2016年04月05日

原節子<夏目漱石>小津安二郎

石井妙子の新作『原節子の真実』(新潮社)を大変面白く読んだ。ほとんど一気読みであった。
「真実」を<知られざる事実>とするなら、これまでにも伝承されてきてはいるものの確証が得られていなかった「ただ一人の恋人=清島長利説」に対する生き証人を得られた、ということくらいしかない。
清島長利は原節子に惚れられたために東宝から放逐されて松竹に移り、初婚はほぼ政略で決められ長くは続かず、ぢき再婚したというもので、石井は『週刊文春』3月31日号にも取材の顛末を報告している。
清島は松竹時代、そのシナリオを<椎名利夫>の筆名で書いている。もちろん、「シナリオ」のもじりである。

書名からすると<わたしはこのように真実を探り当てました>という内容と思われるかもしれないが、清島の一件以外に、そのような箇所は、このブログの筆者には思い当たらなかった。
この本の取柄は、実はそこのところにはない。

<真実>は原節子の義兄・熊谷久虎との関係にあって、その関係性に関しては主に戦時中のことということもあって、状況証拠のなかに疑問と疑惑ばかりが残るだけで確証を得るまでに筆は到達していない。状況証拠から導き出せる仮説(結論)についてもふれていない。つまりあくまでも<真実は闇>にした、ということだ。

この本の面白さは実はそこにあって、石井妙子は<真実は闇>というその深い闇の場に身を置いて全篇を認めている、そこが実に面白いのだ。
だから、ノンフィクションというには構成が甘い、という批評が出るやもしれぬ。
石井は時に、原節子に憑依されたかのようなスタンスで筆を進めている。そういう箇所が散見されるのだ。
実に危うい、といわなければならないが、そこが実に面白い。ノンフィクションの体裁をとる以上はそうせざるを得なかった、というのがほんとうのところだろう。
そこがスリリングな読ませどころとなっている。

原節子に関して世間やマスコミは、あるいはときに映画批評界でさえも、「聖なる」とか「永遠の」とか、超越論的な修飾を付してきたけれど、もういい加減そんな形容をやめるわけにはいかないのだろうか。

石井妙子『原節子の真実』が<神話を構築するベクトル>への再考を促す一石となってくれればうれしいのだが。

この本を読んですぐに連想したのは、話は飛ぶようであるが、夏目漱石研究についてである。

漱石にも「神話」と呼ばれるものがあった。「則天去私神話」といってもいいが、この神話の系譜を主に担ったのは、漱石の一番弟子を自称しそれを誇りとした小宮豊隆であろう。
戦後しばらくまで、漱石はこの神話の中に置かれた。
荒正人が『近代文学』に「漱石の暗い部分」を発表したのは1953年のことだ。漱石の没後、40年近くが経っていた。
以降の漱石研究は、荒論文の方向性を深めるベクトルのうちに展開されてきた。
江藤淳、吉本隆明、柄谷行人らのほかに、アカデミズム系でも越智治雄、平岡敏夫、佐藤泰正らのいい仕事があった。
いま漱石を読んで、<禅的悟りの境地>を漱石に見ようとする人は少ないのではないか。研究の成果といっていいと思う。
(そのかわり、漱石の読者および漱石人気は漸減していったようで、ロンドンの漱石記念館も近く閉館されるときいた。これは自然過程です)

「原節子神話」の一角が石井の著作によって崩れるとするなら、それはそれで喜ぶべきことだとわたしなどは思うのだが、どうして、その対偶的位置に小津安二郎がいて、この人の神話には興行会社も後押しして、なかなか強固といわざるをえない。

田中眞澄はその主著『小津安二郎周游』(2003年)の最後の一文をこう結んでいる。
小津の墓は円覚寺に立てられることに決まった。残されたきょうだいが集って管長の朝比奈宗源に揮毫を頼み「無」の一字とした。
<「小津安二郎神話」のそもそものはじまりであった。>

興行の論理からすると、小津を高い位置に戴いておくというのは、間違いではないかもしれぬ。そのようにしておけばお客がいっぱい入る、と彼らは信じているのだから。
けれども、晩年の小津は、明らかに自らを低い位置におこうとしていた。
(厚田雄春はそれを、小津の「道化の精神」と呼んだ)。
この精神のベクトルは、小津の思想の運動からもたされているもので、必然といっていい。
そのてん、『道草』を書いた夏目漱石に通じるものがある、といえそうだ。

小津が死んだ年、1963年の正月、松竹監督新年会の席上で小津は吉田喜重に向かって「オレは橋の下で客を引く夜鷹だ。橋の上にいるお前さんからは見えぬだろう」という意味のことを繰り返し言って、終始絡み酒をあおっていた、という証言がある。
晩年の小津は、自らを<夜鷹>に擬していたわけだ。
このことの意味はたいへん重要で、研究者たちはもっと注目していいことのはずだ。
けれども<神話>の強度が、それを妨げている。

漱石研究における荒論文に相当する小津研究論文はといえば、高橋治『絢爛たる影絵』(1982年、文藝春秋)がそれにあたると思うが、この書物は興行会社によって蛇蝎のごとく嫌われているという現状がある。
だがしかし、この書はその後、講談社、岩波書店と版元を換え、今も現役として健闘している。そこにはわずかにであるかもしれぬが、光明が見出せる。

吉本隆明はこの国の<神話>の成り立ちに「敗北の構造」をみた。多くの氏族の神話が強力なある部族のひとつの神話に取って代わられた。

田中眞澄さんが生前、小津がらみのある映画祭を立ち上げた人物に「よく、あんな魑魅魍魎が跋扈する世界に踏み込もうとなされましたね」と話すのを聞いたことがある。
田中さんは小津神話の構造をよく理解されていた、そのうえで慎重だったのだと思う。
(そもそも、墓を円覚寺に建てることは小津の生前からの希望だったと書かれたものはあるが、どなたの証言だったのか、証言者を記したものにこれまで出会っていない)

極東のこの列島に棲息する強固な神話は、われわれの手によって種を明かしていかなければならない、そうしなければどうしようもなく開かれないぞと、へたれ始めた日々の生活の中で、頻りとつぶやく自分がいる。


yas_terui at 12:57│ 小津安二郎の周辺 | 書物