身辺雑記

2018年08月25日

諏訪神社および周辺紀行

 かつて蓼科に別荘を持っていた旧友の藤田君、カメラマンの廣澤さんと2泊3日で、諏訪周辺を歴史探索した。
 自分はここ2年ほど、諏訪祭政体とミシャグジに関する文献をあさり、いまも渉猟中であるゆえに案内役を務めた。
たいへん充実した旅をすることができ、二人に感謝するしだいだ。

・ 第1日目 8月20日(月)
午前10時にJR南武線谷保駅北口に集合、廣澤さんの運転で中央高速へ。
諏訪大社上社前宮→上社本宮(宝物殿も見学)。
本宮にて「鹿食免」を購入、諏訪学に興味をもつ長男への土産とする。
駅前ホテルに投宿後、片倉館→居酒屋にて馬刺、鹿刺。

 前宮本殿の前で、ボランティア・ガイドさんと立ち話。本殿はかつて精進屋とよばれ穂屋であった、それが糸萱に移築されてある、とのこと。そういえば、人間社の文庫でそんな話を読んだことがあるような。明日の訪問先にくわえる。

・ 第2日目 8月21日(火)
尖石縄文考古館→糸萱の折橋子之社→下社奥宮(八島湿原)→下社春宮→秋宮。
片倉館(藤田君が大いに気に入った)で汗を流した後、今日も二軒目の居酒屋で鯨飲。

 糸萱集落に入っても標識はなく、集落の案内板で神社のあることを確認、そこであろうと見当をつけて参詣する。
 折橋子之社は糸萱の氏神社といった風格で、立派な御柱も建っていたが、移築の案内板もなく、穂屋でもなかったので、これは精進屋を移築したものではないとそのときは思い、去ることにした。
 帰宅した後、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(人間社文庫)を開いて確認したところ、昭和7年に前宮精進屋の古材を集落(財産区、か)が買い取り、折橋子之社を建替えたものであると書かれている。精進屋の正確な再現であったかどうかについてはふれられていない。
 そのとき、前宮本殿の建造には伊勢神宮の古材が使われたということであるから、遷宮後の古い木材は、神社のあるネットワークによって再利用されるらしい。
 それにしても、ここでも諏訪神社と伊勢神宮との関係の深さが思量される。
 6年を経た古御柱は、郷社、氏神社などで再利用されるという。おそらく、大きな「講」から小さな「講」へと下っていき、それが信仰の基盤ともなっているのだ。

 この日のハイライトは下社奥宮であった。八島湿原の東南の端に晴れ晴れとした薄野が広大に広がり、その中心に奥宮はあった。ここにいくつもの穂屋が組まれ、大勢の人々によって狩猟祭祀が営まれたと想像するだけで、興奮が満ちてくる。

・ 第3日目 8月22日(水)
下社秋宮宝物殿→菅野温泉→神長官守矢資料館→井戸尻考古館→谷保駅前にて解散。

 宝物殿は上下社の共通券を買ったのでこの日行ったが、展示は上社のほうが上。薙鎌やサナギ鐸などの実物がみられる。

 秋宮の参道筋にある菅野温泉で朝風呂をあびる。入浴230円。牛乳110円。駐車代無料。上諏訪と違い、下諏訪には財産区がもつ共浴温泉場がたくさんある。この町の温泉場の雰囲気は、他所では味わえぬものをもっていると思う。落ち着いたシャビーとでもいうか、自分は好きである。

 守矢資料館のこの日の展示は、文書関係は幕末以降のものばかりで、精彩を欠いた。ガイドさんも、藤森照信はじめての建築設計作品と、建造物のことばかりに言及していた。ただし、館の奥にある御頭御左口神総社は必見。

 井戸尻考古館は尖石に比べ訪れる人が少なく、その割に展示は見劣りしない。ゆったりとした雰囲気で鑑賞できる。ここでも縄文中期の出土品に圧倒されるが、なかでも人面香炉型土器は圧巻であった。
 資料館に続く道のほとりに、二体の双体道祖神を脇に置き、奥に石棒、手前におそそ岩を配した一角が設けられてあったが、これは出土を再現したものか、それとも一種のインスタレーションであるのか、聞きもらしてしまった。次回の楽しみに取っておくとしよう。


yas_terui at 15:31|Permalink

2018年03月31日

さよなら、栲さん、首くくり栲象さん

古澤栲(本名・守。別名・首くくり栲象)さんが、築地の聖路加病院でしずかに息を引き取られた。

2018年3月31日、桜花の舞い散る午後2時近く、肺がんであった。

葬儀については未定だが、善意の関係者たちにより検討されています。


さよなら、栲さん、首くくり栲象さん。


yas_terui at 18:14|Permalink

2015年09月20日

JAPAN驚愕の勝利と渡欧日程


 ブックデザイナーのJKさんから嬉しいメールをいただきました。

 以下はそのメールです。(JKさん、無断掲載をお許し下さい)

            *

照井様

お元気ですか。

ひょっとしたら、ラグビーのワールドカップを見にイギリスでしょうか。

昨日の日本チームは素晴らしかったですね。

感動しました。

ブライトンの会場でご覧になっているかもしれないと思い、テレビで観客がうつるたびに探しました。

             *
 以下はその返信です。   


JKさま  メールありがとうございます。

わたくし、TVでみていて、カーン・へスケスがトライを決め、勝利を決定した後、しばし感涙にむせんでおりました。
ラインアウトを起点に後半28分、FB五郎丸が決めたジャパン二つ目のトライが素晴らしく、この時点で勝ち点は取れるとは思っておりましたが、
(それだけでもすごい! のに)  まさか
生きている間に南アに勝つ日が来るとは、夢にも思っておりませんでした。
生きていてよかった。

イングランドへの渡航日は10月1日、コッツウォルズ地方のバートン・オンザ・ウォーターを拠点に、
ジャパンの第3戦(対サモア。10月3日、ミルトンキーンズ)、第4戦(対USA。10月11日、グロスター)を観戦、
その後パリに渡って3泊4日、16日帰国の予定です。

途中、ロンドンでアイ・ウェイウェイ展、パリで高橋龍太郎コレクション展とポンピドーへ行く予定を立てております。

帰国して、ジャパンのノックアウト・ステージを見ることができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。 いま、幸せな気分です。ありがとう。   

              *

これを機会に、日本でラグビーを観戦する人が増えたら嬉しい。
というのは、
ラグビーほど西欧文明の核心を表現するスポーツは、他にないからだ。

西欧文明はギリシャ・ローマの文化圏の中、ライン川とセーヌ川の間の地域に中世初期、三圃式農業が成立することによって生産力と人口の爆発が起り、十字軍戦争、大航海時代、帝国主義へと膨張を続けた。
これだけならアメリカと大して変わらないのだけれど、西欧文明の倫理の核心には「オフサイド・ルール」がすえられている。
かんたんにいうと、「あらかじめ敵陣にいたプレイヤーはオフサイド・プレイヤーであり、プレイに参加してはならない」というものだ。
これは、豊穣儀礼の一形態として発達したフットボールの競技規則(Law)の核心的倫理であり、多くの市民はフットボールを通じてこの倫理を学び、西欧市民社会の倫理として浸透していく。
サッカー(Association Football)にもあるが、ラグビーでのそれがもっとも厳しい。そして、アメリカン・フットボールに「オフサイド・ルール」は存在しない。
(と、はじめは書きましたが、アメフトに詳しい友人から、尾骶骨みたいな、痕跡のようなものはあります、と指摘された)


一般的に、アメリカにわたるとスポーツ・ルールから「オフサイド」の倫理は消えてしまう。
ふつう「外務省」と呼ばれる国家組織が、アメリカでは「国務省」となる所以だ。
アメリカには「敵陣/自陣」の概念が基本的になく、したがって「オフサイド」も存在しない。
F.ルーズベルトの時代、アルマジロのようだった保護主義から「世界の警察」へと、一挙に変貌を遂げたのはそのせいで、このアメリカ文明の土壌を培ったのは、おそらく「西部開拓史」以来の膨張願望であろう。

その西の外れ(アメリカから見れば)に日本はある。その手先に安倍自民党がいるわけだ。
アメリカ保護主義の橋頭堡・日本と帝国主義の衣をまとう保護主義アメリカ。

でも、アメリカは変わりつつある。「凋落の始り」を指摘する人もいる。
だが、どうだろう。
東海岸、西海岸を問わず、ラグビーの競技人口、観戦人口が増えつつある。
この傾向と相関性について、しばらく観察を継続していく必要があると思う。




                    


yas_terui at 17:07|Permalink

2014年11月19日

お詫びと訂正「小津自画像」についての報告


 田中眞澄氏が亡くなって三周年が近づいてきた。ひいては追悼のために小特集を組みたいので、『ユリイカ』での例の蓮實重彦発言について反論してほしい、という要請が『映画論叢』編輯長からあったのは、まだ夏の暑い頃だったように思う。
 ここでいう『ユリイカ』の蓮實発言とは、前年秋発売された小津安二郎特集でのもので、そのことに関してはただ一人、坪内祐三さんが書かれたものがあるという。
 わたしは知らなかったので、コピーを送ってもらい読んだ。「坪内祐三の読書日記」という連載コラムの一場面。
 わたしは、依頼を請けて書く以上は概略を記さねばならず、かといって記すのもおぞましく、しんどいなと思っていたところ、簡潔にしてみごとにツボをおさえられた文章を坪内さんが書いてくださっていた。
 おかげで助かりました。以下は、坪内さん筆の当該部分の全文です。

          *

<十月十四日(月) 午後、『ユリイカ』の十一月臨時増刊号「総特集小津安二郎」を読んでいてきわめて不快になる。青山真治と蓮實重彦の対談で、蓮實重彦は先日刊行された『蓼科日記 抄』(小学館スクウェア)に登場する「デンマークの白熊」に註がなかったことを話題にし、「これは註を担当された田中眞澄さんの限界なんですが、映画史家なら一発でこれを言わなければならない」と述べ、田中眞澄批判を始める。これはまったくタメにする批判でしかも事実誤認を含んでいる。なぜなら『蓼科日記 抄』に目を通せばあの「註記」が人名中心で、しかも巻頭の「刊行の辞」に続いて、「第一次校訂」田中眞澄とあり、「第二次校訂と註記」照井康夫とあるからだ。つまり二〇一一年末に急逝した田中氏はこの日記の註記の担当者ではなく、蓮實重彦に言われるまでもなく田中氏は当然「デンマークの白熊」を知っていたはずだ。>〔『本の雑誌』2014年1月〕

          *

 「デンマークの白熊」というのは小津組のキャメラマン厚田雄春が、戦後、松竹以外の小津作品の美術監督を務めた下河原友雄に付した愛称なのであるから、註記の筆者としてその由来までたどれなかったことの落度はある。「デンマークの白熊」とは、デンマークの映画製作会社「ノーディスク・フィルム」の商標であった
 わたしも坪内氏と同じく、田中さんはその名の由来をご存知であったろうと思ったけれど、わたしには生前の田中さんと戦前のデンマーク映画を話題にした記憶がなく、確かめるすべはいまや失われたので、じつは少々滅入っていた。
 けれどそこへ、1970年代にフィルムセンターで田中さんとともにノーディスク作品を何本も見た、田中さんが知らないわけがないという証人があらわれ、この件は解決し、わたしは追悼原稿を仕上げることができた。
 『映画論叢』37号は2014年11月15日発売と、奥付にある。

 ここまでは、『蓼科日記抄』註記の「当事者(筆者)の感想」として書いた稿の概略だが、以下は、以前から何らかの形で報告せねばならないと思いつつ、わたしの怠惰からびのびになっていた「お詫びと訂正」事項で、機会を与えられて漸く書くことができたので、ここに報告させていただきます。

          *

 「デンマークの白熊」の由来についての欠落は、わたしにとっては取りこぼしであって、間違いというわけではないので、まだ心的負担は軽い。ここに告白するが、あの『蓼科日記 抄』の帯文にも書かれた「小津自画像」が間違いだったのである。この場を借りて、真摯にお詫び申し上げます。
 昭和35年5月3日の項にある見開きページ。右ページには蓼科の野田山荘「雲呼荘」を訪れた若者の一人、長瀬尚牛の顔が多色の色鉛筆で描かれ、戯文調で長瀬氏の略歴が添えられてある。いずれも小津安二郎の筆である。ここに問題はない。
 左ページの右上に「小津先生 生年月日をご記入下さい」とあって、これは長瀬尚午の筆である。真ん中に件の小津の横顔が鉛筆を主線に、青と赤の色鉛筆が加筆されて描かれている。その余白に、画にかぶさりつつ、小津がこちらも戯文調で自らの略歴を認めている。そして左下に鉛筆で「ながせ」と小さくサインがある。このサインの上にも小津の字がかぶさっていて、わたしはこのサインの重要性を見落とした。
 この「小津の横顔」の画は、その醒めた眼差しに一瞬戸惑うものの、筆致は洒脱で巧い。わたしたちは漠然とこれを小津の自画像であると思い込んでいた。
  讀賣新聞のK記者が取材に訪れ、何か目玉になる画像がほしいと請われたとき、「小津さんの自画像です」と提供したのがわたしで、それが最初の公式発表となってしまった。そして『蓼科日記 抄』刊行後の半年間、疑義は提出されなかった。
 最初に気がついたのはフィルムセンター図書室に勤務する笹沼真理子さんだった。昨年(平成25年)12月12日から京橋のフィルムセンター展示フロアで「小津安二郎の図像学」が三箇月余にわたって開催され、蓼科日記の原本全巻がそこに展示された。オープニングの直前になって、笹沼さんから連絡を受けた。
 「あれは自画像でないことに先ほど気がつきました。長瀬尚午さんの画です。展示責任者の方にも確認してもらいましたので、これからすぐに展示パネルの写植を変更してもらいます」とのことであった。わたしもすぐに図版を確認し、笹沼さんの説が正しいことを受け容れた。
 『早春』のモデルになった若者グループの一人、江原望さんと話す機会があって、そのとき長瀬尚午さんが元気でおられることを知り、年が明けて電話した。長瀬さんはすでに『蓼科日記 抄』をお持ちだった。
 「小津の横顔」が長瀬さんの筆であることを確認したあとわたしが謝罪の言葉を述べると、長瀬さんからは「ああ、いいんですよ、そんなこと。でも、あれを本にする作業は大変だったでしょう。拝見して嬉しかったですよ。ごくろうさまでした」と、寛容なお言葉をいただいた。
 美大系で学んだとか、デザインの仕事をされていたとか、絵にかかわる経歴はおもちですか、と尋ねると、「そういうことは全くありません。あのときは、たまたま雲呼荘の八畳間で小津先生と差し向かいになって、おたがいちょっと興に乗って描いたことをおぼえています」ということであった。
 『蓼科日記 抄』は二千五百部を刷ったが、前年のうちにすでに完売していた。自費出版であるので増刷すると単価が驚くほど高くなり、当初から増刷はしないことになっていた。できれば直しを入れて(細かい訂正は他にたくさんある)、より完本に近い普及版を出せればいいのだけれど、と話し合っているところだ。

          *

 『蓼科日記』の翻刻作業にともに携わった笹沼さんからの指摘以外は他に何事もなかったので、これまで怠惰にかまけておりました。お許し下さい。




yas_terui at 14:06|Permalink

2013年07月07日

「小津安二郎外伝・四人の女と幻想の家」


今回もまた宣伝です。

7月7日朝日新聞の朝刊に、『文學界』8月号の広告が載っています。そこに、
拙評論「小津安二郎外伝――四人の女と幻想の家」
が掲載されています。400字で200枚を超える長篇です。
四人の女とは、安二郎の母・あさゑ、それに、恋人(愛人?)であった森栄、村上茂子、お賀世(前田賀世子?)のことです。
この四人の女とイメージされた家、小津の作品と倫理について、昭和10年の事件から説き起こして書いてあります。
編集部が付けてくれた惹句には「蓼科の山荘に残された日記から、作品と生涯に新たな光をあてる試み」とあります。うまいもんです。
「蓼科の山荘に残された日記」とあるのはもちろん、『蓼科日記』のことです。
『蓼科日記 抄』宣伝の下心もあって、取り組んでみました。

昨年の夏、蓼科の無藝荘で「夏の小津会」というワーク・ショップみたいなものが開かれ、(今年も7月27日から4回に亘って開かれる予定です)、蓼科日記のことを話せと、講師に招かれたのです。
初日は山内静夫さんと小津安二郎の甥・長井秀行さんの回顧談、二日目が連日登板となる山内翁と小生による蓼科日記紹介がテーマでした。
事前の打合せがあって、山内翁が一葉の写真を見せてくれました。賀世の写真をそのとき初めて見ました。
これ、プロジェクターにかけるのですか? とお聞きすると、「まあ、そのときの気分だな」と翁は言われ、「山内さんが賀世の写真を見せちゃうのなら、わたしも村上茂子の写真を出しますよ」などという会話があって、その日の会合は終りました。
すると翌日、山内翁はあっさりと賀世の写真を映してしまわれたのです。
もう歴史の領域に入っている、と翁は認識されたのだな、と思い、わたしも翌日、村上茂子の姿を映しました。そのとき、
「小津の幻想の中で、無藝荘は村上茂子に、未完の小津山荘はお賀世に、それぞれ対応していると思うのです」と、付け加えたのです。

帰京して数日後、共同通信の立花珠樹さんから電話をいただきました。会ってお話したいことがあるとのことでした。
わたしはてっきり蓼科日記についての取材と思い、資料をお見せしますからどうぞ、と拙宅のある国立まで来ていただきました。
立花さんとは、それまで互いに名前は存じ上げていたものの、お会いしたのは夏の蓼科が初めてでした。
拙宅で再会しますと、立花さんは「あの、小津の恋人と蓼科の家のことは、照井さん、ぜひ書くべきです。応援します」といわれたのです。
そのときは、「はあ、考えてみます」というくらいの返事で別れました。

9月末か10月初めのころだったと思います。『蓼科日記 抄』の註を書いていたわたしは、賀世についてもう少し情報を得たいと思い、馬場和夫さんに電話しました。
馬場さんは藤本眞澄の片腕ともいわれた人で、賀世がエスポワールでホステスをやっていたとき、藤本さんとエスポワールに行き、賀世と会って話をしているのではないかと期待したのです。
けれども、全く忘れていました、馬場さんはお酒を召し上がらないのです。
で、「名前は知っているけど、行ったことはない」とのことでした。

ところが、馬場さんはやさしい方で、共通の友人である石井妙子さんに「照井さんが、こんなこと聞いてきたよ。助けておやりよ」と、一報してくれたのです。
石井妙子さんは名著『おそめ』で、おそめとエスポワールのことを詳しく調べられた人です。
石井さんから電話がありました。
「水臭いじゃありませんか。私もいま、原節子のことをやっているので、情報交換しませんか」というありがたいお申し出。
一も二もなく、それから、二、三度、石井さんとお会いしました。
石井さんは「わたしはお節ちゃんのことやりますから、照井さんは小津さんのほうをやってくださいね」と念押しされながら、いろいろ教えてくださいました。

11月になって石井さんの力作評伝「原節子――<永遠の処女>の悲しき真実」が収められた『原節子のすべて』(新潮ムック)が発売されました。
その中に石井さんは「この点については近く『蓼科日記』の解読を進めている照井康夫によって、より詳しく明らかにされるであろう」と書かれています。
いよいよ追い詰められた感がしました。

「もう登らない山の会」という変な名がついた会があります。わたしが40代後半からの約10年、よく一緒に山スキーや沢登りに行った仲間たちが集まり、今はだらしなく昔を語り酒を飲むこと(時々、焚き火)しかしない会ですが、その忘年会(のようなもの)に『文學界』編集部の森正明さんが参加されたのです。
「照井さん、今何やってるの?」と聞かれたので、説明しました。
すると、「それ、『文學界』にください」と言うのです。
たいしたものですね、不見転ですよ(当たり前かもしれませんけど)。

それで覚悟を決めました。
今年1月末から五ヶ月、『蓼科日記 抄』編集作業の合間を縫って、何とか仕上げました。
どうぞ、お読みください。


yas_terui at 17:47|Permalink