2015年12月11日

サヨナラ、山内久さん



脚本家の山内久さんが亡くなったのは、9月29日のことだ。私は翌日、PCに着信があって知った。RWC観戦のため、イングランドへ旅立つ前日のことだった。

久さんは山内玲子さん(筆名・立原りゅう)のご主人、つまり、野田高梧の義理の息子さんにあたる。
わたしが『シナリオ』誌で連載している「野田高梧の〈蓼科日記〉」の第24回の末尾に、余白ができたらお別れの言葉をしるしたいと思っていたところ、文字数は指定しませんからどうぞ書いてください、との編集部の意向だった。

『シナリオ』1月号に掲載されたものを、ここに転載する。掲載後、渡辺千明さんから「久さんが鶴川病院に移ったのは玲子さんの没後ではなく、玲子さんの最後の二カ月ほど、お二人は鶴川でお過ごしになられました」とのご指摘をいただいた。
 合掌。

          *

山内久さんが最初に危うくなりかけたときに「蓼科日記」解読グループ間で交わされたメールのやりとりが残っている。それは2009年の夏の終り、蓼科でのことだ。

山内久さん玲子さんご夫妻は例年、夏は蓼科で過ごすことになっており、わたしたちは教えを請うために山内山荘を訪ねた。レクチャーは玲子さんの担当と決めておられたのか、わたしたちは晩年の野田静さん(野田高梧夫人)が過ごされた別棟のほうで玲子さんからの話を聞くことになった。

母屋と別棟とは屋根のある渡り廊下でつながり、久さんは母屋におられたが、その久さんがお茶を淹れてくださり、お盆を恭しくかざしながら渡り廊下を歩いてくる姿を目にした。わたしたちは恐縮しながらお茶をいただいたが、渡り廊下を歩かれる久さんの動作にどことなく京都の茶運び人形に似たものを感じ、ほほえましくも、久さんの無骨な誠実さに打たれたのだった。

その夏、久さんは蓼科で4回の軽い失神に遭われた。
9月になって茅野中央病院に入院し精密検査を受けられたが、「脳波、心臓に特別な異常は認められないものの、可及的速やかに山を下り、住まいする逗子にて主治医の診療を受けつつ様子を見るように」との診断であった。10月2日に夫妻は山を下ることになり、結果、二人の最後の蓼科の日がこの日となった。
夫妻を逗子まで車で送り届けてくれたのは、二人してシナリオを書いたドラマ『若者たち』のモデルの一人Mさんであった。

翌年であったか、その次の年であったか、鎌倉の聖テレジア病院に入院されていたご夫妻を見舞ったことがある。久さんは言葉を話されなくなっていたが、こちらが話題を蓼科に振ると、そのときは優しい笑顔を浮かべられた。
看護士に迎えられ日課となっているリハビリ運動へと病室を出るところで別れの挨拶をした。それが最後の別れとなった。玲子さんが先に逝かれてからは鶴川の病院に移られたと聞いた。

山内久の名を初めて脳裏に刻んだのは1969年『私が棄てた女』だった。ショックだった。これは〈戦後転向論〉だと思った。川島雄三監督『幕末太陽傳』の古典落語を串刺しにしたプロットの骨格を書いたのが山内久であり、今村昌平監督のデビュー作『盗まれた欲情』、実力を開花させた第三作『果しなき欲望』のシナリオも山内久の作だと知ったのは、それからしばらくたった頃だった。

あれは『豚と軍艦』の舞台、横須賀でのシナリオ・ハンティングのときに岸壁で撮られた写真だった。逗子のご自宅で数葉を並べてみせながら「俺って、結構ハンサムだったろ?」と含羞を浮かべつつ小さく笑われた、その笑顔が忘れられない。

訃報を聞いたのは、わたしが4年に一度の長旅に出かける、その前日のことだった。葬儀に出ることは叶わない。葬儀場の近く、初台に設えてあった安置所で亡骸に接した。養女の美智子さんが「照井さんがお別れに来てくれましたよ」と話しかけてくださった。そのとき触れた久さんの、安らかな寝顔の頬の冷たさが、今も掌に残っている。


yas_terui at 17:27│ 小津安二郎の周辺 | 映画一般