山の雑学ノート

2016年09月27日

金売り吉次、のこと

 更新がとどこおっておりました。
 このところ、気分よろしくない風がやたら吹くので、やや萎え気味ではありましたが、怠けながらも、なんとか日々をやりすごしております。
 身体のほうはいたって元気なのも不思議ですが、かつてのような<山>は、もうやれないでしょう。
 膝と心の臓が、ついていけそうにありません。
 瑞墻や金峰の峰峰から奥秩の父主脈をとおって長沢背稜の末端へいたる縦走路に<交易>の幻を見たのも、なんだか懐かしいようなこのごろです。
 そこで<山の雑学ノート>の最後のストックから。
 「岳人」2013年10月号に載ったものです。

          *
 

 多摩川水系大常木谷を溯行していたときのことだった。水底の砂地にキラキラと光るものがある。砂金だ! と思った。
 対岸には武田信玄の「隠し金山」だった黒川鶏冠山がある。これでオレも金売り吉次になれるかも……。
 下山して土地の古老に聞いてみた。
 「黄銅鉱ずら。この辺の谷ならいくらでも採れるっぺ」ということであった。
 それで吉次になることは諦めてしまったが、後年、柳田國男の「炭焼き小五郎が事」を読むと、古老の言い回しは何と、小五郎の黄金伝説と不即不離のレトリックではないか。
 もう一度谷に入って確かめてみようか。でも、もう遅いか。

 金売り吉次とは、『平治物語』『義経記』や能曲「烏帽子折」などに出てくる源義経を助けた伝説の人物。奥州から金を運んで京の都で商いし、義経の奥州行の道案内をした。
 だから当然、裏街道・山の道を知り尽くしている。
 だいいち、金に限らず鉱物探査は古から山ヤ、中でもとりわけ沢ヤの得意技で、義経の周辺には、七つ道具を持って五条橋の上で出合った弁慶といい、金属系山ヤの人脈が付きまとっているのも不思議だ。

 吉次の伝説には先行する炭焼長者伝説があって、その典型が豊後大分に残っているという。男は名を小五郎といい幼名を藤太といった。
 男の許に観世音のお告げによって貴族の娘が押しかけ女房にやってくる。その名には必ず玉の字がつく。
 この夫婦の子どもの名が吉次なのである。

 小五郎が嫁から砂金をもらって都へ買物に行く途中水鳥を見つけ、それに黄金を投げつける。
 この行為を見咎めた者に小五郎は言う。
 「あんな小石が宝になれば
 わしが炭焼く谷々に
 およそ小笊に山ほど御座る」

 冶金するには炭火が必要だ。炭焼きあっての黄金伝説なのだ。
 そして、この伝説伝播者のコードネームこそが、小五郎の息子「金売り吉次」だったのではあるまいか。

 能の「烏帽子折」は義経が吉次の案内によって奥州(黄金の産地!)に下る話が主脈だが、曲中挿話にはこの炭焼長者伝説がそのまま組み込まれている。
 但し能曲では、観世音の申し子は嫁ではなく姫になっていて、この玉世姫がお忍びで牛飼いになっていた用命天皇(聖徳太子の父)に懸想される。
 能の新しい編曲においては、金属系と農耕系が複雑に絡み合っていいるように読める。

 柳田國男は、炭焼き小五郎の伝説が南は宮古島から北は津軽の岩木山麓まで分布していることに、ヤポネシアの原型を見ようとした。
 つまり、山岳系の伝説のうえに海流系の「稲作」伝説が載って日本および日本人が形成されたのだ、と。


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2015年11月07日

ヴァイキングのカラビナ

先日ひさしぶりに秩父宮を訪れ、帰りがけ、フットボール考古学のAQ氏とパブに立寄ったら、何年ぶりだろう、ラグビー狂会本の編集者Tさんご夫妻と隣り合わせになった。
ご主人とは初顔合わせ。元サッカー選手だったが、RWC2015でのジャパンの活躍に俄ファンになったのだとか。大いに話が盛り上がった。そのことだけでも、めでたい。

そのご主人に質問された。「オセアニアのアイランダーたちに、なぜラグビーはあんなにも普及し、そして彼らはなぜ強いのか」と。

しかし、オセアニア3カ国(サモア、フィジー、トンガ)のうち、次回RWC(2019年、日本)には、おそらく1カ国は予選で脱落して出場することはできなくなる。オセアニア代表1カ国、最終予選突破国が一つの2枠しかないからだ。

2015年イングランド大会で、フィジーはA組(死のプール)に入って4位、B組のサモアはジャパンに、C組のトンガはジョージアに食われて、みな4位。すなわち、次回RWCで彼らにシード権は与えられず、各国ともみな地域予選からスタートしなければならないのだ。
(ジャパンはプール3位で、次回RWC出場のシード権を実力で獲得した)

彼らの相対的な強さは今回RWCで減じたが、人口比でみて(競技人口比率でも)強いことには変わりがない。
これには、何の確証もないが「下半身は砂浜で、上半身はカヤック(カヌー、漕艇)で鍛えられてるからじゃないかなあ」と答えておいた。

普及の面では確信できる理由がある。
かの3カ国はみな英連邦に属している。大英帝国海軍との交わりが深いのだ。
港港に女あり、ではないけれど、英連邦では特に「港港にフットボールあり」なのだから。イギリス海軍は、フットボールの普及に欠かせないメディアなのである。
(この説にはご納得いただいた)

わたしのスポーツ体験史を振り返ってみると、身体運動(心も)としては「山」をやってきた。観戦史としては最初から、40年来のラグビー・ウォッチャーである。

山(アルピニズム)は大英帝国陸軍「陸地測量部」との関係を切り離せない。
かつて世界最高峰にその名を刻まれていたエベレスト卿も、インド測量局の長官であった。
イギリス帝国主義の精神面において、ラグビー(海軍)と「山」は将校を養成する実践的側面でも深い関係を保っていたように思える。
ラグビーは作戦参謀、「山」は情報将校というイメージになりそうだが、この件については、もう少し問題の絞込みが必要な議題であろう。

ところで、西欧の登山文化史のなかで、海と山との深い関係を暗示する道具がある。
ロープワークに欠かせないカラビナというものだ。
最近では小型のもの(かつて「ナス環」と呼ばれていた)が100円ショップなどでも売られていて、登山と何のかかわりもなさそうな若者がキーホルダーなんかに使っていたりするのをよく見かけるが、ゲートがバネで開閉する仕掛けになっている環状の金具のことである。
クライミングの際には、ザイルの流れをスムーズにするための欠かせない道具になっている。

その海と山とを結ぶカラビナについてかつて『岳人』に書いたコラムを以下に掲載する。
今回の掲載に当たって、少し補筆した。


             *

 初めて三ッ峠で岩登りを教わったのはもう半世紀ほど昔のことになる。ハーネスは初心の高校生には高嶺の花で、メイン・ロープを直接腰に結ぶ、その結び方を教わった。
 その結びを「ブーリン結び(Bowline Knot)」といい、邦語では「もやい結び」と呼ばれた。Bowlineをブーリンと発音するのはオランダ語の訛りが残っているからだ、と聞いた。
「夜の真っ暗闇の中でザイルを結ぶこともある。この結びは、目を瞑っていてもできなければいけない。ちゃんと結ばないで墜落したら、そのミスはお前に死をもたらすことになるだろう」とも。

「もやう=繫船する」とは知っていた。ペリー来航以前のこの国の主流西洋語はオランダ語であったはずで、ロープを扱う世界には、英語圏においてもオランダ海洋術用語の音が残っているらしいことに気がついた。そのとき少し、海の匂いを嗅いだように思った。

 それから二十年ほど経て、アルピニズムの起源を探るためにフランスを旅した。ロッククライミング技術の発生を調べるためにシャモニーの山岳博物館を訪ね、熟年を過ぎた女性館長に尋ねた。
ピトン、ハンマー、カラビナというクライミングの三ツ道具は、アルプスの最高峰モンブランが初登されて後、十九世紀になって突然、登山史に姿を現す。これは一体どういうことなのですか、と。

 館長が答えた。「ハンマーと岩釘はシャモニーでも、鍛冶屋が作り石工や水晶採りが使っていました。けれども、カラビナはスイスの湖沼地帯にいたヴァイキングが操船と水運に使っていた道具で、ジュネーヴを経由してシャモニーに伝えられたのです。岩釘のその頭に穴を開けてカラビナと共に用いられるようになって、岩釘は初めてピトンという登攀用具になったのです。ピトンよりカラビナのほうが、登攀用具としての起源は前にあるのです」

 ヴァイキングに由来するとは! そのことに吃驚した。彼らは海の民ではないか。カラビナは元はといえば、ヴァイキングの航海術の道具だった!

 後に調べてわかったことがある。ヴァイキングとは一般にノルマン人と呼ばれているスカンディナビアに発する民の異称で、威勢拡張期には大西洋に注ぐ大河を船で溯り、ヨーロッパ内地に深く侵攻している。九世紀にはセーヌを溯り、パリの中心部をたびたび占拠して王権を窮地に陥れたほどだ。内陸の水運が発達したヨーロッパのこと、スイスの湖沼地帯にヴァイキングの末裔がいたとして、なんら不思議はないのである。

 考えてみれば、ロープワークの始原とは荷駄や海運による搬送という労働のために必要な技術であったはずで、海洋ではさらに帆を操る技術として磨かれた。Bowlineという語も、単独では帆を大きく張り出すための「はらみ綱」という意味だそうだ。カラビナの原型をヴァイキングが作ったとすれば、彼らこそが海と山とを繫いだということになる。

(初出『岳人』2014年1月号)


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2014年07月19日

プルージックの民具 

 
 夏になってまいりましたね。蒸し暑い。
 最近は引きこもり気味で、とんとアウトドアらしきことにも縁遠くなっていますが、そこで、『岳人』2013年7月号に書いたものを引き出してまいりました。
 車上生活をしていて幼女連続殺人の宮崎事件の時には、しつこく警察に追い回されたという古田さんは、その後、どうしておられるやら。
 絵描きで岳友でもあった寺尾君がなくなられてからも随分と時間がたった。

            * 

 サンカ(山窩)に憧れ研究されているFさんから、自作の自在鉤をいただいたことがあった。
 サンカとは、昭和30年代まではこの国に確実にいたとされる〈山の民〉で、戸籍を持たず、箕作りなどを生業に天幕を住居として渡り歩いていた人々のことだ。

「これ、プルージックですよね。よくできてますね」と、一緒にいた岳友が呟いた。
 それで初めて気がついた。
そうなのだ、自在鉤とは、プルージックを応用した民具なのだ。

 プルージックについては、山でロープを使う者は誰もが知っている結び方だ。
 シュリンゲを輪にしてフィックスされたメイン・ロープにかければ、ユマール(上下動補助用具)としてもアブミとしても使えるし、登攀や懸垂下降の際に支点をとるときにも使う。
 メイン・ロープにかけて使う場合は摩擦を利用しているわけだが、この利用法が自在鉤と同じなのだ。Prusikはオーストリア人の登山家の名前に由来するという。

 自在鉤の名の由来も記しておこう。先端に鉤の手がついている棒(鉤棒)があって、鉤に鍋や薬缶を引っ掛けて囲炉裏の上などに吊るして煮炊きに使う。
 一般的な形状では、鉤棒のもうひとつの先端が、天井から吊るされた棒(吊り棒)の中に入っている。吊り棒には孟宗竹が使われることが多い。
 鉤棒が落ちてしまわないよう吊り棒とを何かで結んでおけば、鉤棒は自重で吊り棒の中に二つの摩擦点をもち、それで固定される。
 鉤棒を垂直にして摩擦から解放してやると、鉤棒を上下に自在に動かすことができる。これが自在鉤。
 鉤位置の高低によって掛けた鍋の火加減を調整することができるのだ。確かに、プルージックと同じ原理である。

 基本は以上だが、頭部が穴あきの横木を設えてその穴に鉤棒を通し、横木の後尾を吊り棒の上部と繋いでやれば摩擦の効きがより安定し、形状も美しくなる。
 横木には鯛など魚の木彫が使われることが多く、良品は値も張る。

 実は、サンカの自在鉤は、この方式とは違っている。
 研究家三角寛が撮影した写真によると、彼らはテンジン(天人)と呼ばれる一本の棒を斜めに固定し、天から三分くらい下げたところにロープを掛け、ロープの先端に木の鉤を吊るす。そして、ロープの長さによって鉤の高さを調節するのである。
 ロープの支点となるテンジンの部位には穴があけられ、その穴を利用して巧みに容易く高低を調整できるようになっている。
 サンカの自在鉤はぶらさげ式、実にシンプルなのであった。



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2014年04月23日

備長炭


久しぶりの<山の雑学ノート>のアップになりますが、これは2012年12月号の『岳人』に掲載されたものです。
ところで『岳人』は近く、版元を東京新聞出版局からモンベルの子会社に移行するとのことです。
東京新聞さん、ご苦労様でした。若い頃から、ずいぶんとお世話になりました。
また、モンベルの横笛吹き、辰野勇社長、よくぞ引き受けてくださいました。モンベルは山岳界の頑強な支持体でありますね。

           *

 過日、九州在のある御仁から「椎葉村の備長炭」をわけていただいた。いや、モノが違った。炭のエリート、とでもいうべき品質なのである。拍子木のように打ってみると、キーンと金属音を奏で、美しく鳴る。爆ぜて火花が飛ぶようなことはぜったい無い。赤白い炎は火力強く、胡粉のような綺麗な灰が残る。火消壷に入れると、鉛筆の芯のように先が尖った細く硬い炭が残った。常用していた「岩手の切炭」が情けないようにみえた。

 わたしは1960年代の後半から沢登りを始めた者だが、その頃には奥多摩の沢筋のちょいと開けたところには、まだ現役の炭焼小屋をよく見かけたものだ。しかし、そんな小屋もいまはほとんど朽ち果ててしまって、雨宿りの用も足せない有様になっている。かつて炭焼は、都市近郊の山での重要な産業の一つであったが、いまはもう廃れてしまった。そんな時代にあって備長炭は、いま尚ひときわの高級ブランドとして、確かな存在感をはなって生き続けているわけだ。

 では、備長炭ブランドはどのようにして確立されていったのだろうか。

 備長の名は、紀州田辺の炭問屋「備中屋長左衛門」に由来する。紀州の山は高温多湿で、この炭の原材料となる姥目樫がよく育つ。それを無花果に似た形の特殊な窯で焼く。江戸期に入ってここで生産される炭は紀州藩の「熊野炭」として知られるようになるが、備長炭の名がついたのは、先の問屋が元締めとなって江戸で商売するようになった元禄年間(17世紀末)からだと考えられている。

 この備長炭の製法が九州に伝わったのは安政三年(1856)とはっきりしている。この年、鹿児島、延岡、高鍋の藩営炭の製造技術者三人が紀州へ研修の旅をしたことが、記録に残っているのだ。材料として堅備(上質)の姥目樫と小樫、浅備(中質)のクヌギ、椿、楓、沈丁花など、等級が分けられたりもした。筆者が頂戴したのは、最高級品「本備堅木」だったのではないだろうか。

 ところで、東都の塵埃に無事帰還して焼鳥屋で一杯やるのは格別なものだが、そこでよく「備長炭使用店」と彫られた看板を見る人は多かろう。店主の言によれば、「あれは墨東のある炭問屋が得意先に頒けたもので、紀州や九州の純正備長は入っていても少ないんだ」との事。海外産でも、例の窯様式で焼いたものなら「備長炭」として売られる時代であるという。


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2013年09月18日

武甲山北面、幻のドウエ群



秩父の街から見上げる武甲山ほど悲しい山の姿を他に知らない。街から眺める北斜面はセメント掘削のため、白く無残な山肌を晒している。
盆地に広がる由緒ある街のシンボルともいえる山なのに、地場の産業振興に寄与しているという理由からなのだろうか、そこに暮らす民からは文句も出ないふうで、
この街に長く通うわたしなんぞにとっては、なにやら原発立地を連想させられぬでもない。
かつて1336辰砲△辰浸鯵囘世癲頂上が削り取られて南に移され、40値召眥磴なってしまった。
誰が決めたか、日本二百名山の一つに数えられているらしい。

すべて石灰岩からなる武甲山北面、ここが昭和三十年代までクライミング・スポットであったことを知る人はもうそんなに多くはあるまい。

いわゆる団塊の世代の筆者など、大いに憧れたものだったが、遂に果せなかった。この山域に入れるだけの技量を身につけた頃はすでに高度成長期に入って久しく、山稜沢筋がセメント会社によって削られてしまっていたからである。

憧れたのは、交通の便がよい岩場という単純な理由からだけではなかった。
対象となる沢(ルンゼ)の名前が奇妙だったのである。横瀬川沿いに表参道を辿って行くと、西ノドウエ、中ノドウエ、東ノドウエ、小桜ドウエ、大桜ドウエという名が次々と現れてくる。

このドウエというのはいったい何だ?

飯能讃岳会によるルート図はいかにも重々しく難関そうであったが、名前の由来についてはふれられておらず、岩場の写真を眺めては神秘的な雰囲気に魅せられるばかりであった。

長じて谷川岳や穂高に通うようになって、土合や沢渡の地名の由来を知った。
ドゥアイは西黒沢・東黒沢の湯檜曽川への合流地点であり、「ドゥと合ウ」の同じ意味が重なる重畳語。
島々から入って行く野麦街道には、奈川渡、前川渡、沢渡と、ドゥで終わる集落の地名が続く。いづれも梓川に支沢枝沢が合流する地点にある集落だ。
山岳語彙集など検見しても、ドウ、ドゥ、ドが合流地点を表す言葉であることは間違いないようだ。

では、武甲山北面にかつてあったドウエというルンゼの原義は何か。
ドウは合流地でいいとして、エについてが難問。
一つは、漢字をあてるなら柄、神のいます頂に伸びていく柄、枝というイメージ。
もう一つは「ドゥの上」が略されてドウエと約まったもの。
沢名ゆえ後者に分があるように思われるが、どなたかご教示くだされまいか。

*『岳人』2013年3月号掲載



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