイント下回った。
妊産婦死亡率は、戦後の施設分娩中心の出産になってから急激に減り、第1次ベビーブームの頃には出産10万に対し161.2人であったが、第2次ベビーブーム期には、83.9人に減少、2000年には6.3人、2013年には4.0人で、世界的には死亡率が低い国になっている。
私たち産科医は、必死の努力で妊産婦死亡を0にしたいと、日夜診療に励んでいる。誰一人、出産で死なせたくないと切実に願っている。戦後、自宅分娩から施設分娩に移行していき、妊産婦死亡は急激に減った。バブル期は、お産はファッションのようになり、豪華な産院ができ、産院でのアメニティや美味しい料理などを競い合う時代もあった。しかし、妊産婦死亡が減り、安全に安心して満足のいく出産を沢山の女性にしてほしいという私たちの思いとは裏腹に、それに比例するかのように、出生数は減り、合計特殊出生率も減少していった。

「妊娠は病気?」という問いかけがある。おそらく、多くの産科医は、臨床現場で「赤ちゃんが死ぬのではないか、お母さんが死ぬのではないか」と顔が青ざめた経験がある。それほど、妊娠・出産は急に死と直面することがある。妊娠がわかり、妊婦検診で毎回顔を合わし、出産、そして元気に母子が退院していく姿をみるまで気を抜くことはできない。元気に赤ちゃんを連れて家族と一緒に幸せいっぱいで退院する姿をみると、ほっとする。医療者側は、「妊娠は病気」と考えている人が多いと思う。自宅出産から病院での施設分娩に移行し、医師や助産師が病気として積極的にかかわることによって、妊産婦死亡は減少した。

しかし、一般の人達は「妊娠は病気」と思っているのだろうか?そう思うなら、みんな病気にはなりたくないから、妊娠は恐怖でしかない。今は、沢山の情報が、あふれていて、ネットをあければ、様々な情報が入ってくる。「妊娠は病気」という内容だけをみれば、「妊娠、出産、子育て」は、未知の世界の恐ろしい、心配、不安なもので、妊娠したら私はどうなるのだろう?子どもはちゃんと育つのだろうか?そんなことばかりが頭に浮かんでくるのでないだろうか。
「妊娠は病気でない」という考え方になれば、妊娠していない時と一緒のようにできないことに非難がくる。仕事や家事が今までのようにできないことを責められる。上司や、義父母、実父母、ご主人などの周囲の人の何気ない言葉で傷ついている妊婦さんが多くいる。

「妊娠、出産、子育て」とは何なのだろうか?
「妊娠・出産・子育て」は人が生きていく中で普通のことだが、今までの日常と大きく変化することであり、戸惑うことも多く、責任も大きくなる。だからこそ、社会全体が一番大切にし、支えなければいけない。周囲が温かく見守り、みんなで支えてくれる社会では、妊婦さんにも子育て家族にも優しい社会になり、若い人達が子どもをもちたいと思う社会になるのだろう。
生物にとって種を残していくことは、最大の仕事であり、次の世代に自分の命を引き継いでいくことが最大の使命で、そのために生きているといっても過言ではない。次の世代に命を引き継げば、親は死んでいく種も沢山いる。命がけで自分の種を残している。しかし、人間は高度に発達して、頭で考え、いろいろな能力を持ったことで、次の世代に命を引き継いでいくことより、自分自身の生き方を大切にし、そこに幸せを見出すようになっていった。自分の幸せのみを考えれば、妊娠といった“病気”に自ら好んでかかりたくないし、家族といった煩わしいもので自分の人生を非難されたくないし・・・。
そういった風潮が少子化につながっていったように感じる。

これから日本の人口は超少子高齢化の時代に突入していく。人口ピラミッドで出産や子育ての中心となる若い女性に着目すると、20歳~39歳の人口は1572万人で、総人口の12.3%、5年前の同年台の人口と比べ6.6%の減少である。住民千人当たりの出生数は、2016年は7.80人、前年からマイナス0.06人減少。また、10年前の2006年からマイナス9.2%で0.79人減少という統計がでている。街の中で、妊婦さんや子ども達に出会うのが珍しい時代になってくる。ますます妊婦さんや赤ちゃんはマイノリティになっていく。多数決の民主主義の社会では、人数の少ない世代や投票券を持たない子ども達の意見は聞いてもらえるのだろうか?
「妊娠は病気?病気でない?」ということよりも、妊娠・出産・子育て・子どもの成長は、社会が持続可能になるための最も基本で大切ににしなければいけないことである。妊娠・出産・子育て・子どもの成長が、もっともっと大切にされる日本であってほしいと思う。若い女性達が、妊娠・出産・子育てに対して、恐怖と不安と心配と負担感で押しつぶされないように、私たちは何とか社会を変えていかなければと思う。

国際ボンディング協会

2000年にNPO法人国際ボンディング協会が、産婦人科医鮫島浩二先生の呼びかけで発足しました。2017年7月、鮫島浩二先生から私に理事長がバトンタッチされました。発足当時には国際ボンディング協会に入会していなかった私にとって、活動を引き継ぐのは大変なことです。7月2日、熊谷市のさめじまボンディングクリニックに理事、事務局が集結し、鮫島先生を囲んで、国際ボンディング協会の今までの歩み、ボンディングの理念、今後の活動について時間をかけて話し合いました。

国際ボンディング協会発足時 世界への宣言 (2000年12月3日)
『いま世界中どこにあっても家庭内暴力・青少年の性犯罪・悪質にエスカレートしたいじめ・自殺・乳幼児虐待・殺害・引きこもり・不登校・理由のない無差別殺人・学級崩壊など、いつの時代にもまして心の病やストレスから引き起こされる様々な事件がクローズアップされています。その原因はどこにあったのでしょうか?これらの事件に関与した当事者の背景を追求していくと、かなりの割合で乳幼児期、新生児期の親子関係のもつれにあることが推測されます。さらにその根源を出産時、さらには胎児期の環境にまで求めることができると主張する研究者もいます。つまり、周産期に心のケアが十分なされていれば、子どもの行動異常や成人してからの社会的不適応なども防ぐことができると考えられます。
ボンディング(Bonding)とは、親と子のきずなをより深く築くこと。ライフサイクルの中でその側面は妊娠中に始まり、出産時・新生児期・乳幼児期・思春期の子どもたちとのボンディング、高齢者やガン患者、障害者、寝たきり老人を抱えた家族におけるボンディングなど、実にたくさんあります。わたしたちはボンディングの概念を世界に啓蒙すると同時に、ボンディング形成の様々なノウハウをより具体的に皆さんに提案し、共に学びながらより良い社会の実現のために貢献することを目的に、国際ボンディング協会を設立いたしました。
当協会は、世界中の様々な分野の専門家たちと、政治・宗教・慣習・文化のわくを超えて協力しあい、ボンディングに役立つ情報を相互に公開し、会員たちがさらなるボンディング形成のいい働き手となるように研鑽する場所を提供したり、ホームページや会報誌を通じてボンディングに役立つ情報を発信していきます。またより良いボンディング形成のための技術と知識とハートを持つ指導者を養成し、世界中にその活躍の場を求め、今日の社会の根底にある、親と子のコミュニケーション不足に起因すると考えられる事件については、将来的に減少することを強く望み、より良い家庭とより豊かな社会が実現するよう努力と協力を惜しまない団体であります。
私は宣言します。小さな子どもたちにとって愛情深い両親に見守られて育つこと以上に素晴らしことはありません。これこそがボンディング形成の基本単位であり、物質的な豊かさ以前に子どものために整えるべき環境の中で最優先すべきものであり、教えていくべきことであると思います。
では、子どもたちが愛を感じる家庭はどうやって作られるのでしょうか?まず、夫婦がお互いを尊重し合い、信頼し合い、いたわり合い、自分の権利を主張する前に相手の幸福を優先する心を持って生活するなら、おのずと互いに最高のパートナーとなれるでしょう。また、家族のために時間を喜んでとることは、伴侶にとって、子どもにとって、最高のプレゼントとなり、密度の濃い思い出深い時間となります。
父と母が信頼し合っている家庭で育つ子どもは、人を信頼する心、愛する心を家庭でしっかり身につけることにより、人生を肯定し、その後の人生において安定した幸福な人間関係を築いていく事ができるようになります。そしていつかその子が家庭を築いた時、良い連鎖を生み出し、ボンディングはされにその子どもに脈々と受け継がれていくことでしょう。』

国際ボンディング協会は、その後、様々な活動や講演会、セミナーを行ってきました。4本の柱として、最初は、「ベビーマッサージ」「フィータル(胎児からのボンディング)」「カウンセリング」「アロマセラピー」で活動を始めましたが、理事の交代等があり、4本の柱は「ベビーボンディングケアマッサージ」「カウンセリング」「ボンディングアロマセラピー」「ボンディングフィットネス」に変更し、各資格をとれるようになりました。発足当時は、ベビーマッサージが日本に入ってきてブームとなったこともあり、ベビーマッサージ部門の活動のみが進んでいきました。ベビーボンディングケアマッサージの資格をとり、地域の子育て支援のためにベビーマッサージの教室を開催されて活躍している会員さんが沢山います。しかし、ベビーマッサージの資格をとる団体と勘違いされている側面もあり、最初の国際ボンディング協会の目的が不明確になってしまった感も否めません。

そこで、今年の7月の理事会では、現理事自身がボンディングをどのようにとらえているか。そして、何を発信していきたいかを再度確認する作業をしました。

あなたにとってボンディングとは?:「人を否定しない。人を信頼する。その人自身を肯定する。」「居心地の良い居場所。」「人と人とをつなげる。孤独にしない。」「時代の変化に応じたコミュニケーション・関係性・伝え方。」「子ども主体。子どもの気持ちを中心に考える。」

ボンディングについて何を伝えたいですか?:「一人じゃないよ。安心感。寄り添い。」「苦しいことがあっても楽しく子育てをしてほしい。」「思う存分子ども達とハグしよう。」「親子の絆づくり、多世代の絆づくり、胎児からの絆づくり。」「便利じゃないところも大事にする生活。」「父親の役割。」「弱い人の立場に立つ。誰一人取り残さない。」「社会や環境の変化についてもっと知ろう、国際的な活動にも目をむけていこう。」

発足当時からの理事は現在一名だけです。しかし、ボンディング協会発足当時の「世界への宣言」の中のボンディングの目的や理念は、理事の中にしっかり根付き、受け継がれていました。
今の世の中は、グローバル化のなか、世の中の急激な変化で先行きが不透明になり、各地で戦争やテロが起こり、地球がこのままで大丈夫なのかと不安になります。次ぎの世代に明るい未来を残していくためにも、国際ボンディング協会の活動は益々必要とされてくると確信しています。人を信頼する心、愛する心を育むためには、命が始まるその時から、愛情深い環境の中で育つことがとても大切です。ボンディング=絆づくり=「人と人との信頼。一人じゃないよ。安心できる居場所はあるよ。」そんな社会になれるように、国際ボンディング協会は活動していきます。一人でも多くの人に活動を知っていただき、一緒に活動していきたいと思います。

親になる

2年前に、当院で生まれ、特別養子縁組となった養親さんと子どもが会いに来てくれた。私達と養親さんとは初めての対面。お互いにちょっと緊張気味。「この子が生まれた場所、そして取り上げてくれた先生を2歳になって少し周りのことがわかるようになった娘と一緒にみておきたかった。」とわざわざ会いに来てくれた。出産したLDR室、そして切迫早産で入院していた部屋をみてまわった。「お腹の中、そして、生まれてからのの数日は、ここの部屋で過ごしたんだね。ここで、あなたは生まれたんだね。」とまだ理解できない2歳の娘と話しをされていた。子どもも、初めは緊張していたが、しばらくすると、とてもリラックス。ゴロゴロとベッドに寝ころんだり・・・何か感じてくれるといいな。

私と担当だった助産師、養父母さんとゆっくりお話しをすることができた。
高校生だった実母のことを詳しくしりたいかと聞くと、今はあまり知りたくないと。自分達が聞いたことで想像する実母のイメージで、この子に実母のことを伝えたくないので・・・。この子が、もう少し大きくなった時には、きっと、乗り越えなければいけないことが出てくる、その時に、この子から出てくる気持ちに素直に答えてあげたい。その時に、必要なら、また会いにきていいですか。私達にとっても、貴重な体験、そして、沢山のことを学ばせてもらった。忘れるはずがない。いつでも来てくださいと答える。
養父からは、話しがでるのは実母の話ばかりで、男して実父のことを聞いておきたいと。実父は、最後まで悩んでいた実母の気持ちを尊重していたこと。特別養子縁組に出すと決めたことを理解し、ちゃんと手続きをしてくれたこと。そして、祖父(実母の父親)のことについても話しておいた。入院中も生まれてからも絶対面会に来てくれなかった祖父。特別養子縁組の話し合いの場所でやって来てくれた。そして、クリニックで孫をしっかり抱いてくれた。その姿をみて、高校生の実母は、やっと自分の父母としっかり向き合うことができ、生まれてきた子どものことについて父母と真剣に話し合うことができた。祖父は、「本当に赤ちゃんはかわいい。かわいいからこそ、養子に出して、きちんと育てられる養父母の元で育ってほしい」と言っていた。父親が娘ときっちり向き合って話し合ったことで、実母のなかでも養子にだす決断ができたのだと思う。自分が愛されているからこそ、父母も苦渋の決断をしてくれたのだとわかった。父親とは、そんな存在なのでしょうねと養父に伝えた。

養親になるために、どんなことを学んだのかを聞いてみた。児童相談所での里親研修、そして、鮫島ボンディングクリニック(安心母と子の産婦人科連絡協議会)での養親研修では、教えてもらったことより、レポートがとても大変だったと。
自分の嫌なところ、いいところを徹底的に見直させられた。自分の嫌なところには、みんな蓋をしてみないようにする。その蓋をあけて自分の嫌なところを出しなさいと言われ、その作業がとても大変だった。自分にとっては、不妊症の治療が思い出したくない嫌なこと。それを自分自身で認めることが大変だった。私が、子どもが授からないなんて、全く思っていなかった。自然に妊娠して子どもができるものだと思っていた。生まれるって本当に凄いことなんだと、今は思う。だから、中学生や高校生の頃から、「生まれるって凄いことなんだ」と教えてほしい。自分は、バリバリと仕事をしていた。もし、すぐに子どもが授かったら、何も考えず、仕事も育児もして・・・、子育てについて今のように感じなかったと思う。本当に子どもがいる幸せを感じながら、子育てをしていなかったと思う。自分が子どもが授からないとわかった時、色々なことを削っていったら、子どもを育てたいと本当に思い、養子をもらうことを選択できた。
自分の育ってきた親子関係についても、良かったことと、嫌だったことを振り返る作業をした。振り返ることで、自分が親にされて嫌だったことは、子どもにしないようにしようと、きちんと思えるようになった。
今でも、自分達が出産していないことで、普通の親達の仲間に入っていけないこともある。鮫島ボンディングクリニックで開催してくれる養親の会はとてもありがたい。同じ立場での悩みを相談でき、身内のような関係になれる。他の特別養子縁組の斡旋団体では、養子縁組が成立したら、全くフォローのないところもある。養父母をずっと支えてもらえることで、安心して子育てができている。

養親になるためにいろいろ学んだと思うが、親になるために、何が一番大切だと感じたかを聞いた。
「子どもときちんと向き合うこと。そして、信じること。」
親が最も大切にしなければいけないことだと私も思う。私達のような出産施設が、無事に赤ちゃんが産まれてその後の育児技術は教えていても、「親になる」ということを伝えられているのだろうか。

「また、遊びにおいで」と養親さんと子どもに手を振りながら、「うまれる、親になる」のスタートとなる現場にいる私達が大切にしなければいけないことをもう一度考えたいと思った。

特別養子縁組

特別養子縁組を知っていますか?

実母が、自分が生んだ子どもを育てられないと判断した時、子どもを手放し、子どもを育てたいと思っている養親に託し、裁判で養子縁組を行い、養親が自分たちの子どもとして育てていくことが、特別養子縁組である。子どもの幸せを第一として考える。

自分の子どもを手放す生母に対し、本当に自分では育てられないのか、周囲の人に助けてもらえないのか、自分の気持ちは本当にそれでいいのか・・・。一緒に寄り添い、考えていく支援者が必要である。養子に出したいという妊婦さんに対し、自分自身と向き合い、自分で育てる選択肢についてもしっかり考え、自分で養子に出す決心をしてもらう。養子に出してからも、生母の気持ちに寄り添い、避妊指導などの、自分の望むときに妊娠
できるような知識を教えていくことも必要になる。

妊娠期間という普通なら子どもを育てる準備があるはずなのに、養親は突然に子どもが決まったことを伝えられ、子どもを迎える準備を慌ただしくしなければいけない。周囲の目も気になる。ママ友などの仲間ができるかも不安である。子どもが生母の元に帰りたい、自分たち親を否定したら・・・という不安と一生付き合うことになる。自分たちが、この子どもを養子にしたことを後悔することはないか、子どもから「あなた達が親でなければ・・・」という言葉が発するのではないかと思う時もあるだろう。養親をずっと支えていく支援者も必要である。

そして、養子となった子どもの気持ちはどうなのだろう。
養子当事者の本音20の項目(Sherri Eldridge,Twenty things adopted kids with their adoptive parents knew(1999)より)養子当事者の本音(わかってください)
1. 私は養子縁組される前に深い喪失を経験しました。それはお父さんやお母さんの責任ではありません。
2. 私は何の恥じらいも無く、自分が養子縁組のための喪失による特別なニーズをもっていることを学ばなければなりません。
3. 私の喪失を哀悼しなければ、お父さんやお母さんや他人の愛を受け入れづらくなります。
4. 私の解決されない悲しみが、お父さんやお母さんへの怒りとして表れるかもしれません。
5. 私の喪失を悲しめるように助けてください。養子縁組に対する私の感情と接し、認める方法を教えてください。
6. 私が実親について話さないからと言って、彼らのことを思っていないわけではありません。
7. お父さんお母さんから先に、実親に関する会話を始めてください。
8. 私を身ごもった時から出生、家族の歴史について詳細に知りたいです。たとえそれが痛々しい話だとしても。
9. 私は自分が悪い赤ちゃんだから、実親が私を託したように感じます。害となる恥じらいから解き放たれるように助けてください。
10. お父さんお母さんが私を見捨てるのではないかと怖いです。
11. 実際の私よりもより完全に見えていると思います。隠れている部分を表し、自分のアイデンティティーを統合できるように助けてください。
12. 私は自分に力があることを知る必要があります。
13. 私がお父さんやお母さんに似ているとか、同じ行動をすると言わないでください。互いに違うことを認め喜んでください。
14. 本当の自分自身になれるように助けてください。でも、私をお父さんやお母さんから突き放さないでください。
15. 養子縁組に関する私のプライベートも尊重してください。私の同意なしに他の人に話さないでください。
16. 誕生日は私にとってつらい日でもあります。
17. 家族歴がわからなくて苦しいです。
18. 私がお父さんやお母さんから手におえない子ではないか怖いです。
19. 私が恐れを過激な方法で表現するとしても、私を受け入れて思慮深く対応してください。
20. 私を産んでくれた親を見つけたとしてもお父さんお母さんがいつまでも私の親であることを願います。

養子に出された子どもは、生まれた時から、悲しさや恐れをもっているのでしょう。「優しい素敵な養親に育ててもらって、幸せね」といった簡単なものではない。でも、これは養子に出された子どもの本音だけでなく、実の親に育てられている子どもの心にもあるのかもしれない。自分の本当の姿を認めてほしい、一人の人間として尊重してほしい、自分の力を信じたい、何があっても自分を見放さないでほしい。そんな子ども達の声が聞こえてくるように思う。

未来の子どもたちのために必要な持続可能な開発フォーラム

平成29年5月7日三重県総合文化センターにて「未来の子どもたちのために必要な持続可能な開発フォーラム」を開催した。持続可能な開発・みえ(SDGs・Mie)を設立した記念フォーラムでもある。

2015年国連総会にて、グローバル社会の目標として「持続可能な開発目標(SDGs)」が合意された。この合意により、貧困を終わらせ、すべての人が平等な機会を与えられ、世界環境を壊さずに、よりよい世界を送ることができる世界を目指して努力することが約束され、2016年から2030年までの15年間、世界中の国々はこの「グローバル目標」の達成に向けて取り組んでいくことになった。
持続可能な開発とは、将来の世代のために環境や資源を壊さず、今の生活をよりよい状態にすること。そのためには、より公正で公平な社会に向けてみんなが努力し、大きな変化をもたらしていく必要がある。持続可能な開発・みえ(SDGs・Mie)は、自分の暮らしている地域が、誰一人取り残されず、持続可能な地域となり、次世代に豊かで優しい未来を残していけるように、全ての人びとが関心を持ち、一緒に取り組んでいくことを目的とした。

基調講演「持続可能な開発とSDGs」~地域から地球へ、私たちから子どもたちへ~茨城大学人文社会学部 准教授:野田真里先生
持続可能な開発とは?定義:将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発→世代をこえた開発が課題

開発(Development)とは?:De+envelope→封印されたもの、閉じこめられたものが開放されること。
日本語の開発とは、もともとは、仏教用語の開発(かいほつ)の意味で、生きるあるものすべてに備わっている、種が開花すること。仏性開発(ぶっしょうかいほつ)とは、仏になる(悟りを開く)潜在能力が開花すること。
開発とは、潜在能力の開花と考えると・・・外から、上から一方的に押しつけられる、持ち込まれるものではない。多様な主体が協働して、自分達の潜んでいた力を開花していくことが重要。お金や偏差値などの画一的な価値ではかれるものではなく、比べられるものでもない。それぞれの社会の歴史、伝統、文化、風土、地理、社会のあり方等に根ざしたものであるべき。多様でそれぞれが尊い存在である。つまり「誰一人取り残さない」

持続可能(Sustainable)とは?:Sus+tain+able=「下、下位」+「保つ、含む」+「可能・できる」→語源から考えると「下から支えて、踏ん張って、多様性を含み、保ちつづけられる」。
伊勢神宮では式年遷宮と言われる行事があり、25年ごとに神の社を新しく建て替えていく。なぜ、それが必要なのか?伝統を受け継ぐためには、技術をもった職人達が次ぎの世代に技術を伝承していく必要がある。そして、常に新しいものへ引き継がれていく。伊勢の地で持続可能な開発を発信していくのは、伊勢神宮の「常若(とこわか)」の思想が根付いている地であることから意義があると思う。

以上のことを考えて持続可能な開発を再定義すると・・・個人、組織・団体、地方自治、国、世界、地球等の潜在能力を開花させていき、下から支え、踏ん張りながら、包括的に誰一人取り残されないように保ちつづけるとこと。

持続可能な開発(SDGs)というと、難しい言葉で、自分とは関係なく、世界の環境問題などをしているえらい人達が話し合っていることでしょ?というイメージが強かった。しかし、この講演を聴くと、持続可能な開発とは、一人一人が大切にされ、多様性をもち、内発的・自発的なものから立ち上がり、自分達の潜在的な力を開花させ、より良い社会になるように、協働しながら進んでいきましょう、ということなのだと気づかされる。自分達が日常の生活のなかで、自分の力を開花していくことが、グローバル社会に通じていくのだ。

ESD(持続可能な開発のための教育)のフォトランゲージの手法を経験した。
日本の宴会場で、ケーキがテーブルの上にありあまるほど並んでいる写真と、東北タイの農村の干ばつでひからびた大地にすわりこむこども達の写真を同時にみる。白砂糖の写真とサトウキビ畑の写真を同時にみる。
学校での○×の授業では、正解は一つだ。発展途上国での原材料の生産は、価格が不安定で大暴落すれば益々貧困を生み、消費する先進国はそんなことは関係なく、安い原材料を大量に求め、格差を増大している。といった答えが正解になるのだろう。
しかし、SDGsの観点から見てみると、正しい答えというのはない。
先進国の豊かな生活、贅沢な生活は、途上国の環境破壊や貧困の上に成り立っている部分もある→SDGs1:貧困、SDGs10:人々や国の不平等
砂糖価格の下落に伴い、タイのサトウキビ島では、栄養失調、飢餓の問題が深刻化→SDGs2:飢餓
行き過ぎた贅沢な食生活は生活習慣病の要因→SDGs3:すべての人々の健康
農村の生態系の破壊、貧困化、出稼ぎ、土地なし農民による地域社会や家族の絆の崩壊→SDGs15:陸の豊かさ、SDGs13:気候変動、SDGs6:安全な水、SDGs11:持続可能なまちづくり、
都市部の成長と農村の貧困化による格差。都市にでた農民は不安定な雇用、児童労働、人身売買・売春、不十分な教育、劣悪な居住→SDGs8:適切な雇用と経済成長、SDGs5:ジェンダー、SDGs4:質の高い教育
このように、様々な視点から課題がみえてくる。

地域から地球へ、私たちから子どもたちへ:今後のSDGs・Mieの活動
1)「ないものねだり」より「あるものさがし」:地域には、持続可能な開発を行動するための宝がたくさんある。それをまずは、見つけていこう。
2)地域社会のネットワークを作っていこう:県内だけでなく、県外、世界と交流し連携していこう。
3)みんなが主役:協働のパートナーシップとして活動していこう。
4)次世代に向けての活動:多様な価値、多様な学びの場をつくっていこう。

地域での持続可能な開発を実践している静岡県牧之原市の西原茂樹市長の「協働のまちづくりとは?」の講演。
協働のまちづくりで一番大切にしているのは、「対話(ダイアログ)」。
対話のルールは
1. 全ての人が対等。
2. 人の意見に耳を傾ける。
3. 頭から人の意見を否定しない。
4. 一人だけがしゃべらない。
5. 明るく、楽しく、中身濃く。
理念;対話で話し合う
スキル:市民自身がファシリテートする。市民ファシリテーターの養成(今は高校生も参加している)
インフラ:みんなが話しやすい空間をつくる
H25年には「牧之原市政への市民参加に関する条例」でこのシステムを担保した。
人が行動するためには、対話のプロセスが必要。学んで→気づいて→共感して→してあげて、してもらって→ありがとうの気持ちが幸せを作っていく。してもらって、してあげること(SHIEN)で、人と人、組織と組織、つながって重なって、互いの力を引き出しあうことが協働のまちづくり。
協働のまちづくりでなぜ対話をするのか?:重要な事は市民と一緒に決める。市民が主体的になり、皆でやる気を出してまちづくりに取り組むために。人はだれでも主役になれる。一億総活躍社会は、国民が主役になってやる気になるようにしてあげること。

今回のフォーラムの参加者達は、持続可能な開発(SDGs)とは、世界の難しい話ではなく、自分たちの身近な課題について、自分たちが主体的に取り組むことだと感じたはずだ。自分たちが今生活しているなかで、自分たちが少し立ち上がり、より良い未来に向かって開発(かいほつ)していくこと。そう考えると、明日からが、少しずつ楽しく幸せな気持ちに向かっていくように思う。そして、それがグローバルにつながっていくのだろう。

映画「LION/ライオン~25年目のただいま~」

「LION/ライオン~25年目のただいま~」の映画を見た。
ストーリー:インドのスラム街で暮らす5歳の少年サルーは、兄と仕事を探しにでかけた先で停車中の電車で眠り込んでしまい、家から遠く離れた大都市カルカッタまで来てしまう。そのまま迷子になったサルーは、やがて養子に出されオーストラリアで成長。25年後、友人のひとりから、Google・Earthなら地球上のどこへでも行くことができると教えられたサルーは、おぼろげな記憶をたどりながら、本当の母や兄が暮らす故郷を探し始めるという実話に基づいて映画だ。
私のクリニックでは、特別養子縁組について勉強し、産婦人科施設で特別養子縁組を行っている協議会に参加している。最近、1組の特別養子縁組を経験した。この映画から、深く考えさせられるものが沢山あった。

少年サルーについて:5歳までは、インドのスラム街で貧困の中、家族のために母や兄の仕事を手伝っていた。貧困の中でも、家族の役に立てている幸せを感じ、母や兄弟の愛に満ち溢れた中で楽しく暮らしていた。特に母と兄の愛情が、彼の記憶の中に深く刻まれていた。子どもの発達の中で、3歳までの親子の愛着形成はとても大切で、親が子どもの「安全基地」になると言われている。「安全基地」というのは、安心して眠れる場所である居場所、いろいろと行動する時の拠点である居場所という意味がある。子どもは、「気持ちを受け止めてもらい」「あるがままの自分に戻れる」安全基地があるから活発に外に出ることができる、自分が安心できる安全基地があることが、その後の外に向かって行動していくための必要条件である。サルーは、5歳で迷子になったが、実の母親や兄が「安全基地」になっていた。そして、小さいながらも記憶に残る光景があった。だからこそ、成人になり、十分に幸せな生活や将来があるのに、それを放棄してでも実の母や兄を探す道を選んだのではないかと思う。

養子・里親について:サルーは、素晴らしい慈悲深い里親のもとで成長する。もう一人養子にもらわれてきた弟は精神的に問題のある子どもだったが、里親は二人の子供を苦しみ悩みながらも本当に愛情深く育てた。里親になる理由は、いろいろある。日本では、子供に恵まれなかった夫婦が、特別養子縁組することが多い。この母親は、アルコール依存症の父親がいる家庭環境で育ち、それがとても嫌だった。しかし、ある雷の日に神の啓示を受け、里親になることを決意し、その気持ちを理解してくれる夫と結婚した。自分が子どもを産み自分の子どもを育てるのではなく、最初から世界の中の不幸な子どもを引き取って育てようと決めていた。そんな慈悲深い両親に育てられたサルーは、本当に幸せだったと思う。インドのスラム街で育っていれば、教育も受けることができず、全く違う人生となっていただろう。でも、大学生になり、親元から離れ、友人たちと自分の母国の話題になった時、自分のルーツに苦しむ。自分は本当は何者なのだと。
養子になった子どもに、実の両親ではなく、生みの親と育ての親が違うことを告知することは難しい。特に特別養子縁組では、自分の記憶のない時に養子となり、戸籍も変わっている。育ての親は、実の子どもとして大切に育ててくれている。でも、実際には自分を産んでくれた親はどこかにいる。早い段階で告知したほうがいいと言われている。自分のアイデンティティが確立してくる思春期以降に告知されると、非常に本人は苦しむと言われている。今回の映画のラストで、里親がインドに行き、育ての親と産みの親が抱き合う現実の映像が流れた。二人の母親の思いを考えると、なんとも言えない感動を覚えた。

社会的な問題:世界の中では、貧困の中で暮らしている子ども達がいる。労働のため教育を受けられない子ども達がいる。いろいろな理由で孤児となり路上で暮らす子ども達がいる。人身売買される子ども達がいる。サルーは、劣悪な孤児院に入ったが、本当に運よく素晴らしいオーストラリアの里親に引き取られることになった。サルーは、迷子になった時、自分の意思で危ない大人から走って逃げた。逃げなければ、この里親に出会うことはなく、どんな人生が待っていたかわからない。不幸な子ども達が世界からいなくなるように。子どもが物として扱われ、大人のお金の対象にならないようにと願う。

周りをみると、何の不自由もなく育ち、自分の幸せのために生きている人が多い。でも、世界には、沢山の問題があることに目を向けてほしい。自分たちが何かすることはできなくても、その問題に意識を向けることはできる。是非、沢山の人に見てほしい映画だと思った。
プロフィール

柳瀬幸子(やなせさちこ)
産婦人科医。三重大学医学部卒業後、三重大学大学院医学研究科博士課程修了。
ヤナセクリニック院長として多くの命の誕生に立ち会う中、女性のライフサイクルに応じた幅広い医療の提供、お母さんと赤ちゃんに優しい出産、妊娠中から育児中を通してのサポート、育児支援に力を入れている。著書に「地球(ここ)に生まれて」、共著に「効果テキメン! アロマ大百科」など



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