2015年12月23日

小田原の森栄と川崎長太郎


頂度ひと月前の11月23日、川崎長太郎没後30年を記念して、小田原市民会館で<「小屋」をめぐって>と題するシンポジウムが開かれ、古くからの友人ペロシ君と参加した。
ペロシ君は渋い映画愛好家で、川崎文学の耽読者でもある。

パネラーは川崎文学研究家の齋藤秀昭、詩人の平出隆、建築家の大室佑介、青木淳の各氏である。
齋藤さんの編まれた講談社文芸文庫の川崎長太郎のシリーズには教えられることが多く、今回も何か、という助べえ心があったのだ。

質問コーナーがあって、小津安二郎と川崎長太郎の関係について質問が出た。
すると司会の小田原図書館館長・古矢智子さんが回答担当を私に振った。
そんなことがあってのことだろう、後日、古矢さんが「川崎長太郎文学碑を建てる会」編集・発行の『私小説家 川崎長太郎』というアンソロジーを贈ってくださった。
1991年11月発行、会の代表者は小田原出身の井上和男監督である。

その本の中に、二人の人物が、小田原の森栄と川崎長太郎について書いている。
貴重な証言だと思うので、備忘のために、以下に記すことにした。

ひとつは大南勝彦の「小田原リポート」にある一文。大南氏の肩書きには記録文学作家とある。おそらく、小田原在の人だろう。

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 此の一九四三年(昭和9年)には『路草』(文座書林)が処女出版されているが、その出版記念会を「弥生」でやっており、島本さんも出席している。「弥生」は現在の中央劇場の所にあった待合である。当時川崎さんは千丸という芸者に入れ揚げていたが、売れっ子で、時に君江という文学少女めいた芸者が、代りにお座敷をつとめることもあった。
「実は千丸には恋人がいて、それが私の友人だったんです。それを川崎さんに言えなくてねえ」
 と、島本さんは笑った。

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ここに出てくる「島本さん」とは、小田原在のプロレタリア作家・島本恒のこと。
中央劇場は宮小路にあった映画館で、1992年に閉館している。

もうひとつは、晩年の内田吐夢監督も通った濠端の蕎麦屋「田毎」の先代主人、相澤栄一氏による「長さんの思い出」である。以下。

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 長さんが「裸木」を書いた前後、小田原に帰ると、よく洗い髪姿の君栄さんとお濠端の桜並木道を歩いていた。長さんが彼女と、しんみりと杯を交す場としていた料亭「弥生」に私も招かれて、席を共にした。洗い髪姿で渋い着物の、彼女の面長な品のよい愛らしい顔を、私もじっと見ながら、長さんが魅せられる筈だと思ったりもした。お正月の松の内だった。長さんのお供で「弥生」で杯を交した時は、彼女は島田で晴れ着姿だったので、芸者らしい、あでやかさが目立った。
 酒がまわると長さんは、いつものように牧水や啄木の歌を、又得意な「磯節」を渋い声で歌ったりした。その頃長さんは、彼女と会うのを楽しみに、小田原に足繁く帰ってきたようだ。引く手あまたな売れっ子芸者だが、幼い頃から重荷を背負って、人の世の荒波を転々と生きてきた彼女を、長さんは温かな目で見守っていたようだった。

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森栄が芸事に身を入れ始めるのは昭和12年、小津安二郎を知って後のこと。
それまでは座敷で披露できるだけの芸の技量を持っていなかった。
つまりは不見転の芸者だったわけだ。
大正4年(1915)生れの森栄が小津とであったのが20歳のとき、川崎が「裸木」を発表したのが昭和14年(1939)、この頃の彼女が売れっ子であったことは容易に想像される。

但し、上の二つの文章、森栄の源氏名についての表記はまちがっている。
齋藤秀昭さんに確認をとった。「君代」が正しい。
齋藤さんは『泡/裸木』(講談社文芸文庫)によせた解説文の中で、地元紙『東海新報』(1933年6月8日)にその出典があると明記されている。
次に小田原に立寄る際には、図書館でこの記事を確認しようと、今から楽しみにしている。

ついでながら、『路草』の出版記念会が行われたのも、同書にある齋藤さん作成の川崎長太郎年譜によれば、「弥生」ではなく、「レインボーグリル」とある。

*補記・その後、齋藤さんから「そのときの出版記念会は東京と小田原の二箇所で行われたようです」とのお話をいただいた。とすれば、「レインボーグリル」とは、紀尾井町に移る前の文藝春秋本社があった大阪ビルに戦前まで入っていたレストランのことだと思える。


yas_terui at 00:28│ 小津安二郎の周辺 | 書物