2016年04月28日

森栄の隠し子の名は「信ちゃん」?


森栄(小田原枕芸者時代の源氏名は「君代」)は、戦後、小津安二郎と再会し、昭和24年ころ、築地に待合「森」を開いたが、昭和30年前後に店を閉じている。
その後、富士銀行の調査部長だった紅林茂夫と結婚し、「紅林栄」となった。
入籍した時期ははっきりとはわからないが、すくなくとも昭和30年代後半には、紅林と同棲していたのではないかと思われる。
というのは、昭和36年には、彼女の終の棲家となる多摩丘陵の先端、生田に土地を買っているからだ。

こんなことがわかるのは、森栄が「紅林さかえ」名で、<うらじろ草子>という随筆集を3冊、上梓しているからだ。

2014年2月10日付のこのブログで、わたしは「森栄年譜の試み」を書いている。
そのときのテキストは2冊であったが、その後、齋藤秀昭氏が講談社文芸文庫『泡/裸木』の解説で「3冊ある」と書いておられることからもう1冊を探していたところ、ある奇特なお方が全篇をコピーしてくださった(感謝あるのみ)。
ただ、先の年譜に訂正加筆が必要な箇所はみられなかったので、そのままにしてある。

この3冊のテキストのうち、小津安二郎との関係を示唆する箇所は1箇所しかない。
川崎長太郎の作品については、いっさい触れられていない。
そして、父親のこと、子どものことについてもまた。
ただし、孫については何回も書かれている。

年譜には書かなかったけれども、わたしは、この「孫」は紅林茂夫の連れ子の子どもだろうと、勝手に解釈していた。
しかし、どうもちがうようである。森栄の実子の子、と考えたほうがよいようだ。
すくなくとも、川崎長太郎の作品を読んでいくと、そうなる。

川崎長太郎はいくつもの活断層を抱えているような作家で、その断層帯の名は、高名な「抹香町もの」のほか、同業作家もの、親類縁者もの、小田原での男女交流もの、軍隊徴用もの、だるま食堂もの、晩年の歳の離れた妻もの、などなどに分けられようが、「君代もの」も、もちろんそのうちの重要なひとつに数えられる。
この活断層のある帯は、何かのきっかけで活性化してひとつの作品として結実し、活動を休み、また時を経て再び活性化する。
川崎の短篇集(単行本)はそのつど、この断層帯を横断して集められ、編まれるので、わたしはすべての「君代もの」に目を通したという自信はないが、君代がててなし子を生んだ女として現れるのは、前回のブログ【補記】に書いたように、「捨猫」(昭25.1)が初めで、ごくあっさりと書かれてある。
その前の君代ものと思われる「恋の果」(昭22.6)に、確かその記述はなかったと記憶している。

昭和27年に書かれた「宮町通り」にははっきりと書かれている。
この作品は時制が入り組んでいて、地の文が昭和27年の視点に立っており、そこから戦前、戦後は昭和22年と24年における君栄(君代)との交流が振り返られている。

川崎長太郎の私小説では、ある事柄(川崎にとっての事件)が生起した特定の時間は、同じ事柄を扱った他の作品でも、正確に守られている。
川崎文学のひとつの特徴でもある。時間や事件について(金銭についても)、たいへんに律儀な人なのだ。
川崎自身は小説の中で、そんな自分をよく「小心者」と、卑下したように書いているけれど。

この作品によっても君代が子を生んだのは昭和9年と判断できるのだが、築地「森」開業を聞いた1年余の後、昭和25年秋口に川崎長太郎は「森」に足を運び、その所在を確かめている。
しかし、自らのおとないを告げることなく、路傍にまぎれた。
わたしの推測では、この探訪の前に川崎は小田原で、君代の消息に関して君代の旧知の仲間たちに取材して、彼女が子持ちであることの確信を得たのではないか。

私製の森栄年譜でも、「森」の開業は昭和24年とした。
開業当時、森栄の子は、横浜に住む栄の養母(森姓)の元に預けられ育っていたはずである。ところが、この養母が昭和26年に身罷ってしまう。
行き先をなくした森栄の子は、その後、築地に引き取られて、実母の栄と暮らし始めたのではないか。
森栄の実母「大内だい」が昭和27年から築地の「森」に同居し始めたことからも、そのように推察されるのである。

小津安二郎と森栄は、小津の従軍中も郵便でのやり取りを欠かしていないが、その後の再会がいつだったか、公開された日記がないのではっきりとわからない。
田中眞澄編纂『全日記 小津安二郎』に掲載された戦後は、昭和24年が最初の記述で、25年のものと同じく、その量はごく少ない。
小津は日記帳(手帖)を複数冊つかっていたが、公開されてあるものはメインのものではなく、記述の少ないサブの手帖であったろう。
その中の2月22日に「篠笛会」とあり、小津は欠席と記しているが、いまのところ、これが戦後の森栄に関する最初の記述である。

ところで昭和27年だが、この年は小津安二郎の生活史の中でも大きな出来事があった年だ。
シンガポールから帰還した後、母が居る野田の家、茅ヶ崎館、撮影所前の「月ヶ瀬」、築地の「森」などを転々とし、その日の塒を変えていた小津が北鎌倉に家を買い、母あさゑと二人暮らしすることを決めたのだ。

この不動産情報も、森栄からもたらされた可能性が高い。
3月10日に登記。小津は茅ヶ崎館にて野田高梧とともに「お茶漬の味」を執筆中で、気を集中させていたこともあろうが(脱稿は4月1日)、登記を森栄にやってもらっている。
小津の周囲では「いづれあの二人は一緒になる」ともみられていた。
森栄はどんな気持ちで登記の書類を小津の許に運んだことだろう。

引越しは5月2日にしているが、その間の3月25日の日記に気になる記述がある。
「築地から信ちゃんくる 秋紀堂の茶の友 栗まんじゅうもらふ 五万円渡す 津島の手数料也」というのである。
「津島」は別のところに「差配」と出てくるから、不動産屋だろう。5万円の貨幣価値は現在の35万円ほどにあたる。
小津はこの金を、築地からやって来た「信ちゃん」に預けている。
ちゃん付けだから、小津とは親しい仲と推察される。「築地」とは、ここでは森栄をさしていると読める。
わたしは、この「信ちゃん」が森栄の息子だと考えている。歳はこの時、もうぢき18歳になる青年であったろう。

森栄がどのように考えていたかは措くとしても、野田高梧との脚本執筆とその後の撮影で家を空けることの多い小津安二郎に、母あさゑと森栄母子が共に北鎌倉で暮らすことなど、端から、到底考えられないことであったろう。
小津は、森栄母子との暮らしを選ばず、母との二人暮らしを選択したのである。


yas_terui at 12:19│ 小津安二郎の周辺 | 書物