柳瀬幸子の「地球(ここ)に生まれて」

三重県津市にあるヤナセクリニックの院長・柳瀬幸子のブログです。 ヤナセクリニックの基本理念: 私たちは、患者様の思いを尊重し、患者様に寄り添った医療やケアを目指します。 ヤナセクリニックの基本方針: 1.安全、安心なお産を提供し、出産の喜びと子育ての楽しさを感じられるような支援を行います。 2.女性の健康増進のために地域から信頼される医療を提供します。 3.子どもを大切にする街作りを応援します。 ヤナセクリニックのモットー:良いお産、楽しく子育て!!

三重県津市にあるヤナセクリニックの院長・柳瀬幸子のブログです。

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<ヤナセクリニックの基本理念>
私たちは、患者様の思いを尊重し、患者様に寄り添った医療やケアを目指します。
<ヤナセクリニックの基本方針>
1.安全、安心なお産を提供し、出産の喜びと子育ての楽しさを感じられるような支援を行います。
2.女性の健康増進のために地域から信頼される医療を提供します。
3.子どもを大切にする街作りを応援します。
<ヤナセクリニックのモットー> 
良いお産、楽しく子育て!!
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嬉しい訪問

先日、「報告したいことがあって来ました」と若い女性がクリニックを訪ねてきてくれた。あまり見覚えのない顔に、最初は、誰だろう?と思ったが、彼女は、高校生の時に妊娠・出産し、悩んで悩んだすえに、特別養子縁組に子どもを出すことを決めたA子さんだった。3年たって大人っぽくなり、別人のようにしっかりしていた。
高校を卒業した後、進学したというのは聞いていたが、その後のことは知らなかった。
A子さんは、「就職が決まりました。公務員試験に受かり、春から公務員として社会人となります。それが、報告したくて来ました」と言ってくれた。わざわざ、クリニックを訪れてくれたことが、本当に嬉しくて、我が子のように涙が出そうだった。

A子さんが初めて外来に受診した高校生のとき、その当時付き合っていた彼と、出産したら一緒に子どもを育てることを考えていた。しかし、両親は絶対反対だった。彼はどうするのかがはっきりしない人で、自分は子どもをA子さんと一緒に育てたいけれど、A子さんの意思に任せるという意見だった。切迫早産のため出産するまで入院することになり、長い入院生活で、スタッフも家族のような気持ちでA子さんのことを見守っていた。親子のちょっとしたボタンの掛け違いで、両親とA子さんは、お互いに正面を向き合って話ができなくなっていた。妊娠中、母親は面会に何度も来てくれたが、お互いに差し障りのない会話をすることしかできず、赤ちゃんのことについて本音で話し合うことができなかった。お互いに嫌いなわけではなく、愛情があるのに、差し迫った大切な決断に対しては、なるべく触れないように、表面的な話しをして仲良く過ごしているようにみえた。無事に出産し、赤ちゃんと触れ合いながら、A子さんも母親も赤ちゃんのことをかわいがり、楽しそうに過ごしていた。しかし、自分達で育てるのか、特別養子縁組に赤ちゃんをお願いするのかを決断しなければならなかった。話し合いをしたが、両親の特別養子縁組に出すという意思は揺るがなかった。赤ちゃんをクリニックに残して、数日間A子さんは実家に帰り、両親との時間を過ごした。そこで、本人と両親がやっときちんと正面に向き合って話し合うことができた。決断は、特別養子縁組をお願いすることだった。クリニックに帰ってきたA子さんとお母さんは、すっきりした顔で「特別養子縁組をお願いします」と私達に言ってきた。親に言われたからではなく、自分で決めたことなのだと、その顔をみてよくわかった。そして、母親との関係もとても良くなっていた。自分がどんなにご両親の愛情を受けて育ててもらったのかが、わかったのだと思う。

昨年は、養親さんと子どもがクリニックを訪れてくれた、とても素敵なご夫婦に育てられ、とても可愛く賢くすくすくと育っていた。養親さんが、いつかきちんと子どもに「あなたには生んでくれた母親がいる。事情があって育てることはできなかったけれど、とてもあなたのことを愛していたのだよ。」と伝えてくれる日がくる。きちんと伝えるために、クリニックを訪れてくれた。そして、子どもは、きっと生母さんの決断を理解して受け入れてくれる日がくるだろう。生まれてすぐにA子さんから沢山の愛情をもらっているから、きっとわかってくれると思う。

A子さんが報告に来てくれたのは、退院後、自分なりに一生懸命生きて、頑張ってきたことを私達に報告したかったのだと思う。あの時、本当に苦しい決断をしたけれど、彼女の人生においてあの決断は間違ってなかったねと心の中で言ってあげた。そして、あの時のあなたへの私達スタッフの関わり方は間違っていなかったよねと、少しほっとした気持ちになった。「お母さんは、就職が決まって喜んでいた?」と聞いたら、「私以上に喜んでいます」と言っていた。ご両親が、A子さん以上に苦しく悲しい決断を自分のためにしてくれたことをわかっているから、これからは、沢山親孝行してあげてねと思う。

高校の校長先生に、「教師の仕事をしていて良かったと思うことはありますか?」と聞いたことがある。「三年に一度くらいは、こいつの人生で少しは俺が関わったことが役に立ったかな、と思う経験がやってくるんですよ。そんな時に、本当にこの仕事をしていて良かったなと思います」と話しをしてくれた。今回、私もA子さんの人生にとって、私達スタッフが一生懸命関わったことが、少しは彼女の人生の選択に役に立ったかなと思えた。彼女の訪問は、本当に良かったねと思える幸せな時間だった。

カンボジアからの客人

2018年3月3日、4日とカンボジアからSam An Rosさんが来日して、一緒にミーティングをする機会がありました。彼は、サンティ・セナというカンボジアにあるNGOの事務局長代行をしています。今回、SDGsみえ副代表の茨城大学野田准教授が日本に彼を招待したご縁で、三重県に訪問してくれました。

カンボジアの歴史や仏教について、今までほとんど知識がない私にとって、今回の彼の訪問は、カンボジアに興味を抱くきっかけとなりました。日本の寺は、昔は、地域における様々な役割を果たし地域コミュニティの中心でありましたが、カンボジアにおいて農村部の仏教寺院は、コミュニティの中心であるだけでなく、教育、孤児や女性のためのシェルターの機能、道や橋の修復などの公共事業も担っていました。1970年代前半までは、南伝仏教は、カンボジアの価値観の基礎であり、仏教儀礼実践は人々の生活に規律と秩序をもたらしていました。
しかし、1970年から、カンボジアは長い内戦の時代となります。そして、1975年4月にクメール・ルージュは首都プノンペンを占領します。そして、1976年5月にポルポトが民主カンプチアの首相になります。民主カンプチアの国家体制は中華人民共和国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、その実現のために都市住民を農村に強制移送させ、食料増産に従事させました。200万人のプノンペンの市民が強制退去させられ、農村に連行され、知識人と言われる教師や僧侶が大量虐殺されました。ポルポトの時代に150万人以上が殺害されたといいいます。寺院は封鎖され、ほとんどが解体され、仏像は兵士によって破壊され、古代からの経典は焼き払われました。その後、1991年にカンボジア和平パリ協定が調印され、1998年ポルポトはジャングルで死亡し、20年以上にわたる内戦は終了しました。
内戦終了後は、仏教僧が、人々の心の支えとなり、貧困・教育などの社会貢献を行っている団体がいくつか立ち上がりました。Sam An さんが働く、サンティ・セナ(Santi Sena)は、その一つです。
サンティ・セナ(Santi Sena)は、カンボジアのベトナム国境近くにあるスバイリエン州にあり、仏教僧の二ェム・キムテン氏が代表をつとめています。1994年に設立されたNGOです。サンティ・セナのビジョンは、「カンボジアの人々が平和・正義・社会福祉および尊厳ある生活を送ること、そしてカンボジアの豊かな生態系と自然環境の調和の取れた生活を送ること」。そのミッションとして「関連の行政機関とよりよい親密な連携の下に貧困を撲滅すること、社会的弱者に焦点を当てて活動すること、社会的暴力をなくすこと、人権・民主主義・社会の法そしてアドボカシーを推進すること、女性のエンパワーメントを行うこと、そして天然資源の保護に貢献すること」。活動のゴールとして「全ての人々、とりわけ小農、女性、障害者、若者、高齢者そして子どもたちによりよい充実した生活を確かにするものとする」。と掲げています。

Sam Anさんは、貧困の家に生まれました。カンボジアでは普通の学校と仏教学校があり、貧しい家の子ども達は仏教学校に入ることができます。僧侶になるための勉強以外に、普通の学校で学ぶ勉強もできます。仏教学校で学んだあと、Sam Anさんは、サンティ・セナで働くことになります。働きながら片道3時間かけて、プノンペンの大学に通いました。土曜日の早朝に出発して、日曜日の夜に帰ってくる生活を続けました。交通事情がその当時はとても悪く、友人は途中で命を失くしたそうです。彼がサンティ・セナで今後の力を入れたい活動は、教育、特にChild Careだといます。親たちに衛生概念がなく、手を洗ってから食事をするということから、幼児の間に教えていきたいといいます。
各国の保育園や子育て支援施設を参考に、Child Careの施設を作っていきたいとの思いで、今回の来日でも保育園や私の産婦人科施設内の子育て支援の場所を興味深く見学していきました。ディスカッションをするなかで、私は、乳幼児の子育てには、その地域や民族の伝統や文化が深く関係しているので、他の国の新しい近代的な子育て方法が全て良いというわけではなく、逆に、古くからの伝統的な慣習や方法が全て時代遅れで悪いわけでもないと思っていることを話しました。日本の古くから受け継がれてきた子育ては、戦後、アメリカからの先進的な子育て論が入ってきて、日本人が古くから大切にしてきたものが、随分失われてしまいました。自分が住んでいると気がつかないけれど、カンボジアの伝統的な子育てや育児方法にも素晴らしいものが沢山あるのではと思います。とりあえず、カンボジアに行って、カンボジアの生活や文化に触れて、それから一緒にChild Careについて考えていきたいと話しをしました。

今回の彼の訪問でのもう一つの大きな目玉は、茨城大学生と三重大学生のコラボによるフォーラム運営です。茨城大学の野田ゼミ生達は、夜行バスで三重県津市に来てくれました。前夜祭では、我が家の「のびすく」でお寿司とおでんを食べながら翌日のフォーラムの打ち合わせをしました。大学生達がSam Anさんの英語の通訳をしてくれます。私の大学時代には、こんな経験をしたこともなく、若い時にいろいろな経験ができる今の大学生を羨ましく思い、大学生の若く自由で楽しい姿に、こちらもリフレッシュさせてもらい、パワーを沢山もらいました。
そして、翌日の本番です。津市の前葉市長も駆けつけてくださり、大学生達にとても素敵な話をしてくれました。持続可能な開発をすすめていくためには、「君たち若者が、声をだし、意見をいうことが必要です。その声をしっかり受け止め、行政は動きます。そして、未来の社会に向けて進んでいきましょう」熱いメッセージを若者達に投げかけてくれました。市長自らの声を届けてもらって、大学生達は感激したのではと思います。
今回のテーマは「子どもの貧困」です。野田准教授、Sam Anさん、私の講演のあと、学生たちが発表してくれました。三重大学院生からは、授業で話し合った「子どもの貧困」について。さすが大学院生だけあって、「子どもの貧困」について自分たちがどのようにとらえたか、そこからの様々な資料を通しての自分の考えをまとめてくれました。お金がないという面だけでなく、貧困をどのようにとらえ、子ども達にどのような影響を及ぼすかの視点がとても興味深かったです。次は、三重大学カンボジア支援団体(CSU)メンバーからの発表。「カンボジアの小学校で運動会をしよう」という活動の発表でした。自分たち学生が、企画し、準備し、寄付を募り、カンボジアの学生や大人の協力のもとで、子供達との大運動会の様子を報告してくれました。「やりたい」を行動にうつし、実現し、感動と幸せをもらって帰ってきた姿がとてもまぶしく、素敵でした。最後に茨城大生の発表です。ゼミの中でSDGsについて学び、カンボジアに研修ツアーにいった紹介でした。自分たちがカンボジアに行って感じたことで、何かできないかを考えました。SDGs茨城の缶バッチを作ったり、フェアトレードでカンボジアの小さな置物を学祭で売ったりしました。その資金をサンティ・セナの学校建設の資金に充ててもらおうと今回Sam Anさんに寄付をしていました。国際的な目線で大学の授業を受け、学ぶことができる学生は幸せだなと思いました。
打ち上げの食事会では、ほとんど女子大生だったため、ジェンダーについての私の思いを少し話しました。妊娠・出産というのは、女性にしかできない、とても素晴らしいことであり、自分のライフプランの中に考えていってほしい。そして、これから大学を卒業して、社会人として生きていくなかで、「女性だから」とか「親が女の子なんだから○○にしなさい」という理由で不満を持ちながら自分の生き方を選択していくのではなく、「自分はどのような生き方をしたい」と自分の声で、親や友人やパートナーや社会に対して発言できることが、ジェンダーの平等ということだと思うと話しをしました。若い人達には、もっともっと伝えたいことが沢山あります。

今回、Sam Anさんと会うことができ、そして、大学生と一緒に過ごすことができ、私にとって大きな学びと収穫の時間を過ごすことができました。いつか、近い時期に、カンボジアに行こうと思います。Sam An さんの温厚な優しい風貌から、きっとカンボジアは感謝の国なのだと想像しています。そして、私の知識が少しでもお役にたてるのなら一緒に何かしていきたいと思います。これから、何ができるのか、また楽しみが増えました。ありがとう、Sam Anさん。

オリンピックで思うこと

平昌オリンピックが始まりました。期待された選手がメダルを獲得しています。メダリスト達のコメントを聞きながら、感動とともにいろいろなことを考えています。
メダリストになるためには、個人の才能は一番大切でしょう。しかし、それだけではメダリストにはなれません。メダリスト達は、必ず、「自分一人でとったメダルではありません。支えてくれた人達全てに感謝します。」と感謝の言葉を口にします。

メダリストなるために、私が思うこと。
自分にあった競技:どの選手も人並み以上の身体能力があるのでしょうが、競技種目を変えたことで、トップアスリートになった人もいます。そして、自分が全てを捧げてもよいと思える競技に巡りあえたことは幸せなことです。巡りあうためには、いろいろなチャレンジが必要です。やってみたら、とても楽しかった、上手くいったという経験が、その後につながっていくのだと思います。チャレンジする勇気、一歩を踏み出す勇気、そして、ダメな時には道を変える勇気も必要なのだと思います。

家族の協力:どの競技でもお金がかかり、資金面や快適な競技生活を送るための家族のサポートはかかせません。周りの子ども達とは違う生活、学業との両立、小さい頃から親元を離れて競技に打ち込んでいる子ども達もいます。両親の心配は並大抵ではないと思います。大きなケガや命の危険と隣り合わせです。子どもを信頼して送り出す親の気持ち、親も肝が据わっていないとできないことでしょう。

指導者との出会い:自分の能力を最大限に引き出してくれる指導者が必要です。指導者は、自分の経験だけでなく、最新の知識や技術を習得し、科学的な分析を行い、トレーニング内容、メンタルのサポート、身体作りなどの様々なアドバイスが必要となります。チーム体制で沢山の専門家が関わって選手を支えています。自分が信頼できる指導者とサポート体制の中で、いかに競技に集中することができるかは一番大切なことでしょう。自分一人がとったメダルではないとみんなが言うのは、自分のために沢山の人が本気で関わってくれるていることをわかっているからこその感謝の気持ち、そして、そういったことがわかっているからこそ、一流になれるのだと思います。

応援してくれる人達:羽生選手は、東日本大震災で拠点となるリンクが使えなくなった時、全国各地を転々としながら、招待してもらったアイスショーに参加し、リンク管理者の厚意で練習時間を確保してもらったといいます。苦境にたった時に手を差し伸べてもらった恩は忘れません。自分のためだけでなく、自分を支えてくれた人のためにも、人は頑張れるのだと思います。

ライバルやあこがれの存在:目標がないと、なかなか人間頑張ることができません。競技の成績だけでなく、人間的にも素晴らしいライバルや先輩・後輩の存在は大きいと思います。目標とする人、負けたくない人がいることは幸せなことですし、自分を成長させてくれます。尊敬できる友が、本気で闘っているからこそ、自分も必死に闘えるのでしょう。オリンピック中で、メダリスト達がお互いに賞賛しあう姿は、美しく清々しいものです。人生の中で、そんな仲間に巡りあえることは幸せですね。

めぐり合わせ:そのスポーツが、今注目される競技で、競技生活を快適に行える環境であった。自分のピークがちょうどオリンピックの年であったなど・・・。その反面、実力があってもオリンピックのメダルはとれなかった人は沢山います。ついている人とついてない人はやっぱりいます。人生のなかには、「ついてる」ときはあります。でも、それを結果につなげられるかは、日々の努力がなければつながりません。

自分に負けない心、レジリエンス:最後は、やっぱり自分に勝つことでしょう。どんな人間でもさぼりたい、楽をしたい、苦しいことから逃げたい気持ちがあります。不調な時、ケガをした時、後輩が追い上げてきた時・・・もうやめたい、不安で心が押しつぶされそうな時があります。他人をみて、羨ましく思い、妬みに変わることもあります。他人のせいのアクシデントで競技ができなくなり、憎しみに変わることもあるでしょう。それでも、その気持ちに打ち勝つ自分があるか。試合に負けて悔しくたまらない時、冷静に自分を見つめて、それをばねにすることができるか。調子がよい時、上手くいっている時には、有頂天にならずに、自分を見つめなおしてもっと高いところを目指せるか。メダリスト達には、自分に負けない強い心を感じるから、人を感動させるのでしょう。

このオリンピックを見て、自分もこんな風になりたいと、大きな夢を抱いた子どもがいるかもしれません。夢は実現できると信じて、前にすすめるか、それは周りの環境が大きく影響します。全ての子ども達に夢をもってほしい。子どもの頃に、自分に負けない心を育んでほしい。全ての子ども達が前に進めるように、応援できる社会であってほしいと思います。そして、大人たちも、いつまでも夢をもって進んでいきたいと思います。

私の夢は、「赤ちゃんとママに優しい」産院を作ること、女性の駆け込み寺のように気軽に相談できる医師であること、そして、生まれてきた全ての赤ちゃんが幸せに育つこと。そんな夢を実現できるように頑張ろうとオリンピックを観ながら勇気をもらっています。

広げよう!ボンディング

孫が生まれて1カ月半が過ぎました。
私は、親子の絆作りを目指した国際ボンディング協会に参加しています。赤ちゃんが生まれてボンディング(絆つくり、つなぐ、つながる)について改めて考えてみました。

娘は、ヤナセクリニックに4月から助産師として勤務を開始したのですが、その月に妊娠が発覚しました。現在ヤナセクリニックは職員の出産ラッシュのため産休、育休者が多く大変ですが、みんな快く妊娠中のスタッフを応援し支えてくれています。新しく入ったスタッフも一生懸命やってくれています。職場でのスタッフ同士のボンディングです。働き方改革、女性の優しい職場になるためには、スタッフ間のボンディングがとても大切ですね。

出産後は、娘は母子同室でずっと過ごしました。一晩陣痛が続いたので疲れていましたが、母乳だけで、ミルクを足さずにいきたいという本人の希望に添うように、生まれた日から母子同室です。しかし、夜は少し休んだらと、3時間だけ新生児室に預かってくれて、泣き止まない赤ちゃんにミルクは足さずにずっとスタッフが抱っこしてくれていたそうです。生まれたばかりでの頻回授乳は大変だったようですが、この時の母子同室、頻回授乳、そして、少しだけ赤ちゃんを預かってみてくれたこと、ミルクを足さなかったことが、完全母乳につながっていると娘は言っていました。また、乳房のうっ滞期の痛みを伴う時には、助産師が適切に乳房マッサージをしてくれました。母乳哺育は、ミルクを作る手間がなく、退院してからもとても楽に育児ができているようです。母乳哺育は、母子のボンディング形成にはとても重要です。助産師という母乳に対するプロがいかに適切に指導、支援してくれるか。母乳哺育が上手くいくことは、子育てのスタートに親としての自信につながります。助産師とママのボンディングです。

産婦人科医として毎日仕事が忙しいパパは、できる範囲内で子育てに参加してくれています。実家に娘が里帰りしている間も、よく泊まりにきてくれて、おむつかえ、抱っこ、お風呂をいれてくれます。買い物もしてくれます。でも、ゴルフに行くし、飲み会にもいくし、自分の時間も大切にしています。無理のないパパの育児参加です。パパとママ・赤ちゃんのボンディングです。

入院中から産後1カ月まで、沢山の友達がお祝いにかけつけてくれました。楽しく生き抜きの時間になっていたようです。友達とママのボンディングです。

1カ月間の里帰り中は、私は仕事が忙しく食事の用意ができないため、毎日昼食と夕食を病院の厨房スタッフが作って届けてくれました。本当に助かりました。周囲の協力者とママのボンディングです。

おばあちゃんである私も無理のない範囲で、子育てのお手伝いをしています。実家にきているときは、お風呂の手伝い、泣いている時の抱っこ、夫婦二人でお出かけしたい時には、赤ちゃんを実家でみています。お宮参りの時は、パパのご両親が遠方から来てくださり、みんなで外食をし、パパがご馳走してくれました。赤ちゃんを中心として無理のない程度で両家がつながります。三世代のボンディングです。

今日、入院中の私の母のところに赤ちゃんも一緒に面会にいきました。曾祖母は赤ちゃんの訪問で満面の笑顔になります。赤ちゃんから元気をもらったようです。四世代のボンディングです。

1カ月過ぎてからは、「のびすく」で子育てママさん達と楽しい時間を過ごし、託児の少しお手伝いもしています。4月からは、ヤナセクリニック内の託児「ふうか」や私の自宅での託児「のびすく」を利用しながら、少しずつ職場復帰する予定です。地域の子育て支援とのボンディングです。

子どもが生まれたことで、新しいつながりや、今までのつながりがさらに深まりました。親子の絆作りは、ママと赤ちゃんとのボンディングだけでなく、家族、周囲の人々を巻き込み、どんどん広がっていくボンディングです。子育ては、ママ一人がするものではなく、赤ちゃんを中心としてどんどんつながっていくことで楽に、楽しく、幸せに子育てができます。どんなに大変なことも辛いことがあっても乗り越えていくことができます。

孫育てをしながら、もっともっとみんなにボンディングを広めていこうと思っています。





孫の誕生

今年はいろいろなことがありました。
9月5日に父が亡くなりました。そして、12月5日に娘に可愛い女の子が生まれました。
命が終わり、そして、命が始まる。命が受け継がれていくことをとても深く実感する一年でした。

12月21日が予定日だったので、まだまだだろうと思っていたのに、12月4日妊娠37週、お腹が痛くなってきたと娘から朝7時にLineが入り、その後、破水したみたいと電話がはいりました。産婦人科医である婿が私のクリニックまで送ってくれました。子宮口は1㎝でまだ固く、赤ちゃんもまだ下がってきておらず、婿は一度職場へ。午後、本格的な陣痛にならないため、陣痛促進剤を内服することにしました。夕方からは本格的な陣痛が開始しました。婿は、病室に内診セットを持ち込み、ずっと娘に付き添ってくれて、分娩経過をみてくれます。先輩産婦人科医である義母から、「今はどんな状況?」と常に聞かれるのだから、プレッシャーだろうなと思いつつ、分娩は自分がみて取り上げると宣言したからには、頑張れ。大学病院の先生が心配して面会に来てくれました。分娩は微弱陣痛でゆっくりとしか進行せず、病室で婿はずっと夜中娘に付き添って二人でうとうとしながら、陣痛時には腰をさすってくれていました。朝になって子宮口は8㎝開大してきましたが、陣痛が弱く、児頭は高い。陣痛促進剤の点滴を行うことに。私は外来をしていたので、ずっと婿がお産をみてくれていました。順調に分娩となり、婿が無事に自分の子どもを取り上げました。とても誇らしげな父親の顔になっていました。分娩の時は、何かあってはいけないと教授の指示で、産科の病棟医長がかけつけて待機してくれていました。ありがたいことです。私も分娩に立ち会いましたが、結構冷静でいつものように振舞っていました。しかし、必死に出産に臨んでいる娘の姿をみて、娘も母親になるのだなと、心の奥からにじみでるような嬉しさがこみあげてきたのも事実です。元気に赤ちゃんは産声をあげてくれました。婿は助産師と医師の二役をこなしたため、疲れ切ったようで、その後は爆睡。産科医としてとても良い経験ができたのではと思っています。

その後の育児は、やはり、娘は助産師だけあって、赤ちゃんの抱っこは戸惑うこともなく、完全母乳で育てています。ベテラン助産師の適切なアドバイスとおっぱいケアにより、母乳もトラブルなく良くでています。良く飲み、良く寝る、とても育てやすい赤ちゃんで、お父さんとお母さんの愛情を一杯受けています。赤ちゃんが一人いるだけで、みんなに癒しと幸せを与えてくれます。

おばあちゃんになってみて、感じること。今までいてくれることがあたりまえだった両親は、父が亡くなり、母は年老いて病院の入退院を繰り返しています。あんなにしっかり者だった母は、少し痴呆も入ってきてしょっちゅう電話をしてきて、私に頼ってきて大変です。その反面、まだまだ子どもだと思っていた娘が、親になり、しっかり子育てをしています。時の流れを感じます。
そして、赤ちゃんが家にやってきました。こんなに小さい身体で何も話すこともできないのに、その存在感はだれよりも大きく、そしてだれよりもみんなを幸せな気持ちにしてくれます。日々の生活は大変で、先行きが見えなくなっている時でも、赤ちゃんは全てを忘れさせ、未来を感じさせてくれ、希望がわいてきます。本当に不思議な愛おしい存在です。
私の両親がいなければ、この赤ちゃんも存在しない。ずっとずっと命はつながっていく。そんなことを考えると、自分の命も愛おしく、自分を誉めてあげたい気持ちになり、命をつなぐことができたことに深く感謝の気持ちがわいてきます。
これからは、孫とのどんな生活が待っているのだろう。そう考えるとこれからの人生も楽しみで満たされていきます。おばあちゃんにならせてもらって、ありがとう。

ドラマ「コウノドリ」

ドラマ「コウノドリ」のシリーズ第二弾をよく見ています。かっこいいヒーローの医師が活躍して人を助けるといったドラマではなく、病院に勤める様々な職種の人たちが、個々の立場や個性がありながらも、患者さんの幸せのために一生懸命に考えて頑張っているところにとても好感がもてます。また、医療スタッフ側の心の悲しみ、くやしさ、葛藤、疲労感、そして幸せも一緒に描いてくれているところに共感しながらみています。
前回の話は、若手の女医さん(下屋先生)が、当直先で患者さんと仲良くなり、症状に不安を感じながらも病院に戻って勤務をしていたら、その患者さんが甲状腺クリーゼで急変して心肺停止の状態で搬送され、母親は亡くなり、赤ちゃんだけ助かるというストーリーでした。下屋先生は、泣き崩れ、何もしてあげられなかった自分を責めます。次の日の外来で、全妊婦さんに甲状腺の検査を行います。先輩医師から仕事を休むように告げられます。休んでいる間、何も手につかない状態でしたが、「やっぱり自分は産科が好きだ。産科にもどりたい。」でも、自分がもっと実力をつけなければと救急の現場にいくことを決めます。
下屋先生が、「この悔しさを乗り越えて、患者さんを助けられる医者になりたいのです。」といった時、コウノドリ先生は「乗り超えることなんてできないよ。上手くいかなかったことはずっと心の中に残るものだ」と言っていました。医療者であれば、とてもこの言葉は響きます。上手くいかなかった辛い経験は、その経験が自分にとってよかった、乗り越えられたなどとは絶対に思えません。自分の心の中にずっと重いものとして残るものです。
目の前の全ての患者さんが、良い結果になるようにと、自分なりに医療者は日々最善をつくしています。でも、自分の予想とは裏腹に、良くない結果になってしまうことがあります。逆に、もうダメかもと思っていたのに、良い結果になっていくこともあります。良くない結果でも、患者さんから感謝の言葉をもらい、励ましの言葉をいただくこともあります。しかし、良い結果になっても非難の言葉を浴びせられることもあります。
心が折れそうになる時も多々あります。でも、医師を続けられるのはなぜなのか・・・と考えてみました。それは、良くない結果であっても「ありがとうございました。先生も頑張ってください。」と言ってくれた患者さんの言葉があるからのように思います。だから、頑張らなければと思います。
医師としての辛い経験は乗り越えるものではなく、心にしまっておくものだと思います。心に積み重なっていったものが「経験」と言われるものだと思います。医師としての技術だけでなく、診察や診断能力、患者さんへの態度や話し方は、患者さんから教えてもらった「経験」の積み重ねです。若い医師の方は、新しい知識も豊富で、体力もあり、手先も器用です。でも、患者さんから教わった一つ一つの心の中に積み重なった経験は、ベテランの医師にはかないません。長い年月、患者さんと真剣に向き合ったからこそ出来上がるものだからです。
「私たちの教科書は目の前にいる患者さんです」そんな言葉を忘れずに、一人一人の患者さんを大切に診察していこうと思います。そして、若いドクターにもそれが伝わっていってほしいなと思います。

地域で見守る

骨盤骨折のため3ヶ月近く入院していた母が退院となりました。入院中に父が亡くなり、帰る時には一人暮らしになってしまいました。83歳の後期高齢者の母に対しては、入院中から病院の介護支援専門員の方が本当に親切に介入してくれ、娘の私に何度も電話していただき、退院後がスムーズにいくように相談にのってくれました。「介護支援を受けられますか?」「介護認定の手続きをしましょうか?」「地域包括支援センターに連絡しましょうか?」
平日の日中には、診療のため動くことができない私にとっては、本当にありがたいことでした。介護認定については、地域包括ケアセンターの担当のケアマネさんが病院に出向いて母の状態を確認してくれました。自宅に帰った日は地域の支援員さんが訪問してくれ今後の生活についてアドバイスをしてくれました。
父が亡くなってからの退院後の生活について、1.自宅に帰り一人で生活する、2.娘の家に来る、3.老健施設に入所する。3つの選択を母は悩んでいました。一人で生活することには不安があるが、自宅の整理などまだまだしたいことがあるし、自宅であれば友達が訪れてくれるから寂しくないし、一人で生活できそうな間は自宅に帰りたいというのが母の意思でした。とりあえず、一人暮らしが難しくなるまでは、自宅に帰ることにしました。帰宅してからは、毎日のように友人が訪れてくれ、食事を運んでくれたり、ごみをだしてくれたりしてくれているそうです。一人で寂しく不安なこともあるだろうけれど、住み慣れた家で、自分の住みやすい空間の中で、友人の訪問がある生活が最も良い選択だったと思います。

超高齢化がハイスピードで進んでいる日本社会において、高齢者をどのように地域で見守るかは待ったなしの重大な問題だと、当事者になって痛感しました。地域での福祉の見守り体制は随分進んでいると感心しました。しかし、医療の面では近くの在宅医を見つけることはできませんでした。母は今まで通い慣れた総合病院に通院したいという希望がありました。高齢者にとって病院を変更することは、病状をわかってもらうことも大変で、ずっと同じ病院で同じ先生に診てもらいたいのだろうと思います。
今までの日本では、子どもが親の面倒をみるのが当然でしたが、これからは結婚せず子どものいない独居老人が増えてきます。子ども達は、夫婦とも仕事をしていることが当然となれば介護の中心的な担い手になることができません。高齢になっても働き続けるようになれば、職場の友人はいても地域との繋がりは希薄になり、自分の自宅の近くには友人がいない状況になります。
「地域包括ケアシステムとは?」高齢者が住み慣れた地域で自分らしい暮らしを送り続けられるように、「住まい」「医療」「介護」「生活支援」「介護予防」のサービスを包括的に受けられるシステムです。特に住み慣れた地域ということに重点が置かれています。地域包括ケアシステムを実現させるためには、地方自治体の地域力が不可欠です。なぜなら、高齢者だけでなく、その地域に住む住民のニーズを的確につかむと同時に地域における課題をみつけ、行政だけでなく企業やボランティア団体等が協力しあって、その解決に向けて地域の自主性を重んじ取り組みを進めていかなければならないからです。これからの取り組みを進める上では「自助」「互助」「共助」「公助」という考え方が基本です。これは、自らの健康的な生活は自分で支えるという「自助」と、家族や親戚、地域住民同士で助け合う「互助」を基本として、そこで十分できないケアの部分を介護保険や医療保険などの「共助」、生活保護や社会福祉からの「公助」で補っていく、というものになります。今回母が、老人施設ではなく地域に帰ったことで、一人暮らし老人をみんなでどのように支えていくのか、考えていかなければと思います。

超少子化が進むなかで、妊娠・出産・子育てについても同様のシステムが進められようとしています。子育て世代包括支援センターの構想が国から平成27年9月に示されています。
1. 妊娠期から子育て期にわたるまで、地域の特性に応じ、「専門的知見」と「当事者目線」の両方の視点を活かし、必要な情報を共有して、切れ目のなく支援すること
2. ワンストップの相談窓口において、妊産婦、子育て家庭の個別ニーズを把握した上で、情報提供、相談支援を行い、必要なサービスを円滑に利用できるよう、きめ細かく支援すること
3. 地域の様々な関係機関とのネットワークを構築し、必要に応じ社会資源の開発等を行うこと
私の住んでいる地域では、保健センターを拠点として子育て世代包括支援を行うと聞いていますが、なかなか現実としては十分に機能していません。なぜ、高齢者のように進んでいかないのでしょうか?病気を持っているお子様の家庭などの支援がはっきりしている部分は、以前から医療・福祉が中心となって行われています。しかし、ほとんどの健康で問題がないと思われる家庭には今までには子育て支援という考えはなく、子供会などの地域の小学校単位での繋がりの「互助」で、上手くいっていました。しかし、夫婦共働き家庭が多くなり、片親家庭も多くなりました。子どもの数が減ったため、周囲に子育て中の家族が少なくなりました。生徒数の減少により地元の小学校は廃校になっています。多様性が認められる社会となり、親の考え方や価値観も様々となりました。貧困家庭が多くなり、自分たちの生活だけでも精一杯という家庭が増えてきました。親世代が高齢だったり、働いていたりで子育てに協力してもらえなくなりました。そんな社会状況の中で、地域で子育てを見守り支援していこうという方向性はとても重要だと思います。

私が運営委員として参加している「つながりひろば」(津市の子育てひろば支援者交流会)ができて5年となります。少しずつのつながりは出来てきましたが、なかなか思うようには進まないジレンマを感じています。
1.「当事者目線」がなかなか反映されない。子育て家庭は日々の生活が忙しく、時間があれば子どもとの時間を大切にしたいと考えています。いろいろな不満や不都合があったとしても、それを訴えることはなかなかしません。子どもは日々成長し、不満や問題も数年たてば過去のことになってしまいます。お母さん達の声を待っているのではなく、何か困っていることはありませんか?と行政や支援者の方から出向いていく必要があると思います。そして、本当に困っている人は声もだしません。何か困っていることがあるのでは?と当事者目線になって支援することが必要ですが、行政を含め支援者の方がそのような姿勢を学んでいません。専門的知見と当事者目線を活かすには、お互いが歩みよることが必要ですが、まだまだ当事者のニーズに合わせた対応ができていないのが現実だと感じています。
2.ワンストップの相談窓口はとても大切です。どこに相談にいけばいいのか、相談に行ってもここではありません、と言われた時のがっかりする気持ちや、二度と相談に来るものか、といった怒りが、子供への虐待に繋がっていくケースもあります。ワンストップの相談窓口では、支援者の力量が大きく影響します。優秀な保健師がいる市町などでは、ワンストップ事業がうまく運営されています。逆にその保健師が辞めてしまうと、うまく運営されていかないのが行政によくあることです。ワンストップの相談窓口では支援者の質の向上とともに、他機関といかにつないでいくかの関係性も問われます。ワンストップ事業がうまくいくためには、そこが一番の課題だと思います。
3.地域には、医療・福祉・教育・子育て支援・民間・企業・地域住民・ボランティアといった子育てを見守ってくれる場が沢山あります。力があり、しっかりとした子育て支援の考えをもつ民間団体や企業もたくさんあります。しかし、それを繋ぐネットワークが希薄です。「つながりひろば」というネットワーク事業を津市と立ち上げても、市役所の中でのネットワークもいまだに上手くいきません。そんな状況では民間や企業とのネットワークなどは、なかなかできていかないものです。今ある社会資源を有効に利用し、無駄な税金の使い方にならないように、もっと繋がっていくことが大切です。

少子化対策、働き方改革、女性の活躍促進・・・など様々な政策はでていますが、別々に考えるのではなく、トータルに考えていかないと社会の変化には対応できません。高齢者対策のようには一筋縄ではいかないように感じています。子どもを産み育てやすい社会、子どもがいきいきと輝く社会になるよう一人一人が声をあげ、課題に向き合い、つながっていくことが必要ですね。

父について

父が、平成29年9月5日に亡くなりました。

父は、両親ともが小学校の先生で、一人息子として昭和9年に京都に生まれました。学業成績はとても優秀、高校生の頃は洋画が好きで、外国の有名な俳優にファンレターを英語で書き、返信のサイン入りのブロマイドが沢山アルバムに貼ってあるといったハイカラな学生だったようです。京都大学医学部に進学し、大学時代に母と知り合いました。卒業後は京都大学の精神医学講座に入り、生化学教室で研究していました。その後、アメリカのスタンフォード大学に留学、家族4人で2年間カリフォルニアに住みました。その時の研究の成果は、アメリカの上司のノーベル賞受賞に繋がっているそうです。旅が好きだった父は、アメリカでの生活はとても充実していて一生の中で一番楽しかった時だと言っていました。帰国後、京都大学での上司の先生が三重大学の教授になったため、三重大学に誘われ、三重県に移り住みました。その教授が退官された後、三重大学医学部精神医学講座の教授を15年間勤めました。その頃、私は三重大学医学部の学生で、父の教授室を時々訪れ、教授である父を誇りに思っていました。定年退職後は、三重県の医療専門学校の校長、様々な精神科の病院やクリニックの外来を手伝っていました。

2年前、高血圧で通院していた内科で黄疸を指摘され、精密検査のため鈴鹿中央総合病院に入院することになりました。主治医の消化器内科の先生のお母様が精神科医ということで、とても素晴らしいご縁をいただき、父が亡くなるまで、父の意思を第一に尊重してもらいながら、治療にあたっていただきました。病名は膵頭部癌Ⅲ期で、腫瘍によって胆管が圧迫されての黄疸でした。手術可能なステージと言われましたが、父は手術を望みませんでした。病名や治療方針は、医師であり娘である私に話してほしいということで、父と一緒に今後の治療について説明を受けました。父からは「私は、自分の予想以上に長生きをして、十分に生きた。手術をして頑張って病気と闘うということはしたくない。痛くない程度に病気と付き合って死を迎えたい。でも、初めての経験だし、どんなふうになるんだろうね。」と客観的に動揺することなく冷静に淡々と私に話す姿は、精神科医の父らしいと思いながら、「死を迎えるってどんなことなんだろうね。でも、いつかはそんな時が誰にでもくるものだから・・・。」と私も冷静に涙することもなく、父と話しをしました。父にとっては、対等に冷静に自分の考えを理解してくれる娘と話しをするのが一番楽だったようで、この時も娘に自分の意見をいいながら、自分のなかで自分の病気に対して覚悟していったのだろうと思います。
「何も治療しなければ、余命6ヶ月。抗ガン剤が効くかもしれないので、無理のない程度の抗ガン剤治療はしていきたいと思います。」という主治医の方針で治療が開始されました。父は、すぐに自分の死に向けて準備を始めました。自分で葬儀社とうち合わせをし、お世話になっている寺の住職に葬儀のお願いをし、遺言を書いて信託会社に依頼をし、兄に葬儀の喪主のお願いと段取りについて話しをし兄嫁に葬儀の費用を預け、自分が心から許せる精神科医の弟子二人を呼び寄せ葬儀委員長として葬儀が滞りなく行えるように指示をしていたようです。

余命の宣告は、嬉しい方向に外れました。月1回の外来での抗ガン剤点滴治療で腫瘍の進行はほとんどありませんでした。死への準備を終えた父は、誰かに会うこともなく、自宅で好きなクラシックを聴き、映画やドラマを見て、好きな食べ物をネットで注文して、自分の好きなことだけをしてゆっくりとした生活をする日々でした。孫である私の娘が産婦人科医と結婚することになり、孫夫婦が会いにくると、とても楽しく幸せそうでした。そして、孫夫婦が12月に子どもが生まれるとわかって、そこまではちょっと無理かなと残念そうにしていました。

正月に会いに行った時には、抗ガン剤も体力的に辛くなってきたと、抗ガン剤の中止を自らお願いしたと。そして、ゴールデンウィークには、そろそろ2階の自室での生活は困難になりそうだから、介護ベットが必要になりそうだと相談を受けました。

6月18日(日曜日)、母が私のクリニックに電話をしてきましたが、1回目の電話は私の母親だとスタッフがわからず、2回目の電話でスタッフが私の母親からの電話と気づき、私の携帯に電話をしてきました。午前4時、何事かと母に電話をしますが、「さっちゃん、助けて。」と言うだけで、事情を聞いても少し認知が入ってきている母親では「助けにきて。」というだけ。ただ事ではなさそうと思い、クリニックに実家に帰ることを告げ、急いで鈴鹿の実家へ。1階の和室で父と母が倒れていました。1階の和室には介護ベットが置かれていて、その横に布団が敷かれていて、そこで父と母がいました。母に聞くと、2日前に父がベットから落ちて倒れており、それを自分が介護しようとしたら、今度は自分が腰痛となり動けなくなり、前日の夜から二人とも飲まず食わずの状態になってしまったというのです。なぜ、もっと早く倒れた時点で連絡しないのかと思いながら、娘に心配をかけてはいけないと、老老介護をしていた両親に申し訳ない思いでいっぱいになりました。とりあえず、二人にそこにあったレトルトのおかゆとおかずと水分をとらせ、母をソファに寝かせ、父のオムツを替え、父から何かあったら鈴鹿中央で入院させてもらうようになっているというのを聞き出しました。朝まで二人を休ませ、鈴鹿中央に電話をし、救急車で父を鈴鹿中央に運び、すぐに内科で入院させてもらいました。主治医は日曜日で不在のため、とりあえず点滴をして様子をみますと言われます。父は自宅でも少し様子がおかしく、時間や今の自分の状況がよくわからないようでしたが、病院についてからは不穏状態となり、寝ていたと思うと急に起き出し「トイレにいく」と言ったり、点滴のルートがわからないようでとても気にして触っていたり・・・。看護師からは、病院に急に入院となったため、精神的に不安定な状態なので、ずっと家族に付き添いをしてもらうか、夜は身体拘束をさせてもらうかもしれないので許可してほしいと言われるました。入院当日、父親は寝ているか不穏状態でまともな会話ができませんでしたが、夕食の食事介助、トイレへの歩行介助など、この日は娘として父親に親孝行がゆっくりしてあげられた唯一の日でした。出産の呼び出しで常にオンコールの状態の私としては、後ろ髪をひかれながらも、夜には看護師さんにあとをお願いし、実家に残した母の様子をみてから自宅に帰ってきました。その日は突然立ち上がったり危険だったため、身体拘束をされたらしく、それを父は翌日とても怒っていたらしく、身体拘束の許可にサインをしてしまったことをとても後悔しています。
自宅で救急車を待っている間、父のオムツを替えていた時、父は「娘にこんなことをしてもらって、とても幸せだよ。」と言ってくれました。この日がなければ、私は両親に何もしてあげれず、仕事ばかりしていた親不孝者だという思いで一生後悔していたと思います。神様は、私に本当に大切な一日をくれたと今でも感謝しています。

虫垂に膿瘍を作り、それが衰弱した原因というのがわかり、膿瘍の治療をしてもらいました。しかし、その後の父は少し正常な意識の時もありましたが、徐々に衰弱し、面会に言っても寝ているかせん妄状態で対等に会話ができる時間はどんどん少なくなっていきました。毎日面会に来ていた母が転けて骨折し、母も鈴鹿中央の整形外科に入院し、4階は父の病室、6階は母の病室という状態になりました。看護師さんや母の友人の気遣いで、車椅子で時々お互いの病室に行くことができたようで、父が意識がわかる状態で母の病室に連れていってもらい、手を握ってくれて、お互い頑張りましょうと言ってくれたと嬉しそうに母は話していました。

延命治療等は何もしてほしくないというのが父の希望でした。9月3日、看護師さんから食事が全くとれなくなりましたと連絡がありました。9月4日の朝には、呼吸状態がよくないので酸素投与を始めましたと連絡、兄にも連絡し、午後から少し持ち直した状態で母、兄、私の娘、私とゆっくり面会をすることができました。最後の夜は優しい目で私を見つめ、何か言おうとしてくれてました。酸素マスクがあり、言葉にはなっていませんでしたが、きっと「ありがとう」と言ってくれたように思っています。いつでも診療を変わってもらえるように大学の先生方にお願いし、学会で人手がないところ大学からの医師応援体制をとっていただきました。9月5日、外来中に病院から血圧が測れなくなってきましたと電話が入り、すぐに病院へ。病院へ到着したと同時に呼吸が止まり、心臓が止まっていきました。静かな安らかな死でした。

その後の葬儀の段取りは想像を絶する以上で大変でした。しかし、父の2年前の万全の準備のおかげで、父がどんな旅立ちを願っていたかが手に取るようにわかり、父が望んでいたような葬儀ができたのではないかと思っています。
父が準備した葬儀は、精神科医の弟子二人に指示され、その二人の先生は忙しいなか真夜中まで、葬儀社とのうち合わせを一緒にしてくださいました。連絡して欲しい人へのリストは精神科の先生に父からきっちりとした指示がされていました。また、新聞広告にも載せてほしいこと。出棺時のお見送りの曲も指示されていました。
もう一人の精神科の先生には、病気の経緯について弔辞で話しをしてほしいと頼んでいました。病気になってから、他の人とは会おうとせず、父かとても信頼していたその先生だけには会いたがり、同じ病院勤務だったので、病室に毎日のようにに顔を出してもらい、自分の苦情や苛立ちや希望についてはその先生に話しをし、その先生が父の意思に添えるような治療や入院生活が送れるように主治医と相談してくれていました。その先生に感謝の気持ちを込めて、自分の最後の生き様を皆様に報告してほしかったのだと思います。
葬儀の祭壇は生花で飾られ、沢山の花に囲まれることを願っていました。クリスチャンの母のためにキリスト教の骨壺を用意し、母の友人も多く参列できるようにマイクロバスが用意されていました。家族の中で一人クリスチャンになった母のことをきちんと認め、母のために自分ができることをこっそり準備しているところは、とても父らしいと感心しました。

父が準備をした葬儀を終えて、本当に最後まで父らしく、素敵な葬儀ができたことに皆様に深く感謝しています。そして、父がなぜ自分自身で葬儀の準備をしていのかを感じています。父は、三重で精神科医として楽しく充実した仕事ができ、沢山の素晴らしい同僚や後輩に恵まれたことにとても感謝していたのだと思います。そして、三重大学精神医学名誉教授であったことを誇りに思い、自分の最も信頼を寄せている弟子二人に最後まで大切な仕事を託したのでしょう。母に対しては、生きている時は自宅では文句ばかりで母のことを相手にしていない感じでしたが、本当は自由で他人のためにしてあげることが大好きな母の生き方を尊重し、父なりの愛情で母に感謝の気持ちを残していったのでしょう。
私にとって父は、私のことが大好きで、自慢の娘で、一度も怒られたことはなく、優しく、私の自由を尊重してくれていました。でも、自分の意志で決めたことに、ぶれていきそうに心が迷った時には、厳しい一言を言っていくれる存在でした。私の今の生き方は両親の影響が本当に大きいと思っています。そして両親のことが大好きでとても尊敬しています。自分のことより人のことが優先で奉仕の心が強く、でもちょっと天然なところがある母。自分の意志が強く、自分の進むべき道のためにしっかり準備をして着実に結果をだしていく、一見自分勝手なようにみえるけれど、他の人のことを考え大切に思い準備してくれている、そして遊び心があるお洒落で紳士的な父。
二人の両親のもとに生まれ、育ててもらい、私を常に尊重してくれたことを本当に幸せに思います。
父が生きている頃より、父の仏壇の前で手を合わせるようになった今の方が父と心の中で会話することが多くなりました。これからもぶれない芯のある生き方ができるように導いてほしいと思います。

妊娠は病気?

日本の年間の出生数は、第1次ベビーブーム期には約270万人、第2次ベビーブーム期には約210万人であったが、1975年に200万人を割り込み、それ以降、毎年減少し続けた。1984年には150万人を割り込み、2016年に生まれた子どもの数は97万6979人で、1899年に統計をとり始めてから初めて100万人を割り込んだ。1人の女性が生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)は、第1次ベビーブーム期には4.3を超えていたが、1950年以降急激に低下した。その後、第2次ベビーブーム期を含め、ほぼ2.1台に推移していたが、1975年に2.0を下回ってから再び低下傾向になった。1996年には1.57、2005年には過去過去最低の1.26まで落ち込んだ。その後少し増加傾向であったが、2016年は1.44と前年を0.01ポイント下回った。
妊産婦死亡率は、戦後の施設分娩中心の出産になってから急激に減り、第1次ベビーブームの頃には出産10万に対し161.2人であったが、第2次ベビーブーム期には、83.9人に減少、2000年には6.3人、2013年には4.0人で、世界的には死亡率が低い国になっている。
私たち産科医は、必死の努力で妊産婦死亡を0にしたいと、日夜診療に励んでいる。誰一人、出産で死なせたくないと切実に願っている。戦後、自宅分娩から施設分娩に移行していき、妊産婦死亡は急激に減った。バブル期は、お産はファッションのようになり、豪華な産院ができ、産院でのアメニティや美味しい料理などを競い合う時代もあった。しかし、妊産婦死亡が減り、安全に安心して満足のいく出産を沢山の女性にしてほしいという私たちの思いとは裏腹に、それに比例するかのように、出生数は減り、合計特殊出生率も減少していった。

「妊娠は病気?」という問いかけがある。おそらく、多くの産科医は、臨床現場で「赤ちゃんが死ぬのではないか、お母さんが死ぬのではないか」と顔が青ざめた経験がある。それほど、妊娠・出産は急に死と直面することがある。妊娠がわかり、妊婦検診で毎回顔を合わし、出産、そして元気に母子が退院していく姿をみるまで気を抜くことはできない。元気に赤ちゃんを連れて家族と一緒に幸せいっぱいで退院する姿をみると、ほっとする。医療者側は、「妊娠は病気」と考えている人が多いと思う。自宅出産から病院での施設分娩に移行し、医師や助産師が病気として積極的にかかわることによって、妊産婦死亡は減少した。

しかし、一般の人達は「妊娠は病気」と思っているのだろうか?そう思うなら、みんな病気にはなりたくないから、妊娠は恐怖でしかない。今は、沢山の情報が、あふれていて、ネットをあければ、様々な情報が入ってくる。「妊娠は病気」という内容だけをみれば、「妊娠、出産、子育て」は、未知の世界の恐ろしい、心配、不安なもので、妊娠したら私はどうなるのだろう?子どもはちゃんと育つのだろうか?そんなことばかりが頭に浮かんでくるのでないだろうか。
「妊娠は病気でない」という考え方になれば、妊娠していない時と一緒のようにできないことに非難がくる。仕事や家事が今までのようにできないことを責められる。上司や、義父母、実父母、ご主人などの周囲の人の何気ない言葉で傷ついている妊婦さんが多くいる。

「妊娠、出産、子育て」とは何なのだろうか?
「妊娠・出産・子育て」は人が生きていく中で普通のことだが、今までの日常と大きく変化することであり、戸惑うことも多く、責任も大きくなる。だからこそ、社会全体が一番大切にし、支えなければいけない。周囲が温かく見守り、みんなで支えてくれる社会では、妊婦さんにも子育て家族にも優しい社会になり、若い人達が子どもをもちたいと思う社会になるのだろう。
生物にとって種を残していくことは、最大の仕事であり、次の世代に自分の命を引き継いでいくことが最大の使命で、そのために生きているといっても過言ではない。次の世代に命を引き継げば、親は死んでいく種も沢山いる。命がけで自分の種を残している。しかし、人間は高度に発達して、頭で考え、いろいろな能力を持ったことで、次の世代に命を引き継いでいくことより、自分自身の生き方を大切にし、そこに幸せを見出すようになっていった。自分の幸せのみを考えれば、妊娠といった“病気”に自ら好んでかかりたくないし、家族といった煩わしいもので自分の人生を非難されたくないし・・・。
そういった風潮が少子化につながっていったように感じる。

これから日本の人口は超少子高齢化の時代に突入していく。人口ピラミッドで出産や子育ての中心となる若い女性に着目すると、20歳~39歳の人口は1572万人で、総人口の12.3%、5年前の同年台の人口と比べ6.6%の減少である。住民千人当たりの出生数は、2016年は7.80人、前年からマイナス0.06人減少。また、10年前の2006年からマイナス9.2%で0.79人減少という統計がでている。街の中で、妊婦さんや子ども達に出会うのが珍しい時代になってくる。ますます妊婦さんや赤ちゃんはマイノリティになっていく。多数決の民主主義の社会では、人数の少ない世代や投票券を持たない子ども達の意見は聞いてもらえるのだろうか?
「妊娠は病気?病気でない?」ということよりも、妊娠・出産・子育て・子どもの成長は、社会が持続可能になるための最も基本で大切ににしなければいけないことである。妊娠・出産・子育て・子どもの成長が、もっともっと大切にされる日本であってほしいと思う。若い女性達が、妊娠・出産・子育てに対して、恐怖と不安と心配と負担感で押しつぶされないように、私たちは何とか社会を変えていかなければと思う。

国際ボンディング協会

2000年にNPO法人国際ボンディング協会が、産婦人科医鮫島浩二先生の呼びかけで発足しました。2017年7月、鮫島浩二先生から私に理事長がバトンタッチされました。発足当時には国際ボンディング協会に入会していなかった私にとって、活動を引き継ぐのは大変なことです。7月2日、熊谷市のさめじまボンディングクリニックに理事、事務局が集結し、鮫島先生を囲んで、国際ボンディング協会の今までの歩み、ボンディングの理念、今後の活動について時間をかけて話し合いました。

国際ボンディング協会発足時 世界への宣言 (2000年12月3日)
『いま世界中どこにあっても家庭内暴力・青少年の性犯罪・悪質にエスカレートしたいじめ・自殺・乳幼児虐待・殺害・引きこもり・不登校・理由のない無差別殺人・学級崩壊など、いつの時代にもまして心の病やストレスから引き起こされる様々な事件がクローズアップされています。その原因はどこにあったのでしょうか?これらの事件に関与した当事者の背景を追求していくと、かなりの割合で乳幼児期、新生児期の親子関係のもつれにあることが推測されます。さらにその根源を出産時、さらには胎児期の環境にまで求めることができると主張する研究者もいます。つまり、周産期に心のケアが十分なされていれば、子どもの行動異常や成人してからの社会的不適応なども防ぐことができると考えられます。
ボンディング(Bonding)とは、親と子のきずなをより深く築くこと。ライフサイクルの中でその側面は妊娠中に始まり、出産時・新生児期・乳幼児期・思春期の子どもたちとのボンディング、高齢者やガン患者、障害者、寝たきり老人を抱えた家族におけるボンディングなど、実にたくさんあります。わたしたちはボンディングの概念を世界に啓蒙すると同時に、ボンディング形成の様々なノウハウをより具体的に皆さんに提案し、共に学びながらより良い社会の実現のために貢献することを目的に、国際ボンディング協会を設立いたしました。
当協会は、世界中の様々な分野の専門家たちと、政治・宗教・慣習・文化のわくを超えて協力しあい、ボンディングに役立つ情報を相互に公開し、会員たちがさらなるボンディング形成のいい働き手となるように研鑽する場所を提供したり、ホームページや会報誌を通じてボンディングに役立つ情報を発信していきます。またより良いボンディング形成のための技術と知識とハートを持つ指導者を養成し、世界中にその活躍の場を求め、今日の社会の根底にある、親と子のコミュニケーション不足に起因すると考えられる事件については、将来的に減少することを強く望み、より良い家庭とより豊かな社会が実現するよう努力と協力を惜しまない団体であります。
私は宣言します。小さな子どもたちにとって愛情深い両親に見守られて育つこと以上に素晴らしことはありません。これこそがボンディング形成の基本単位であり、物質的な豊かさ以前に子どものために整えるべき環境の中で最優先すべきものであり、教えていくべきことであると思います。
では、子どもたちが愛を感じる家庭はどうやって作られるのでしょうか?まず、夫婦がお互いを尊重し合い、信頼し合い、いたわり合い、自分の権利を主張する前に相手の幸福を優先する心を持って生活するなら、おのずと互いに最高のパートナーとなれるでしょう。また、家族のために時間を喜んでとることは、伴侶にとって、子どもにとって、最高のプレゼントとなり、密度の濃い思い出深い時間となります。
父と母が信頼し合っている家庭で育つ子どもは、人を信頼する心、愛する心を家庭でしっかり身につけることにより、人生を肯定し、その後の人生において安定した幸福な人間関係を築いていく事ができるようになります。そしていつかその子が家庭を築いた時、良い連鎖を生み出し、ボンディングはされにその子どもに脈々と受け継がれていくことでしょう。』

国際ボンディング協会は、その後、様々な活動や講演会、セミナーを行ってきました。4本の柱として、最初は、「ベビーマッサージ」「フィータル(胎児からのボンディング)」「カウンセリング」「アロマセラピー」で活動を始めましたが、理事の交代等があり、4本の柱は「ベビーボンディングケアマッサージ」「カウンセリング」「ボンディングアロマセラピー」「ボンディングフィットネス」に変更し、各資格をとれるようになりました。発足当時は、ベビーマッサージが日本に入ってきてブームとなったこともあり、ベビーマッサージ部門の活動のみが進んでいきました。ベビーボンディングケアマッサージの資格をとり、地域の子育て支援のためにベビーマッサージの教室を開催されて活躍している会員さんが沢山います。しかし、ベビーマッサージの資格をとる団体と勘違いされている側面もあり、最初の国際ボンディング協会の目的が不明確になってしまった感も否めません。

そこで、今年の7月の理事会では、現理事自身がボンディングをどのようにとらえているか。そして、何を発信していきたいかを再度確認する作業をしました。

あなたにとってボンディングとは?:「人を否定しない。人を信頼する。その人自身を肯定する。」「居心地の良い居場所。」「人と人とをつなげる。孤独にしない。」「時代の変化に応じたコミュニケーション・関係性・伝え方。」「子ども主体。子どもの気持ちを中心に考える。」

ボンディングについて何を伝えたいですか?:「一人じゃないよ。安心感。寄り添い。」「苦しいことがあっても楽しく子育てをしてほしい。」「思う存分子ども達とハグしよう。」「親子の絆づくり、多世代の絆づくり、胎児からの絆づくり。」「便利じゃないところも大事にする生活。」「父親の役割。」「弱い人の立場に立つ。誰一人取り残さない。」「社会や環境の変化についてもっと知ろう、国際的な活動にも目をむけていこう。」

発足当時からの理事は現在一名だけです。しかし、ボンディング協会発足当時の「世界への宣言」の中のボンディングの目的や理念は、理事の中にしっかり根付き、受け継がれていました。
今の世の中は、グローバル化のなか、世の中の急激な変化で先行きが不透明になり、各地で戦争やテロが起こり、地球がこのままで大丈夫なのかと不安になります。次ぎの世代に明るい未来を残していくためにも、国際ボンディング協会の活動は益々必要とされてくると確信しています。人を信頼する心、愛する心を育むためには、命が始まるその時から、愛情深い環境の中で育つことがとても大切です。ボンディング=絆づくり=「人と人との信頼。一人じゃないよ。安心できる居場所はあるよ。」そんな社会になれるように、国際ボンディング協会は活動していきます。一人でも多くの人に活動を知っていただき、一緒に活動していきたいと思います。

プロフィール

柳瀬幸子(やなせさちこ)
産婦人科医。三重大学医学部卒業後、三重大学大学院医学研究科博士課程修了。
ヤナセクリニック院長として多くの命の誕生に立ち会う中、女性のライフサイクルに応じた幅広い医療の提供、お母さんと赤ちゃんに優しい出産、妊娠中から育児中を通してのサポート、育児支援に力を入れている。著書に「地球(ここ)に生まれて」、共著に「効果テキメン! アロマ大百科」など



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