書物

2016年04月28日

森栄の隠し子の名は「信ちゃん」?


森栄(小田原枕芸者時代の源氏名は「君代」)は、戦後、小津安二郎と再会し、昭和24年ころ、築地に待合「森」を開いたが、昭和30年前後に店を閉じている。
その後、富士銀行の調査部長だった紅林茂夫と結婚し、「紅林栄」となった。
入籍した時期ははっきりとはわからないが、すくなくとも昭和30年代後半には、紅林と同棲していたのではないかと思われる。
というのは、昭和36年には、彼女の終の棲家となる多摩丘陵の先端、生田に土地を買っているからだ。

こんなことがわかるのは、森栄が「紅林さかえ」名で、<うらじろ草子>という随筆集を3冊、上梓しているからだ。

2014年2月10日付のこのブログで、わたしは「森栄年譜の試み」を書いている。
そのときのテキストは2冊であったが、その後、齋藤秀昭氏が講談社文芸文庫『泡/裸木』の解説で「3冊ある」と書いておられることからもう1冊を探していたところ、ある奇特なお方が全篇をコピーしてくださった(感謝あるのみ)。
ただ、先の年譜に訂正加筆が必要な箇所はみられなかったので、そのままにしてある。

この3冊のテキストのうち、小津安二郎との関係を示唆する箇所は1箇所しかない。
川崎長太郎の作品については、いっさい触れられていない。
そして、父親のこと、子どものことについてもまた。
ただし、孫については何回も書かれている。

年譜には書かなかったけれども、わたしは、この「孫」は紅林茂夫の連れ子の子どもだろうと、勝手に解釈していた。
しかし、どうもちがうようである。森栄の実子の子、と考えたほうがよいようだ。
すくなくとも、川崎長太郎の作品を読んでいくと、そうなる。

川崎長太郎はいくつもの活断層を抱えているような作家で、その断層帯の名は、高名な「抹香町もの」のほか、同業作家もの、親類縁者もの、小田原での男女交流もの、軍隊徴用もの、だるま食堂もの、晩年の歳の離れた妻もの、などなどに分けられようが、「君代もの」も、もちろんそのうちの重要なひとつに数えられる。
この活断層のある帯は、何かのきっかけで活性化してひとつの作品として結実し、活動を休み、また時を経て再び活性化する。
川崎の短篇集(単行本)はそのつど、この断層帯を横断して集められ、編まれるので、わたしはすべての「君代もの」に目を通したという自信はないが、君代がててなし子を生んだ女として現れるのは、前回のブログ【補記】に書いたように、「捨猫」(昭25.1)が初めで、ごくあっさりと書かれてある。
その前の君代ものと思われる「恋の果」(昭22.6)に、確かその記述はなかったと記憶している。

昭和27年に書かれた「宮町通り」にははっきりと書かれている。
この作品は時制が入り組んでいて、地の文が昭和27年の視点に立っており、そこから戦前、戦後は昭和22年と24年における君栄(君代)との交流が振り返られている。

川崎長太郎の私小説では、ある事柄(川崎にとっての事件)が生起した特定の時間は、同じ事柄を扱った他の作品でも、正確に守られている。
川崎文学のひとつの特徴でもある。時間や事件について(金銭についても)、たいへんに律儀な人なのだ。
川崎自身は小説の中で、そんな自分をよく「小心者」と、卑下したように書いているけれど。

この作品によっても君代が子を生んだのは昭和9年と判断できるのだが、築地「森」開業を聞いた1年余の後、昭和25年秋口に川崎長太郎は「森」に足を運び、その所在を確かめている。
しかし、自らのおとないを告げることなく、路傍にまぎれた。
わたしの推測では、この探訪の前に川崎は小田原で、君代の消息に関して君代の旧知の仲間たちに取材して、彼女が子持ちであることの確信を得たのではないか。

私製の森栄年譜でも、「森」の開業は昭和24年とした。
開業当時、森栄の子は、横浜に住む栄の養母(森姓)の元に預けられ育っていたはずである。ところが、この養母が昭和26年に身罷ってしまう。
行き先をなくした森栄の子は、その後、築地に引き取られて、実母の栄と暮らし始めたのではないか。
森栄の実母「大内だい」が昭和27年から築地の「森」に同居し始めたことからも、そのように推察されるのである。

小津安二郎と森栄は、小津の従軍中も郵便でのやり取りを欠かしていないが、その後の再会がいつだったか、公開された日記がないのではっきりとわからない。
田中眞澄編纂『全日記 小津安二郎』に掲載された戦後は、昭和24年が最初の記述で、25年のものと同じく、その量はごく少ない。
小津は日記帳(手帖)を複数冊つかっていたが、公開されてあるものはメインのものではなく、記述の少ないサブの手帖であったろう。
その中の2月22日に「篠笛会」とあり、小津は欠席と記しているが、いまのところ、これが戦後の森栄に関する最初の記述である。

ところで昭和27年だが、この年は小津安二郎の生活史の中でも大きな出来事があった年だ。
シンガポールから帰還した後、母が居る野田の家、茅ヶ崎館、撮影所前の「月ヶ瀬」、築地の「森」などを転々とし、その日の塒を変えていた小津が北鎌倉に家を買い、母あさゑと二人暮らしすることを決めたのだ。

この不動産情報も、森栄からもたらされた可能性が高い。
3月10日に登記。小津は茅ヶ崎館にて野田高梧とともに「お茶漬の味」を執筆中で、気を集中させていたこともあろうが(脱稿は4月1日)、登記を森栄にやってもらっている。
小津の周囲では「いづれあの二人は一緒になる」ともみられていた。
森栄はどんな気持ちで登記の書類を小津の許に運んだことだろう。

引越しは5月2日にしているが、その間の3月25日の日記に気になる記述がある。
「築地から信ちゃんくる 秋紀堂の茶の友 栗まんじゅうもらふ 五万円渡す 津島の手数料也」というのである。
「津島」は別のところに「差配」と出てくるから、不動産屋だろう。5万円の貨幣価値は現在の35万円ほどにあたる。
小津はこの金を、築地からやって来た「信ちゃん」に預けている。
ちゃん付けだから、小津とは親しい仲と推察される。「築地」とは、ここでは森栄をさしていると読める。
わたしは、この「信ちゃん」が森栄の息子だと考えている。歳はこの時、もうぢき18歳になる青年であったろう。

森栄がどのように考えていたかは措くとしても、野田高梧との脚本執筆とその後の撮影で家を空けることの多い小津安二郎に、母あさゑと森栄母子が共に北鎌倉で暮らすことなど、端から、到底考えられないことであったろう。
小津は、森栄母子との暮らしを選ばず、母との二人暮らしを選択したのである。


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2016年04月15日

川崎長太郎の<後期・君代もの>

今年に入ってから、以前より気がかりであった川崎長太郎、最晩年の短篇集『夕映え』(昭58、河出書房新社)を取り寄せ読んでみた。
この本の編集を担当したのは、まだ河出に在籍していた詩人の平出隆さんだったと思う。装丁も美しく、気合が入っている。

中に気になる一篇「ゆきずり」があった。『新潮』昭和56年9月号が初出である。
例によって川崎自身と思われる「小川」と小田原芸者とのやり取り。時代は昭和9〜10年にかけて。ここでの源氏名は「光代」となっているが、川崎作品の読者であれば、明らかにモデルは森栄(源氏名・君代)と知れる。ただし、この作品に映画監督の大津(モデルは小津安二郎)は登場しない。

気になったと書いたのは、この光代が男の子を産んだ設定になっていることだった。
川崎年譜の記述に当てはめてみると、出産は昭和9年のことになる。
森栄が小津と知り合う、その前の年だ。
しかし、作中の「小川」はそのことを知らない、という風に描かれている。

それからしばらく経って、講談社文芸文庫の短篇集『泡/裸木』にある齋藤秀昭氏の解説を再読すると、「君栄の視点から描かれた「淡雪」三部作」とあるのに気がついた。
さっそく、単行本『淡雪』(昭55、新潮社)を取り寄せ、読了。その三部作とは、
・ 「淡雪」(昭54、5『文藝』初出)
・ 「月夜」(同12、『すばる』)
・ 「浮雲」(55年1月、『新潮』)

このうち「淡雪」に大津監督の名は出てこないものの、続いての「月夜」「浮雲」にははっきりと小津とわかるように出てくる。
また、ここで驚いたのだが、一人称小説の語り手である枕芸者(君代とか君栄とかの名は出てこない)は、三作すべてで自分と同じ境遇の「ててなし子」(男の子)を生んだことになっている。
しかし、小川も大津監督も、巧妙に、そのことを知らないように描かれている。
ここは、川崎長太郎の技巧のすぐれて巧妙なところだろう。
(ただし、大津監督は母親と二人で鎌倉に住んでいることになっている。時代から言えば、このころの小津の住まいは高輪であって、ここは川崎の検証不足? と読める)。

「浮雲」を読んでいて、妙な感覚に襲われた。
女の語り手と小川が交わす会話に、既読の感があったのだ。
なんだったろうと書棚を訪ねてパラパラやってみると、すぐに突き当たった。
前述の文庫『泡/裸木』に収められた最後の一篇「宮町通り」(昭27.10『小説新潮』初出)である。

「宮町通り」では、戦前から知りあいの小川と君栄のいきさつが第三者の筆で小川の胸のうちを描写しつつ述べられるが、その二人が戦後(昭和22年、と想定される)東海道線の車内で偶然顔を合わせる。
その時の会話の文章が、ほぼそっくりそのまま「浮雲」に出てくるのだ。
ただし、「宮町通り」では小川の心理を、「浮雲」では君栄の胸中を、それぞれ描写している。

はじめ、これは原稿の二重売りではないか、と疑ったくらいだが、おそらくそうではない。
川崎長太郎はこの二作で、「裏見の滝」を構成する実験に挑んだのだ、と思えてならない。
裏見の滝とは、滝の落ち口がハングして、落水帯の裏側をも人が通れる、そういう形状をもつ滝のことなのであるが、この二作を連続して読めば、会話が滝の落水のごとく、言葉がザアザアと流れ落ちるさまを読むことになるだろう。
その水の流れ落ちるさまを、表からは小川が、裏からは君栄が、それぞれに眺めつつ感慨にふけっているわけだ。
ここには川崎長太郎の文学的実験がある。「浮雲」を書いたとき川崎長太郎は77歳。
川崎長太郎おそるべし、と、あらためて唸らされてしまう。

ちょっと話の方向をたがえてしまった。本題に戻ろう。
文庫『泡/裸木』は、小津と、小津に惚れた君代との関係に嫉妬を募らせる私小説作家の心情を吐露した短篇を集めて編まれた書物だが、川崎の戦前の代表作「裸木」(昭14.3『文学者』初出)までの九篇が戦前に発表されたもの、その次に「宮町通り」が置かれ、こちらが巻末という構成になっている。
この二つの作品の間には、敗戦を挟んで13年のときが経っている。
そして、「裸木」の君栄は妊娠しておらず、君栄が新橋芸者になるために上京する小田原駅での歓送の人並みの中に幼児はいるが、彼は君栄の子ではなく、君栄の継母の実子と作者には認識されている。
しかし、末尾に置かれた「宮町通り」では、二人の会話に君栄の子どものことは出てこないものの、作者には、君栄はててなし子を生んだ、と認識されている。
つまり、この13年の間に、川崎長太郎は森栄がててなし子を生んだ事実を知ったことになるわけだが、それは果たしていつの事か、また小津安二郎は?

このなぞに関しては、また続編をこのブログに書くことになると思うが、現在想定されているのは、昭和24年のことだ。
これ以降の、森栄をモデルにした川崎作品を、わたしは<後期・君代もの>と呼びたいと考えているわけである。


・【補記】その後、「捨猫」(昭25.1『風雪』初出)を再読したが、この作品が「淡雪」と「月夜」の滝の表側(原作)となっていることがわかった。
「捨猫」には、君香(君代)は恋仲のようになった地主の一人息子との間に男の子をもうけたが、未亡人となってから十年近く地主の家の屋台骨を背負ってきた母親に告げたとしても、その母親は、「そんな稼業の女の生むものなんか、と頭から真にうけはしなかったであろう」という記述がある。(4月17日記)



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2016年04月05日

原節子<夏目漱石>小津安二郎

石井妙子の新作『原節子の真実』(新潮社)を大変面白く読んだ。ほとんど一気読みであった。
「真実」を<知られざる事実>とするなら、これまでにも伝承されてきてはいるものの確証が得られていなかった「ただ一人の恋人=清島長利説」に対する生き証人を得られた、ということくらいしかない。
清島長利は原節子に惚れられたために東宝から放逐されて松竹に移り、初婚はほぼ政略で決められ長くは続かず、ぢき再婚したというもので、石井は『週刊文春』3月31日号にも取材の顛末を報告している。
清島は松竹時代、そのシナリオを<椎名利夫>の筆名で書いている。もちろん、「シナリオ」のもじりである。

書名からすると<わたしはこのように真実を探り当てました>という内容と思われるかもしれないが、清島の一件以外に、そのような箇所は、このブログの筆者には思い当たらなかった。
この本の取柄は、実はそこのところにはない。

<真実>は原節子の義兄・熊谷久虎との関係にあって、その関係性に関しては主に戦時中のことということもあって、状況証拠のなかに疑問と疑惑ばかりが残るだけで確証を得るまでに筆は到達していない。状況証拠から導き出せる仮説(結論)についてもふれていない。つまりあくまでも<真実は闇>にした、ということだ。

この本の面白さは実はそこにあって、石井妙子は<真実は闇>というその深い闇の場に身を置いて全篇を認めている、そこが実に面白いのだ。
だから、ノンフィクションというには構成が甘い、という批評が出るやもしれぬ。
石井は時に、原節子に憑依されたかのようなスタンスで筆を進めている。そういう箇所が散見されるのだ。
実に危うい、といわなければならないが、そこが実に面白い。ノンフィクションの体裁をとる以上はそうせざるを得なかった、というのがほんとうのところだろう。
そこがスリリングな読ませどころとなっている。

原節子に関して世間やマスコミは、あるいはときに映画批評界でさえも、「聖なる」とか「永遠の」とか、超越論的な修飾を付してきたけれど、もういい加減そんな形容をやめるわけにはいかないのだろうか。

石井妙子『原節子の真実』が<神話を構築するベクトル>への再考を促す一石となってくれればうれしいのだが。

この本を読んですぐに連想したのは、話は飛ぶようであるが、夏目漱石研究についてである。

漱石にも「神話」と呼ばれるものがあった。「則天去私神話」といってもいいが、この神話の系譜を主に担ったのは、漱石の一番弟子を自称しそれを誇りとした小宮豊隆であろう。
戦後しばらくまで、漱石はこの神話の中に置かれた。
荒正人が『近代文学』に「漱石の暗い部分」を発表したのは1953年のことだ。漱石の没後、40年近くが経っていた。
以降の漱石研究は、荒論文の方向性を深めるベクトルのうちに展開されてきた。
江藤淳、吉本隆明、柄谷行人らのほかに、アカデミズム系でも越智治雄、平岡敏夫、佐藤泰正らのいい仕事があった。
いま漱石を読んで、<禅的悟りの境地>を漱石に見ようとする人は少ないのではないか。研究の成果といっていいと思う。
(そのかわり、漱石の読者および漱石人気は漸減していったようで、ロンドンの漱石記念館も近く閉館されるときいた。これは自然過程です)

「原節子神話」の一角が石井の著作によって崩れるとするなら、それはそれで喜ぶべきことだとわたしなどは思うのだが、どうして、その対偶的位置に小津安二郎がいて、この人の神話には興行会社も後押しして、なかなか強固といわざるをえない。

田中眞澄はその主著『小津安二郎周游』(2003年)の最後の一文をこう結んでいる。
小津の墓は円覚寺に立てられることに決まった。残されたきょうだいが集って管長の朝比奈宗源に揮毫を頼み「無」の一字とした。
<「小津安二郎神話」のそもそものはじまりであった。>

興行の論理からすると、小津を高い位置に戴いておくというのは、間違いではないかもしれぬ。そのようにしておけばお客がいっぱい入る、と彼らは信じているのだから。
けれども、晩年の小津は、明らかに自らを低い位置におこうとしていた。
(厚田雄春はそれを、小津の「道化の精神」と呼んだ)。
この精神のベクトルは、小津の思想の運動からもたされているもので、必然といっていい。
そのてん、『道草』を書いた夏目漱石に通じるものがある、といえそうだ。

小津が死んだ年、1963年の正月、松竹監督新年会の席上で小津は吉田喜重に向かって「オレは橋の下で客を引く夜鷹だ。橋の上にいるお前さんからは見えぬだろう」という意味のことを繰り返し言って、終始絡み酒をあおっていた、という証言がある。
晩年の小津は、自らを<夜鷹>に擬していたわけだ。
このことの意味はたいへん重要で、研究者たちはもっと注目していいことのはずだ。
けれども<神話>の強度が、それを妨げている。

漱石研究における荒論文に相当する小津研究論文はといえば、高橋治『絢爛たる影絵』(1982年、文藝春秋)がそれにあたると思うが、この書物は興行会社によって蛇蝎のごとく嫌われているという現状がある。
だがしかし、この書はその後、講談社、岩波書店と版元を換え、今も現役として健闘している。そこにはわずかにであるかもしれぬが、光明が見出せる。

吉本隆明はこの国の<神話>の成り立ちに「敗北の構造」をみた。多くの氏族の神話が強力なある部族のひとつの神話に取って代わられた。

田中眞澄さんが生前、小津がらみのある映画祭を立ち上げた人物に「よく、あんな魑魅魍魎が跋扈する世界に踏み込もうとなされましたね」と話すのを聞いたことがある。
田中さんは小津神話の構造をよく理解されていた、そのうえで慎重だったのだと思う。
(そもそも、墓を円覚寺に建てることは小津の生前からの希望だったと書かれたものはあるが、どなたの証言だったのか、証言者を記したものにこれまで出会っていない)

極東のこの列島に棲息する強固な神話は、われわれの手によって種を明かしていかなければならない、そうしなければどうしようもなく開かれないぞと、へたれ始めた日々の生活の中で、頻りとつぶやく自分がいる。


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2015年12月23日

小田原の森栄と川崎長太郎


頂度ひと月前の11月23日、川崎長太郎没後30年を記念して、小田原市民会館で<「小屋」をめぐって>と題するシンポジウムが開かれ、古くからの友人ペロシ君と参加した。
ペロシ君は渋い映画愛好家で、川崎文学の耽読者でもある。

パネラーは川崎文学研究家の齋藤秀昭、詩人の平出隆、建築家の大室佑介、青木淳の各氏である。
齋藤さんの編まれた講談社文芸文庫の川崎長太郎のシリーズには教えられることが多く、今回も何か、という助べえ心があったのだ。

質問コーナーがあって、小津安二郎と川崎長太郎の関係について質問が出た。
すると司会の小田原図書館館長・古矢智子さんが回答担当を私に振った。
そんなことがあってのことだろう、後日、古矢さんが「川崎長太郎文学碑を建てる会」編集・発行の『私小説家 川崎長太郎』というアンソロジーを贈ってくださった。
1991年11月発行、会の代表者は小田原出身の井上和男監督である。

その本の中に、二人の人物が、小田原の森栄と川崎長太郎について書いている。
貴重な証言だと思うので、備忘のために、以下に記すことにした。

ひとつは大南勝彦の「小田原リポート」にある一文。大南氏の肩書きには記録文学作家とある。おそらく、小田原在の人だろう。

          *

 此の一九四三年(昭和9年)には『路草』(文座書林)が処女出版されているが、その出版記念会を「弥生」でやっており、島本さんも出席している。「弥生」は現在の中央劇場の所にあった待合である。当時川崎さんは千丸という芸者に入れ揚げていたが、売れっ子で、時に君江という文学少女めいた芸者が、代りにお座敷をつとめることもあった。
「実は千丸には恋人がいて、それが私の友人だったんです。それを川崎さんに言えなくてねえ」
 と、島本さんは笑った。

          *

ここに出てくる「島本さん」とは、小田原在のプロレタリア作家・島本恒のこと。
中央劇場は宮小路にあった映画館で、1992年に閉館している。

もうひとつは、晩年の内田吐夢監督も通った濠端の蕎麦屋「田毎」の先代主人、相澤栄一氏による「長さんの思い出」である。以下。

          *

 長さんが「裸木」を書いた前後、小田原に帰ると、よく洗い髪姿の君栄さんとお濠端の桜並木道を歩いていた。長さんが彼女と、しんみりと杯を交す場としていた料亭「弥生」に私も招かれて、席を共にした。洗い髪姿で渋い着物の、彼女の面長な品のよい愛らしい顔を、私もじっと見ながら、長さんが魅せられる筈だと思ったりもした。お正月の松の内だった。長さんのお供で「弥生」で杯を交した時は、彼女は島田で晴れ着姿だったので、芸者らしい、あでやかさが目立った。
 酒がまわると長さんは、いつものように牧水や啄木の歌を、又得意な「磯節」を渋い声で歌ったりした。その頃長さんは、彼女と会うのを楽しみに、小田原に足繁く帰ってきたようだ。引く手あまたな売れっ子芸者だが、幼い頃から重荷を背負って、人の世の荒波を転々と生きてきた彼女を、長さんは温かな目で見守っていたようだった。

           *

森栄が芸事に身を入れ始めるのは昭和12年、小津安二郎を知って後のこと。
それまでは座敷で披露できるだけの芸の技量を持っていなかった。
つまりは不見転の芸者だったわけだ。
大正4年(1915)生れの森栄が小津とであったのが20歳のとき、川崎が「裸木」を発表したのが昭和14年(1939)、この頃の彼女が売れっ子であったことは容易に想像される。

但し、上の二つの文章、森栄の源氏名についての表記はまちがっている。
齋藤秀昭さんに確認をとった。「君代」が正しい。
齋藤さんは『泡/裸木』(講談社文芸文庫)によせた解説文の中で、地元紙『東海新報』(1933年6月8日)にその出典があると明記されている。
次に小田原に立寄る際には、図書館でこの記事を確認しようと、今から楽しみにしている。

ついでながら、『路草』の出版記念会が行われたのも、同書にある齋藤さん作成の川崎長太郎年譜によれば、「弥生」ではなく、「レインボーグリル」とある。

*補記・その後、齋藤さんから「そのときの出版記念会は東京と小田原の二箇所で行われたようです」とのお話をいただいた。とすれば、「レインボーグリル」とは、紀尾井町に移る前の文藝春秋本社があった大阪ビルに戦前まで入っていたレストランのことだと思える。


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2015年07月12日

井伏鱒二23回忌を野上照代さんと

今年の7月10日は井伏鱒二先生の23回忌ですからその日にしましょうよ、と野上照代さんが言うのである。
こちらに何の不足はない。昨日がその日だった。
わたしは荻窪で電車を降り、教会通りから初めて井伏邸まで歩いた。先日は開いていなかったコロッケ専門店が今日は営業していて、店の前には人が並んでいた。
井伏邸は写真でかつて見たままの佇まいであった。生垣は丁寧に剪定されていて、手入れが行き届いているとわかる。
かつては名刺大の紙に「井伏」と書かれた表札が門柱にとめられてあったというが、いま表札の如きものは掲げられていない。娘さんご夫婦がお住まいらしい。
区画を一巡りして厳しい西陽を受けながら、西荻窪まで歩いた。西荻には晩年の井伏さんが通った酒亭「しゃも重」があって、その入口のカウンター席に井伏先生の遺影が置かれ、野上さんが待っていてくれた。

野上さんは敗戦直後、八雲書店の編集者時代に井伏さんに会い、その後、黒澤明作品のスクリプターとなられたあと、黒澤監督が「トラ! トラ! トラ!」でFOXと東映京都撮影所を相手に七転八倒していた頃には’EXPOのためにサンアドに在籍していて、或る人の仲介で井伏鱒二と再会した。
このことは野上さんの著書『蜥蜴の尻っぽ』に書かれてある。
その後は井伏さんが主催される飲み会などで永く世話役(幹事)を務められ、安岡章太郎や三浦哲郎をはじめとして多くの方の知遇を得た。
今回はこの6月に上梓された野上さんの新著『黒澤明 樹海の迷宮』(ヴラジーミル・ヴァシーリエフ、笹井隆男共著。小学館)刊行祝いも兼ねていた。
それで、ここには書けない裏話もたくさん聞けたのであった。

「しゃも重」には30年ぶりくらいの再訪になる。
当時、おいしいシャモ鍋を食した記憶があるが、いまは良質のシャモの入手が困難なため鍋はやっておらず、9月には店を駅近くに移転するそうだ。
料理屋の店構えから小ぢんまりした酒亭に衣替えするようで、「この店で飲めるのもこれが最後ね。今日来てよかったわ」と、野上さん。
そういえば、井伏鱒二には「岩田君のクロ」という、軍鶏を題材にした秀逸な短篇があったなあ(昭13)。

野上さんはわたしへの手土産に、井伏鱒二原作、高木孝一脚本・監督『南風交響曲』(昭和15年製作の南旺映画)のDVDをお持ちくださった。
これはレアもので、わたしは未見であったので、とても嬉しかった。
翌日の今日、早速そのDVDを見たが、クレジットには井伏の短篇集『禁札』より、とある。
年譜を見ると、昭和14年3月竹村書房より刊行、とあるが、どんな短篇が収録されていたのか、よくわからない。
井伏さんのことであるから、その後に封印してしまった作品であるかもしれない。
少なくとも、わたしの既読の井伏短篇に、脚本に該当するような作品はないのであった。
ただ、映画の出だしのシークエンスは明らかに「丹下氏邸」からヒントを得たものであることはわかった。ニュアンスはぜんぜんちがっているが……。
「おこまさん」を原作とした成瀬巳喜男監督『秀子の車掌さん』(昭16)も南旺映画だから、井伏ファンともいうべき人が、誰かこの短命だった製作会社にいたのかもしれない。
この二つの映画には、互いに通いあう空気のようなものが流れている。

わたしが用意した手土産は、『中央公論』昭和5年9月号。
井伏の短篇「先生の広告隊」の初出誌である。
創作欄には横光利一「鞭」、徳永直「嵐を衝いて」、同じくプロレタリア作家の前田河広一郎の短篇三作が載っていて、これらはすべて9ポ1段で組まれている。
それに対し、「貧乏ナンセンス物語」と称して井伏のほか、吉行エイスケ、窪川いね子(佐多稲子の旧名)、辰野九紫の四人が短篇を寄せているが、こちらはみな8ポ3段組である。
井伏さん33歳、まだ駆け出しのユーモア作家扱いだったんだなあ。
野上さんが物心つくすこし前、とにかく時代を感じさせてくれる。

そこでまた映画の話になった。
井伏鱒二の原作が初めて映画化されたのは『多甚古村』(昭15東宝、今井正監督)ということになっているけれど、実は違うんです、小津安二郎監督小市民ものの傑作『東京の合唱(コーラス)』(昭6)、あれの後半部のスポークン・タイトルはほとんどそのまま井伏さんの「先生の広告隊」から引かれています、原作クレジットは北村小松でシナリオは野田高梧、台本には北村と並んで井伏さんの名が記されてあったそうですが、このことを指摘されたのはわたしの知るかぎり田中眞澄さんただ一人です、井伏先生から何かお聞きになっていませんでしたか?

残念ながら野上さんは先生とそんな話をした記憶はないとのことであったが、近年、池袋文芸坐に高峰秀子特集がかかったとき、晩年の大女優の養女になったSA嬢が『東京の合唱』の「活動弁士」を務めたという、大袈裟に言えば<現代映画史上の奇譚>ともいうべき事件を教えてくださり、わたしはしばし絶句したのであった。

でもそのあとはまた楽しい話がつづき、気がつけば10時を過ぎてお別れしたのである。
いい一日でした。
野上さん、ありがとう。


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